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「台風のような小説」

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台風がやってきて、梅雨前線を掻き消すというのは、なんだか分りやすくてスカっとする。
季節の変わり目が、はっきりと感じ取れる日というのは、貴重だと思う。
ぼくはかつて、親の目を盗んでは車のワイパーを作動させる少年だった。
晴れた日でも、助手席から手を伸ばし、まずは洗浄液を一噴き、そしてワイパーで拭い去る。
別に潔癖症ではないが、スカっとするのだ。

ところで台風が去った次の日、その尻尾みたいなものだろう、空が高く晴れ渡っても、強い風が残っている。その温かい風の中に、南国の匂いや、太平洋の潮の湿り気が微かに混じっていると、住み慣れた街がにわかに異国めいて感じられ、いとをかし。台風の被害は、いろいろと伝えられる。屋根が飛んだとか、崖が崩れたとか。しかしなんと言っても、住み慣れた街を、一瞬でも異国のように感じさせるところに、台風の最も恐ろしい凶暴性が露呈される。

東京の街並みを映画やテレビで撮影するとき、朝一番が最もきれいに映る。光線の角度がそうさせるのだろう。その一瞬を逃すと、あとは終日、排気ガスで街の輪郭が霞んでしまう。ビルと空の境目などが、ピシっとしないのだ。こんど、よくよく見てほしい。台風が来た次の日は、一日中、街がピシっとしていて、夜などネオンが艶やかに映え、いとをかし、ということになっているから。昨夜、夜勤の職場に向かってバイクを走らせていると、ちょうど新宿がそうだった。違う街に彷徨い込んだように感じられた。だから台風は、恐ろしい。

ところで「新宿」といえば、東京のど真ん中、と言っていい場所だろう。

「言葉」にも、ど真ん中がある。

例えばこの記事に使われた言葉、台風、車、ワイパー、潔癖症、空、風、南国、異国、映画、テレビ、ビル、輪郭、夜勤、バイク……。
これらの言葉にも、意味の上で、ど真ん中がある。ただ単に「車」と言ったとき、救急車とか、囚人の護送車を思い浮かべる人はないだろう。ぼくは乗用車のつもりで「車」と書いたし、そう読んでもらえるものと思う。そうだから、書くほうが任意の言葉を使うことができ、読むほうも意味を追うことができる。言葉にど真ん中がなく、曖昧なものであったら、意味が拡散してしまうだろう。なにかを文章化するということは、あるていど過不足のない言葉を重ねていって、過不足のない意味を伝えるということである。しかし本当のところ、そういう文章というのは、住み慣れた街と同じことで、なにも新しいことが見えてこなかったりもする。
「AのようなB」という比喩表現があるけれど、これも本当の意味で機能させるのは、けっこう難しい。例えば「燃えるような紅葉」という比喩。これを最初に思いついた人は、きっとその有効な機能ぶりに感激したことだろう。しかし言い古されてくると、それはただ単に「紅葉」と言っていることと、限りなく近くなってくる。本来、比喩表現の持っているはずの恐ろしさが希薄になってしまう。「AのようなB」の多くは、単に、「B」と言っていることと変わらない。もともと比喩とは、言葉のど真ん中を引き立てあう凶暴な異化作用だったはずなのに。「雪のように白い肌」とか言うなら、もうただ単に、「白い肌」で勘弁してほしいくらいだ。

こういうことは既に、フローベールという19世紀の作家が「紋切り型辞典」という本で言っていることだった。この本には、「AといえばB」と紋切り型に表現してしまう言葉のパターンを、風刺として取り上げている。

「この本のはじめからおわりまで、ぼく自身のつくりあげた言葉はひとつも見あたらず、だれでも一度これを読んだなら、そこに書いてある通りをうっかり口にするのではないかと心配で、ひと言もしゃべれなくなる、というふうであってほしいのです。」 ---- フローベール

言葉というのはだから、やっぱり記号なのだ。多くの人間に記号として共有されなければ言葉の存在意義がない。しかし記号が言い古されていくと、「住み慣れた街」に暮らすように、本来の輪郭をどんどん希薄化していく。街全体に巨大な無意識、集合意識が形成されるように。これは次第に、巨大なフィクションのヴェールと化していく。言葉にど真ん中がなければ、そもそも意味が通らないわけだが、しかしぼくらが日常的に言葉を使うとき、いちいち言葉のど真ん中を意識しているわけではない。「住み慣れた街」で安心して日常を送るのと似ている。それって、いいことなんじゃないかな。けれど、「台風」のように凶暴な働きかけがあると、東京のど真ん中である「新宿」がまるで南国のように、例えば、「台北のような新宿」として感じられたりして、一種の異化作用が起こり、日常のヴェールが剥ぎ取られ、ゴロッと「新宿」そのものの素顔が露呈する。輪郭がピシッとして感じられる。そもそも「新宿」って、そうだったのか、みたいな。そういう凶暴さも、必要なんじゃないか。「台風」が季節を更新するように、言い古された言葉を更新し、言葉のど真ん中を露呈させることも必要なんじゃないか。

小説に使われる言葉には二通りあって、「住み慣れた街」を目指すものと、「台風」を目指すものとある。面白いのはやっぱり、「台風のような小説」だと思う。もちろん厳密に言えば、フローベールが指摘するように、ひと言もしゃべれなくなるジレンマが作家に付き纏うのだろうけれど、言葉の向ける方向性は台風であってほしい。

面白い小説の条件として、日本語で書かれた小説であっても外国語で書かれているような違和感を感じさせる文章、というのがあるけれど、これもつまり「台風のような小説」なのだろうと思う。

ところで「AのようなB」、つまり、「台風のような小説」も、どこかで誰かが、既に表現してしまった言い回しなのかもしれない。



*「日本文学史要−理解からまとめへ−」有朋堂 読了
*「日本文学史 近代から現代へ」中公新書 読了
*「破戒」島崎藤村 読了

角田光代「空中庭園」読了。

非常に巧い佳作だと思うが、突き抜けた傑作というほどではないかもしれない。
というのは、これは機能不全の家族を描いた小説だが、既に分っていることが書かれていて、それはとても巧く書かれているんだけど、それ以上の発見があまりなく、心底怖いということはなかった。
そう感じるのはもしかしたら、戦後家族小説の金字塔と言われる小島信夫「抱擁家族」「うるわしき日々」を、つい最近読んでしまっていたからかもしれない。これはマジで怖いから。

まずこの「空中庭園」の特徴は、父・母・娘・息子の四人家族に加えて、母方の祖母、それから父の不倫相手という計6人の視点から描かれているということ。つまり、娘「あたし」父「ぼく」母「私」祖母「アタシ」不倫相手「あたし」息子「ぼく」というそれぞれの主語で構成された各章が、一つ屋根の下に暮らす家族の隠された秘密を暴き立てていく構成だ。これは既に村上龍「最後の家族」で似たような試みがなされていたし、発想自体はありがちである。ありがちな発想ではあるが、角田光代は丁寧に丁寧に作品化していく。実際、素晴らしい技術だと思う。

ところでこれは、息子が筆下ろしした相手のミソノという女が「前世占い」をやっていることなどからも
明らかだが、大袈裟に言うと「サーガ」、つまり世代を越えて繰り返される業の深さみたいなものを描いていた作品だ。これはもう意識的に徹底してやっている。
語り手も三世代に渡っているし、さらに祖母がその父の記憶についても語っているから、厳密に言えば四世代に渡って描かれている。また、この一家とは直接関係ない不倫相手のミーナも、自身の両親の記憶を語っている。
このジェノグラム(家系図)を紐解いていくようなやり方は最近の心療内科では一般的に取り入れられている方法で、確かにそこからいろいろなものが見えてくる。そこが一つ不満な点でもあって、心理学的な基盤をそのまま図式として小説に持ち込んでしまっているような気がするのだ。勿論、それぞれの文章は濃やかで、イメージは繊細にして鋭く、小説全体が心理学的な図式として重く垂れ下がるのを防いではいる。が、その枠から抜け切れてもいない。

ぼくが一番興味深く思って読んでいたのは、著者の意図するところか知らないが、六人の視点から描かれたこの作品が、決して多面的、立体的に立ち上がることがなく、しかも真の意味でのサスペンス性も含まれていないことだ。確かに語り手が変わる度に、この家に潜む秘密のヴェールが1枚1枚剥ぎ取られていく。が、それは既にこの構成を採用した時点で折り込み済みであることを読者も承知しているから、それほど怖くはない。また、六人の語り手の内面、世界を見る眼差しのあり方が似通っているために、多面的・立体的に立ち上がってくることもない。平板なのだ。この平板さを著者が狙っているとしたら、おそらくこんな意図があったに違いない。
人の心の形、その凹凸を、パズルのピースと見立ててみる。で、ある心の形を持った親に子が生まれる。子が初めてコミュニケートするのはもちろん親であるからして、必然的に、子は親の凹凸にはまる凸凹を形成する。心の形がつまり、親と同じなのだ。その子が親になり、新たな子(孫)が生まれたとしても事情は同じことで、次の凹凸が再生産される。こういうした縦糸と同時に、横のつながりもまた指摘しておかなければいけない。つまり結婚、恋愛、不倫の相手を選ぶ際にも、無意識下で、この凹凸のはめ合いが行われる。こうしたことは、例えば、末っ子は姉御肌の女とくっ付きやすいとか、妹は兄貴タイプの男とくっ付きやすいとか、そういう現象でも図式化できると思う。で、そういう次第であるからして、本来この小説の中で、家族の異常さを外側から客観化するはずの父の不倫相手ミーナの視点も、その家族の一員であるかのごとく、平板さの中へ収斂していってしまう。
この小説の六人の視点が、決して多面的・立体的な形で立ち上がってこないのは、つまり、同じ凹凸の心を持った六人が、縦糸と横糸として編みこまれているからではないだろうか。だとしても、ある意味でズルい方法ではある。六人の主人公がいる以前に、一人の著者がいる。一人の著者の視点から、六人の主人公が生み出される。この限界を、ある意味では狡猾に、小説の構成として生かしているとも言える。

ただ実は、この六つの視点の中で、一人だけちょっとニュアンスの違う視点がある。それが息子のコウなのだが、彼は、家族の問題を、集合住宅の地理・建築学的な意味や、神社や教会に纏わる光と闇の意味に重ね合わせて見ていこうとする。言い忘れたがこの小説の舞台は、郊外の田園地帯に建つ集合住宅と、その周辺のラブホテルや、巨大ショッピングモールである。この道具立ての中に閉じ込められた家族が、逃げ場もなく暮らしている。コウの視点は、心理学的な視点ではなく、この地域や、集合住宅の建築性に向けられている。これは恐らく、メタファなのだと思う。建築物の構造をメタファ化する方法は、吉田修一の「ランドマーク」や、そもそも小島信夫の小説でも既に成されているが、こうした物質的(フェティッシュ)なところに投げかけられたコウの視点が、なにかこの小説に大きな深みを与えていたし、心理学的な枠組みから微かに解放していたように思う。

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前回「東京タワー」の続きですが、なぜ「オカン」と「ママン」を並べ論じることができないのか、ずっと気になって考え続けている。より正確に言うと、並べられないのは「オカン」「ママン」ではなくて、母親を失った二人の息子、つまり「東京タワー」の著者リリー・フランキーと、「異邦人」の主人公ムルソーということになる。なぜこの二人の息子を並べられないのか? それは、「東京タワー」が自伝であり、従ってリリー・フランキーが実在の人物であるの対し、ムルソーは創作上の架空の人物だから、ということでは全くない。この二者の間には、越えようがない倫理的な断絶があるのだ。それを比較しようというのは、全く悪趣味な思いつきだと自分でも思う。ただこの二つの物語に対して、両方に感心した自分というのは、分裂症的な読者ということになるのだろうか。ムルソーなんてウンコ!と言えたら、どんなにサッパリするだろうか。

「異邦人」において主人公ムルソーは、「ママン」の死をどのように捉えていたろうか。リリー・フランキーが亡き「オカン」と添寝し、語りかけ、涙を流していたのに対し、ムルソーは亡き「ママン」の前でミルク・コーヒーを飲み、煙草をくゆらせていた。そもそも「異邦人」の出だしの衝撃的な文章が、ムルソーの態度をよく表している。

 きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何も分からない。恐らく昨日だったのだろう。

まるで異国の他人の死のように、ムルソーはそう語る。


孫引きになるけれど、荻野アンナが、ミラン・クンデラの次のような言葉を引用していた。
「文学を普通の現実レベルで解釈しないでください、文学というのは道徳的判断の中断された領域なんだから」(『裏切られた遺言』より)

「太陽が眩しかったせい」で突発的な殺人を犯したムルソーは、「ママン」の死を悲しまなかった非人間性、非道徳性を指摘され、死刑の判決を受けるのだった。社会は、この道徳的判断の中断された領域の住人であるモンスター(異邦人)を許せなかったのだ。養老孟司によれば、動物の中で人間だけが、遺体を「物」として見ない、という。他の動物は死体を物として見るが、人間だけ、遺体には魂が宿っていると考える。葬礼というのは、人間が人間であるための証明でもあるのだ。(でも、母猿が子供の遺骸をいつまでも背負っていたり、象に墓参りする習性があるというのはどういうことだろうか。)ともかくムルソーは、母の遺骸ですら物として見る男であり、それはつまり、人間ではないのだ。だから、社会は彼を恐怖し、抹殺しようとしたのだ。だがこの小説、道徳的判断の中断された領域で、もう一つの新しい道徳が発動しているのだった。ムルソーは、死刑を待つに身になった最後の場面でこう叫ぶ。
「何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない」と。
ちなみにこの小説が書かれたのは、理不尽な死が横行する第二次大戦の最中であった。そういう時代背景であれば、このような新しい道徳感情が求められたとしてもおかしくはない。つまりムルソーは、理不尽で理解不能の「死」を、通り一遍の仕方で悲しんで済ますことなど不可能だ、と、こう言っているのであろうか。誠実さの極致を求めたゆえに、このような道徳に辿り着いたということだろうか。仮にそうだとしても、やはり彼は異邦人のままであり、断罪されるべきだろうか。この「異邦人」という小説が未だ売れ行きを伸ばし続け、世界中で読まれ継がれているのはなぜだろうか。この「なぜだろうか」は、他意のない純粋な疑問符です。


ところで話が逸れるようだが、「百万回生きたねこ」という有名な絵本がある。
参照 http://ww5.tiki.ne.jp/~momotti/kage/hn100.htm

つい最近、兄貴とこの絵本について語らう機会があった。ぼくの兄貴は絵も文章もできるので、「いっちょ絵本でも描いてみたら?」という話をしてみたのだ。ぼくが、「『百万回生きたねこ』みたいなベストセラーで一発当てたら一生食ってけるんじゃない?」みたいなことを言うと、兄貴の眉間に深い皺ができた。
「おれはあの絵本が大嫌いなんだぁ!!」と、兄貴は叫んだ。
その理由については言わなかったが、ほとんど憎しみを込めて言っていた。
ちょうど、実家で10年飼っていた猫が亡くなっていた。ぼくはその10年間東京に出ていたが、兄貴はずっと猫と一緒に暮らしていたので、ペット・ロスという深い喪失感に陥っていた。だからこそぼくは、「百万回生きたねこ」の話を持ち出してみたのだが、軽率だった。
この絵本はなぜか、「百万回死んだねこ」という間違ったタイトルで知られている。しかし、正しいタイトルは「百万回生きたねこ」なのだ。いずれにせよ物語の中で、ねこは百万回「死ぬ」のだ。兄貴はこの絵本の、どこが気に入らなかったのだろうか。どこかに欺瞞を見出していたのだろうか。あるいは、単純に、百万回もねこを殺す著者の態度が気に食わなかったのだろうか。
ひとつ確かなことは、決して社会的とはいえない兄貴が、家の中で十年間、寄り添い合いながら猫と過ごしてきた濃密な時間があり、その確かな経験から、「おれはあの絵本が大嫌いなんだぁ!!」という一言が出てきていることである。




*ジム・ジャームッシュ「コーヒー&シガレッツ」鑑賞。
*小島信夫「抱擁家族」読了。
*高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」読了。
*同「ジョン・レノン対火星人」読了。
*角田光代「空中庭園」購入。

「東京タワー」感想

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やっぱり「東京タワー」リリー・フランキーの感想を書かなきゃ。

三茶の書店2店舗から「在庫切れ」を言い渡されたところから判断するに、売れているのではないかと推察する。なんといってもリリー・フランキー。これまで切り開いてきた読者層は、そこらの作家と比較にならないだろう。そうしてこの本を手に取った読者の口から出てくる感想は、どんなものだろうか。自分は何度か料理屋を取材したことがあるが、うまいものを喰ったとき、人の口から漏れる言葉は驚くほど貧困なことに気が付いた。「うめぇ!」の一言。訓練された料理評論家であれば、「このブタ肉には山吹色のオーバードライブがかかっていて、ハートが震えるようですね」などと気の利いたことが言えるのかもしれないが。しかしこの「うめぇ!」の叫びを、思考の麻痺とか、読者の怠慢とかってふうには言いたくない。だって、「うめぇ」んだから、それだけで幸せなことじゃないかと思うし。文章家リリー・フランキーはこれまで、読者に問答無用の「うめぇ!」を連呼させ続けてきた。今回はどうだろうか。「うめぇ!」の先に、もう一つ上の世界があった。絶句、言葉にならない世界。「………………」の深い余韻。

「東京タワー」の前半部を読んでいる段階では、椎名誠「哀愁の町に霧が降るのだ」を何度も想起した。リリー・フランキーと椎名誠、いずれもダンディズムの人で、その芸風は軽妙洒脱な「オモシロカナシズム」。もともと違う分野から多くの読者を背後に文学の世界へ入ってきたありかたとか、立ち居地も、どこか似通っているのではないかな。短絡的な見方だろうか。また、この二人のダンディー、これは日本人的なダンディズムということなのかもしれないけれど、共通しているのは、「恥じらい」が深い、ということだと思う。これはどうやら作家に共通した才能でもあるらしい。「恥じらい」から自意識が芽生え、この自意識をどう捌くか、というところに芸が求められる。人によっては軽くいなし、人によってはさらに鍛え上げ。リリーと椎名は、恥じらいの深さから「自意識」を表に出さず、己の主体性を巧妙に隠して、傍観者の眼差しを自分を取り巻く奇妙な人間たちに向け、彼らを演出してきた。が、椎名の自伝的長編「哀愁の町に霧が降るのだ」がそうであったように、いや、それ以上に、リリーは「東京タワー」で「恥じらい」の衣を脱ぎ、丸裸になった。あのリリーをして丸裸にさせる、一体そこにはどんな力学が働いていたのだろうか。ややこしい経緯はなにもない。この本が、亡き「オカン」に捧げられていること。男子にとって最もシンプルな衝動。いままで「オカン」に読まれても「恥らって」しまうような本しか書いてこなかったと自省するリリーが、立派な本を「オカン」に捧げるため、丸裸になったのだ。そしてその立派な本の題材が、母と自分の関係を描いた自伝であるという真っ直ぐさ。勿論、誰にでも「オカン」の死があり、誰にでも「オカン」の死について語る資格あり、だからこそ誰も「オカン」の死を語らないという今、これほど「オカン」の死を率直に語りきった人が、誰あろうリリー・フランキーであることの、意外性と深い納得。誤解を恐れずに言うと、「オカン」が癌に罹ったのはこの本のちょうど真ん中あたりで、読者はこの時点で、「オカン」の死を予感する。が、そこから「オカン」が亡くなるまでの長さとは一体。著者自らが引き伸ばそうとしているようなその長い日常描写に、哀切さと祈りと緊張感とが、一緒くたになっている。ぼくはこの本を、どういうわけか、冒頭部分、つまりリリーの最初の記憶のあたりからして、すでに涙腺を刺激されていた。泥酔した「オトン」が玄関を蹴破ってきて、「オカン」がリリーを抱えて逃げる場面など。彼一流のユーモラスな言葉遣いの裏に、感傷を排する心の努力のあり、読者の好奇な眼差しを受け止めながら服を抜いでいくという、ぎりぎりの綱渡りが見られる。記憶の断片として描かれるエピソードの数々が、どうにも涙のツボを押してくる。筑豊のばあちゃんのリアカーを押す、オカンの糠床、盗品を取り戻しに友人宅へ行かされる、隔離病棟……。無知なる子供時代の記憶を振り返るとき、そこには不思議な郷愁とカタルシスがある。そのときは何も分からずにただ眺めることしかできなかった大人たちの振舞いが、大人になって「あれはこういうことだったんだなぁ」と理解される瞬間、これは、長い長い孤独な旅路から帰ってきた親を、それより短い旅の途上で子が向かい入れること、はじめて親と子が同じ地平で落ち合う再会の瞬間のことなのだ。子は何度でも親と再会を果たし、その孤独だった旅路に想いを馳せる……。生まれ育った土地に所在をなくして、「オカン」が東京にやってきて、同棲生活をはじめて、この間ずっと「オモシロカナシズム」の描写が続く。が、「オカン」が最後の闘病生活に入ると、リリーは何の躊躇いもなく最後の一枚を脱ぎ捨て、リリーの「文章」と「心」とがぴったりと重なり合う。作家なら誰だって、この赤裸々な瞬間をこそ、最も恐怖するものだろう。なぜといって、それは作品が作品であることを止めてしまう危険な瞬間でもあるからだ。しかしリリー・フランキーは、彼だからこそ可能な離れ技で、いや、もう技ではない魂の叫びといったもので、小説がどうとかこうとか論じているウンコどもの向こう側へ突き抜けていく。自意識をこねくり回している凡百のウンコたちの頭上を一気に越えていく。その越えていった先で、リリーとオカンは、一番深い再会を果たすのかもしれない。

きょう、ママンが死んだ。

「オカン」ならぬ、「ママン」が死んだ、の一文で始まる『小説』があった。間違っても、この「オカン」と「ママン」を並べて論じるウンコにはなるまい。勿論、あの小説を描いたノーベル文学賞作家には、彼なりの「死」に対する深い良識があったことだろう。が、やっぱり「オカン」と「ママン」とは、どうしても、倫理的に並べられないのだ。

夜勤の職場でリリー・フランキー「東京タワー」を読み始めた零時過ぎ、この本を勧めてくれた友人から携帯にメールが入った。
簡潔に一言。

「うんこもらしたわ」

とあった。
どうやら電車の中で漏らしたことの実況報告のようだ。彼は毎晩の酒がたたってか消化器官に不具合があり、町中でうんこを漏らしてしまうこともしばしばだと言う。新しいパンツを買う金に困っていると言う。いつも別な友人からヨーグルトを食べるように注意されている。

「うんこもらしたわ」

そんないかにもリリー・フランキー的なエピソードに誘われるようにして読み始めた「東京タワー」を一日で読了。出だしから最後まで幸せな読書体験だった。夜勤明けでドトールに場所を代え、集中して読んでいたが、笑いと涙を堪えるのに必死だった。というか、多分堪えていなかった。傍から見たら不気味な読者だったろう。ちゃんとそういう読者になれた。その幸福感だけでいまはいっぱいという感じ。

高橋源一郎が文学界で不気味な連載をやっている。
小説の死ということを、この人は、いよいよ本気で証明しにかかっているかのようだ。
文壇における淀川長治を目指したいと言い、小説愛を誰より声高に叫んできた人だけに、いま彼が語ろうとしている言葉は軽くはない。だが、いまのところ、リリー・フランキーの「東京タワー」が、高橋源一郎の言葉を圧倒しているように思う。きっと高橋源一郎も、連載の最後では、言葉を裏返してくるんじゃないだろうか。

これについてもまた、ちゃんと書いてみたい。(最近そればかりだが……)

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