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真珠湾攻撃から第2次世界大戦に突入したのは、私が小学校へ入学する前年の12月でした。その時点では私たちの家族は当時の植民地で暮らしていましたが、父の死去に伴い内地に帰ることになり、進学の関係で単身、一足先に帰国の途に付く長兄を見送りに行く途中、見かけた提灯行列が印象的でした。 |
時評
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戦時中の日本の軍隊での記事を見ると、「びんた」がいかに日常的なものだったかを知らされますが、これは昭和21年、つまり第二次世界大戦が終わった翌年の、ある田舎の小学校5年生のクラスでの話です。 私はその年の4月に、母方の実家がある隣町から、農村地帯になる父方の実家に引っ越しました。そこの小学校での話です。 当時の小学校では毎日、授業が終わった後の「ショートホームルーム」の時間に、 「反省会」というものがありました。 これはその日一日の学校生活で、授業中不真面目な状態であったり、休み時間の行動に問題の有った生徒名を生徒同士で上げさせるのです。そして、毎日数名が指名されクラスの前に一列に並べられるのでした。 問題はそれからです、クラスの級長、副級長(このような名称は今は無いでしょうね)、=これは当時は選挙ではなくてクラスの担任の指名によってえらばれていました。=は、これらの生徒に「びんた」を張る様に担任に命じられるのでした。手心を加えたり、躊躇したりすると自分が担任にビンタを張られるので、もともと根が正直者のこれら優等生は精一杯のビンタを振るうのでした。 当時はまだまだ食料事情が悪く、ある時期は午前中で授業が終わったり(弁当を持って行けない生徒が大多数だったため。)、徒歩で30分程の下校時間、空腹でふらふらになっていたような時期の小学生時代で、
今でもどうしても忘れる事の出来ない思いでの一つです。 |
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車いすには、身障者は勿論、病人、自分の足で移動が困難になったお年寄り等、様々な人たちが恩恵を被っている訳ですが、今回介護を体験して一つ注意しなければならないことを発見しました。 それは「車いすにはヘッドレストがついていない。」ということに起因することです。 車いすは、折り畳めること、計量でありたいこと、あまりかさばらないこと等の要因からか、介護式、自走式の全てで「ヘッドレスト」が付いているものを、私は見たことが有りません。 そして、「安全ベルトも自動車のものと比べると大変脆弱に見えます。」 これらを原因として車いすの利用者は、少なくとも上半身はしっかりと自分で支えておれる、つまり元気な患者?でないと、特に乗車時には不具合が起きる、ということになります。 どういうことか?と言いますと、 施設の送迎車や介護タクシーには、車いすごと乗り込めるものがありますが、これは便利なようで、患者の状況ではかなり危険を伴うということです。 まず、ワンボックスカーの後部座席は結構揺れるものです。普通車いすは車体後部に固定されますが、この揺れによって、首から上が大きく揺らされて、患者は大変苦しい状況になります。 また、車いすの安全ベルトは、見た目でも自動車のそれと比べると大変いい加減なものと思われます。追突等の事故の際、きっと患者は振り飛ばされてしまうのではないでしょうか?私は、あの程度の安全ベルトで乗車が認可されているのに大変ギモンを感じます。 もし安全に、患者を運びたいのでしたら、車いすごと乗り入れることより、自動車のシートがせり出してくる様式の車で、患者を安全な自動車のシートに乗り換えさせるか、寝台式の介護車を使われることをお薦めします。
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私はかつて、偏差値では決して上位とは言えない公立高校に長年勤めたことがありますが、いわゆる「進学校」とは違い、就職希望者の占める割合はかなりのものでした。 バブルの時期は引く手数多で就職指導もあまり深刻なものではありませんでしたが、バブルがはじけると一転、大変深刻なものとなりました。 まず求人数が激減するのはどなたでも予測されることですが、求人数の減少ということは、一度採用試験に失敗すると次が無いということになるのです。 だから、自分の特性や能力に会ったところを十分に検討し選んで受験しなければ、行き先は全く見当たらないということになってしまうのでした。 そのような中で思い知らされたことは、人間真面目なだけでは、採用してくれる会社は皆無である、ということでした。 これは、ごく当たり前のことかもしれません。 しかし、正直で真面目な、その点では脱帽したくなるような性格の子供は偏差値に関係なく居るものなのです。この子達のお陰で、私たちは過酷な勤務の中で、気持ちの上でどれ程救われたか知れません。 しかし、このようなことは世間では全く無視されることだと言うことをこの就職難の時期にはしっかりと思い知らされました。 将来、社会人として通用して行けるには、もっと他の条件が要求されるものだということですね。特に職業的な資格を持たない普通科高校生が就職を望むならば、まず希望の会社でどう働きたいのかという意欲、あるいはコミュニケーション能力等々就職に要求されるものは何かということはよく考えてかからないと、いつまでも路頭に?迷い続けることになりかねません。
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自然死を選ぶと言うこと(最終回) 私たちは普段、お医者様という方は、100%患者の身になって、患者の幸せを考えて様々な処方をして下さる有り難い存在だと言うことを信じきっていると思うのですが、どうやらこれは「医療神話」の一つに過ぎないようだというように思い始めました。 勿論、中にはそのような純なお気持ちのお医者も居られることは間違いないことだとは思いますが、あまりそのようなことを期待してしまっては、「道を間違える」ことになる場合があるということを思い始めたのです。 私がお世話になった方に、ある著名な大学の名誉教授が居られましたが、その人は自分の大学の付属病院に入院されて、あまりの完全主義的な患者の管理体制に憤慨し、一滴の水さえ拒む絶食に入られ、結果餓死状態で他界されました。 このような、現代の医学の或る方向は、学者の考えることとしては未来志向の進んだ医療処置となるのでしょうが、そこには一つ大事なことが見落とされているように思えます。 がん治療に限ってみてのことですが、 現在一般的な病院で行われている治療法には様々な問題もあり、また科学的な検証も不十分なままで百万円単位の費用が必要な医療行為も堂々と行われているようですし、また薬品によっては、国内で認可されていないものが何の規制も無しに個人で輸入、服用できるとか、私のような医療には全く無知な人間には全く理解できないような医療の実態があるようです。 私の妻の場合、幸いにも最終段階で運び込んだ病院の院長の計らいで、予約して少なくとも1週間以上待たないと入院できないというホスピス病室に急遽入院させて頂き、全く平穏な最後を迎えることが出来たのです。この時の院長の手は、まさに神の手に見えたものです。 しかし、そこまでは「摘出手術以外、病院としてはなす術はありません。」(この言は院長ではありません)と、巷に放り出されて3ヶ月の闘病生活を送ったという、現代医療の未熟さと言ったものをつくづくと実感させられたのです。 この場合、家庭医療についてのアドバイス、訪問医の手立て等一切無しの、「医者として、なにか言ったりしたりすること無いの?」と思えるような、「医学博士様」の、なさり様でした。 この3ヶ月を振り返って、「これで良かったのか?」 と思うことは度々ありますが、自分の死について(特にがんの場合)、他人様、お医者様まかせではどのような目に遭うか判らないのが、現代のこの日本という国だ、ということを実感したこと、これは私自身として一つの収穫であったと思います。
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