考え中

基本的に日記、生活の中の思いつきなど

現実⇔幻想

[ リスト ]

イメージ 1

名門・早稲田大学探検部の一大プロジェクト。その名も「モケーレ・ムベンベを追え!」

モケーレ・ムベンベとは、アフリカはコンゴ共和国のジャングル奥地にある幻想的な湖、テレ湖という湖に生息されると言われる恐竜の生き残り、未確認生物UMAで、その手の動物の中ではネッシーに追随する抜群の知名度を誇る。
数々の目撃談が飛び交い、また周辺の森にはピグミー族の住処跡や、貴重なゴリラの一種ローランドゴリラなどが生き延び、古代生物モケーレ・ムベンベの生存にも信憑性が募る。その姿形はかのブロントザウルスを彷彿とさせるという。
このモケーレ・ムベンベを発見すべく、チームリーダー高野秀行率いる早稲田大学探検部が、数年越しの執念の準備の果て、ついにジャングル奥地のテレ湖へ潜入、命をかけた40日間の密林サバイバルが展開される。

「モケーレ・ムベンベを追え」とは、この探検の後に高野秀行がつづったノンフィクション本のタイトルで、「幻獣ムベンベを追え」に改題されて文庫化もされているようだ。とにかくこれ、最高に面白い探検記録となっている。

前置きが長くなったが、この本のことを思い出したのはやはり、引き続きリアル・ファンタジーのことを考えていたからで。

この探検では、当時最新の機器を携えて、科学的な調査を一ヶ月に渡り敢行している。例えば湖をソナー探査機で隈なく調査するばかりでなく、絶えず見張りの人間を二箇所に配置し、湖全体を24時間、一ヶ月体制で監視するなど、その発見への意欲と執念は凄まじいのひと言。こうした科学的、リアリズムに徹した方法で、モケーレ・ムベンベというおよそ考え付く限りで最高度の幻想を追いかける。これほどリアル・ファンタジーが高密度に結実した記録があるだろうか。いわゆるバカ本のジャンルに置いてもトップクラスの出来栄えであり、ぼくは何度も再読したのだが、その度に底知れぬ勇気を与えられるのだ。またバカ本である以前に、写実的で硬派な味わいが感じられる文章そのものも非常にしっかりしていて、冒険の醍醐味を余すところなく伝えてくれる一級品のノンフィクションとなっている。
ともかくその執念たるや……、東京での準備期間、現地の言葉を習得するために東京中を歩き回って東京在住の現地人を探し回ったり、いざテレ湖に着いたらメンバーの一人がマラリア感染して死の際を彷徨ったり、現地部族との理不尽な折衝を余儀なくされたり、ともかく幾つもの波乱を乗り越えていく圧倒的な現実があって、その最果てに「モケーレ・ムベンベ」という、これはもう何のことなのか誰にも分からない響きの幻、巨大な「?」があるのだ。

何気ない日常生活の中でもリアル・ファンタジーは錯綜しているのだろうが、結局のところ、この二本の螺旋構造をどこまでもどこまでも高く高くしていくのは、その人のファンタジーを求める強度にかかっているのではないか、と思われてならない。こういうと元も子もないような気になってしまうが。
例えば今、小説やその他の表現ジャンルで、これといって時代を代表する大型新人が台頭しないのならば、それはなぜか。新人の出現というのは、つまりその時代の感性を背負った代弁者が出てくるということだけど、それがなかなか大きな存在感を持って出て来れない状況というのは、そもそも世界に伏在したファンタジーを引き出すこと自体が難しくなっているんじゃないだろうか。

ちょっと当てずっぽうというか、自分なりの予感で言うのだけど、現代はもう、表現者・受け手の境界が曖昧になるほど、ファンタジーが氾濫・浸透しているんではないだろうか。以前はもっと、表現者がファンタジーを発見して作品化して送り出し、受け手がそれを受け取る、という上手から下手への流れが明確にあったと思うんだけど、あらゆる表現ジャンルが製作上でも消費上でも身近になって、このブログにしてもそうだけど、一億総表現者みたいなことになってくると、ファンタジーそのものが拡散してしまっているのではないか。メディア機器の発達と、ファンタジーの氾濫は、歩みを共にしてきたのか、いやそうではなくて、まず先にファンタジーの氾濫があって、その膨らんだ集合意識というのか、氾濫を治水するように、PC、ネット、デジカメ、ワープロ、イラストレーター、フォトショップ、MIDIなどなどのメディア機器が生み出されたのか。いずれにせよ、この事態を悪いと言ってるわけではなくて。ファンタジーというのがもう、追いかけたり夢見たりするようなものではなくて、ごく普通に日常を理解する際のフィルターとなっているような気がする。かなり濃密に、日常生活を浸しているようなイメージがある。表現者も消費者も、もうほとんど同じになってる。黒と白じゃなくて、中間色の灰色に均一化されているから、そのグラデーションの微差が問題化される。ちょっと話が横っ飛びするけど、PTSDに見舞われた精神病患者というのは、この日常を包んでいるファンタジーが剥ぎ取られて、生の現実界が剥き出しで見えてしまうということではなかったか。またその反動として「離人症」というのは、剥き出しの現実を遮断する防御反応ではなかったか。さる精神科の先生によれば、普段、我々の生活する空間には、液体のようなものが流れていて現実をうまい具合に隠蔽しているという。ところがある種の患者には、その液体みたいなものが感じられず、本来そこには何も存在しない空気の部分に、生の現実界を感知するのだが、生の現実界というのは本来、理解される以前の禍々しい狂気の世界であって、だからそれが見えてしまうというのは大変恐ろしいことなんだと。PTSDと離人症というのも、リアル・ファンタジーの裏表なんだと思う。表現というのはだから、絶えず心理学の要素を含んでいるだろう。
なんだか話がどんどんずれるけど、松浦寿輝がさる座談会でこんなことを言っている。

「言葉というのは人間個体にとって決定的な他者なんです。他方、イメージというのは基本的にナルシズムの空間に属しています。ラカンの精神分析用語で言うと、イマジネール、つまり想像界というのは母性的なナルシズムの次元のことであり、私がただそのままの私として限りなく肯定してもらえる空間でもあるわけです。小説でも、映画でも、漫画でも、何でもいいんですが、イメージでできている作品は人々の心を慰めてくれる。(中略)本来、言葉というものは、父性的なロゴスであって、ラカンの用語で言うとサンボリック、つまり象徴秩序に属する装置なんですね。それは母子融合のナルシズムを断ち切る装置です。」

で、当然のごとく松浦氏は、後者の作品、つまりナルシズムを断ち切る作品を推奨するわけなんだけど、これももう、声高に叫ぶまでもなく、なんだか趣味志向の問題になってしまってるのではないか、と思えるほど、一般化されているような。通俗・非通俗という二元論も起点はここにあるんだろうけど、今の表現者・消費者は、そういうことももう踏まえた上で自分の好きな方をやってるんじゃないか、という気がする。明確に線を引いて、という意識自体がもう、もしかしたら古いのかもしれない。ともかく考えても考えても、それこそ螺旋的に抜けだせない問題だ。

だいぶ収集のつかない話になってしまったが、そこはなにぶん「モケーレ・ムベンベ」という巨大な謎を枕に振ってしまったのだから仕方ないか。。


.
sun*o3*59
sun*o3*59
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事