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保坂の『カンバセイション・ピース』は、日本人が日本語で書いた小説だという事実をまず、疑いたくなる小説である。
ところで『文体』。
『文体』とは作家の脳の中で響く『声』であると僕は思う。口に出す以前に脳に響く『声』である。それはまず、リズムやテンポを伴った音楽性を『聴覚』的に捉えることができる。また『声』であるならば、そこには『指紋』ならぬ『声紋』があるだろう。『声紋』とは『声』を周波数分析装置で複雑な縞模様に図示したものだが、犯罪捜査で利用されているのは周知の通りである。作家の『文体』とは、そのようなものである。さらに『文体』とは、『視覚』でもあるだろう。世界を見るアングル、フレームと言った視覚要素がその中に含まれている。と同時に『文体』は、読者の側からすれば、『触れられる』ものである、とも思う。体温を感じ、質感を楽しむ『手触り』としか言いようのない、『触覚』的に感知しえるもの。あるいはもっと官能的に舌触りや『味覚』に置き換えることも可能だろうか。と、やや強引に『臭覚』を除いた四感に『文体』を喩えてみたものの、でもそれほど強引な比喩だろうか。強引でないとして続けると、感覚に置き換えられる『文体』とはつまるところ、作家が世界を知覚する固有の『癖』のことではないか。保坂和志は保坂和志である、と同語反復的にしか指し示すことのできない固有名詞的な『癖』ではないか。(大塚英二にこういうことが分かるだろうか)
ところで『感情移入』。
映画でも演劇でも小説でも何でも良いがこれは文学ブログなので小説に限定して、読者が作中の登場人物に感情移入して読む場合、それは本当に『登場人物』への感情移入だろうか。そうかもしれない。が、もう少し考えてみる。例えばドストエフスキーの『罪と罰』を読了した後、個人差があるにせよ数時間〜数週間に渡り、ラスコーリニコフの気分で過ごす読者がいるとして、それは果たして、ラスコーリニコフに感情移入して読んだから、だろうか。そうではなくて、もしかしたら、地の文も含めた『罪と罰』という一冊の小説全体へ移入していたとは考えられないだろうか。つまり、『文体』という、ドストエフスキーに固有の感覚器の癖へ読者の感覚器がシンクロし、そこから抜け出せなくなってしまった、ということではないだろうか。平たく言えば、ラスコーリニコフの視点ではなく、ドストエフスキーの視点で世界を見るようになる、ということ。ぼくはそういう考え方の方がしっくりくる。そしてそこに、小説の小説性があり、人によっては数時間どころから、一生に渡ってドストの厄介な感覚癖を引き摺って生きていくのではないかと思う。ところでぼくがこれまで目にしてきた『小説の定義』の中で最も多かったのが、『小説とは、読む前と読む後で読者が変化する』というもので、その別な言い方として、『表面的には暗い物語でも、良い小説なら読了後に必ず元気になる』というものもあった。
そして『カンバセイション・ピース』
この途方もない小説には、極めて固有の『紋』が刻まれている。あらゆる小説を読み、あらゆるリアリティに倦んでいる人でさえ、『カンバセイション・ピース』の『文体=感覚器』を通せば、未知なる世界を知覚すること請合い、そういう一作であり、つまりこれは『新しい言葉』で書かれたもので、似ているけど『日本語』とは全く別物の言葉で書かれた小説である。ぼくはこの小説の面白さをどう言っても伝えられないような気がする。この小説には、書かれる現場で閃いた思考の乱反射が激しく飛び交っていて、その煌きは読む現場の中でしか見えないからだ。賭けてもいいが、保坂はこの小説を、同じようには二度書けないし、書きあがった原稿を自分で読み返してさえ、その時にどういう思考回路でそれを書いていたか復元できないだろう。だから保坂ですらない読者がこれを読む時の労力とスリルは計り知れない。
『ユーモア』と『アイロニー』、『科学』と『超常現象』
保坂の理屈家ぶりは、ほとんど病気か狂気に近い。『狂気』という表現だと非常に安っぽいし、『病気』というと心理学的なニュアンスが匂って困るので、『ビョーキ』的とでも言っておこうか。あるいは単に『変人』と言ったほうがスッキリするかもしれない。ともかく理屈家ということは通常、論理的な思考が身についた人、ということで、保坂に関しても概ねその通りなのだが、彼の作品には必ず科学と超常現象がセットで出てくる。保坂は科学へも、超常現象へも、『ビョーキ』的な知的好奇心を持ち続ける変人作家だ。科学とは世界の成り立ちを経験・観察に基づいて合理的に証明立てるものだが、世界の中で科学が証明できる範囲は限られているから一概に超常現象を否認することも論理的におかしい、という有り勝ちな位置とも違った独特の視点から、保坂はこの対照的な二つを見ている。
ところで保坂の文章は、論理的な割りに脱線が多い。脱線というのか、横滑りというのか。読んでいると、保坂の関心がどんどん連想ゲームのように横滑りしていって、収集がつかなくなるのだが、本人はそんなことにお構いなしのようだ。これはつまり、書かれる現場での思考のダイナミズムを全面に出そうとしているからで、好い加減とか適当というのでは全然なく、むしろ現場性に命をかけているような圧倒的な凄みがある。
ところで、『ユーモア』と『アイロニー』という概念がある。理屈家には得てして、アイロニー(皮肉)の人が多いものである。アイロニーとは何かと言えば、あるものに論理的な欠陥があるのを指摘すること、あるいは、あるものが全体でなく一部であることを指摘すること、ではないかと僕と考える。どういうことかと言うと、例えばある論文があるとして、その論文が論理的に誤っていることを指摘するか、あるいは、その論文が論文内において論理的に正しくても、その論文が世界の一部分しか対象にしていないから、論文外の世界全体に通用する論文ではない、と指摘することだ。しかしアイロニーのつまらなさは、アイロニーは絶対に無敵だということだ。世界全体を全体として丸ごと論文の中に収めることはできないから、アイロニカルな視点で見れば、どんな論文でも、絶対にケチをつけられる。では、『ユーモア』の人とはどんな人なのか? ユーモアとは、仮に立てた問いたてに対して、とりあえず、最後までずーっとどうなっていくのか見ていく人であり、彼らはただ見るだけでなく、身体を使って演じもする。そうして、とりあえず出発した仮の問い立てから、気がついてみたら何やらとんでもないとこに来てしまったなぁ、などと呟いて、頭をポリポリ掻いているような人のことであり、「バカなやつだなぁ」なんて人から言われたりもする。ユーモアはもともとが何かを証明するためのものではないから、横滑りを繰り返した挙句、もっともらしい解答になど辿り着かない。アイロニーのつまらなさに対して、ユーモアの豊かさ、おおらかさ、滑稽さは、人の気持ちを明るく元気にさせる。もちろん人は、誰もがアイロニーの人であり、ユーモアの人である。どちらか純粋に一方だけということはあり得ない。バランスの問題なのだが、だがそういう意味で、人はアイロニーの人かユーモアの人か、どっちかの人である。で、保坂は稀代のユーモアの人である、と僕は言ってみたかったのだ。ユーモアの人であるということの中に、保坂の横滑りする作風も、書かれる現場での思考を尊重するという志向性も、思考するということが本来持つはずの明るさや元気や過剰さも、全部入っているはずだ。保坂はつまり、理屈家ではあっても皮肉屋では全くない。そしてこんな変人が、そもそも何かを証明できるはずなんてないんだ。証明しない代わりに、思考の乱反射の輝きがそのままリアリティの煌きになっていて、生真面目な解答の代わりにリアリティが踊っている。
よく、一般常識とズレたところで奇妙な理屈を展開するんだけど、よくよく耳を傾けてみると妙に説得力のあることを言っていて思わず笑っちゃうというか、話に引き込まれちゃうような話し手がいるけれど、保坂和志というのはそういう人種の中の最大の親玉で、またそんな保坂作品の中でもそういう特性が最大級に発揮されたのが『カンバセイション・ピース』である、と言えば少しはこの小説の面白味を言えたことになるのだろうか。
ここからは蛇足であるが、『カンバセイション・ピース』に出てくる主人公の姿が、まるで保坂の師匠・小島信夫の存在に近づいてきているという気がしてならないのと、恐らくそのせいでもあるだろうが、いよいよ保坂が円熟味・貫禄を増し、ちょっと怖いくらい達観してきたように見えるなぁ、と思った。
また、これこそ本当に蛇足で、保坂自身はそういう読みを最も嫌うだろうが、この小説全体が、亡くなってしまった飼い猫・チャーちゃんの、その死をどう受け止めるかという、壮大で血の滲むような思考の集積であったように思えてならない。
なんていろいろ書いてみても、この小説の面白さの1/10も言えてない。
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