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酔っているし、1時近いし、もう寝ようと思ってベッドに入ったのだが、よせばいいのにTVを付けてしまったらイチローと佐々木の対談がやっていて、イチローのあまりの奇人ぶりを目の当たりにし、これだけ書いておこうと思って、ベッドから這い出てきた。 |
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いまさっき、下北でかなりの酒を飲んで帰ってきたところなのだけど、やはり自分には記憶力がもう一つ足らないと思うのは、さっきまでアルコールの中で現前していた強烈なリアリティがあって、帰ってきたらさっそく夢日記のごとくさっきまで話していた内容の印象深い箇所など記してから寝ようと思っていたのにも関わらず、現前していた説得力が薄まっていて、何を書こうとしていたのか忘れている。忘れているのは客観的な情報というより、現前していたリアリティの方で、現前性が薄まれば書かれる言葉の迫力も薄まる。人に何かを説得されるとき、多くの場合、客観的な情報の整合性なんかよりも現前している説得力(リアリティ)の方が大事で、例えばアントニオ猪木と相対して目の前で「ダー!」とやられたら、意味は全く分からないが、生きる活力や元気が湧いてくるはずだ。小説はやはり、論理性よりもそういった現前性の方が大切であって、「元気」を広義で捉えると、毅然とした現前性のことであって、書かれてある内容が表面的に暗いとか、そういうことでは全くない。暗いとかより、整合性より、なにより現前性の問題だ。現前性が再現できたら「元気」だし、つまりそれは猪木に頬を張られるような「体験」なのだ。 ぼくはさっき飲みながら、○○や○○をやらかした犯罪者についての話を聞いていた。それも、遠い誰かの話というよりも、辿れる範囲の男と言ってもさしつかえない界隈の話としてなのだが、そういう話を聞きながら、そういう話をする相手の、眉の動きや声の調子や言い回しなどを会話の内容と一緒に必死に記憶に留めようと思いながらも、いまこうして自宅に帰ってくると、夢でも見てたかのように覚束ない。肝心な枝葉が取り払われて幹しか残っていないような感じで。眉根は八の字に寄っていて、というのは覚えているのだけど。「それでね、それでね」という会話のテンポも憶えているが、なぜ○○のような犯罪が行われたのか、考えてみると、そこら辺の整合性を全く憶えていないという以前に、おそらくぼくはその飲みの席で話の整合性には無頓着で、それにも関わらず有無を言わさず説得されていて、会話とはそのようなものなのだと思う。説得力だけをただ浴びていた、と言える。
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第134回芥川賞に絲山秋子の『沖で待つ』が当選したらしい。 ぼくは絲山秋子のデビュー作『イッツ・オンリー・トーク』が大好きで(5回くらい読んだ)、その後も何作か読んできたので、今回の受賞は心底嬉しい。彼女は純文学と娯楽小説の間、いわゆる中間小説をずっと書いてきた人で、3、4回ほど芥川の候補になった後に『逃亡くそたわけ』で直木賞の候補にもなっている。もう芥川賞は無理なのかな、と思っていた矢先に見事勝ち取ったわけだ。実際には純文学的な志向性は薄いわけだけど、自分の書きたいことを書くという明確なスタンスと、小難しいことを抜きにして大衆に訴えかける洒脱で粋な芸風が幸福な形でマッチングしている稀有な作家。なんとも頼もしい。まだそれほど有名ではなかった頃に、彼女の作品を図書館で借りようとしたら15人待ちとかで、すでにあの頃から人気作家だったのかも知れない。彼女が書くのは一貫してダメ男とアネゴ肌な女の一風変わった恋愛小説で、キャラがそれぞれユニークでホント笑ってしまう。いい歳して子供っぽさを捨て切れないダメ男と、格好良くスレた粋なアネゴの掛け合い、視線が温かく、読んでいて救われる読者も多いのではないか。彼女の作品が完全に娯楽小説と言い切れず、直木賞候補から芥川賞受賞へ裏返ったのは、やはり作中人物の、とりわけアネゴの知的ゆえに孤独な佇まいというのがしっかり描かれているからだ。一見、ダメ男の生態観察をもとにして巧みに笑いを取っているようでいながら、決してダメ男を突き放しているわけではなく、知的ゆえに全て見通していながらも、自分もダメ男の不可解な魅力にどうしようもなく引き込まれてしまうという関係性まで描いていて、そこにスレた中年女の格好良さや孤独が滲み出てくる。
今後も応援したい作家だ。 |
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前回の記事で、小説家が小説を書くときの姿勢について書いてみたのだけど、小説を書くときに使う道具も気になるところだ。 今は素人のみならずプロの作家もほとんどがワープロを導入していると思うけど、一口にワープロと言ってもソフトがそれぞれ違うのだろうし、画面の大きさや書式、フォントも異なっているだろう。ぼくはワープロを使う場合マイクロソフトの『Word』で、自宅ではデスクトップ、職場やファミレスではA4サイズのノート型を使用する。しかしノート型は画面が小さくて気分が乗らないので、もうほとんど使わない。デスクトップの場合、画面も適当で使い勝手はいいのだが、それなりに欠点もある。あまりにも使い勝手が良い為に、推敲をやり始めるとキリがないこと。小説でなく普通の、例えばこのようなブログ記事を書く場合でも、推敲が幾らでもできることは決して利点とは言い難い。大抵ものを書く時、書く側はいろいろなことを考えていて、その考えの一部を活字化することになるのだけど、推敲し易いということが、一部ではなく全体を書ける気にさせてしまう。上手くいえないけれど、書き手に可能性の全てを汲み出せるような錯覚を起こさせてしまうのだ。少なくとも、可能性の全てを試してみたい気持ちになる。確か『三四郎』に出てきた小説家が冗談で、『私の小説のインスピレーションは〆切から湧いてきます』と発言して笑いを取る場面があったはずだけど、〆切がなければ小説家が作品を仕上げられないように、小説は幾つもの条件に囲まれた中で書かれた方が、ずっと仕上げやすいのだと思う。ワープロの場合、時間としての〆切は関係ないが、推敲はここまで、という限度を感じさせない為に、なかなか潔く完成させることができない。またそうした可能性の無限性が、仮初の文字を量産し、言葉から重みを消してしまうこともあるだろう。こういうことはワープロの弊害としてよく言われていることかも知れないが、それにもう一つ付け加えるとすれば、ぼくだけの印象かもしれないが、ワープロは必要以上に視界が広いということ。ぼくの『Word』の書式だと、画面の中に約1200字収まる。400字詰原稿用紙3枚分が一目で展望できてしまう。無論、書式設定を原稿用紙に変えればいいのだが、1文字のフォントが大きすぎるとどこか間抜けで、崇高な気分が萎える。で、いろいろ試した挙句にやはり1200字収まる書式設定にしたのだが、ただでさえ視野に収まる文字数が多いのに、スクロールして前後のページに行き戻りするのも簡単だから、常に「いま取り組んでいる一文」から気分が逸れて、全体を気にしてしまう。小説の言葉というのは前の一文から次の一文が導き出されるものなので、あんまり大きな視野を持ってしまうのは、視力10のアフリカ人が東京で生活するのと似た不便さがあるかもしれない。 とは言いつつワープロはやはり便利な道具ではあるし、要は欠点を踏まえて使いこなせればいいだけの話で、たぶん、論文などを書くにはむしろ合っているのではないかとも思う。 最近、B4サイズの400字詰原稿用紙と、三菱の鉛筆(B)をたくさん買ってきて手書きを試しているのだが、原稿用紙はすごく面白い。いまさら面倒なのではないかと不安に思っていたのだが、なんと言っても、鉛筆削りという儀式から始まって、消しゴムを用意し、コーヒーを淹れてまっさらな原稿用紙を眺めていると俄然気分が湧いてくる。ジャーナリスト落合信彦が噛み潰した鉛筆を思い出したりもする。確かに小説なんぞ書こうと思わなければワープロで充分だと思うけれど、こと小説という、言葉そのものと正面から向かい合わなければいけない作業はやはり原稿用紙に限る。味噌汁でも、家庭料理なら粉末状のかつおだしで良いのだろうが、料理人なら本物のかつお節からダシをとるだろう。それと似ていて、利便性を追求すると本物の味わいをどこかで見失ってしまう恐れがある。また実際に書いてみると、上記した視界の問題や無限の可能性の問題も解決される。当然ながら視界には400字しかないわけで、案外これは思考の範囲のまとまりとしてちょうど良い。また手書きだとどうしてもワープロより書く速度が落ちるが、これも試してみるとちょうど良い。ワープロというやつは、あのカーソルの点滅がそう思わせるのか、書き手に「書け、書け!」と急かしてくるようなところがあるけれど、原稿用紙はそんなこと言わない。また無限の可能性ということで言うと、手書きというのは何と言っても労働だから、正直言って、あんまり書き直しはしたくない。勿論、するにはするけれど、例えば1枚丸々書き直しというのはかなりの骨折りだ。どこか適当なところで「決め!」という気分になる。ワープロで10枚書くのは簡単だが、手書きで10枚はそれなりの労働だ。しかし「急がば回れ」というやつで、結果的には設けるところも大きいのではないかと思っている。それでも書き損じたなら、豪快にクシャクシャに丸めてゴミ箱へ放り投げれば良い。ストレス解消になるだろう。うまくできているのだ。ちなみに小島信夫は、一切原稿を書き直さないばかりか、読み返さないことでも有名。確かに誤字や、文法の間違いが散見される。ここまで来ると変人だが、その小説は凄まじいばかり。 ところで図書館に行くと、作家の直筆原稿を集めた写真集があるのだが、あれは傑作だ。高名な先生方の、なんと字が汚いことか。字には個性が表れるというけど、本当にそう思う。ミミズがのたうっているような字とか、幼稚園児が書いたような字とか、右利きなのに左手で書いたような字とか、逆に達筆すぎて誰も読めない字とか、なぜか全てマスの右側に偏っている字とか、そういうのばかり。字だけであれだけ個性を発散させるのも凄い。わざとやってるのかと思ってしまう。小説以前に、何か別な芸術に取り組んでいるといった風でもある。編集者の苦労は察して余りある。
写真は大岡昇平の直筆原稿「信州のトンボ」。判読に苦しむ。 |
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詩人・吉岡実は横臥したまま詩を書いたらしい。 中上健次もまた、巨躯をうつ伏して原稿を執筆したことがあったらしい。 どこかでそんなエピソードを読んだのを憶えている。 この人らは何をやってるんだろうか。 詩はともかく、小説を書くときの姿勢は専ら「座」である。
どんなに作家の魂が荒ぶっていたとしても、世界の名作は「座」の姿勢から静かに編み出された。この滑稽な事実が、小説を書くときの精神的な「姿勢」をも決定しているように思えてならない。 「座」というのは、肉体的に見れば活動的な姿勢ではない。緊張を伴った姿勢でもない。かと言って、眠っているのでもない。そう言えば松浦寿輝は、執筆時は煙草を吸わないという。煙草を吸うと緊張が弛緩するから、というのがその理由だったと思う。「座」しながらも緊張を保つ為の工夫だろうか。 小説というのは、眠りと覚醒の狭間で書かれるものなのではないかな、と最近はよく思う。完全に覚め、理性のみで書かれるのとは違うようだ。一方で、情熱の滾りをそのまま書き殴るにしては「座」は不自由な姿勢だ。少し話が逸れるようだが、「夢日記」を付けたことがある人はいるだろうか。ぼくは付けたことがない。けど、あんまり奇妙な夢を見た時は忘れないうちに書いておく、そんなことが何度かはあった。その場合、「夢日記」を書くタイミングはいつが頃合だろうか。それは間違いなく、目覚めた直後ではないかと思う。夢の余韻、実感がまだ生々しく残っているうちに書いておいたほうが良い。昼か夜にでも改めて、などと考えていると、書くときには多くのものが失われてしまっている。目覚めた直後のまどろんだ意識、眠りと覚醒の狭間で書くのが良い。小説もまた、このようなものに近いのではないかと思えてならない。 夢の中で人は、他動的である。勝手にある場面の中に放り込まれ、理不尽な展開に必死についていく。覚醒した現実の中で人は、自律的である。判断・決定・行動の全てが自分の意志に委ねられている。その中間、横臥「夢」と起立「覚醒」の中間「座」には何があるだろうか。自律した思考の流れと、他動的な思考の流れとが一つに溶け合う不思議な心的境地。憑かれたようでありながらも頭のどこかが覚めているような。自らの思考に導かれたようでいながら無意識に書かれたようでもある不可解な言葉。つまるところ、目を開けたままで見られた夢、そんな不気味なものが小説ではないかと思う。 吉岡実や中上健次が「横臥」の姿勢で原稿を書いたのには、何か深い意味があったのだろうか。 |



