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まずは、遅まきながら、『沙石集』(著者 無住法師 一二八三年成立)巻第八「鴛の夢に見ゆる事」(岩波文庫)の全文を掲載しておく。
《中比下野の國に阿曾沼と云ふ所に、常に殺生をこのみ、ことに鷹つかふ俗有けり。ある時鷹狩して歸りさまに、鴛の雄(をんどり)を一とりて、餌袋に入て歸りぬ。その夜の夢に、裝束尋常なる女房、姿たかたちよろしきが、恨みふかき氣色にて、さめ/゛\と打ちなきて、いかにうたてく、わらはが夫をばころさせ給へるといふ。さることこそ候はねといへば、たしかに今日めし(と)りて候ものをと云ふ。猶かたく論ずれば、
日暮(くる)ればさそひしものをあそぬまのまこも隠れの獨寝ぞうき
と打ながめて、ふつ/\とたつを見れば、鴛の雌(めんどり)なり。打おどろきてあはれに思ほどに、朝(あした)見れば、昨(きのふ)の雄と觜(はし)くひあはせて、雌の死せるありける。是を見て發心し出家して、やがて遁世の門に入り侍けるとなん語傳へて侍る。あはれなりける發心の因縁也。漢土に法宗といひけるも、鹿のはらみたる中腹を射やぶるに、子のおちたるを、矢をふくみながら子をねぶりけるを見て、やがて弓矢を折りすて髪をそりて道に入る。法華の持者にて、をはりめでたき事、法華の傳に見えたり。發心の縁定りなき事也。》
さて、それでは、佐野の阿曽沼は実在したのだろうか。
例によって例のごとく、市に問合せてみる。
電話口に出たのは、声から判断して若い女性で、「どこにあったか、ということでしょうか?」というから、いや、事実、在ったかどうか、実在したかどうかが知りたい旨伝えると、電話は保留になり、しばらくして、「調べて、こちらから電話をする。」ということになった。
十分ほどして、返事があった。「伝説では、今の浅沼町にあったということですが、実際に在ったかどうか確認できる、根拠というか、証拠はありません。古地図にも記載はありませんので、あくまでも伝説上の沼だったのではないかということです。」
想定内であったので、わたしはこう訊いてみた。「真菰池というのはどうなんでしょう、実際に在ったんじゃないんですか。」
想定外だったのだろう、「マコモ池ですかあ?」と困惑状態だったので、『佐野市史 民俗編』の八六六ページに「まこもが渕」という伝説が紹介されていて、この「まこもが渕」の古跡が相生町の新たに鴛鴦塚を建てた場所で、つまりは、阿曽沼の名残だといわれている、と佐野市郷土博物館から以前教えていただいた、というと、再び、調べて折り返す、ということになった。
「まこもが渕」の伝説は以下のとおり。
《まずしい夫婦者の所に旅の僧が一夜の宿を求めた。ところが旅僧にもてなすだけの食膳しかなかったので、夫婦は残りもので用を済ませた。その夜、竜神が夢枕にたち望むものを与えるから、その名を紙に書き、まこもが渕に投ずることを命じた。夫婦が不思議に思いつつもその品物を紙に書き、まこもが渕に投ずると、望みの品物が出たという。》
いわゆる、椀貸伝説である。わたしは椀貸伝承も金属伝承の一つではないかと考えているが、事例を挙げていくと、二、三章を要すことになろうかと思うので、ここでは、柳田國男が木地師との関係を指摘していることに関連して、木地師は斧、鋸、鑿などの道具を自ら作っていたということ、また、『古今著聞集』(橘成季 一二五四年成立)の巻第二十(漁蟲禽獣第三十)「馬允某陸奥國赤沼の鴛鴦を射て出家の事」という、同趣向の鴛鴦伝説も、木地師と関係があるかもしれない、ということだけを挙げておくに留める。
しかし、結局、結果は同じで、真菰池の実在の確証は得られないということであった。ただ、地形的に見た場合、浅沼町を南東方向に開析谷が横切っており、越名沼に接続する沼があったと考えられないこともないのではないか、という。
嘉永三年(一八五〇年)、河野守弘によって上梓された『下野国誌』には、阿曽沼について、こう記されている。
《安蘓沼 安蘓郡佐野天明驛の東乃入口小屋街と云所の田乃中にあり。大方田となりてわずかに東西四間許、南北六間許の沼となれり。真菰生ひ茂りて水もみえぬばかりなり。されば世俗は真菰の池とも呼ぶなり。》
小屋町というのは、現在の久保町・相生町・高砂町・本町・伊賀町・朝日町・大和町・亀井町・金屋下町・大祝町・金吹町・若松町・天神町・犬伏町・米山南町あたりをいうらしい。
真菰が生い茂っていたから真菰池なんだろうが、《まこも隠れの獨寝ぞうき》から、強引に付会したと考えられなくもない。(なにせ、碑には、《千鳥がふち》と記されている。)一方で、真菰池の具体的な大きさなど、著者が、実際にこの池を訪れた上で、記述したように見えないこともない。
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訪想記
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わたしが意外に感じたのは、古地図に沼が描かれていない、ということではなく、先日、市役所の職員から聞いた、つい最近まで、片葉の弁天近くに、阿蘇沼の名残の沼があり、図書館の駐車場造成時に消滅した、という話をした時の博物館職員の反応だった。彼は「えぇぇっ!」っと一声、口を大きく開けたまま、目を剥き、頭を下に引くようにしたので、わたしは、まるで、首落ちマジックを見ているような気分になった。
彼もまた、三十年以上、八千代市に住み、片葉の弁天辺りは毎日のように歩いているが、過去に、沼なんて目にしたことは一度もない、というのだ。しかも、郷土博物館から弁天までは、三〇〇メートルほどの距離に過ぎない。
しかし、市職員の話しっぷりも、堂々たるもので、そこに虚偽を感じさせる気配は微塵もなかったと記憶する。
さて、一体、どちらが正しいのであろうか。なにやら、黒澤明の『羅生門』の雰囲気を漂わせる展開になってきた。
過去の航空写真を見た限りでは、郷土博物館に軍配は上がりそうであるが、なにか、すっきりしない。
古地図不記載の話なら、先日、佐野市役所でも聞いたことであって、驚くにはあたらない。そもそも伝説とは、そんなものなのではなかろうか。だからといって、まともに取り上げるに足らないというのではなく、むしろ、だからこそ、そこに面白みがあるのであって、在りもしない沼に、片葉の芦が生えていたと、何ゆえ、何百年間も語り継がれなければならなかったのか、それは、また、それで、大変興味深い問題ではなかろうか。あるいは、それは、伝説の古さを物語っているといえないこともないのである。
ところで、『角川日本地名大辞典』によれば、阿蘇村の名は《村上にあったといわれ、「佐倉風土記」にもみえる阿蘇沼にちなむ》ということであった。とすると、『佐倉風土記』に、阿蘇沼の詳細な記述があるのではあるまいか。
幸いなことに、国立国会図書館デジタルコレクションで、『佐倉風土記』は閲覧可能である。
希望の小旗を掲げて、阿蘇沼の項を探したものの、旗は全くはためこうとはしなかった。なぜなら、そこには、沼の説明として、《阿曽沼 在印旛郡村上》としか書かれておらず、あとは、柳田も挙げている鴛鴦伝説の記述あるのみであったから。
古地図にも古文献にも、その存在を示す明確な記載がないとなれば、それは、まさに、疑うべくもない伝説上の沼であって、『日本歴史地名大系 千葉県の地名』に阿蘇沼の記述がなかったのは、どうやら、この辺に理由があったのではなかろうか。
しかし、『佐倉風土記』の著者が、「阿曽沼」の記述の最後に、鴛鴦伝説について、以下のように述べていることを見逃してはならない。
《而砂石集記之、以為下野州者甚誤烏》
つまり、『沙石集』が下野国のこととしているのは、とんでもない間違いではないのか、と。
ということは、すなわち、栃木県にも同様の伝説があるということにほかならない。
ちなみに、鴛鴦伝説を記した『沙石集』巻八上「鴛之夢見事」の冒頭の記述は以下のとおり。
《中比下野ノ國ニ阿曽沼ト云所ニ常ニ殺生ヲコノミコトニタカツカフ俗有ケリ》(国立国会図書館デジタルコレクション)
それでは、下野の阿曽沼とは、一体全体、どこにあるのだろうか。
それは、なんのことはない、小中人丸神社の南東四キロメートルほどのところ、佐野市浅沼町に所在したといわれ、地元の人の話では、越名沼(三毳山とイオンモール佐野や佐野プレミアムアウトレットの間に在った)に接続する大きな沼だったという。『大日本地名辞書』には、《今の浅沼の遺名は、阿曽沼に出づ。》とある。
そういえば、そもそも、小中人丸神社は安蘇郡旗川村にあったのである。いや、そればかりではない、佐野市には、小中人丸神社の南南西五キロメートルに、村上というところもあるのである。
昼も、もう近い、腹も減ってきたので、最後に一つ、気になっていることを、郷土博物館の職員に尋ねてみた。
それは、このあたりに集中して、時平神社があることだった。時平とは、藤原時平のことで、讒言から、右大臣菅原道真を大宰府権帥として左遷させた中心人物である。
「萱田と大和田に、それぞれ二社ずつありまして、すべて左大臣藤原時平を祀っていますが、なぜ、この狭い範囲に、四社もあるのか、これもまた謎で、その理由は明らかではありません。」
そこで、わたしは、時平神社が栃木県にもあることを告げると、職員は、再び、たいそう驚き、「いやあ、よくご存じですね。実は、つい最近、わたしも知ったばかりなんですよ。」という。
佐野市に隣接する、栃木市(旧下都賀郡だが、古くは、安蘇郡)岩舟町古江に、この神社はあり、時平を祀るのだが、現在の主祭神は、藤原氏の祖神、天児屋根命になっているようだ。
佐野は、かつて、芦屋・京都と並ぶ三大釜の一つ、天命釜の生産地であった。天命とは、天児屋根命の始めと終わりの文字「天」と「命」から採ったという。それは、天児屋根命が初めて鋳物の器を用いたからだという。(伝説で、この神は、しばしば、片目の神として登場する。)したがって、佐野市一帯にはこの神を祀る神社が多くあり、古江時平神社の主祭神が天児屋根になっているのは、その辺の影響があったからとも考えられる。あるいは、なにゆえ、こんなところに、時平を祀る神社があるのか、理解に苦しんだ挙句の結果であろうか。
古江時平神社について、『安蘇史』はこう記している。
《此地に同神の祭祀あるは最も珍らしき事なりとて大寂庵立綱大徳が萍跡の書にも記しありとの事なり。時平大明神は下總國佐倉領大和田村にもあり、如何なる由縁にて祀りありしやは未だ知らずと雖ども同村より南隣黒袴村には菅原道真公の神霊を鎮守として祀りありて古来両村間に結びたる縁組は一つも終了を全ふしたるものなしと云ふ。》
アソ沼を介して、佐野市――旧安蘇郡一帯と、八千代市――旧阿蘇村一帯との景色がきわめて近似しているように見えてくる。
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沖塚遺跡について、わたしが何度も製鉄、製鉄というものだから、八千代市立郷土博物館の職員は、誤解されてはまずいと思ったのだろうか、「製鉄遺跡と断言できるどうか…」と疑問を投げかけた。
要するに、砂鉄や鉄鉱石から鉄(荒鉄)を造り出す作業ではなく、荒鉄(あらがね)から不純物を取り出して鋼を作る作業(製鋼)によって出た鉄滓ではないか、というわけだ。そして、こう続けた。「ただ不思議なことに、このあたり、つまり、村上や、新川対岸の萱田の台地上から、鉄滓の出土は数多くみられるんですが、製鉄炉が出ないんです。また、村上に南隣する勝田台には、かつて鉄滓の山があったという報告もあるんです。でも、炉の発見には至らず、謎のままです。」
勝田台の鉄滓については、田中の論文に、こう書かれている。
《時代は不詳ながら八千代市勝田台2丁目に大量の鉄滓の山(2㍍×7㍍×1㍍)が最近(昭和52年頃)まで存在していて、調査した増田誠蔵氏の記録が『史談八千代第2号1977年』に報告されている。
それによると、証言があるので明治時代以降のものではないことが明らかなので、江戸時代と想定して、運び込まれたとした場合の「荒鉄」の量を計算したところ房総地域で生産された「荒鉄」全量よりはるかに多いものとなり、鋼精錬鉄滓としたら疑問は解けないとしている。》
ところで、この論文の核心部は、沖塚遺跡の炉跡は、鋼を造る精錬炉ではなく、荒鉄を造り出す製錬炉の跡だったのであり、その原料は、砂鉄ではなく、高師小僧、すなわち、褐鉄鉱だったのではないか、としているところにある。
そこには、高師小僧の説明として、こう書かれている。
《芦、葦などの植物の根の回りに鉄の酸化物が付着し、成長した褐鉄鉱で、大きいもので直径30㌢、長さ(高さ)40㌢程度のものが豊橋市地下資源館に展示されているが、通常は太さ1㌢前後長さ5㌢前後のものが多い。》
とすると、もしかすると、片葉の芦という語には、褐鉄鉱の存在が暗にほのめかされているのだろうか。
製鉄か、製鋼かの問題は置くとして、多量の鉄滓の出土は、取りも直さず、フイゴの使用を明示し、脚に障害を負った人々(片輪の足)の存在を想像せしめる。そんな彼らが信仰したのが、村上駅前の古墳(根上神社古墳)上に祀られている、根上(ねのかみ)神社なのではなかろうか。ねの神とは、干支の子の神のことであろう。
この神社は、飯能市吾野の山中にある子の権現――腰から下、脚の病にご利益があるといわれる――と関係があるにちがいない。
わたしが、過去に訪れた子上神社・ねの神社・根上神社・子神社は、すべて鍛冶とかかわりの深い地に鎮座している。
〇ねの神社 さいたま市北区奈良町 同町鍛冶公園から西へ八〇〇メートル、宮原町の金山権現から西へ一キロメートル。
〇子上神社 さいたま市北区本郷 本郷神社に合祀 砂金伝説のある同市見沼区砂町から一五〇〇メートルほど。
〇根上神社 ふじみ野市大井の大井氷川神社に合祀 ここには金山権現も合祀されている 同所の大井東台金山公園にある製鉄遺跡から西へ一キロメートル。
〇子神社 さいたま市岩槻区裏慈恩寺 片葉の芦・片目の魚伝承のある慈恩寺沼から北北西に一キロメートルほど。町田氏が吾野の子の権現を勧請したという。
彼らが、この神を信仰したのは、ただ単に、脚の病に効くからということだけではなく、彼らが、三日三晩不眠不休でタタラ製鉄に従事しなければならなかったことから、一名、ネズミ(不寝見)と呼ばれていたことも、理由の一つだったのではなかろうか。祭神は、すべて大己貴命で、これまたネズミと深いかかわりがある。裏慈恩寺の子神社は、創建当時、大日如来を祀っていたといい、明治の神仏分離令により大己貴命に改めたという。
勝田という地名に関しても、カチタであって、つまり、鍛治田のことではなかろうか。
さて、製鉄関連の話も済んだところで、わたしは、壁に掛けられた八千代市の航空写真を見ながら、阿蘇沼が、かつて、どの辺にあったのか、郷土博物館の職員に尋ねてみた。
すると、彼は意外な話をし始めた。
「村上駅の南に、ヨーカドーとか、フルルガーデンという商業施設がありますが、あの辺を辺田前といいまして、今じゃわかりにくいと思いますが、かなり低い土地でした。沖塚前低地ともいいます。辺田前の弁天が当時の地形の名残です。そこから鴛鴦伝説のある正覚院あたりにかけて阿蘇沼という沼があったといわれています。しかし、江戸期の古地図を見ても、そんな沼どこにも描かれてないんですね。これも、一つの謎なんですけど。」
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過去に、わたしが訪れた片葉の芦伝承地と片目伝承=鍛冶伝承との関係について述べてきたが、柳田が採り上げた片葉の芦伝承地はどうか。
柳田の「諸國の片葉の蘆」からの引用箇所を再録しておく。
≪下總印旛郡阿蘇村大字村上の阿蘇沼には今でも片葉の蘆を生ずると云ふ。此沼では昔獵人が鴛鴦(おしどり)の雄を射殺した處、其夜雌鳥が婦人の姿となつて夢枕に立ち、例に由つて例の如く「日暮るればさそひしものをあそ沼の云々」と云ふ歌を詠んで泣いたと云ふ故跡であつて、其蘆も亦夫に離れた鴛鴦の遺念によつて生ずと云ふ。以前は頗る廣大な沼であつたと傳へ、今も俗に片葉の辨天と稱する水の神の社がある。≫
《印旛郡阿蘇村大字村上》とは、現在の千葉県八千代市村上のことである。
そこで、Google Mapで、村上付近をくまなく調べたところ、沼らしきは見い出せなかった。ただ、新川(印旛放水路)両岸に広がる沖積地が、「諸國の片葉の蘆」にある、《頗る廣大な沼》の跡であったかもしれないという、想像を逞しゅうすることはできた。また、阿蘇を冠する小中学校が、米本と村上の境界付近にあるので、かつて、この辺りにあった沼なのかとも考えられた。しかも、おあつらえ向きに、阿蘇中学校の西八〇〇メートルの村上・米本境界付近には、弁財天を祀る厳島神社がある。これが片葉の弁天なのだろうか。
とりあえず、八千代市役所に電話で訊いてみることにした。電話口に出た方の話の概略は以下の通り。
「村上の正覚院門前の厳島神社が、いわゆる片葉の弁天で、正覚院は鴨鴛寺といい、鴛鴦伝説が残っている。今、八千代市中央図書館隣の駐車場(県立八千代広域公園駐車場)になってしまったが、その一角に阿蘇沼の名残があった。わたしは、五十年以上、八千代市に住んでいるが、つい最近まで小さな沼があったのをこの目で確認している。」
わたしが、柳田國男は《頗る廣大な沼》だったと書いている、というと、その人は、笑って、相手にしてくれないのであった。
ならばと、国土地理院の航空写真を、一九七〇年代まで遡って、調べてはみたものの、現在の駐車場北端部辺りに、沼らしきは確認できなかった。ただし、厳島神社のある場所には、現在と同様、鬱蒼とした樹々が茂っていて、そこに沼があったものかどうかは断定できない。
さて、文献を調べてみると、『日本歴史地名大系 千葉県の地名』には、どういうわけか、阿蘇沼に関する記述はない。『角川日本地名大辞典 千葉県』の「阿蘇村」の項によれば、村は印旛放水路左岸に位置し、明治二十二年(一八八九)、米本・下市場・村上・神野(カノと読み、加納・叶・鹿野・狩野などと同様に、金生とつながる地名か。)・保品・上高野・下高野の七ヵ村が合併して成立したという。では、なぜ阿蘇村と命名されたのかというと、《村上にあったといわれ、「佐倉風土記」にもみえる阿蘇沼にちなむ》のだという。さらに、同書の「八千代市」の項を調べてみると、以下の記述があった。
《新川沿いの村上辺田前から下市場の間には、かつて阿蘇沼という沼が存在し、明治22年の市制町村制施行の際にはこの沼の名が村名につけられている。》
村上辺田前(へたまえ)とは、現在の村上南を称する一帯のことで、正覚院鴨鴛寺と厳島神社、すなわち片葉の弁天とは、その北端に位置することになる。
市職員の話と文献とは、ここに一致を見るのであるが、しかし、これには、後日譚がある。それは、また後で述べることにしよう。
《片葉の辨天》が、当初考えた、米本・村上境界付近にある弁天でなかったことは、わたしにとっては幸いなことであった。なぜなら、鴨鴛寺門前の片葉の弁天から、南東へ、わずか一二〇〇メートルほどの距離にある、黒沢池近隣公園南の台地上から、古墳時代初期と考えられる鋼精錬遺構が出ているからにほかならない。これを沖塚遺跡という。
田中巌の『古代製鉄についての一試論――八千代市沖塚遺跡の「鋼精錬遺構」に関して――』と題する論文に、『千葉県の歴史 資料編考古2』からの要約として、遺跡の概要が掲載されているので、これを抜粋しておく。
《発掘調査は東葉高速鉄道の建設に先立って、平成2年(1990)と4年(1992)度に(財)千葉県文化財センターが行って、その報告書は平成6年(1994)に刊行した。調査は幅10㍍、延長約100㍍の広さで行われ、本稿で取り上げる製鉄遺構の他に、縄文時代土坑、平安時代住居跡1が検出されている。
製鉄遺構は、一辺6.3㍍の方形竪穴遺構の内に、径20㌢以上、深さ10.5㌢以上の精錬炉と考えられる炉体が山砂を用いて6㌢厚さで遺存していた。遺物として多量の鉄滓、精錬作業に使われた痕跡がある無頸壷などが出て、この土器の時期は古墳時代初頭と考えられると報告している。
自然科学的分析の結果、本遺跡の精錬遺構は明らかに鋼精錬工程を行っている遺構であることが確実で、鋼精錬遺構としては現在全国で検出されている資料中、最古のものである。そして、古墳時代初頭という段階において、この地域に鋼精錬技術が移植されている事実が、今後どの様に評価されることになるかは、注目すべき事柄であると報告している。》
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片葉の芦伝承が「片蕝の足」のことであるとすれば、片目伝承のある人丸神社境内に片葉の芦伝承があり、また、片葉の芦伝承のある五郎淵に片目伝承があるのは、少しも不思議なことではなく、むしろ当然ともいえる。
わたしが、かつて、訪れた場所で、同じような事例を二つ挙げておく。
一つは、さいたま市岩槻区慈恩寺にある、慈恩寺池である。
慈恩寺池は、現在、慈恩寺親水公園となり、すっかり整備されている。
『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎 北辰図書)には、≪慈恩寺観音の沼のほとりの葦は片葉であるといわれ、慈恩寺七不思議の一つにかぞえられている。≫とあり、その七不思議のもう一つに、≪慈恩寺観音の沼の魚は一つ目である≫というのがある。
慈恩寺は、華林山最上院といい、天台宗、本尊は千手観音で、「慈恩寺縁起」によると、天長年間(八二四〜八三四)に慈覚大師の創建と伝えられている。坂東三十三観音の十二番札所でもある。
慈恩寺池の水は、東へ七〇〇mほど流れて、古隅田川と合流するが、この川の別名を逆川という。合流地点から川を一六〇〇mほど北上した、春日部市浜川戸の春日部八幡神社に隣接する公園から大規模な製鉄遺跡が出ている。
これは余談だが、東京浅草の隅田川沿いに語り継がれる三囲神社、言問橋、梅若塚などの伝説は、実は、春日部の古隅田川沿いが発祥地、という説があり、春日部にも全く同じ橋名や神社、伝説が存在する。そういえば、浜川戸という地名も、浅草の花川戸とよく似ている。
柳田の「諸國の片葉の蘆」によると、浅草花川戸の達磨ヶ池に、片葉の蘆があったという。この池も既にないので、どの辺りにあったものか不明ではあるが、浅草という地名、浅草観音にまつわる土師氏の伝承、待乳山聖天の存在、今戸焼の招き猫伝承などから、浅草寺一帯で鉄づくりが行われていた可能性は大である。
もう一つは、行田市埼玉(さきたま)字下埼玉にかつてあったという、尾崎沼とも、小埼沼、小崎沼とも表記される沼である。
この沼は、すでに、消滅してはいるものの、≪古来より、この土地の一木一草を移動することを許さず≫という戒律が守られてきたためか、広大な田畑のなかに、沼があったとされる一角だけ、ポツリと、小さな森が残っている。
《昔、この村に平和な暮らしをしていた百姓夫婦がいた。妻の名は「おさき」といい、片目ではあったが、心ばえもよく村のほめ者だった。ある日子供を田の畦に寝かせて畑仕事に励んでいるうちに、どこからともなく現れたワシのために子供をさらわれてしまった。ところが、ふと池のほとりに立つとかわいい子の姿があるではないか。「おさき」はこれをワシにさらわれた樹上の姿とも知らず、その影を追って入水して果てしまった。この「おさき」の一念から池の中の葦はすべて片葉であるという。》(『埼玉県伝説集成』)
この話では、すでにオサキは片目(彼女は、この沼の芦の葉で、目を傷つけたともいう。)であるが、≪埼玉の小崎の沼に棲む魚はみな片目であるという。一説には、魚だけではなく、イナゴも蛙もみな片目だ≫(同書)という伝承もある。
この辺りから、製鉄遺跡が出たという報告はないが、ここから北西に二〇〇〇mほどのところ、いわゆる金錯名鉄剣が出土した、埼玉古墳群の稲荷山古墳がある。
この鉄剣ばかりが有名だが、これ以外に、礫槨には、副葬品として、大小の鉄斧(てっぷ)、鉄鉗(かなはし)、鑷子(せっし)、鉇(やりがんな)といった工具も置かれていた。
「さきたま史跡の博物館」の学芸員によれば、県内の他の古墳から鍛冶用具の鉄鉗が出たという事例は聞いたことがないという。鉄鉗の存在は、おそらく、被葬者が鍛冶集団を統率していたことを裏付けるものではないか、ということであった。
『ワカタケル大王とその時代――埼玉稲荷山古墳』(山川出版社)も、≪鉗(かなはし)は鍛冶具の可能性が高いもので鍛冶集団を掌握していることを示唆している。この五世紀後半代には東国でも群馬県三ツ寺I遺跡のように地域首長の居館内で鍛冶生産が行われていたことがうかがわれる。≫と述べ、稲荷山古墳被葬者の居館でも、鉄器の生産が行われていたのではないかと推測しているようだ。
沼から、南南東へ一四〇〇mほどのところ、鴻巣市赤城に赤城神社があることも、鍛冶の存在を裏付ける根拠となるかもしれない。
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