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最近シェイクスピアづいていて、今夜は先生に連れられぞろぞろと、りゅーとぴあ能楽堂の『ペリクリーズ』という舞台を見に行ってきた。
(参照→りゅーとぴあ能楽堂)
ペリクリーズがシェイクスピアの作品だと知っている人は少ないんじゃないかな。かくいうあたし自身も、この機会に初めてこの作品の存在を知って、前日に松岡和子訳で本を読んでみた。
『ペリクリーズ』はシェイクスピアの作品の中ではロマンス劇に分類されていて、何でもありのおとぎ話。初っ端から王様とお姫様の近親相姦が語られて肝っ玉を抜かれる感じなんだけど、その秘密を知って命を狙われたペリクリーズが船で逃亡の旅に出かけ、はちゃめちゃな出来事に見舞われる。最後には死んだと思っていた妻や娘と再会し、めでたしめでたし。典型的な、勧善懲悪もので、こじつけてきな展開もここまでくると小気味いい。
だけど、ペリクリーズの娘が売春宿に連れていかれて、処女だからって男が群がるっていうシーンは嫌だったなー。抵抗するからって、そんなもん捨てちまいなって襲われそうになってるんだもん。おいおいおいって突っこみたくなる。シェイクスピアさんが露骨なのは毎度のことだけどさすがに…。
しかも、その常連の一人が、彼女に改心させられたからって、最後は結婚までいっちゃうんだよ。それはいくら大団円になるとしても、輪から外してやれこんにゃろー。
ところが今日の舞台では結婚のシーンが完全にカットされていて、とってもすっきり納得のいく筋書きだった。
むしろ、家族の再会のシーンでは涙が出るくらい、感動物語になっててびっくり。
能の舞台を上手に使い、幕を下げなくても、照明と役者の方向転換だけで場面が変わっていくさまが見事だった。よけいな大道具もなしに、動作と言葉だけで演じているから、想像力がかきたてられる。
ここは嵐の船上。ここは王との謁見の間。ここは汚らしい売春宿。
板張りの能舞台が、七変化する。
伝統的なお囃子のバックミュージックが、シェイクスピアの世界に絶妙にマッチしていて、格調高いのに親しみやすい。ひとり七役演じた栗田さんは素晴らしかったし、妻役の山賀さんは見とれるほど美しかったなぁ〜。
400年たってもこれだけ愛されるシェイクスピアはすごい!ペリクリーズはハムレットなんかよりもずっと読みやすいから、機会があれば読んでみてくださいな。舞台で見るとまたぜんぜん違うけど!!
帰りに大戸屋に寄ったら、注文を忘れられたお詫びとして、無料にしてもらえちゃった。
50分待たされたけど、これもめでたしめでたし、だな。ラッキーだ〜★
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BOOK
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コメント(4)
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大学生は何をするのか
大学生は何を学ぶのか
っていう問いに答えられなくて。もうほんっと自分を見失って行き詰って。
ついにここまでたどり着いちゃった。シンプルな問い。
―君たちはどう生きるか
そう、初版は1937年、日中戦争が勃発した年に発行された、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』っていう有名な倫理書。
そして、これに大いに助けられた。
この本が普遍的だからなのか、それともあたしが主人公と似ているからなのか、悩んでることをすべて言いあてられ、知りたいことのカギをたくさん教えてもらった。
みなさん、「君たちはどう生きるか」と質問されて、答えられますか。
もし答えられないなら、また特にそれで悩んでいるとしたら、この本をお勧めします。
まず、何よりも救われたのは、心に感じる苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかが分かるという考え方。
苦しみやつらさは、自分への失望からきてた。ダメなやつだと思い始めると、どんどん思考がネガティヴになっていく。こんなはずじゃなかったのに、と抜け出せなくなる。
だけどそれって、ひっくり返せば、あたしが本来あたしであるべき状態にないから生じるんだ。
そもそもそういう状態でなくてもいいのなら、苦しむことなんてない。つまり、苦しみを感じるってことは、本来の状態を取り戻す資格があるっていうこと。
もちろん、自分勝手な欲望が満たされなくて不幸に感じるのは違う。それは、欲望を捨てられないのが、不幸なんだ。
それから、もう一つ。
これは冒頭の問いに関すること。
大学に通わせてもらってる者が、学ばなくてはいけないのは、教養だ。前の世代から次の世代へと、代々引き継がれてきた、人間の叡智だ。
なぜか?
前の時代から学問を受け継いだうえで、新しい経験を積んできたからこそ、今日の状態まで進歩してこれたから。いちいちまっさらなところから始めたんじゃ、進歩はできない。今日の学問の頂上に登りきって、そこで現代まだなされてない、偉大な仕事をするんだ。
現代社会で、自分に何が求められているのか、探らなければいけない。
そんな大仰なこと、できる気がしないけど。
そんな構えなくてもいいかなとも思う。
―君たちはどう生きるか。
今のあたしなら、こう答えるだろう。
先が見えない社会の中で、なお希望を抱いている人たちがいる。私は、ひとりでも多くの人のこころを、健康で豊かにしたい。
日本の同世代の人に訴えたい。
どうか、迷った時には吉野源三郎 著/岩波文庫(青)『君たちはどう生きるか』を手に取ってください。
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しばらくぶりの更新だ;
どよーんとした毎日を送ってたから、ブログを書く気にもなれなかった。でも、ちょっと希望の光が見えてきたから、これからはもうちょっとまめに更新しようかな。いや、そんな安易に目標を立てて、自分を縛らないようにしなきゃ。
これ、今のあたしには、とっても大事なことなんだ。
「言葉で自分を縛らない!」
それに気づけたのは、一冊の本 エリザベス・ギルバート著「Eat, Pray, Love」に出会えたからだ。
またまた本の話!?って感じだろうけど、最近してることといえば、Chat, Read, Sleepなもんだから、仕方ないの。や、もちろん、走ってるし、ぷらっと大学に出かけることもあるし、キャプ君とも会ってるけどね。
***
大学2年の夏休みが、大きな目標―たとえば免許を取る!とか、ニュージーランドに行く!とか―がなくて、やるべきことが見つからないまま、終わろうとしてる。こんなにのんべんだらりと過ごす日々も初めてだ。ブロ友さんに言われた通り、今の私は輝いていないのかもしれない。いつだって「今」が大好きだった私には、ゆゆしき事態だ。
だけど思うんだ、果たして、つねになにかに向かい続けていなければならないんだろうか。ときには、プッツンと切れたように、静止の中に沈んでいてはいけないんだろうか。ああ、私は今、静止している。朝寝坊して、寮のごはんを胃に流し込み、日課となりつつある読書で一日をやりすごす。本の世界から出ているときは、与えられた仕事を片付けるか、くだらないおしゃべりにふけるか。(はたまた、デートに出かけるか。)
思考という営みを止めても生活していられるってのは新感覚だけど、自分の輪郭があいまいになっていってる気がする。何かを語っていながら、語っている私が在るという確信が得られない。行動しているのは、私。それは分かる。じゃあ、行動させているのは?それも私でいいの?
そんな疑問まで出るくらいだもん、危ないのかもしれない。
でも、私は、自分が危機的状況にあるのかどうかも、人生の上で必要なステップにあるのかどうかも判断がつかない。一生懸命になることに疲れてる。さまざまな喜びや悲痛にたいして、操り人形のようにいちいち反射することに疲れてる。この疲れが、思考回路にマヒを起こし、以前はこころ弾ませたようなことから、私を遠ざける。感じなくていい、頑張らなくていい、っていうことばの甘美なことといったら!
そんなさなかに出会ったのが、「Eat, Pray, Love」という、著者自身の自分探しの旅をつづった(しかもかなりスピリチュアルな!)本だった。あらすじは割愛させてもらうとして…この長い長〜いエッセイの中で印象的だったもののひとつが、「セルフ」への固執だった。
彼女のセルフは、信じられないレベルで崩壊していた。抑うつ、悲鳴、疲弊。やつれた著者の精神が、私の今の精神状態に覆いかぶさるようにして襲ってくる。麻痺した感情が、無防備にも共鳴して、息苦しくなる。だからこそ、著者が、自分の罪が独りだけのものではなく、サブリームセルフともいうべき「神」の悲しみでもあると理解し、自分を赦し、こころを解放させたとき、私まで救われた気がした。
この本によって、私は自信をもつことができた。プッツン期とでも名付けたい、私の陥っている状況を意味づけてもらえたからだ。
自己、自己、自己…と苦しくなりそうだけど、たまにはとことん自分に付き合ってあげてもいいんじゃない?現実的思考とかおしゃべりとかに背を向けて、内側をのぞいてみたら。そういうときに、自分の輪郭があいまいになるのはしょうがないでしょ?ね、自分を赦してあげて。
―わたしたちは自分のつくりあげたマントラに誘惑される。(わたしは寂しい…わたしは負け犬だ…わたしは寂しい…わたしは負け犬だ…)そして、このようなマントラの化身となる。おしゃべりをしばらくやめて、言葉の力から逃れてみる。言葉で自分をいっぱいにするのをやめて、息を詰まらせていたマントラから自由になってみるといい。(第107話より)
この数行に引き付けられた。(↑簡単に言うなら、暗示をかけちゃいけないってこと)
そうだ、自由が苦しいものだとしても、自由になる必要があるんだ!
じゃあ、私の息を詰まらせているマントラはなんだ?
それを突き止めて、ついにそれからの解放を果たしたとき、つぎの一歩が踏み出せる気がする。
***
言葉は、あたしが大好きなものの一つだ。
受験期に「おちる」とか「すべる」とか言っちゃいけないっていう言霊信仰的なものは持ってないけど、言葉の力は信じてる。というより、絶大的信頼を置いてる。
だからこそ、言葉の力から逃げることが、解決の一歩になるって考え方が斬新だ。
怖いけど。
ものすごーく難しそうだけど。
たぶん、まわりのひとからは、あたしが何をそんなに悩んでるのか、まったく理解されないと思う。ストレスとかなさそうだよねーって、よく言われるもん。
いいよ、気づかれなくても。
「突き止めなきゃ!」っていう新しいマントラを作りださないように、肩の力を抜いて、探すんだ。
In my heart, 答えのありかは分かってるから、簡単なはずだ☆
風が変わってきた気がする……やっと秋!
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最近ブックレビューを書いてなかったから、レポートで書いた物を載せちゃおっ♪
大学の先生が読むように意識したから、真面目モードONで、読みにくいことこの上ないのは承知デス。。。。
ガリバーに興味ある人がいたら、たぶん愕然とするはず!ガリバーは決して子ども向けの本じゃないんです。ネタバレ満載ですが、暇だったら読んでみてください★
(ワードからコピペしたら、なんか上手いことフォント合わせられんかったー・泣)
本当は怖いガリヴァー旅行記
いまだかつて、『ガリヴァー旅行記』のような物語に出会ったことは一度もなかった。ファンタジーならば小さい頃からよく親しんできたし、ノンフィクションの随筆や、事実に色をつけた伝記物も読んできた。ある特定の主張や見解が述べられているカタイ文章も知っている。だが、ガリヴァーはいったいどういうジャンルに入れたらいいものか、ジャンル分けになれてしまっている私は、読了後も、なんだか収まりのつかない気持ちにおそわれている。
この作品は、そのすべての要素を含みながらも、どれにも当てはまらない。修飾のない文体で、事実(とされていること)が時系列で記述してあるのは、旅行記という形式に即している。一方、小人や巨人が出てきて、確固たる世界が形づくられているところなどは、ファンタジー的である。もちろん旅行記たるもの、虚飾や誇張に充ち満ちていて当然なのだろうが、そんなレベルにとどまってはいない。へんてこな国に迷い込んでしまうところなど、ファンタジーの名作、ナルニアの『朝びらき丸 東の海へ』にそっくりだ。しかし、この作品全体が諷刺になっているところから、髄は、諷刺されているものへの批判とみるのが妥当だと思われる。
私は、ガリヴァーといえば“目を覚ますとガリヴァーが小人に縛られていた”というイメージしかなかったため、子ども向けの本だと思いこんでいた。だから、随所に見受けられる辛辣な批判に、正直なところショックを受けた。作者は心中に燃えたぎる不満を抱えていて、それが文章の端々からにじみでている。それでも、小人の国と巨人の国でガリヴァーが何かと困難にぶち当たりつつも、あれこれと考察を試みているのはかわいらしかった。この2国においては、扱われ方が全く違うのでおもしろい。
まずは、小人たちがガリヴァーをどのように扱うか見てみたい。よそ者が自分たちよりもデカイと、とりあえず軍隊によって拘束する。けれども暴動を起こされたらやっかいなので、皇帝のはからいで食べ物を与えたり身辺の世話をしたりするという懐柔作戦に移る。国庫の負担になっているにも関わらず、もう至れり尽くせり。それもそのはず、隣国との戦争に利用するためだ。ところが、思い通りに動かせないとわかったとたん一転、家臣の意見を取り入れ、餓死させようとする政策に変更する。見上げたご都合主義である。リリパット国のこととして、君主や社会の上流階級に属すものは、こうまで腐敗しているのかと投げかける。そのままイギリスの政治制度や社会についての批判になっている上、現代の日本にも通じている気がして、なかなか痛い。こういう遠回しなようで直球な批判は好きだ。
巨人の国ブロブディンナグでは、最初に出会う(拾われる?)階級からすでに対照的だ。小人の国では皇帝の家来だったのに対し、いっかいの富農に拾われ、警戒されるどころかかわいがられる。生き延びたいなら小人の国の方がたやすいように思われるが、妙な警戒心を抱かれない分、巨人の国の方がよいのかもしれない。自分が弱い立場に回る方が安全だなんて皮肉だ。しかし、厚遇されるのも最初だけで、今度は政治的にではなく、経済的に利用されるようになる。金儲けの手段として晒し者にされ、さんざん酷使され使い物にならなくなる寸前、王様に売り払われる。王宮では、自国の政治についての説明を求められ、リリパット国での諷刺よりもより直接的な批判がなされている。故国への愛からひいき目に申し上げたのだが、とことわるから余計に腐敗具合が強調されていて、いよいよスウィフトの毒がめだつ。なかでも私が考えさせられたのは、王様がガリヴァーに述べた次のひとことだ。
―国家に対して有害な意見をもっている人間に、その意見を変えろというのもおかしいし、おなかの中にしまっておけといわないのもおかしい。どこの国の政府であれ、前者を強制するのはまさに圧政だし、後者を強制しないのは、その政府が弱体である証拠だ。
察するに、当時のイギリスは、圧政な上に弱体だったのではないか。戦時中の日本はどうだったのか、いまの政府はどうか。もちろん、おなかの中にしまっておけというのは言論の自由という点でおかしいから、本当の強さとは何なのか。
この2国の物語だけなら、ガリヴァー旅行記は、イギリス政治への批判を書いているといえるだろう。だが、この作品の怖いところは、そんなありきたりな批判に終わらないところだ。
次にやってきた国、空飛ぶ島ラピュータでは、ちまたにあふれる“常識”がいかに愚かで間違っているかが示されている。ここでいう常識とは、社会の大多数が価値を認め、信奉していることがらである。ラピュータで正常視されているのは、およそ成功するとは思えない実験を繰り返し、理論の中に生きて、実生活を営むことを忘れている人たちである。当時イギリスで流行していた研究を皮肉っているらしいが、同時に、趨勢に迎合しない異端者を除外してしまう社会全体の批判にも思える。また、ガリヴァー自身がこんな彼らから「不死の不幸」を諭される場面を描くことで、作者は現代の私たちももっているかもしれない価値観(不死こそ人類の夢だ)にさえ挑んでいる。
ジブリ映画を観て以来ラピュタに対して憧れを抱いていた身としては、大切な大切な飛行石が割れてしまったような気持ちになった。おまけにせっかく日本が出てきたと思ったら(こんな荒唐無稽な国々に混じって我が国が出てくるのもどうかと思うが)、オランダ経由で帰国するための足がかりにしかすぎなくて、少し期待を裏切られてしまった。
だが、一番ぞっとしたのは、第4部の馬人の国フウイヌムだ。ここまでの物語の展開、ストーリーだけでも、人間ってなんて惨めなんだろうとつくづく思わされたのに、さらにその上をいく衝撃だった。人間は汚い。高潔なフウイヌムには、意地汚いヤフーという動物との見分けがつかないくらい、人間は汚い。外見はもちろんのこと、やることなすこと考えることそのすべてが、ヤフーに似ているのだ。最終章では、究極的な、人間そのものへの批判に行き着いた。
権力欲、金銭欲、情欲、放蕩、悪意、嫉妬心。狡く、意地が悪く、陰険で、復讐心に富む。頑丈なくせに心は臆病で、そのため、傲慢で、卑屈で、残酷。これらは指摘されている人間の性質の一部に過ぎないが、こうも並べられると、否定の言葉が見つからない。私たちは理性的動物だと声を大に叫びたくとも、その主張はフウイヌムによって一蹴されてしまう。「もし理性の所有者だと称している者がこれほどの残虐行為を犯しうるとすれば、その理性の力は完全に腐敗しきっていて、単なる獣性よりもさらに恐るべきものとなっているのではないか。」と。ガリヴァーがいうように、「われわれが持っているのは理性なんかではなく、生来の悪辣な性向を増大させるのにふさわしい何か特別な性質」なのかもしれない。仮想理性的動物の視点から気づくものは大きい。
そんな顔を背けたくなるような性向から生じる人間活動もまた、悲惨である。たとえば戦争の悲惨さなど言わずもがなであろう。それに比べ、戦争の原因として挙げられていること―つまらないことに関する意見の相違や、領土の優先権、攻められるかもしれないという疑心暗鬼など―があまりにも情けない。そんなことは当たり前なのだが、改めてヤフー同士の争いの醜さに重ねられると、より醜さを実感させられる。
思えば、この作品の最初から、「人間は汚い」ということがアピールされていた。そうでなければ、なぜわざわざ、リリパット国やブロブディンナグ国で、用を足すことがあんなに取り沙汰されるのか。あげくのはてには、王妃の部屋の火事を消すのに、放尿が一役買うことになる。そのときはおはなしとしておもしろいとしか感じなかったが、よくよく考えれば、なんとも汚い。
人間不信についてかかれた著作ならよくあるが、ここまで辛辣に人間を否定した作品は少ないだろう。だが、問題点を明らかにし、ときに解決策まで示しているのも忘れてはならない。ファンタジーベースで、当時のイギリスの実態、人間の本質をえぐり出し、読む人に衝撃的な問いを投げかけている。その激しさも、この作品の中にあると、素直に受け止められるから不思議だ。
余談になるが、本当は作者の女性に対する姿勢についても考えてみたかった。なにしろ、巨人の国ではよく仕えてくれる少女を褒め称えてみたり、女性は好色でみだらだとあからさまな差別をしてみたりと、一定しないからだ。いったい実生活で何が起きたのか気になる。まだまだいろいろな切り口ができそうな、底知れない物語である。いつかまた、スウィフト自身について学んだ後にでも、読み返してみたい。
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あたしは塾は行ったことないけど、英会話の教室に通ってる。っていっても、小学校ころの同級生のお母さんがやってる、お茶会みたいな感じ。 |

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