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基本的に日記、生活の中の思いつきなど

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2006年07月

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全英オープン・ゴルフ

なんとなく深夜、TVをつけたら全英オープンの初日がやってた。国内のゴルフ大会はやってても見ないんだけど、メジャーだとつい見てしまう。
全然ゴルフは詳しくないけど、ただ見てるだけで散歩気分が味わえたり、青木功を始めとした優れた解説者たちの案内で、手に汗握る攻防が楽しめてとても面白い。端的に考えて、数百ヤード離れた先にある10センチくらいの穴へ、あれほど小さなボールを棒で打って、3打とか5打で入れるってんだから、まずそのことが信じられない。
自然を相手に、と言っても、優れた(意地が悪い?)設計者が考え尽くして作った人口のコースではあるけど、どうやって対処するか各プレイヤーが問われている。素人考えでは、メジャーでプレイする超一流の選手たちが同じコースを攻める場合、それほどコースの取り方に差がないように思われるけど、結局、難易度の高いコースがそれを許さない。ボールが意外な所に嵌りこんだりして、選手によって驚くほどバラバラなコース取りとなる。とはいえ、一応、堅実な攻め方があるらしく、大体はそれに沿って打っていく。ゴルフが面白いのは、それぞれの人間の脳みそが、どう自然に向き合うか、ということ。脳みそというのは、その人の思考・性格・癖を含んだ総合的なもので、コースに向き合うと、脳みその差がモロに出てくる。日本人選手では深堀圭一郎が大健闘していた。堅実なコースを、イケイケの勝気で攻めていく。パットが外れる時にオーバーになるのが多いのが、そのイケイケっぷりを表している。難しいコースばかりなので、イケイケ路線が一歩間違うとすぐに打数オーバーに繋がる。優雅な散歩が、危険極まりないハラハラドキドキのドライビングに見えてくる。という緊張の展開の中で、結果、バーディを刻んで5アンダーで2位タイにつける。
しかし本当に凄いのはやっぱりタイガー・ウッズ。一人だけ違う競技に取り組んでいるように見える。と言うのも、調子がいいのか悪いのか、1打目、2打目あたりでけっこうポカする。そしてそこからの奇跡的なリカバリー・ショットが彼の真骨頂。わざと困難な状況を楽しむ為にポカしているかのようだ。何しろ、ティー・ショットでいきなりダフったり、3メートルもの壁がはだかるすり鉢状バンカーの、しかも壁際でいわゆる「目玉」をやったり、観客が歩くコースに打ち込んだり、グリーンを大きく向こう側に飛び越して深い藪に入れたり、挙句の果て、隣のコースに打ち込んだりまでする。なのになぜかボギーにならない。どう考えてもこんなゴルフぶりなら2オーバーにはなるだろうと思われるのに、点数はしばらくアンダー・パーで張り付いたまま。そのうち、ほとんど意味不明の奇跡的リカバリー・ショットでバーディをやらかすようになり、ついに3アンダーに。ウッズの顔の表情同様、コース取りの表情もとても豊かでイマジネーションに溢れている。そしてついに、最後の18番ホールであっさりイーグルを決め、蓋を開けてみたら1位と1打差の2位タイって、おいっ! どんな奇術師だ!? 好調な深堀が、あれほど苦労して最短コースを辿り、好運も味方して、何とか手に入れたスコアに、奇天烈な迂回をさんざんやらかしてきたウッズがいつの間にか並んでしまっている。どうもこれは只事ではない。
なんとなく、王道は一つというか、ローマへの道は一本しかないような気になりがちだけど、ゴルフを観ていると、頂点への道がいかにイマジネーション豊かに枝分かれしていて出鱈目かが分かる。その出鱈目さを支配するのはやっぱり技術とかなんだろうけど、でも、枝分かれして道がたくさんあるように見えるってのは、なんとなく救いというか、開放的で自由な気分になれる。
最近朝日新聞の購読を決めたが、通読するのに日々2、3時間取られるのがちょっと。さすがに夕刊までは手が回らない。
ところで新聞って、地図に似ていると思う。というか、地図そのものだ。
座標で言うと、横軸に沿って世界情勢・政治・経済・生活面など現在進行形の記事があって、縦軸に沿って歴史に絡んだ記事が配置されている。なんとなくそのいずれかの交点に自分の立ち位置が求められる。当然デイリーなので、横軸に当るリアルタイムな記事の方が圧倒的に多く、自然、そこに地平線が描かれて、地に足ついた感覚を与えてくれる。ところで、養老猛司流に言えば、そうしたマッピング感覚というのは脳の中にあるものらしい。世界そのものが人間の外部に存在しているのは恐らく事実としても、それを地図感覚に翻訳して理解するのは脳の機能なので、脳に欠損があれば、世界を地図感覚で理解することができなくなる。これは聖書の「言葉先にありき」とか、デカルト「我思う故に」とほぼ同じ概念だ。してみれば、新聞を書くのも読むのも脳であり、世界→言語→地図と置換していく流れは筋が通っている。だからこそ、テポドン発射の記事にはちょっと考えさせられたのだ。仮に核搭載したテポドン2号が東京に落ちたとして、そのことを新聞で知るわけはないからだ。だって、こっちは地図が作成される(=新聞を読む)より前に死ぬわけだから。となると、改めて言うまでもないが、思考=記憶=意識=無意識といった脳内活動の対象をテポドン2号に向けた場合、日本海を挟んだその距離と、着弾までの飛行時間+比喩としての新聞が書かれ読まれる時間という、空間・時間の存在が、それら(脳内活動)を正当化する必要条件になるはず。ならば、倫理的には無責任な発言だが、逆に言うと、テポドンを怖れる必要はなにもないようにも思う。なぜなら、もし着弾した瞬間に即死するものと仮定した場合、時間と距離が無効になるからだ。恐怖も立派な脳内の産物であり、それはだから、対象を距離化・時間差化しないと現れようがない。簡単に言うと、気づかないうちに死ぬ。案外、こうした時間と距離を無効化するテポドン的現象は、日常の中にたくさん溢れているのではないかと思う。要するにそれは、「いま」ということに尽きるかと思う。例えば喫茶店でコーヒーを飲んで帰ってきたとして、さっきのテーブルの色が何色だったかさっそく忘れてしまっていたら、そのテーブルの色はやはりテポドンに似た何かなのだと思う。色というのは視覚的要素があまりに強いため、意味(言葉)に翻訳することが困難というか、文字通り意味がないことだとされるし、それはまた、店内に流れていたBGM(音→非言語化)もそうかも知れない。「いま」そこにあったはずのそれらは、「いま」言葉の水位まで高められることなく、「いま」意識の下を素通りし続けていくのだ。そういう意味ではやっぱり、テポドンは怖いと言うべきか。
ただし、やっぱりそれは全然違うかも、といま思ったのは、テーブルの色も、店内のBGMも、とりわけテポドンも、考え抜かれて作られた脳内産物なのだから、そういう意味ではむしろ意識化の結晶体であり、なら逆のプロセスを辿って言葉に解体することも可能なわけで、要はやっぱり、それを対象化する時間・空間の存在が必要なのであって、その狭間に新聞性なるものが成立するのだとも思う。新聞というのは、よく考えると矛盾を孕んでいて、例えば9・11の号外などに象徴的なように、異国の事件をすぐ伝えるという非距離化・即時性(無時間性)を売りにしながらも、一方では言語化するために距離と時間を必要としていて、その綱引きの狭間に成立するようだ。
と、ここで話を終えようかと思ったんだけど、蛇足をもう少し、箇条書き風に。最近、新聞の号外とかネットがまさにそうだけど、世界における距離・時間の隔たりが通信・交通面でなくなってきてて、それがロマンチズムの成立を難しくしてる要因だと思う。あと、映画のフレームの問題で、望遠で遠くの対象を撮った場合、やはり観客は基本的に安心する。なにしろそこには距離と時間があるのだから、こっちはゆっくり考えるゆとりがある。対してクローズ・アップをやられると観客は怖がる。近すぎて、恥ずかしいという意味でも。で、やっぱりテポドンなんだけど、海一つ越えた向こう、望遠で眺めた異国と思いきや、発射して数十秒で東京着弾という、実はまやかしのクローズ・アップだったりする。とすると、今のご時世、時代の感覚として、映画でも望遠とクローズアップの使い分けが困難になってるのじゃないか。撮り手にとっても観客にとっても。少なくとも1950年代の映画に比べ、クローズアップは確実に望遠の領域を侵食してきたはずだと思う。いま「望遠」という言葉に心から納得したいなら、文字通り「望遠鏡」でも担ぎ出してきて、月か土星でも眺めるしかないのではないか。とは、いくらか言いすぎとしても。

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