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まずは、遅まきながら、『沙石集』(著者 無住法師 一二八三年成立)巻第八「鴛の夢に見ゆる事」(岩波文庫)の全文を掲載しておく。
《中比下野の國に阿曾沼と云ふ所に、常に殺生をこのみ、ことに鷹つかふ俗有けり。ある時鷹狩して歸りさまに、鴛の雄(をんどり)を一とりて、餌袋に入て歸りぬ。その夜の夢に、裝束尋常なる女房、姿たかたちよろしきが、恨みふかき氣色にて、さめ/゛\と打ちなきて、いかにうたてく、わらはが夫をばころさせ給へるといふ。さることこそ候はねといへば、たしかに今日めし(と)りて候ものをと云ふ。猶かたく論ずれば、
日暮(くる)ればさそひしものをあそぬまのまこも隠れの獨寝ぞうき
と打ながめて、ふつ/\とたつを見れば、鴛の雌(めんどり)なり。打おどろきてあはれに思ほどに、朝(あした)見れば、昨(きのふ)の雄と觜(はし)くひあはせて、雌の死せるありける。是を見て發心し出家して、やがて遁世の門に入り侍けるとなん語傳へて侍る。あはれなりける發心の因縁也。漢土に法宗といひけるも、鹿のはらみたる中腹を射やぶるに、子のおちたるを、矢をふくみながら子をねぶりけるを見て、やがて弓矢を折りすて髪をそりて道に入る。法華の持者にて、をはりめでたき事、法華の傳に見えたり。發心の縁定りなき事也。》
さて、それでは、佐野の阿曽沼は実在したのだろうか。
例によって例のごとく、市に問合せてみる。
電話口に出たのは、声から判断して若い女性で、「どこにあったか、ということでしょうか?」というから、いや、事実、在ったかどうか、実在したかどうかが知りたい旨伝えると、電話は保留になり、しばらくして、「調べて、こちらから電話をする。」ということになった。
十分ほどして、返事があった。「伝説では、今の浅沼町にあったということですが、実際に在ったかどうか確認できる、根拠というか、証拠はありません。古地図にも記載はありませんので、あくまでも伝説上の沼だったのではないかということです。」
想定内であったので、わたしはこう訊いてみた。「真菰池というのはどうなんでしょう、実際に在ったんじゃないんですか。」
想定外だったのだろう、「マコモ池ですかあ?」と困惑状態だったので、『佐野市史 民俗編』の八六六ページに「まこもが渕」という伝説が紹介されていて、この「まこもが渕」の古跡が相生町の新たに鴛鴦塚を建てた場所で、つまりは、阿曽沼の名残だといわれている、と佐野市郷土博物館から以前教えていただいた、というと、再び、調べて折り返す、ということになった。
「まこもが渕」の伝説は以下のとおり。
《まずしい夫婦者の所に旅の僧が一夜の宿を求めた。ところが旅僧にもてなすだけの食膳しかなかったので、夫婦は残りもので用を済ませた。その夜、竜神が夢枕にたち望むものを与えるから、その名を紙に書き、まこもが渕に投ずることを命じた。夫婦が不思議に思いつつもその品物を紙に書き、まこもが渕に投ずると、望みの品物が出たという。》
いわゆる、椀貸伝説である。わたしは椀貸伝承も金属伝承の一つではないかと考えているが、事例を挙げていくと、二、三章を要すことになろうかと思うので、ここでは、柳田國男が木地師との関係を指摘していることに関連して、木地師は斧、鋸、鑿などの道具を自ら作っていたということ、また、『古今著聞集』(橘成季 一二五四年成立)の巻第二十(漁蟲禽獣第三十)「馬允某陸奥國赤沼の鴛鴦を射て出家の事」という、同趣向の鴛鴦伝説も、木地師と関係があるかもしれない、ということだけを挙げておくに留める。
しかし、結局、結果は同じで、真菰池の実在の確証は得られないということであった。ただ、地形的に見た場合、浅沼町を南東方向に開析谷が横切っており、越名沼に接続する沼があったと考えられないこともないのではないか、という。
嘉永三年(一八五〇年)、河野守弘によって上梓された『下野国誌』には、阿曽沼について、こう記されている。
《安蘓沼 安蘓郡佐野天明驛の東乃入口小屋街と云所の田乃中にあり。大方田となりてわずかに東西四間許、南北六間許の沼となれり。真菰生ひ茂りて水もみえぬばかりなり。されば世俗は真菰の池とも呼ぶなり。》
小屋町というのは、現在の久保町・相生町・高砂町・本町・伊賀町・朝日町・大和町・亀井町・金屋下町・大祝町・金吹町・若松町・天神町・犬伏町・米山南町あたりをいうらしい。
真菰が生い茂っていたから真菰池なんだろうが、《まこも隠れの獨寝ぞうき》から、強引に付会したと考えられなくもない。(なにせ、碑には、《千鳥がふち》と記されている。)一方で、真菰池の具体的な大きさなど、著者が、実際にこの池を訪れた上で、記述したように見えないこともない。
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