スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

涙ばかり貴きは無しとかや。されど欠びしたる時にも出づるものなり。

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   石神社

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              「勝乃森」碑

 児玉郡上里町神保原町に石(せき)神社がある。この神社は全国の石神社の総社といわれ、日本惣社石神大明神を名乗り、石棒(石剣)をご神体として祀っている。境内に「勝乃森」という石碑があり、そこには、元弘三(1333)年に新田義貞が上州より鎌倉に攻め上る際、戦勝を祈願して以来、鎮守の森である「加治の森」を「勝の森」と改めた、とある。この「加治」とは「鍛冶」のことではあるまいか。

 石神社北方約700m、神流川堤防下、上里町忍保(おしぼ)に今城青坂稲実池上(いまきのあおさかいなのみのいけがみ)神社がある。

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   今城青坂稲実池上神社

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   今城青坂稲実池上神社拝殿

 『延喜式』「神名帳」武蔵國賀美郡四座の三座、「今城青八坂稲実神社」「今城青坂稲実荒御魂(いまきのあおさかいなのみのあらみたま)神社」「今城青坂稲実池上神社」の一座に比定されている。この三座について吉田東伍は『大日本地名辞書』のなかで次のように述べている。

 「社号に因りて之を考ふるに、一神を三霊に分かちたるにて、青と云ふは地名なるべし、即ち後世アホに訛りアボとも転りたる者とす。八坂は弥栄にて(坂とのみあるは栄なり)稲の実成に係けたる語とする。されば青の弥栄稲実の神なり。また其の荒御魂を本祠に分かちて祭る者一所、又特に池上に祭る者一所、合三所なりし也。而も其今城の名を負ふは詳らかならず。今木は山城國、大和國には地名にもあり。又新墓(ニヒハカ)を今城と云ふことあり。又新帰、新米の蕃人異族を今来と云へりとも想はる」

 これについて谷川健一は『青銅の神の足跡』のなかで次のように言う。

 「今来というのは、後来の渡来人を呼んだと考えるのがもっともふつうである。新帰の民が多いので大和の高市郡を今来郡と呼んだことが『欽明紀』にみえている。これらの渡来人はなかんずく檜前(ひのくま)にいた。牟狭(むさ)も檜前にふくまれる。ということから、武蔵国に今木青を冠する神社があることは、この大和国高市郡にいた渡来人の青(身狭村主青《むさのすぐりあお》)という人物と何らかの縁由があるように思われる。

 今城青八坂稲実神社は現在は埼玉県児玉郡神川村元阿保の地にある。この阿保は青に通じる。そして阿保から西南へ五キロ行くと金鑽神社がある。金山彦命を祀る金鑽神社が銅や鉄の精錬と関係があることはまぎれもない(略)金鑽神社の東には金屋集落があり、鋳物業をしていた家が今もある。またさらに数キロ東には美里村阿那志がある。」

 「今城青八坂稲実神社もまた、銅や鉄の採鉱冶金に関係のある人たちの神社ではなかったろうか。賀美郡一帯にさかえた武蔵国造一族のうち、檜前舎人直の勢力がもっとも抜きんでていたというのは、大和国の檜前の廬入(いおいり)宮に仕えていた舎人の後であることを思わせる。」

 これを裏付けるかのように、近年、神川町大字元阿保字新堀北の金糞遺跡から、金属精錬工房跡が発掘されている。

 今城青坂稲実池上神社の祭神は伊吹戸主(いぶきどぬし)命、豊受姫命で、伊吹戸主の名は「真金吹く」や、銅鐸の製造に係わっていたとされる伊福部氏を想像させる。

 また、児玉郡上里町大字勅使河原に字名勝場(かつぱ)がある。

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   上里町大字勅使河原字勝場

 石神社の氏子総代なる人物に伺ったところ、「かっぱ」と教えてくれた。地元では「かっぱ」と呼んでいるようだ。

 佐渡金山では鉱石を粉砕し、選鉱作業をするところを勝場(せりば)といった。勝場は金場(かなば)と磨挽場(うすひきば)にわけられ、まず、金場で窪んだ石の上に鉱石をのせ、鉄槌で叩き、篩を通るほどに細かくする。次に磨挽場で石磨(いしうす)によってさらに泥粉状になるまで挽くといった作業が行なわれた。

 おそらく勅使河原の勝場も往古そのような作業が行なわれていたところなのではあるまいか。勝場の隣は上里町大字金久保である。そして、今も勝場ではある企業が「良質の骨材を供給する基地 」として「 利根川水系・神流川水系の原石を集積して選別生産」している。 勝場の東を流れるのは、埼玉と群馬の県境となる神流(かんな)川であり、その名からカンナ師やカンナ流しを連想させ、金属精錬と深いつながりのある川であることがわかる。

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   神流川 国道17号神流川橋から

 以上のように、児玉郡一帯は古くから採鉱冶金を業とする人々の集団が居住していたと考えられ、石神社の鎮守の森、「加治の森」は「鍛冶の森」である可能性が高い。そして戦に赴く武将が縁起を担いで「加治」を「勝」に改めたように、勝丸稲荷神社の「勝」もまた、もともとは鍛冶だったのではなかろうか。

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閉じる コメント(8)

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おひさしぶりです。
檜前舎人直と同族の武蔵國造が允恭天皇の時代に、勝部の役目を負ったのを思い出します。檜前舎人直は宣化天皇の御名代部で、同時に
その一族の部で多治比部もあり、
意宇郡舎人郷には、多治比氏が住んだことが風土記にあり、地名から
も檜前舎人直が居たことを匂わせます。
舎人郷の付近は賀茂神戸で、飯梨川という砂鉄が豊富な川が
流れています。賀茂神戸は、稲荷信仰のルーツとなる意多伎社・食師社もあります。今城青坂稲実荒御魂神は、出雲の賀茂神戸の食師社
ではないかなと妄想。

2018/12/15(土) 午後 11:42 [ 昌幸 ]

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> 昌幸さん
こんにちわ。
この辺りは檜前関連の遺跡が多いところで、池上神社から南へ10キロメートルほどのところ、美里町広木字御所内には、防人檜前舎人石前の館跡があり、ここから西へ約6キロ、児玉町飯倉字山崎からは、「檜前マ名代女上寺稲肆拾束 宝亀二年十月二日税長大伴国足」と書かれた木簡が出土しています。ここは武蔵二ノ宮金鑽神社と児玉町金屋の中間地点にあたるようです。飯倉、山崎という地名も面白い。
金鑽神社の神体山には、弁慶穴という鉱窟があり、鉄か銅が出たようです。

『日本書紀』の一節を思い出しますね。《石凝姥を以て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮をうつはぎにはぎて、天羽鞴に作る。此れを用て造り奉る神は、是即ち紀国にまします日前神なり。》

広木には、朝鮮式の古墳群があり、このあたりに何社かある北向神社は朝鮮半島に向って建てられているといいます。近くには、阿那志や関という地名があって、わたしにとっては大変魅力的なところです。

2018/12/18(火) 午後 1:40 sunekotanpako

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木簡は魅力的ですね。ムサシ國造の大伴直ですね。
金鑽神社は水銀採掘とも関係ありますか?

武蔵國造は応神天皇の時代に、外戚となって渡来人を管轄する役目を担ったと見ています。勝部はそのための部で、菊間國造〜来熊造
となった大鹿国直は、大酒主という名前を持っていて忍熊王の
外戚だと思います。忍熊王がほむやわけと言って、本当の応神ではないかと。(神宮皇后に攻め滅ぼされ越前に逃亡。その末裔が継体)
宇佐神宮の神主家に、武蔵國造と同族の相模國造が(漆部)居ることに最近気が付きました。

山神信仰の紀直一族と武蔵相模國造は同族。その接点となるのが、この辺りの檜前舎人直だと思うんです。
紀直の系譜には、ニギハヤヒの奥さんとなった天道姫が出てきて
大国主の娘なんですが。神魂命の末裔である系譜になっていて
神魂の末裔は、大国主という理解をしています。

2018/12/19(水) 午前 2:20 [ 昌幸 ]

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和歌山において日前宮は、神魂命の末裔の久米=紀直が最初に
祀っています。久米さんも山部連が出ており山神祭祀氏族で、
武蔵國造と同族です。横見郡に、久米田という場所があって
國造家奉斎と見られる倭文神社があります。これは
武蔵國造エタケヒの子が伯耆國造となって、波波伎神社と倭文神社
を祀ったのとイコールになります。
山神祭祀〜タタラ、水銀=丹生、檜前舎人が丹生明神を祀る。
渡来系を管轄する役目を担ったので、そういう人たちと共に
活動・移動したように見える感じです。
伏見稲荷信仰も、神魂末裔の賀茂県主の奉斎。宇佐にも稲荷信仰と
同様の伝説あり。また、日向の剣柄稲荷の伝承も同様。
安来の意多伎神社の稲荷信仰も同様。
神魂末裔紀直=賀茂県主=神門〜富家の分家

2018/12/19(水) 午前 2:20 [ 昌幸 ]

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菊間國造が出た、上海上国造も武蔵國造同族で、檜前舎人直が出ています。

2018/12/19(水) 午前 2:22 [ 昌幸 ]

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金鑽神社から水銀が採掘されていたとするなら、金鑽じゃなくて、当然、丹生神社になっていたはずでしょう。カナサナとは鉄砂(かねすな)の転訛だといいますし、弁慶穴の伝説からも、鉄が出たのではないかと推測できます。弁慶は鉄に由縁の深い人物なんです。

水銀が出たとしたら、むしろ、神流川を挟んで北隣する、上野国多野郡でしょうね。こちらにも丹生神社がたくさんあります。現在の藤岡市本郷に土師神社があるところをみると、この辺りは、土師部の居住域だったかもしれません。

また、多野郡の丹生神社の近くには、姥神、すなわち石凝姥を祀る神社が何社か見られるんですね。

2018/12/21(金) 午後 2:42 sunekotanpako

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昌幸さんは辰砂で遊んだことはあるでしょうか。遊ぶというと語弊があるかもしれませんが、わたしら、子供のころ、よく辰砂で十円玉を磨いたもんです。銅(青銅)というのは空気に触れると瞬時に酸化して、緑青を生じ、変色してしまいます。ところが、辰砂でその表面をこすると、たちまち、元の、いわゆる、赤銅色に戻るんです。

子供のころ、それが辰砂とは知らずに、その不気味に赤い石で、十円玉を何十枚も、磨き続けていたのを覚えています。古代人もまた、せっせと銅鏡を磨くのに辰砂を使用したのではないでしょうか。石凝姥を祀る神社が丹生神社とともにあるのは、そんな風に見えなくもありません。

2018/12/21(金) 午後 2:43 sunekotanpako

こんばんは、金鑽神社については、色々見解をありがとうございます。流石にこの地方の現地調査をされただけあって面白いと思います。
私も、古代豪族の観点からもう少し調べてみようとおもいます。
丹党と言われる檜前舎人直や紀直系の豪族が丹生神を祀っていた事と、
金鑽神社の祭祀が元々誰の手によるものかはたな別の話だとおもうのです。
多野郡と言いますと、片岡郡から別れた多胡郡であった地域の馬庭という地名が気になります。奥出雲の仁多郡にテナヅチアシナヅチの末裔という馬庭氏が存在します。古代から稲田姫を祀っています。
土師と聞くと、最近は土神を祀る久米や、三輪系の宇治土公が祀る大土神、住吉神の日本書紀の別伝に書かれる別名、土佐国造が祀る石土神を思い出します。

2018/12/23(日) 午後 11:25 [ 昌幸 ]


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