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真珠湾攻撃から第2次世界大戦に突入したのは、私が小学校へ入学する前年の12月でした。その時点では私たちの家族は当時の植民地で暮らしていましたが、父の死去に伴い内地に帰ることになり、進学の関係で単身、一足先に帰国の途に付く長兄を見送りに行く途中、見かけた提灯行列が印象的でした。
翌年3月に郷里の鹿児島に帰り、母の実家のそばに家を借りて、私たち一家の新生活が始まりました。
今から考えてみると、最初の2年間は戦争の陰は左程きついものではなく、友人達と近くの川でエビや魚を捕ったり、裏山で陣取り合戦をしたりで、田舎の生活は戦時下とはいえ、穏やかなものでした。
しかし、恐らく私が小学(当時は国民学校と称していました)3年の時、軍隊(勿論日本軍)が私たちの田舎町にも駐留してきました。大隊か連隊か小学生の私には判りませんでしたが、私たちは道路脇に並んで、「兵隊さん達」の行進を見守ったものです。
学校にも一人の将校が配属され、上級生には軍事訓練に近いものが始まりました。
毎月の少年雑誌は陸海空軍の勇ましい物語ばかりであり、時には近くの特攻基地から出撃する兵士のグループが、「お別れの挨拶」に小学校に来ました。特攻基地として有名な、あの知覧空港は学校から数キロのところに有ったのです。
その凛々しい姿に私たちはすっかり魅了されました。「自分も成人したら、何としても航空隊に入り、特攻隊を志願するぞ!」と、それは本気で考えたものです。手製の日の丸を腕に巻き、出陣の挨拶の特攻隊員の様子をまねて、興奮したものです。
今から考えて恐ろしく思うのは、世界中の人々と仲良くしなければならない等と言う教育は微塵も無かったことです。世界中どころか、隣国の韓国や中国の人々と共存するとか言う教育は、全くなかったことですね。「ただ、自分たちの力を養い、敵をやっつけて領土を広げて行く、それが日本国民としての唯一のあり方で、そのことに命を投げ打って尽くして行けるのが、日本国民としてのあり方だ。」これが簡単に纏めた、当時の教育理念を支配していた思想ですね。
「特攻隊員になって、お国の為に尽くす。」ということに、毛程の疑問も持たなかった当時の自分(達)を考えると、「年少者への教育のあり方というものがどのようにあるべきか?」ということ、そのことの重要さは実感をもって考えさせられます。
為政者のやり方一つで、国民の思考の方向を変えることができるのです。これはヒトラーの下のドイツも同じでしたね。
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