スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

涙ばかり貴きは無しとかや。されど欠びしたる時にも出づるものなり。

母のところへ行く

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 これは、母がデイから持ち帰った、短冊である。

 おそらく、七夕に因んで、みなさんの夢(願望)を書いてください、とでもいわれたのだろう。ところが、母は、なにを勘違いしたか、その日の朝にでも見た夢を記入してしまったようなのだ。

 尤も、九十を越した年寄りに、夢(願望)もおかしな話であり、土台、デイの要求には無理がある。

 母の願望は、日ごろ口にしている、なんの苦痛もなく、眠った状態で死にたい、である。いや、それは、母だけに限った「夢」ではなく、多くのお年寄りの「夢」にちがいなかろう。

 以前、母が入院していた病棟のなかほどに、談話室があり、そこで交わされていた、車椅子のおばあちゃん同士の会話が、今も頭のなかに、倭文の苧環くり返し、聞こえてくる。

「あんた、生きていて楽しいかい?」
「いやぁ。」
「ここに、こうしているだけで、生きていたって、ちっとも楽しくなんかないねえ。」
「うん。」
「ただこうしているだけで、生きていたって、ちっとも楽しくなんかないねえ。」

 これと対比して、母には、まだなにか、夢の片鱗でも残っているのではないかと思えないでもない。   

         トタン屋根 熟した柿におどかされ
                   松茸をリュック一ぱい採った夢 

 
 それにしても、あまりにシュールな歌?ではなかろうか。杉田久女の

            谺して 山ホトトギス ほしいまま

を思い出す。

 しかし、まあ、松茸が出てくるところなど、≪この親にして、この子あり≫というより、≪この子にして、この親あり≫といった感じがしないでもない。

 母のところへ行く。

 途上、母から電話が入る。胸が痛み、呼吸が苦しいという。過去にも、何度かあった症状である。

 「そっちに到着するには、三十分以上かかるし、わたしが治せるわけもないので、救急車を呼んでくれ。」と電話を切った。

 その後、五分ほどして、救急隊から電話がきた。母の家と消防署とは目と鼻の先なのだ。

 既往症などについて、あれこれ訊ねられ、搬送先の希望はあるか、と訊かれたので、前回入院した病院名を告げた。

 コンビニの駐車場で、しばらく待っていると、再び電話が入り、受け入れOKだというので、すぐに向かった。

 レントゲン、CTI、エコーと続き、最後に、採血して、検査は終了。症状は治まり、母は案外元気であった。

 車イスの母を内科診察室前まで運んだところで、搬送されてから一時間半が経過していた。

 「喉が渇いたんじゃない。」というと、うなずく。「腹は減ってないか。」と訊くと、「昼遅くに、苦しかったけど、無理して食べたから、今は、食欲はない。」という。わたしは小腹が空いたので、近くのコンビニから、ポカリとヤマザキの薄皮クリームパンを買ってきた。

 ポカリを飲ませてから、もう一度、「腹は空いてないか。」と問うてみた。すると、再び、「昼遅くに無理して食べたから食欲はまったくない。」との返事。「オレは腹減ったから食べるよ。」とことわって、薄皮クリームパンの封を切り、すかさず「食べる?」というと、袋をじっと見つめながら、「先生は食べてもいいといったのか。」と真顔で質問してくる。「糖尿病でもあるまいし、関係ないから、大丈夫。」ちょうど、そのとき、通りかかった看護師さんに、訊いてみてくれというように、母はわたしを見る。「大丈夫だよ、大丈夫だから、全然大丈夫。」といって、一個を手に取り、「甘くて美味しいよ。」といざなうと、「じゃ、一個だけ。」

 わたしも一個取り出して、まむまむした。

 わたしが食べ終わったのを見澄ましたところで、母は、「もう一つ。」と手を出した。
 母のところへ行く。

 その日は、自宅で作ったカレーを持参した。

 母がまだマージャンに明け暮れていたころ、かなり頻繁に食べていたのが、ハウス食品の「ジャワカレー中辛」であることを知っていたので、同じものにした。

 ところが、「辛い。」という。

 確かに、思い起こせば、母は辛いのが苦手であった。韓国系の料理など、決して口にすることはなかった。遺伝だろう、わたしも同様で、カルビクッパなんぞを食べると、顔面に、どしゃ降りをひっくり返したような汗をかいてしまう。したがって、「ジャワカレー中辛」は、わたしにとっては「辛口」の範疇である。

 であるにもかかわらず、なにゆえ彼女が「中辛」を食していたのか、理解に苦しむ。

 そこで、心理作戦をとることにした。

 「インド人は認知症になる人が少ないんだって。アメリカの四分の一なんだって。なぜかっていうと、カレーを食べているからなんだと。香辛料がいいみたいね。つまり、辛いのが、効果ありということらしいよ。」

 母はわたしの話に大きくうなづくと、何回かスプーンを口に運んだ。

 わたしはその辺で帰ることにした。片づけは、いつも母が自分でするのである。

 翌日、カレーは食べたか、と訊くと、「辛くて食べられなかった。」という。しかし、台所のテーブルの上にも、冷蔵庫や電子レンジのなかにも、もちろん、ごみ箱のなかにも、見当たらなかった。母は、以前書いたとおり、食物に関しては、絶対に捨てられない人なのである。

 したがって、どう考えても、完食したとしか思えなかった。

 が、しかし、以前こんなことがあったから、未だ油断はできない。

 数週間前のことである。そのときも、少し辛めのもの、マーボー豆腐を作って持って行った。母は「美味しい。」といって、もぐもぐしていたので、わたしはホッとして家に帰った。翌日、冷蔵庫にマーボー豆腐はなかった。半人前ではあったものの、母にとっては結構な量だったので、意外だった。もしかすると、残りが、電子レンジのなかに入れられたまま、忘れ去られているかもしれないと思い、調べてみたがないし、冷凍室も同じであった。となると、やはり、全部食べてしまったのだろう。わたしは腹のなかでにんまりした。

 ところが、数日後、冷蔵庫を開けると、マーボー豆腐が、ほとんど口を付けられないままの状態で、忽然と出現したのである。まるでミスター・マリックの手力ではないか。一体全体どこに隠していたのだろう。彼女に訊いても、「ああそうなの。」というだけで埒が明かず、事件の真相は未解決のままだ。

 だから、わたしは、母のところへ行くと、今日もまた、冷蔵庫のなかをくまなく調べ、電子レンジを開け、システムキッチンの引き出し、茶箪笥のなかを見、さらに、押入れ、洋服ダンス、仏壇のなかまでもチェックするのであったが、カレーライスの行方は杳として知れないのである。

 母のところへ行く。

 ベッドに寝ているので、「具合が悪いのか。」と訊くと、「悪い。」と断言する。どう悪いのかだずねると、こういう。

 「オナラとウンコの区別がつかないんだよ。出ると思って、トイレに行っても、オナラしか出ない。しばらくして、今度こそと行っても、また、オナラしか出ない。かといって、オナラだろうと油断して、トイレに行かずに、力んで、中身が出たら一大事だから、用心のため、トイレの行き来だけで、もう疲れちゃって。」

 母のところへ行く。

 母の家の台所の蛇口は古いタイプのものである。といっても、ねじ式の、左に回すと水が出るといったやつではなく、レバー上下式ではあるのだが、レバーを下に押すと水が出て、上にあげると止まるという、一昔――というよりも、二昔前のタイプなのである。

 これがレバーを上げると水が出て、下げると止まるタイプに変わるきっかけとなったのが、一九九五年の阪神・淡路大震災だったという。当時は、下げ出しが主流で、震災時、上から物が落下して水が出っぱなしになってしまったという。

 もちろん、わが家のは新しいタイプのやつだから、母のキッチンで水を使うと混乱を極める。

 止めようとレバーを思いっきり下げると、水道水がシンクに激突して雷のような音を立て、泡を食らったり、止めたとばかり思っていたにもかかわらず、数分間出っぱなしだったり。が、人間の頭というのは便利なもので、しばらく使っているとだんだん慣れてくる。ところが、自分の家に帰ると再び混乱する。水を止めるときはレバーを上げると学習しているから、手が自然と動いてしまい、集中豪雨のような音で肝を冷やしたりする。

 これを毎日繰り返していると、それでなくとも靄のかかった頭が一層混迷をきたし、いちいち考えないと水道が使えなくなってくる。

 えぇっと、ここは自分家だから、えぇぇぇ、下げると止まるだんよなあ。ここは、母のところだから、えぇぇっと、上げると出る、じゃなくてぇ、下げると出るんか。

 そのうち、ショーペンハウアーのいう「ブリダンのロバ」みたいになっちゃうんじゃないかと、大変不安に駆られている。

 ロバの前に、水の入った桶と秣の入った桶とを同時に置くと、ロバはどちらを先に口にしようか迷ってしまい、硬直状態に陥り、結局どちらも口にすることができず、そのまま餓死してしまう、という話。

 もちろん、そんなことはあり得ない、ロバは、先ず水をすべて飲みつくしてしまうと、つぎに秣を食べ始めるか、あるいはその逆に、秣を食べてから水を飲むだろう、と人は考えるだろう。でも、わたしは、ロバではなく、一応人間である。そして、人というものは往々にして考え込んだり、迷ったり、要するに、硬直状態に陥ってしまうものである。

 つまり、わたしは、レバーを上げたらいいのか、下げたらいいのか、迷ってしまい、やがて金縛り状態に陥り、水道水を出すことができなくなり、水が飲めなくなって、熱中症で死ぬんじゃないか、という恐怖に慄いているわけだ。

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