スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

涙ばかり貴きは無しとかや。されど欠びしたる時にも出づるものなり。

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 過去に、わたしが訪れた片葉の芦伝承地と片目伝承=鍛冶伝承との関係について述べてきたが、柳田が採り上げた片葉の芦伝承地はどうか。

 柳田の「諸國の片葉の蘆」からの引用箇所を再録しておく。

 ≪下總印旛郡阿蘇村大字村上の阿蘇沼には今でも片葉の蘆を生ずると云ふ。此沼では昔獵人が鴛鴦(おしどり)の雄を射殺した處、其夜雌鳥が婦人の姿となつて夢枕に立ち、例に由つて例の如く「日暮るればさそひしものをあそ沼の云々」と云ふ歌を詠んで泣いたと云ふ故跡であつて、其蘆も亦夫に離れた鴛鴦の遺念によつて生ずと云ふ。以前は頗る廣大な沼であつたと傳へ、今も俗に片葉の辨天と稱する水の神の社がある。≫

 《印旛郡阿蘇村大字村上》とは、現在の千葉県八千代市村上のことである。

 そこで、Google Mapで、村上付近をくまなく調べたところ、沼らしきは見い出せなかった。ただ、新川(印旛放水路)両岸に広がる沖積地が、「諸國の片葉の蘆」にある、《頗る廣大な沼》の跡であったかもしれないという、想像を逞しゅうすることはできた。また、阿蘇を冠する小中学校が、米本と村上の境界付近にあるので、かつて、この辺りにあった沼なのかとも考えられた。しかも、おあつらえ向きに、阿蘇中学校の西八〇〇メートルの村上・米本境界付近には、弁財天を祀る厳島神社がある。これが片葉の弁天なのだろうか。

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 とりあえず、八千代市役所に電話で訊いてみることにした。電話口に出た方の話の概略は以下の通り。

 「村上の正覚院門前の厳島神社が、いわゆる片葉の弁天で、正覚院は鴨鴛寺といい、鴛鴦伝説が残っている。今、八千代市中央図書館隣の駐車場(県立八千代広域公園駐車場)になってしまったが、その一角に阿蘇沼の名残があった。わたしは、五十年以上、八千代市に住んでいるが、つい最近まで小さな沼があったのをこの目で確認している。」

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                              正覚院鴨鴛寺
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                             正覚院の鴨鴛塚

 わたしが、柳田國男は《頗る廣大な沼》だったと書いている、というと、その人は、笑って、相手にしてくれないのであった。

 ならばと、国土地理院の航空写真を、一九七〇年代まで遡って、調べてはみたものの、現在の駐車場北端部辺りに、沼らしきは確認できなかった。ただし、厳島神社のある場所には、現在と同様、鬱蒼とした樹々が茂っていて、そこに沼があったものかどうかは断定できない。

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                            厳島神社 片葉の弁天
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                      額には「片葉葭 阿蘇沼 厳島神社」とある
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                     周囲と比べると かなり低い位置に鎮座する
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                           水辺にあったように見える

 さて、文献を調べてみると、『日本歴史地名大系 千葉県の地名』には、どういうわけか、阿蘇沼に関する記述はない。『角川日本地名大辞典 千葉県』の「阿蘇村」の項によれば、村は印旛放水路左岸に位置し、明治二十二年(一八八九)、米本・下市場・村上・神野(カノと読み、加納・叶・鹿野・狩野などと同様に、金生とつながる地名か。)・保品・上高野・下高野の七ヵ村が合併して成立したという。では、なぜ阿蘇村と命名されたのかというと、《村上にあったといわれ、「佐倉風土記」にもみえる阿蘇沼にちなむ》のだという。さらに、同書の「八千代市」の項を調べてみると、以下の記述があった。

 《新川沿いの村上辺田前から下市場の間には、かつて阿蘇沼という沼が存在し、明治22年の市制町村制施行の際にはこの沼の名が村名につけられている。》

 村上辺田前(へたまえ)とは、現在の村上南を称する一帯のことで、正覚院鴨鴛寺と厳島神社、すなわち片葉の弁天とは、その北端に位置することになる。

 市職員の話と文献とは、ここに一致を見るのであるが、しかし、これには、後日譚がある。それは、また後で述べることにしよう。

 《片葉の辨天》が、当初考えた、米本・村上境界付近にある弁天でなかったことは、わたしにとっては幸いなことであった。なぜなら、鴨鴛寺門前の片葉の弁天から、南東へ、わずか一二〇〇メートルほどの距離にある、黒沢池近隣公園南の台地上から、古墳時代初期と考えられる鋼精錬遺構が出ているからにほかならない。これを沖塚遺跡という。

 田中巌の『古代製鉄についての一試論――八千代市沖塚遺跡の「鋼精錬遺構」に関して――』と題する論文に、『千葉県の歴史 資料編考古2』からの要約として、遺跡の概要が掲載されているので、これを抜粋しておく。

 《発掘調査は東葉高速鉄道の建設に先立って、平成2年(1990)と4年(1992)度に(財)千葉県文化財センターが行って、その報告書は平成6年(1994)に刊行した。調査は幅10㍍、延長約100㍍の広さで行われ、本稿で取り上げる製鉄遺構の他に、縄文時代土坑、平安時代住居跡1が検出されている。
 製鉄遺構は、一辺6.3㍍の方形竪穴遺構の内に、径20㌢以上、深さ10.5㌢以上の精錬炉と考えられる炉体が山砂を用いて6㌢厚さで遺存していた。遺物として多量の鉄滓、精錬作業に使われた痕跡がある無頸壷などが出て、この土器の時期は古墳時代初頭と考えられると報告している。
 自然科学的分析の結果、本遺跡の精錬遺構は明らかに鋼精錬工程を行っている遺構であることが確実で、鋼精錬遺構としては現在全国で検出されている資料中、最古のものである。そして、古墳時代初頭という段階において、この地域に鋼精錬技術が移植されている事実が、今後どの様に評価されることになるかは、注目すべき事柄であると報告している。》

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         黒沢池近隣公園にある 沖塚遺跡の《鋼を作った家のあと》と題する説明板




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