スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

涙ばかり貴きは無しとかや。されど欠びしたる時にも出づるものなり。

観想記

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正月は大嫌い

 先日、といっても、一か月ほど前のことだが、NHKテレビ「ブラタモリ」で、岩手の中尊寺を採り上げていた。

 中尊寺金色堂を拝観した後、タモリ一行は、中尊寺の南東、北上川沿いにある柳之御所遺跡という、奥州藤原氏の政治拠点であった場所に移動し、汚物廃棄の穴を見学する。

 そのとき、タモリは、近江友里恵アナウンサーに、一生懸命、平安期の大便後の処理について説明していた。

 曰く、昔、紙は貴重品であったから、籌木(チュウギとかチュウボク)と呼ばれる、木の箆で、肛門についたクソをこそぎ落としたのだ、と。

 ついでに、こんなことをいっていたのが、わたしの記憶にあざやかに残った。

 「ボクは、若いころ、拭いても全く紙に付かないウンコをしたことがあるんだ。」

 それは、いかにも、凄いだろう、あんたそういうのしたことある?といった自慢自慢な雰囲気であった。

 わたしをして言わしむれば、タモリよ、それはちゃんちゃらおかしい。わたしなんぞは、今だって、そういうウンコをしているよ、しかも、毎日のように。さらに、さらに、わたしのは無臭だ。嘘だと思うなら、嗅ぎに来なさい、いくらでも嗅がせてやるから。紙代は節約できるし、清潔感にあふれた感じがするのがたまらなく清々しい。まさに極上の一品さ。でもね、無臭だからといって、無味とは限らないから要注意だ。もちろん、いまだ試食はしていない。

 むしろ、小便の方が臭いくらいだ。コーヒーの後なんか、すごく臭うよね。もう一度飲めそうなくらいコーヒー臭がする。色はちと違うけど。

 しかし、残念なことに、この正月で記録は途切れた。少なくとも、一か月近くに亘って、わたしは、そのようなウンコを排出し続けたのに。吉田沙保里がオリンピック四連覇を達成できなかったほどに悔しく、残念だ。でも、伊調馨は達成した。伊調選手のイチョウは、おそらく公孫樹と関係があるんだろう。伊調氏は鴨氏後裔なんだろう。わたしはといえば、たぶん、酒とお雑煮の食べ過ぎで、胃腸を壊したにちがいない。

 だから、正月は大嫌いなんだ。


   元日や 餅で押し出す 去年糞    伊昔紅

こころ旅 その5

 正平さんは鹿児島県に入ったようだが、今回は、そんなことはどうでもよいのである。

 鹿児島のどこか、休憩中に、こんな話題が取り上げられていた。

 なにかの調べで、小便をした後、女性の多くが手を洗っているにもかかわらず、手を洗わない男性は七〇%ほどいるというのだ。

 これについて、正平氏はこうおっしゃっておりました。

 女性は紙を使うから、洗うのだろうが、男性の場合、オチンチンをつまんでするだけだから、洗う必要はない。もし洗うということであれば、それはオチンチンが汚れているからで、そんな汚いチンチンを、わたし、日野正平は持っていない、いつもきれいにしている。したがって、もし手を洗うのであれば、小便をする前に洗うべきであって(つまり、チンチンが汚れないように)、小便をした後に、手を洗うなんてことはない、と。

 昔、会社で、ボーリング大会をやったときのことを思い出したね。小便に行こうとしたら、上司も付いてきて、トイレに入ると、かれは手を洗ってから、小便をしていた。やはり、「ちんちんが汚れちゃうからね。」といっていた。

 お二人のおっしゃること、わからんではない。たぶん、女性のことを考えての発言と推測する。

 それに、かつて、飲尿健康法なんていうのがあったように(今もあるんかな)、尿というのは、ぎゅいんぎゅいんに、濾過されて出てくるので、なにか変な病原菌でも持っていない限り、無菌状態なんだというから、手に付着してもなんてことはないのだ。

 わたしも、腕やらメガネやらを、小便で洗ったことがあるけど、後刻、水で洗い流しただけだった。だからって、悪い病気を発症したという覚えはない。

 したがって、わたしも、また、小便をした後、手を洗うということはない。但し、うんこのときは、薬用泡ハンドソープで、一生懸命洗います。

 でも、他人が手を洗わないというのは気になるんだよな。

 レジなんかがそう。

 男のレジだと、わたしは購入した商品の一部は、水で流して、洗うことがある。どうひいき目に見ても、人のチンチンはきれいには思えないからね。

 わたしは、握手を求められるなんてことは全くないからいいけど、正平氏は良く女性から求められている。握手する女性は、間接的に、正平さんのオチンチンを握りしめているんだ、ということを忘れてはいけない。

 そういえば、正平氏は女性と握手した後に、「これで俺の子を孕んだ。」なんていったりするけど、なるほど、そういうことだったわけか。

こころ旅 その4


 正平さんは熊本に入った。

 冒頭、この日の手紙を読み始める。

 目的地は、山鹿市の「蒲生(かもう)の池」、別名を「湯ノ口のため池」というと聞き、わたしは久しぶりに勃起した。

 ガマ、カマ(鎌・窯・釜)というのは鉄と関係のある語である。

 『古事記』に、≪天津日子根命は(略)蒲生稲寸、三枝部造等が祖なり。≫とあって、アマツヒコネとは、天目一箇命の親というのが通説になっている。蒲生稲寸の根拠地は、近江の蒲生郡(竜王町・近江八幡市一帯で鉄との関連が深い)といわれ、その後裔に当たるのが、近江富士とも呼ばれる三上山のムカデ退治の主人公、藤原秀郷(近江蒲生氏の祖)だという。三上山にある式内御上神社の祭神、天之御影命は天目一箇の別名であるとされ、蒲生と鉄との磁力は極めて強い。

 そして、「湯」というのは、金属が溶けた状態をいう語であるから、これは優れて強烈に鉄なのだ。

 しかも、山鹿と、鹿の字がつく。いや、山鹿ばかりではない、市内には、菊鹿、鹿本(山鹿郡と山本郡とが合併して成立した)という地名もある。

 『日本書紀』「神代上」に

 ≪即ち石凝姥(いしこりどめ)を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛(ひほこ)を作らしむ。又、真名鹿(まなか)の皮を全剥(うつはぎには)ぎて、天羽鞴(あまのはぶき)に作る。≫ 

 つまり、鹿の皮でフイゴ(天羽鞴)を作った。

 『播磨国風土記』「讃容郡(さよのこおり)」には、

 ≪鹿を放ちし山を鹿庭山(かにはやま)と名づく。山の四面に十二の谷あり。皆鐵(まがね)を生(いだ)す。難波の豊前の朝庭(みかど)に始めてたてまつりき。見顕しし人は別部(わけべ)の犬、其の孫等奉り初めき。≫

とあり、鉄と鹿との関係が暗示され、山鹿市域は強烈な磁力を発している。


 正平氏一行は、手紙の主が良く行くお好み焼き屋で昼飯を済ませると、手紙に添えられた地図に記載されている不動岩を見つつ、目的地へ向かう。

 不動岩には、こんな伝説がある。

 ≪肥後の鹿本郡三玉村(現山鹿市蒲生)に、不動尊が鎮座されて御座るが、其西の方、数里のところに、一つの山がある。そして、其又西の方、数里距れた鶴村に、権現様が鎮座されて御座る。
 昔々大昔、不動様と権現様と力競べの首引きをされた。権現様は不断に大豆を食べてゐられるから、小豆ばかり食ってゐられる不動様よりも、力が強いのは、知れたこと、憐れなるかな、不動様の首は引き抜かれて、ご鎮座の場所から西の方、数町のところに落ちた。この首引きのために、不動様と権現様の中間にあつた山に、二条の綱で摺られた跡がついて、それが今にも残つてゐる。山の名をエルギ嶽と申すのは、中央にゐて揺られたからだ。
 丁度その折、不動様の居られる所から西の方、数町距れた堤の上に、八幡様が居られた。権現様と不動様の首引きで、天も地も騒がしく成つたので、何事が起つたのかと、吃驚してノコノコ出られると、首引きの綱に顔を打つけて、片々(方)の眼が潰れた。片眼に成られたのだから、今でも一つ目八幡様と云つてゐる。
 不動様の首は、今でも其まゝに転がつてゐる。土地の者が首石と云つてゐるのが、それである。不動様が負かされたのは、小豆を食つて居られたからだ、と云ふので、其辺では今に土の色が赤い。≫(高木敏雄 『日本伝説集』ちくま文庫)

 地図を調べると、確かに、不動岩北西一五〇〇mほどのところ、同市久原字薄野(うすの)に一目神社があり、その東四〇〇mに首石岩がある。しかし、一目神社の祭神は天目一箇命であって、八幡神は合祀されてはいない。そこで八幡様はないかと地図上を探索すると、不動岩の南南西八〇〇m、蒲生と久原との境界付近に、生目神社を発見した。

 生目神社とは、おそらく、宮崎市にある生目八幡のことではなかろうか。

 主君の仇、頼朝をねらっていた平(藤原)景清は、逆に、捕らえられてしまうが、頼朝がその志を哀れんで助命してやると、その恩を感じ、目が見えていては、いつ仇を復する心が生ずるとも限らないからと、両眼を抉り出してしまう。その眼が飛んで行って落ちたのが生目八幡宮だとされ、景清は眼病の神として祀られている。景清は秀郷の子孫にあたり、その娘は人丸(一丸、つまり一眼)姫と称したという。

 同じ熊本の球磨郡あさぎり町に景清の娘の墓があることはすでに書いた。

 これが伝説にある八幡様のことか、そのあたりのことは不明であるが、景清の眼球が飛んでいったように、不動様の首も飛んで行ったわけで、金属伝承はこのような事象に事欠かない。温羅、平将門、酒呑童子、眉間尺と、みな一様に首が飛ぶのである。

 ところで、不動岩は、横から見ると、ぐわらりとその様相を変え、数本の風化浸食を受けた集塊岩の塔であることを気づかせる。群馬の妙義山、日暮しの景と、岩質共に、よく似た光景である。そういえば、妙義にも中小坂鉱山があり、鉄鉱石を産出した。

 その岩峰は、当然、頭つんつるてんで目が一つという、男根を想起させてやまなかった。

 最後に、蛇足を。

 伝説中にある鶴村の鶴は鉱脈を指す鉉(つる)のことであり、首石近辺の土が赤いのは鉄分のためであり、薄野のウスは鉄鉱石などを砕くための石臼のことかもしれない。

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こころ旅 その3

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 この日の『にっぽん縦断 こころ旅』「土日とうちゃこ版」は、福岡県北九州市八幡西区にある「曲里の松並木」を目指す旅であった。

 当然、曲里(まがり)という地名が気になり、≪「吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり。」≫というヤマトタケルの最後の言葉が思い浮かんだ。

 「曲」という字には、どうも良いイメージに欠けるところがある。曲者(くせもの)・曲々(まがまが)しい・へそ曲がり・歪曲・曲学阿世…etcと枚挙にいとまがない。

 そういう字を地名に宛てるところに、なにかしらイワクを覚える。しかも、曲りの里と書いて、マガリである。『日本霊異記』の「片輪の里」を想起せざるを得ない。

 曲・勾が、山言葉で、猫を忌んでいう語であることはすでに書いた。

 山では、ネコとはいわずに、マガリと呼ぶ、ということは、マガリ=ネコということである。つまり、ネコ(採鉱民)に、職業病である「猫手(ちょっけ)」――ゆがみ曲がった腕、あるいは、指が曲がって不具になった手――が多かったため、これを単刀直入にマガリとも称したのではあるまいか。つまり、マガリ=猫手ということであり、曲里=職業病を患った採鉱民のコロニーだったのではなかろうか。

 そのような偏見というか憶測をもって、曲里一帯の地名を見てみる。

 まず、曲里の西に穴生(あのお)がある。穴太衆(あのうしゅう)といえば、近江の坂本を根拠とする石工集団である。先日の熊本地震で崩れた熊本城の石垣は穴太衆が築いた。穴と石工となれば、当然鉱山が連想されるが、この穴は、古代朝鮮半島南部にあった阿那、あるいは安羅と呼ばれた国のことだという。

 『日本書紀』垂仁天皇三年の記事に、≪天日槍、菟道河(うぢがは)より泝(さかのぼ)りて、北(きたのかた)近江国吾名邑(あなむら)に入りて暫く住む。≫とあり、≪近江国吾名邑≫とは、滋賀県蒲生郡竜王町綾戸の苗村(なむら)神社付近だという。また草津市穴村には安羅神社があって、天日槍を祀っており、周辺には他に二社安羅神社があると、金達寿はいい、穴太衆の穴も安羅のことではないかと述べている。(『地名の古代史』)

 垂仁帝と金属精錬との関係が深いことは谷川健一が説いたが、
『古事記』には、垂仁天皇の子、≪伊許婆夜和気(いこばやわけ)王は沙本(さほ)の穴太部の別の祖なり。≫とある。

 物部の根拠地、河内の八尾市宮町には穴太神社があり、境内の「穴太神社畧記」にはこうある。

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                          穴太神社 八尾市宮町

  一、御祭神 天照皇大神 春日四座大神 住吉四座大神の九柱大神
  一、由緒 抑々穴太の地は間人穴太部皇后(聖徳太子の御母君)の御生地に     して由来穴太部落の氏神として由緒特に深く明治以前までは宮座八戸を有     し近郷稀なる古社である。(以下略)

 「畧記」によれば、宮町一帯はかつて穴太と称したようで、聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の生誕地だというのだ。

 物部守屋と穴穂部皇子といい、物部と穴太部とは繋がりがあるのだろうか。

 また、京都府亀岡市曽我部町穴太東辻に穴太寺があり、穴太部の菩提寺だったという。近くに、大谷鉱山があり、これと関係があると、小田治は述べている。(『地名を掘る』)

 穴生はこれくらいにして、その南に鷹の巣があるのも穴生と金属との関係を示しているように思われてならない。その南の鉄王、鉄竜という地名は旧新日鉄による命名だという。しかし、この名は侮れない。なぜなら、その東隣に別所があるからで、これは案外決定的かもしれない。別所と曲里との間に幸神(さいのかみ)があり、道祖神が祀られている。曲里町に接して、幸神に田良原(たらばる)池があるが、これはもしかしてタタラ原ではなかろうか。

 こう見てくると、曲里=職業病を患った採鉱民のコロニー説はそう突飛なものとは思われないのだが、どんなものだろう。

こころ旅 その2

 先日の『にっぽん縦断 こころ旅』「土日とうちゃこ版」は、福岡県京都郡みやこ町の平成筑豊鉄道田川線崎山駅付近の今川に架かる、地図に載っていない簡素な橋を訪ねる旅であった。

 自転車の旅は東犀川三四郎駅(どうやら漱石の『三四郎』にあやかっているらしい。)からスタートした。この辺りの地名には、犀川木山・犀川続命院・犀川久富などと、犀川が接頭語のようにくっ付いている。

 それは、二〇〇六年三月、豊津町・勝山町・犀川町が合併してみやこ町が成立したからで、つまり、このあたり一帯は旧犀川町だったということになろうか。

 といっても、みやこ町には、今川はあれど、犀川という川は流れていない。調べてみると、実は、今川の旧名が犀川なのだという。

 ≪犀川という地名は中心部を流れる今川の旧称から来たと伝えられており、角川書店発行の福岡県地名大辞典によると「地名は今川の旧称に由来する。(正保国絵図、元禄国絵図)今川中流域の諸集落には、塞の神信仰に関係する小地域が多いが、集落の境が今川の流れで、その渡し場あたりに塞神の信仰を祀っていたことからサイ(塞)川と呼ばれはじめたのであろう」と記されています。≫(みやこ町公式Web)

 わたしは、町が記しているように、塞川だとは考えない。

 犀川といえば、長野県を流れる犀川を思い起こす。

 ≪信濃ノ犀川ニハ犀ト云フ獣住ム。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ゴフクジ)ノ古傳ニハ、此辺古クハ水湛ヘテ大ナル湖ナリシニ、神人犀ニ乗リテ下降シ、巌石ヲ切開キテ今ノ流ト為シタリト云ヒ、或ハ又泉小太郎犀ニ乗リテ三清路(サンセイジ)ノ岩ヲ突破リ、又水内橋(ミノチバシ)ノ下ノ岩ヲモ蹴破リテ水ヲ千曲川ニ落シテ平地ヲ造ル。其犀ヲバ犀口ト云フ処ニ祀ルトモ語リ傳ヘタリ≫(柳田國男 『 山島民譚集(一)』)

 いわゆる蹴裂伝説である。この伝説は金属器と関係がある。したがって、犀川のサイはサヒが訛ったものと考えられる。サヒとは、古代、鉄や砂鉄を意味した。

 窪田蔵郎の『鉄から読む日本の歴史』(講談社学術文庫)にはこう書かれている。

 ≪長唄の「式三番叟」のなかにも「おうーサヒや、おうサヒや、こうのところにありや、このところにありや、ほかにはやらじと、おんなおりそうらえ、おんまいりそうろう」という部分があり、どういう経過で長唄などに引用されたものかは不明であるが、砂鉄発見の喜びをうたっている≫

 この日正平さんが訪れたのも犀川崎山=裂山であった。

 もう一つ思い出すのは、詩人の室生犀星で、犀星の犀は石川県を流れる犀川からとったものだという。この犀川は砂金で有名である。犀川が日本海にそそぐ河口付近に、佐奇(サキ=裂)神社があるのは偶然だとは思えない。

 犀川のサイがサヒ、つまり砂鉄のこととすると、もしかすると、今川とは、芋川の転で、つまり鋳物川のことではあるまいか。

 その理由をいくつか述べると、一つは、今川の水源が修験道の山、英彦山(ひこさん)であること。次に、今川に沿って高木神社が何社かあるが、祭神は天地熔造の神、高皇産霊尊であること。(これはこの辺り一帯、つまり豊前国に渡来人が多かったこととも関係する。)三つ目は、今川河口付近の地名に金屋があること、などがあげられる。

 正平氏の旅は、わたしにとって、地名の旅なのである。

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