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片葉の芦伝承が「片蕝の足」のことであるとすれば、片目伝承のある人丸神社境内に片葉の芦伝承があり、また、片葉の芦伝承のある五郎淵に片目伝承があるのは、少しも不思議なことではなく、むしろ当然ともいえる。
わたしが、かつて、訪れた場所で、同じような事例を二つ挙げておく。
一つは、さいたま市岩槻区慈恩寺にある、慈恩寺池である。
慈恩寺池は、現在、慈恩寺親水公園となり、すっかり整備されている。
『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎 北辰図書)には、≪慈恩寺観音の沼のほとりの葦は片葉であるといわれ、慈恩寺七不思議の一つにかぞえられている。≫とあり、その七不思議のもう一つに、≪慈恩寺観音の沼の魚は一つ目である≫というのがある。
慈恩寺は、華林山最上院といい、天台宗、本尊は千手観音で、「慈恩寺縁起」によると、天長年間(八二四〜八三四)に慈覚大師の創建と伝えられている。坂東三十三観音の十二番札所でもある。
慈恩寺池の水は、東へ七〇〇mほど流れて、古隅田川と合流するが、この川の別名を逆川という。合流地点から川を一六〇〇mほど北上した、春日部市浜川戸の春日部八幡神社に隣接する公園から大規模な製鉄遺跡が出ている。
これは余談だが、東京浅草の隅田川沿いに語り継がれる三囲神社、言問橋、梅若塚などの伝説は、実は、春日部の古隅田川沿いが発祥地、という説があり、春日部にも全く同じ橋名や神社、伝説が存在する。そういえば、浜川戸という地名も、浅草の花川戸とよく似ている。
柳田の「諸國の片葉の蘆」によると、浅草花川戸の達磨ヶ池に、片葉の蘆があったという。この池も既にないので、どの辺りにあったものか不明ではあるが、浅草という地名、浅草観音にまつわる土師氏の伝承、待乳山聖天の存在、今戸焼の招き猫伝承などから、浅草寺一帯で鉄づくりが行われていた可能性は大である。
もう一つは、行田市埼玉(さきたま)字下埼玉にかつてあったという、尾崎沼とも、小埼沼、小崎沼とも表記される沼である。
この沼は、すでに、消滅してはいるものの、≪古来より、この土地の一木一草を移動することを許さず≫という戒律が守られてきたためか、広大な田畑のなかに、沼があったとされる一角だけ、ポツリと、小さな森が残っている。
《昔、この村に平和な暮らしをしていた百姓夫婦がいた。妻の名は「おさき」といい、片目ではあったが、心ばえもよく村のほめ者だった。ある日子供を田の畦に寝かせて畑仕事に励んでいるうちに、どこからともなく現れたワシのために子供をさらわれてしまった。ところが、ふと池のほとりに立つとかわいい子の姿があるではないか。「おさき」はこれをワシにさらわれた樹上の姿とも知らず、その影を追って入水して果てしまった。この「おさき」の一念から池の中の葦はすべて片葉であるという。》(『埼玉県伝説集成』)
この話では、すでにオサキは片目(彼女は、この沼の芦の葉で、目を傷つけたともいう。)であるが、≪埼玉の小崎の沼に棲む魚はみな片目であるという。一説には、魚だけではなく、イナゴも蛙もみな片目だ≫(同書)という伝承もある。
この辺りから、製鉄遺跡が出たという報告はないが、ここから北西に二〇〇〇mほどのところ、いわゆる金錯名鉄剣が出土した、埼玉古墳群の稲荷山古墳がある。
この鉄剣ばかりが有名だが、これ以外に、礫槨には、副葬品として、大小の鉄斧(てっぷ)、鉄鉗(かなはし)、鑷子(せっし)、鉇(やりがんな)といった工具も置かれていた。
「さきたま史跡の博物館」の学芸員によれば、県内の他の古墳から鍛冶用具の鉄鉗が出たという事例は聞いたことがないという。鉄鉗の存在は、おそらく、被葬者が鍛冶集団を統率していたことを裏付けるものではないか、ということであった。
『ワカタケル大王とその時代――埼玉稲荷山古墳』(山川出版社)も、≪鉗(かなはし)は鍛冶具の可能性が高いもので鍛冶集団を掌握していることを示唆している。この五世紀後半代には東国でも群馬県三ツ寺I遺跡のように地域首長の居館内で鍛冶生産が行われていたことがうかがわれる。≫と述べ、稲荷山古墳被葬者の居館でも、鉄器の生産が行われていたのではないかと推測しているようだ。
沼から、南南東へ一四〇〇mほどのところ、鴻巣市赤城に赤城神社があることも、鍛冶の存在を裏付ける根拠となるかもしれない。
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