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といっても、大戸一帯で金属精錬が行なわれていたという物的証拠を私が掴んでいるわけではもちろんない。しかしながら、かなり興味深い状況証拠はいくつか発見できたので、それについて述べ、いつもどおり、どこぞの検察のように、きわめてあいまい、かつ怪しい状況証拠を積み上げて、「有罪」の判決に持っていくほかに方法はなさそうだ。 さて、大戸五丁目の曲庭(まにわ)遺跡は浦和支台西縁の鴻沼低地を眼下に望む台地上にある。ここから平安時代の竪穴住居跡が一軒発見され、国分式土師器と砥石と共に鉄器が出土している。むろんこの鉄器がこの辺りで造られたものかどうかはわからない。 つぎに、先だって紹介した「諏訪坂の怪」の舞台である諏訪坂付近から、火災により焼失した住居跡が発見され、土器や石斧といった石器と共に鉄器破片が出土している。鉄器は床面からの出土で、著しく錆の進行した小破片だそうだ。この諏訪坂遺跡は弥生時代中期の遺跡と考えられるという。大戸のオヒジリサマからは北東に1.6kmほどのところ、与野支台西縁に立地し、眼下には旧入間川河道に残された湿地が広がっている場所だ。 注目すべきは八王子浅間神社遺跡だ。 上峰諏訪神社から北へ1.3km、さいたま市中央区八王子(旧与野市八王子)に八王子神社と浅間神社とが並んで鎮座する。この神社の南にある幼稚園前から古墳時代後期の住居跡が22軒と、「猿投(さなげ)」と呼ばれる陶器が、中に人骨が入った状態で、発見された。人骨の分析の結果、その主は身長150cm、熟年の女性のものだという。 それ以外に、金属製品としては、住居跡からは鎌の刃から茎の部分が、カマドの覆土からは刀子の茎の部分、それと正体不明の棒状鉄製品がそれぞれ出土した。 わたしが興味を引かれたのはカマドの周辺から出た多量の高師小僧(たかしこぞう)だ。それはカマドを構築する粘土に鉄分が多く含まれていたからだと『与野市史』は述べ、つぎのように続けている。《高師小僧は現在でも荒川の粘土に多く含まれており、カマドを作る材料となった粘土はおそらく当時の荒川から採集したものと思われる。》 高師小僧とは何か。平凡社の『世界大百科事典』にはつぎのようにある。 《葦などの湿生植物の根のまわりに発達した紡錘形、ないし管状の鉄質の形成物。典型的なものは愛知県豊橋市付近の高師原台地に産するので、高師小僧の名がある。湿地の還元的土壌条件下では、水に溶けて動きやすい2価の鉄イオンFe2+が多量に存在するが、湿生植物の根の周りだけは根から酸素が分泌され、また植物が枯死したあとも根の穴を通じて地上から酸素が供給されてFe2+は酸化沈殿する。高師小僧はこうした酸化沈殿が長年続いた結果形成されたものである。高師原に産するものでは鉄は針鉄鉱にまで結晶化している。》 要するに、高師小僧とは水中の植物に鉄分が沈殿堆積して形成された褐鉄鉱の団塊なのだ。 真弓常忠はこの褐鉄鉱の団塊を「スズ」といったのではないか、という。 《水辺の植物、葦・茅・薦等の根を地下水に溶解した鉄分が徐々に包んで、根は枯死し、周囲に水酸化鉄を主とした固い外殻ができる。こうしてできた団塊の内部は、浸透した地下水に溶解し、内核が脱水・収縮して外壁から分離し、振るとチャラチャラ音を発するものができる。これを今は鳴石・鈴石、あるいは高師小僧と称するが、太古はこれを「スズ」と称していたのであろう。》 そして、褐鉄鉱の団塊、すなわち「スズ」はそのまま製鉄の原料となったという。 従来の通説では、褐鉄鉱からは製鉄はできないとされていたが、真弓常忠は、長野県浪合村で、褐鉄鉱からの鉄精錬に成功したとの報に接したという。 《弥生時代の製鉄の可能性を検証しようと、「野外教育センター」と「金属の会」が共催で各種の実験を繰り返すなかで、平成元年三月、飯田市伊豆木で発見された褐鉄鉱(鬼板)を用いての実験であった。実験はさらに繰り返されて、同年十一月二十三、四日「下条村産鉄綜合調査実行委員会」によって鬼板製鉄の可能性を立証し、小刀の製品化に成功した。このことは褐鉄鉱による弥生時代の製鉄を裏づけるものである。》 八王子浅間神社遺跡で多量に出土した高師小僧は、あるいは、もしかして製鉄に使われていたということは考えられないであろうか。つまり、旧与野市一帯で、原始的な方法で金属精錬が行なわれていたとは考えられないだろうか。 そういえば、大字大戸の北隣が大字鈴谷だというのも単なる偶然とは思えないのだ。 参考文献
『与野市史 自然・原始時代資料編』 『古代の鉄と神々』(真弓常忠 学生社) 『世界大百科事典』(平凡社) |
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歴史にはロマンたくさん詰まってますね。
大戸、鈴谷地区は湧き水も豊かな所です。
2009/12/3(木) 午後 11:43
『埼玉県地名誌 名義の研究』によると、鈴谷の地名の由来は湧き水を意味するスズからきているようです。鴻沼もそのような湧き水によって成っていた沼であれば、当然葦や薦などの植物も豊富にあったはずで、そこに高師小僧ができていてもおかしくはないと思われます。なぜなら、鴻沼川は北へ遡ると、北区宮原で逆川となり、同区別所で鴨川に注いでいるからです。別所から宮原にかけては、一大タタラ製鉄地帯であったと推測します。
2009/12/4(金) 午後 9:54