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「28」とは自分の年齢のことだけど、人からはもっと年上に見られることが多い。実際、自分でもそんな風に感じたり、逆に二十歳ぐらいに感じたりして、そのギャップが気恥ずかしいが、そのうち自然に重なるのかもしれない。
ところでこの年齢というもの、二十歳中頃から勝手に加算されているような具合で、老人でもあるまいが、気をつけないと何歳か忘れている。今よりもっと若い頃は、例えば「二十歳になるぞ!」と主体性をもって年齢を迎え入れていたわけだが、最近は何者かによって事務的に「28です」と告げられる。その声はあまり印象に残らないので、うっかり年齢を忘れている。この健忘ぶりをもう少し細かくすると、今日が何月何日か、ということを忘れていて、一年を必要以上に早く感じる。ブログをやるようになってから、画面の左側に小さなカレンダーがあるので、今日が何月何日か分りそうなものだが、それでも忘れている。(ちなみに今日は8/3らしい)昨日は記事を書いたな、今日は書いてなかったな、という関心で見るので、日付そのものを見ていない。この「見ているのに見ていない」という「無意識的なのか意識的」なのか分からない態度が、「健康的なのか不健康的」なのかも分からない。ただ一つ言えるのは、「見えているのに見ていない」ものが身の回りにとても多く、それがフィクショナルなヴェールとなって人の生活を優しく人肌の温度で包み込んでいるということ。また、そうであっても一向に不都合なく生きていけること。小説の言葉とは、この種のヴェールを剥がしていくものだということを、このブログで言ってきたのかもしれない。怪文コーナーもしかり。
で、そういうフィクショナルなヴェールに包まれているならば、自分は28でなく「29」なのかもしれず、いや実は「30」なのかも知れず、ならば30代を睨んで、今から20代を振り返ってみることも可能な気がする。
20代というのは、自分や自分の周りの仲間たちも含めて、「信じる」ということをいろいろな次元で試されてきたように思う。大学を出るときにまず一度、それから就職先なり、バイト先なりの生活で日々、問われている。「信じる」というのは、例えば自分の能力だったり、理想だったり、あるいは恋愛も含まれるのだろう。当然それは、容易なことではなく、とりわけ自分を含めた周辺の人間は、もともとから社会ずれした理想主義者集団なので、加齢のほどに、世間から押し出されるようにして、狭い陣地にへばりつく格好になる。この先どうやって残された陣地を死守していくのかと考えると、まぁ、酒でも一杯飲みますか? という気分にもなるか。いや、別に深刻めいて考えることはほとんどないし、「信じる」限りにおいて、陣地が削られようとダメージもない。のだが、25から28へあっと言う間と言いつつ、よくよく考えてみると、15が18になるなんかより比較にならないほど、内面に変化があったような気もするから妙である。それは15→18より、25→28の方が「信じられない」領域が拡大したと、単純にそう言えるかもしれない。「信じられない」という言い方だと語弊があるが、単に「分ってきた」とも言える。ともかく最近はもう「信じる」「信じない」という次元で物事に接することはあまりない。「信じる」ためにどうするか、と考えることもない。よって、「裏切られる」というほどのこともない。ただ自分の立っている陣地があって、「やる」のか「やらないのか」という実際的な部分でのみ、判断を迫られているような感じがする。だからその根底に、「信じる」というような熱い感情があったことを、日付のように見ていない。自分の年齢を忘れはじめた25ぐらいから以降、「信じる」「信じない」の感情が心の底のほうに鎮められ、その日が何日か分らなくなったのか。こういうふうに書くと、なにやら悲観的な文章ととられかねないが、そういう気分は全くなくて。ただちょっと、自分の年齢というものを考えてみただけのことで。「狭い陣地に追い込まれた」などとネガティブな言い回しをしてしまったが、それは世間的な目に摺り寄せて言ったまでのことであり、裏を返せば、いよいよロマンチックなことになってきたぞ、とも言えるはずで。まぁ感情を含んだ言い方は幾通りも可能で、単純に、年齢を忘れるとはどういうことか、と考えてみたかった次第。
*「タイムスリップ・コンビナート」 笙野頼子 読了。
*「蛇を踏む」 川上弘美 読了。
*「妊娠カレンダー」 小川洋子 読了。
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