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先日、浅井健一氏の個展に行って来た。ミュージシャン以外にも、画家・詩人としての才能も天才級だ。と言って、一目瞭然、我流の表現なので、その道のプロがどう評価するのかは定かじゃない。でも浅井氏の表現は、音楽もそうなんだろうけど、技術体系に縛られない自由さの迸りに本領がある。芸術はそもそも、作家が自由を獲得する活動でもあろうけど、実は、芸術ほど様々な縛りが多い不自由な活動も珍しいんじゃないか。かえって、理系の技術屋が発明する様々な新製品の方がよっぽど自由だったり無邪気だったりするくらいで、医療・宇宙・家電・考古学・IT等、先端技術の開発に携わっている専門家の日常は、きっと夏休みの子供みたいなんじゃないか。だけど芸術活動は、先行する技術体系の踏襲、プロデュースする際の商業的な配慮、無意識・意識的な時事問題の取り込み、そしてなにより自身の良心や哲学に縛りを受け、ガチガチに硬直してしまうことが多い。そうした中で浅井健一氏の活動や言動を見ると、その世間離れした自由さに心底から圧倒される。自由はそう簡単に口にできるものでもなく、概念としては分かるけど、日常で感じるのは極めて困難だ。最近は小学生くらいの子供を見ても、あんまり自由とは思えなくなってきたし、せいぜい幼稚園児くらいになら感じるけど、でもそれぐらいの年齢なら自由は当たり前だ。結局、自由とはなんぞやと具体的に考えてみると、大人になっても子供心を持っていて、さらにその子供心を実践できる、ということなんじゃないかと思う。

 浅井健一の画集『Jet Milk Hill to Sherbet Street』を見ていてふと思い出したのが、小学低学年のときに「ムツゴロウの愉快な仲間たち」とかいう番組を見て感激し、自分も大人になったら広大な土地を北海道に買い占め、そこで動物たちと一緒に暮らそうという気になって、スケッチブック一面に、様々な動物と一緒に暮らす為の施設の設計図を書いた時のことだ。夜通し、この部屋はホッキョクグマだからプールと氷の塊を用意して、この草原には馬の群れがいて、居間には世界中の犬と猫がいて、ライオンやトラは檻に入れて……と、ノアの箱舟のような設計図を夢中で書いていった。そういう純粋な子供心というのか、時間を忘れて熱中する感覚、それが浅井氏の画集に漲っていて、これは物凄いことだと思った。結局、自分が子供の頃に書いたノアの箱舟計画も、そこにメッセージ性なんか一つもなかった。敢えて言えば、面白い、ということが全てであって、面白さそれ自体が力であって、その力が勝手に後から意味解釈を生んでいくということだろう。よく、この小説には現代性がない、という批判があるけど、それは現代性があるとかないとかの問題じゃなくて、単に面白くないだけだろう。面白いか面白くないか、の問題だと思う。面白ければ自動的に現代的とも言える。面白くなければ自動的に古いとも言える。本当は現代的かどうかはどうでもいい。

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全英オープン・ゴルフ

なんとなく深夜、TVをつけたら全英オープンの初日がやってた。国内のゴルフ大会はやってても見ないんだけど、メジャーだとつい見てしまう。
全然ゴルフは詳しくないけど、ただ見てるだけで散歩気分が味わえたり、青木功を始めとした優れた解説者たちの案内で、手に汗握る攻防が楽しめてとても面白い。端的に考えて、数百ヤード離れた先にある10センチくらいの穴へ、あれほど小さなボールを棒で打って、3打とか5打で入れるってんだから、まずそのことが信じられない。
自然を相手に、と言っても、優れた(意地が悪い?)設計者が考え尽くして作った人口のコースではあるけど、どうやって対処するか各プレイヤーが問われている。素人考えでは、メジャーでプレイする超一流の選手たちが同じコースを攻める場合、それほどコースの取り方に差がないように思われるけど、結局、難易度の高いコースがそれを許さない。ボールが意外な所に嵌りこんだりして、選手によって驚くほどバラバラなコース取りとなる。とはいえ、一応、堅実な攻め方があるらしく、大体はそれに沿って打っていく。ゴルフが面白いのは、それぞれの人間の脳みそが、どう自然に向き合うか、ということ。脳みそというのは、その人の思考・性格・癖を含んだ総合的なもので、コースに向き合うと、脳みその差がモロに出てくる。日本人選手では深堀圭一郎が大健闘していた。堅実なコースを、イケイケの勝気で攻めていく。パットが外れる時にオーバーになるのが多いのが、そのイケイケっぷりを表している。難しいコースばかりなので、イケイケ路線が一歩間違うとすぐに打数オーバーに繋がる。優雅な散歩が、危険極まりないハラハラドキドキのドライビングに見えてくる。という緊張の展開の中で、結果、バーディを刻んで5アンダーで2位タイにつける。
しかし本当に凄いのはやっぱりタイガー・ウッズ。一人だけ違う競技に取り組んでいるように見える。と言うのも、調子がいいのか悪いのか、1打目、2打目あたりでけっこうポカする。そしてそこからの奇跡的なリカバリー・ショットが彼の真骨頂。わざと困難な状況を楽しむ為にポカしているかのようだ。何しろ、ティー・ショットでいきなりダフったり、3メートルもの壁がはだかるすり鉢状バンカーの、しかも壁際でいわゆる「目玉」をやったり、観客が歩くコースに打ち込んだり、グリーンを大きく向こう側に飛び越して深い藪に入れたり、挙句の果て、隣のコースに打ち込んだりまでする。なのになぜかボギーにならない。どう考えてもこんなゴルフぶりなら2オーバーにはなるだろうと思われるのに、点数はしばらくアンダー・パーで張り付いたまま。そのうち、ほとんど意味不明の奇跡的リカバリー・ショットでバーディをやらかすようになり、ついに3アンダーに。ウッズの顔の表情同様、コース取りの表情もとても豊かでイマジネーションに溢れている。そしてついに、最後の18番ホールであっさりイーグルを決め、蓋を開けてみたら1位と1打差の2位タイって、おいっ! どんな奇術師だ!? 好調な深堀が、あれほど苦労して最短コースを辿り、好運も味方して、何とか手に入れたスコアに、奇天烈な迂回をさんざんやらかしてきたウッズがいつの間にか並んでしまっている。どうもこれは只事ではない。
なんとなく、王道は一つというか、ローマへの道は一本しかないような気になりがちだけど、ゴルフを観ていると、頂点への道がいかにイマジネーション豊かに枝分かれしていて出鱈目かが分かる。その出鱈目さを支配するのはやっぱり技術とかなんだろうけど、でも、枝分かれして道がたくさんあるように見えるってのは、なんとなく救いというか、開放的で自由な気分になれる。
最近朝日新聞の購読を決めたが、通読するのに日々2、3時間取られるのがちょっと。さすがに夕刊までは手が回らない。
ところで新聞って、地図に似ていると思う。というか、地図そのものだ。
座標で言うと、横軸に沿って世界情勢・政治・経済・生活面など現在進行形の記事があって、縦軸に沿って歴史に絡んだ記事が配置されている。なんとなくそのいずれかの交点に自分の立ち位置が求められる。当然デイリーなので、横軸に当るリアルタイムな記事の方が圧倒的に多く、自然、そこに地平線が描かれて、地に足ついた感覚を与えてくれる。ところで、養老猛司流に言えば、そうしたマッピング感覚というのは脳の中にあるものらしい。世界そのものが人間の外部に存在しているのは恐らく事実としても、それを地図感覚に翻訳して理解するのは脳の機能なので、脳に欠損があれば、世界を地図感覚で理解することができなくなる。これは聖書の「言葉先にありき」とか、デカルト「我思う故に」とほぼ同じ概念だ。してみれば、新聞を書くのも読むのも脳であり、世界→言語→地図と置換していく流れは筋が通っている。だからこそ、テポドン発射の記事にはちょっと考えさせられたのだ。仮に核搭載したテポドン2号が東京に落ちたとして、そのことを新聞で知るわけはないからだ。だって、こっちは地図が作成される(=新聞を読む)より前に死ぬわけだから。となると、改めて言うまでもないが、思考=記憶=意識=無意識といった脳内活動の対象をテポドン2号に向けた場合、日本海を挟んだその距離と、着弾までの飛行時間+比喩としての新聞が書かれ読まれる時間という、空間・時間の存在が、それら(脳内活動)を正当化する必要条件になるはず。ならば、倫理的には無責任な発言だが、逆に言うと、テポドンを怖れる必要はなにもないようにも思う。なぜなら、もし着弾した瞬間に即死するものと仮定した場合、時間と距離が無効になるからだ。恐怖も立派な脳内の産物であり、それはだから、対象を距離化・時間差化しないと現れようがない。簡単に言うと、気づかないうちに死ぬ。案外、こうした時間と距離を無効化するテポドン的現象は、日常の中にたくさん溢れているのではないかと思う。要するにそれは、「いま」ということに尽きるかと思う。例えば喫茶店でコーヒーを飲んで帰ってきたとして、さっきのテーブルの色が何色だったかさっそく忘れてしまっていたら、そのテーブルの色はやはりテポドンに似た何かなのだと思う。色というのは視覚的要素があまりに強いため、意味(言葉)に翻訳することが困難というか、文字通り意味がないことだとされるし、それはまた、店内に流れていたBGM(音→非言語化)もそうかも知れない。「いま」そこにあったはずのそれらは、「いま」言葉の水位まで高められることなく、「いま」意識の下を素通りし続けていくのだ。そういう意味ではやっぱり、テポドンは怖いと言うべきか。
ただし、やっぱりそれは全然違うかも、といま思ったのは、テーブルの色も、店内のBGMも、とりわけテポドンも、考え抜かれて作られた脳内産物なのだから、そういう意味ではむしろ意識化の結晶体であり、なら逆のプロセスを辿って言葉に解体することも可能なわけで、要はやっぱり、それを対象化する時間・空間の存在が必要なのであって、その狭間に新聞性なるものが成立するのだとも思う。新聞というのは、よく考えると矛盾を孕んでいて、例えば9・11の号外などに象徴的なように、異国の事件をすぐ伝えるという非距離化・即時性(無時間性)を売りにしながらも、一方では言語化するために距離と時間を必要としていて、その綱引きの狭間に成立するようだ。
と、ここで話を終えようかと思ったんだけど、蛇足をもう少し、箇条書き風に。最近、新聞の号外とかネットがまさにそうだけど、世界における距離・時間の隔たりが通信・交通面でなくなってきてて、それがロマンチズムの成立を難しくしてる要因だと思う。あと、映画のフレームの問題で、望遠で遠くの対象を撮った場合、やはり観客は基本的に安心する。なにしろそこには距離と時間があるのだから、こっちはゆっくり考えるゆとりがある。対してクローズ・アップをやられると観客は怖がる。近すぎて、恥ずかしいという意味でも。で、やっぱりテポドンなんだけど、海一つ越えた向こう、望遠で眺めた異国と思いきや、発射して数十秒で東京着弾という、実はまやかしのクローズ・アップだったりする。とすると、今のご時世、時代の感覚として、映画でも望遠とクローズアップの使い分けが困難になってるのじゃないか。撮り手にとっても観客にとっても。少なくとも1950年代の映画に比べ、クローズアップは確実に望遠の領域を侵食してきたはずだと思う。いま「望遠」という言葉に心から納得したいなら、文字通り「望遠鏡」でも担ぎ出してきて、月か土星でも眺めるしかないのではないか。とは、いくらか言いすぎとしても。

怨念のクレーム

以前も書いたが、最近購入したばかりのプリンターが、一向に印刷物を吐き出さない。
故障ではないかと疑われた。すでに何度か電話をかけていたメーカーのコールセンターへ、最終的なクレームの電話を入れる。散々に商品の欠点をあげつらった上で、返品を言い渡すつもりである。不退転の意志で、断固!

ところが、いつもそうであるように、回線が混み合っていてなかなか繋がるものではない。しかも、フリーダイヤルではないから、待たせられてる間も料金が発生していく。
オンフックにして受話器を置き、なにか鳥のさえずりや川のせせらぎで構成された保留音を聞かされながら、コーヒーを飲んだり、煙草を吸ったりして、相手が出るのを待ち続ける。
いま思えば相手の戦略か、ヒーリング効果のある保留音によって、熱した気分がほどよく冷えかかったころ、おっとり刀でオバサンが出る。
「大変長らくお待たせしましたっ!」
さて、慌てて怒りを思い出す。なんだったっけか? 
ともかく、慌てるようにして、不具合の状況を事細かに述べていく。これまで何度も電話したにかかわらず、一向に改善しないではないか! おかげで多大な損害を被った! 等。
しかしそれらの声も、オバサンの事務的なアドバイスにすりかえられていく。
USBコードを2m以下にして下さい。再起動してください。デバイスを開いてポートを○○に変えてみてください。一旦USBコードを抜いてください。もう一度差し込んでください。電源を切ったり入れたりしてみてください。プリンターを持ち上げて、底に書いてある百桁のシリアルナンバーを読み上げてください。それから一発、思い切りジャンプしてみてください。それで駄目なら、いったん深く屈伸してから、ピョ―ンと勢いよく飛び上がってください。いや、本当にしなくて結構です。
気がつくと、命じられるままにパソコンの周りをうろつき、あれこれと忙しく、コードの抜き差しなどしている自分がいた。しかし、そうではなかったはずだ!
もう一度椅子に座りなおし、腰をすえてクレームに取り掛かる。断固、返品を要求した!
ところが……。
その最中、椅子の背凭れが外れ、ダイナミックに転げ落ちるという滑稽な事態が生じてしまった。
ズドーン!という、高らかな音が響き、明らかに受話器の向こうにも聞こえただろう。
この恥ずかしさを気取られないようにして、冷静にクレームを続けながら、椅子の底面の裏側にある、外れたネジを穴に差し込んで、グルグルと回していく。床にはいつくばり、ネジを回しながら、クレームを続ける……。
結果として、どうしてそうなったのかよく覚えていないが、メーカーから同製品がもう一台送られてくることになった。明後日届くらしい。
まるでカフカの世界だ。

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昨夜録画しておいたK−1をビデオで観る。
セーム・シュルトの圧勝ぶりは、好き嫌いを越えた次元で戦慄が走る、事件の目撃に近い体験だった。そもそも、セーム・シュルトがこれまで埋もれてきたことの方が不思議である。というか、埋もれてきた、と感じてしまうのは、場当たり的な観客の思い込みで、いろいろと実績を残している選手だ。大道塾主催の北斗旗空手道無差別級大会で2連破(96・97年)し、99年11月には近藤有己を破って第9代キング・オブ・パンクラシストに輝いている。ぼくはパンクラスで活躍していた頃にシュルトを知って、とんでもない選手が現れたようだな、と思いはしたが別に注目してきたというわけでもない。どういうわけかこの選手は、注目度の高い桧舞台でポカを踏む。2年前の大晦日では確か、バーネットに関節を取られて負けているし、PRIDEのリングではヒョードル、ノゲイラ、ハリトーノフに負けている。とりわけハリトーノフ戦での残酷ショーじみた負けっぷりは、昨夜の優勝と対照的に衝撃的だった。注目度の高い舞台で負けが目立ってしまったことで、埋もれてきた感が付き纏うのだが、K−1では全勝という戦歴を誇っている。PRIDEにおけるヒョードルのような存在に、今後なっていくのかもしれない。
ところでシュルトの空手は、大道塾で磨かれたものだが、この大道塾とはどういう空手を実戦しているのか? 公式HPから引用してみると、


発祥の地、沖縄で「唐手」(後に空手)は、刀や槍といった武器を取り上げた島津藩との"現実の戦い"に素手に近い状態(ヌンチャク、トンファーなども)で立ち向かわざるを得ず、"当然"、投げ、締め、関節技をも含んだ総合的なものでした。大道塾もその原点(現実の戦い)を強調する意味で、創立当初から締め技、間接技をも含む、「現実的な(格)闘技としての空手」という意味で『格闘空手』として二十数年間活動してきました。


とある。空手ならぬ唐手とは、本来、投げ・締め、をも含んだ実戦総合的な技術体系だったのである。だが、柔道との差別化をはかる為に打撃へ特化し、世界的に普及していったというのが空手の知られざる歴史である。大道塾の理念とは、打撃空手を本来の投げ・締めありの格闘空手へ回帰させることにあるが、混乱を避ける為、自らの目指す武道を「空道」という別な名前で呼ぶ事にした。公式HPからさらに引用すると、


2001年、「第一回世界大会」を機に、突き、蹴り、投げまでの「格闘空手」を原点(ルーツ)とし、今後も突き、蹴りをその核として追及はするが、それ以上の締め技、関節技を含んだものを、「空手」から生まれた新しい総合武道という意味で、「空道」(くうどう)と命名し、改めて世界に宣言し、普及、追求する事にしたのです。


とある。だからシュルトが総合のPRIDEのリングへ上がるのは、ある意味で立ち技のみのK−1のリングへ上がるよりも理にかなっているのかもしれない。が、シュルトが制したのはK−1だった。

ぼくは別にシュルトという選手が好きでも嫌いでもなく、というか、魅力をあまり感じないのだが、でもその闘いぶりを見ると、何とも奇妙なものを見せられた気分になる。再びHPの言葉を引用すると、「発祥の地、沖縄で「唐手」(後に空手)は、刀や槍といった武器を取り上げた島津藩との"現実の戦い"に素手に近い状態(ヌンチャク、トンファーなども)で立ち向かわざるを得ず、"当然"、投げ、締め、関節技をも含んだ総合的なものでした」とあって、実戦を想定した技術体系を謳っているわけだが、しかしその頃の琉球に、2m12cmの巨漢が存在しただろうか。刀や槍を使った相手との闘いは想定内でも、2m12cmの体格が使用する空手まで想定内だったろうか。それは無論、想定外だろう。そもそもシュルトは、琉球人でも日本人でもない。当時の平均的な琉球人の身長を考慮して技術体系を確立したとしたら、空手とは150〜170cm台、大男と言ってもせいぜい180cm台の人間の為に編み出されたのではないだろうか。格闘技というのは、突き詰めるとそれぞれの流派の「型」が存在するように、抽象化された理念の芯のようなものがある。それは、それだけを見ると、実戦から遠いものにも見える。恐らくこの「型」、理念の核のようなもの、が、つまり平均的な琉球人の体格でもある。が、K−1におけるシュルトの闘いぶりを見てほしい。アレは何だろうか? 2m12cmの巨神兵が打ち下ろすチョッピングの速射砲、真横あるいは斜め後ろから巻くように刺さるボディ、軽く突き上げればそこが顔面のヒザ、そしてあの遠距離・中距離はおろか近距離まで全ての制空権を支配する独特の間。空手とはもしかしたら、平均的な琉球人の身長ではなく、もとから2m12cmの体格を想定して編み出され、抽象化・理念化された技術体系だったのではないか。逆に言うとシュルトが、空手の抽象的な理念を完璧に体現させたのではないか。思わずそのような転倒した錯覚を抱かせる。大道塾のHPを見ると、こんなことも書かれている。


「空道」の「空」は上述したような原点(「空手」から生まれた新しい[武道])という技術的意味と、仏法における「色即是空 空即是色」をその典拠としております。即ち、「この世に不変の物体はなく、観念もまた固定的なものではない。全ては時空を超えて生々流転する。これを『空』と呼ぶ。故に『空』こそが、この世の実態であり、全てを表象する」という意味が、大道塾の設立理念に合致するという点からも、意義深いものがあります。「大道塾」の"大道"は「大道無門」、大道に至るに門なし。即ち、人の世の全てが修行の糧、至高に辿り着く道程となりうる、という言葉から借りており、先入観や、固定観念を避け、全てを抱含し、しかし一つには偏らない自由、開放を塾是としています。


なるほど、大道に至る門なし、とは逆に言うと、大男が至る門も開かれていた、ということなのか。要は、空手の抽象化された理念とは、固定化されたものではなくて、自らが発見するものなのである。


*写真はPRIDE16の小路晃戦。

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