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柳田國男は、「片葉蘆考」の冒頭で、つぎのように述べている。
≪諸國七不思議の一として折々數へられる片葉の蘆は、片目の鰻又は片身の鮒などゝは大きな違で、根つから珍しい物とも思はれぬ。どこの海川の蘆葉でも、若葉の頃から風に癖附けられて、多くは葉が莖の一方に片寄つて居る。たしか利根川圖誌の中にも、片葉蘆の圖とあつて、をかしいことには普通の蘆の畫が描いてあつた。畫工だつても困つたであらう。≫(『定本 柳田國男集 二十七巻』)
また、その後発表された「諸國の片葉の蘆」では、≪片葉の蘆などは之を珍とする人の心もちが却つて珍だと云ふことにはなるようだ≫(同書)ともいい、この伝説の解釈に、相当に苦慮した様子がうかがえる。
片葉の芦伝説とはどのようなものか、例えとしてあげれば、以下のような話である。
≪丸ヶ崎の多聞院下に、五郎淵と呼ばれている所がある。昔ここに水神様があり、その周りが沼になっていた。その沼は深くいつも蒼々としていた。ある時何のわけがあってか五郎という男がこの沼に身投げして果てた。それから誰いうとなく五郎淵と呼ぶようになった。ところがこの沼のほとりに生える葦は、不思議なことに必ず片葉がまくれて出るので、片葉の葦と呼ばれ、五郎の何かを訴える気持ちが、こって片葉の葦となったのであろうといわれた。
この片葉の葦については、源義経が奥州から鎌倉に赴く際、この淵の水を鏡に代えて身の繕いをすると、葦の葉が障りとなったので、片葉を薙いだが、その時から片葉になったという説もあり、また熊谷直実がこの地を通った時、淵のそばで休んだが、つないだ馬が葦の片葉を食い尽くしたため片葉の葦になった、という説もある。≫(『大宮市史 第五巻』)
≪下總印旛郡阿蘇村大字村上の阿蘇沼には今でも片葉の蘆を生ずると云ふ。此沼では昔獵人が鴛鴦(おしどり)の雄を射殺した處、其夜雌鳥が婦人の姿となつて夢枕に立ち、例に由つて例の如く「日暮るればさそひしものをあそ沼の云々」と云ふ歌を詠んで泣いたと云ふ故跡であつて、其蘆も亦夫に離れた鴛鴦の遺念によつて生ずと云ふ。以前は頗る廣大な沼であつたと傳へ、今も俗に片葉の辨天と稱する水の神の社がある。≫(「諸國の片葉の蘆」)
柳田の解釈としては、片葉の芦とは、≪ヨリマシが手に執つた手草のことで、由緒あつて此が採取地と定つて居た場所を靈異視したことが、今の片葉の蘆の名所に變じたものである。≫(「片葉の蘆考」)という結論に至るのであるが、この説明が、大変回りくどくて、わかりにくく、何度読んでも、未だに、わたしにはよく理解できないのである。(尤も、それは、わたしの頭に原因があるといった方が正しいのかもしれないが。)
ただ、柳田が≪片男波の亞流≫(「片葉の葦考」)といっているのは、鋭い指摘だと思う。
片男波とはなにか。
『万葉集』にある、山部赤人の歌、≪和歌の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無み葦辺(あしべ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る≫の、≪潟を無み≫に、駄洒落て、片男波の字を当てた造語で、今も、和歌山市和歌浦の砂州に「片男波」の地名がつけられている。(古く、大きな波を男波、小さな波を女波と称した。片男波とは、男波と同じ意。)
蓋し、「片蕝(わ)の足」に、片男波よろしく、「片葉の芦」の字を当てたのが、いわゆる片葉の芦伝説の真相なのではなかろうか。
要するに、採鉱冶金の民の職業病で、腕や手に生じるものを猫手(ちょっけ)といい、フイゴを踏み続けることによって、足や脚に生じるものを、駄洒落て、片葉の芦といったのではなかろうか。
それは、砂鉄が、沖積地に多く存在したからであり、また、タタラ製鉄には大量の水が必要とされることから、河川や湿地帯にある広大な芦原と常に向き合っていたために、生じた語なのではなかろうか。
ということは、すべてとは言い切れないものの、多くの片葉の芦伝説地近傍で、タタラ製鉄が行われていたのではないか、という推測が成り立つのである。
上の、例に挙げた、さいたま市見沼区丸ケ崎の五郎淵はどうか。
残念なことに、五郎淵は、今はない。幸いなことに多聞院はあり、その≪下≫というと、「下」には、「裏」「後」の意味があるので、おそらく、春野三丁目の「ファミリータウン東大宮」から綾瀬川(旧元荒川)にかけてあった沼ではなかろうか。ここから、何度となく書いてきた蓮田市馬込の寅子石までは、数百メートルの距離に過ぎない。寅子石のある辻谷墓地には、「鉄山開了沙弥」と記された墓碑があり、「鉄山」の道号から、付近に、かつて鍛冶がいたことが裏付けられる。
また、さいたま市と蓮田市との境界となっている綾瀬川には夥しい量の鉄滓が沈んでいるという伝承もある。さらに、寅子石から北西に約一km、上尾市瓦葺の小字に梶ケ谷戸があり、これは鍛冶ヶ谷戸と、そして、瓦葺という地名も、河原吹きと推測される。つまり、ここにも、鍛冶の存在が浮かび上がってくるのである。
それに、五郎淵の伝説には、≪源義経が奥州から鎌倉に赴く際、この淵の水を鏡に代えて身の繕いをすると、葦の葉が障りとなった≫とあり、葦の葉が障った、というのは、すなわち、片目を傷つけたと解釈でき、そもそも、この話が片目伝承であったとも思えるのである。そう考えると、五郎淵の五郎とは、御霊、つまり、鎌倉権五郎に因んだ名なのではないかと勘繰らざるを得ない。
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