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副題の理由

当ブログのタイトル『元気な文学』に『創作ノート』という副題をつけてみる。元々このブログをやり始めた理由は、来年3月までに自分で小説を一つ書く為に、いろいろと思考を深めておく必要を感じたからだった。言ってなかったけど、実はそういうことだった。書評的な記事が多くなっているが、当初は、具体的な創作に関するネタやメモもどんどん書いていこうと思っていて、「創作ノート」という専用の書庫を用意していたのだが、いつまでたってもこの書庫に記事が入ることはなかった。なぜだろうか? と思って考えてみたら、言ってみればこのブログ全体が「創作ノート」みたいなものになっていたから、敢えてその中に専用書庫を用意する必要はなかったらしい。そういうことならと思い切って、分かりやすくブログの副題に『創作ノート』とつけた次第。ところでよく言われるように、「小説について考えることは、小説を書くことと同じだ」という言い回しがあるけれど、現時点での僕は、小説について考えることと、小説を実際に書くことは、似ているけどちょっと違う作業ではないかと思っている。

それはいいとして、当ブログを書いていて日々思っていたことがあって、僕のスタンスとしては、このブログをまず個人的なものであると考えていた。なんと言えばいいか、自分に興味のあることを、自分に向けて書くというか、その時々にどう思考が働いていたか、何にどのように感化され、考え方に変化が生じたりしたのか、いつでも実感を伴って振り返れる程度に、メモを残しておくという感じ。とは言っても、それなら何もブログになど書いて公表せず、個人的なノートに記しておけばよいのではないか、とも思う。実際、そういうノートも付けている。が、やはりブログに書く、という効果は他にあって、たとえ一日に1人だったとしても、訪れて下さる心の広い読者の方がおられるという事実があるからこそ、それなりに読める文章として整理しなければいけない、という心理が働く。全くもって自分だけが理解できれば良しとする文章というわけにはいかず、「読者の方の目」を意識して、前提から結論めいたところまで一貫して書いておこうということになる。とは言え、僕の記事はどちらかと言えば一貫性がないが。ともかくそれでも時には一つの記事を3時間くらいかけて書くこともある。こういう姿勢はやはり、個人用のノートでは出てこないから、ブログの効果だと思っている。また、読んでくださる読者の方に感謝の念を感じ、その存在に励まされてもいる。自分が小説を書くとなってもやはり、良い小説というのはすべからず著者と読者の関係性の中で成り立つものだと思うので、その準備としての当ブログも、そうした関係性の中で書かれることは、意味があることだと思う。とは言え、やはり全体的には、自分向けの、堅苦しい記事が多くなってきていることも否めないが。

これまではどちらかと言うと、純文学という大枠として考え、書いてきたブログを、今後はそれだけに留まらず、自分の書く小説のネタ的なことも含めて、記事にしていこうかと思っている。ので、そういうネタ的な記事は、やはり「創作ノート」という書庫に入れていこうかと思う。今のところまだ何も書いてないけれど。そしてこの書庫に関しては、とりあえず試運転的なものとして、ファンのみ公開ということでやっていこうかと思っています。

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言葉の性質がリニア(線的)である、ということはこのブログで何度か言ってきた。阿部和重の『公爵夫人邸の午後のパーティ』の原文で、実際に確認もしてみた。もう一度簡単におさらいすると、現実世界では共時的に感得される世界が、言葉に置き換えると、通時的にならざるを得ないということだ。映画ならスクリーンの平面に一時に示される景や音が、言語にすると時間差が生じるということである。ここに小説家の言語に対するジレンマが生じる。二次元を三次元に再構成する闘いが始まる。この闘いに、ヌーヴォー・ロマン作家のクロード・シモンほど意識的に取り組み、突き詰めた作家を僕は今のところ知らない。例えば『ラ・パルス』の、どの箇所でも良い。見れば一目、その言語の奇形(フリークス)ぶりに目を見張るだろう。実のところ僕も、まだこの小説を、単行本にして最初の10ページくらいしか読んでいない。そこに書かれているのは、翻訳されているということもあって、どうやら日本語であるらしい。また、単語のレベルでは、難解な言葉はそれほど使われていない。にも関わらず、ぼくは10ページ読んでみても、何が書かれているのか全くほとんど分からない。どうやら何となく推測されるのは、何者かがホテルらしき建物の一室にいるようで、その人物が、ホテルの中の様子を観察しているらしい。椅子があって、ソファがあって、机があって、などと。しかし当然ながら、クロード・シモンの手にかかると、たったそれだけのことが、非常に重層的な文章として粘っこくなる。というのも、クロード・シモンの場合、ただ視覚的なものだけでなく、意識に生起するものをも、三次元化しようとするからだ。少し引用してみよう。これは部屋の壁にかかっている地図と、その地図から連想されたものの描写ではないかと思われるが、誰がこの地図を見ているのかも、ここに出てくるアメリカ人が何者なのかも、全く分からない。


窓の左の羽目板(部屋の隅に置かれた、タイプライターをのせた小テーブルの上)には市街地の地図があり、家々のブロックは黄色で示され、街路は規則正しい市松模様をなしていて(「……まるで格子のはまったマンホールの蓋みたいだ」と、アメリカ人はいうのだった、「そしてそれをもちあげたら、その下に、誘惑的な見出しでいっぱいの古新聞――古いといっても、つまり一ヶ月ぐらい前の古新聞――に包まれた死産児の屍体が見つかるにちがいないのさ。そいつがこんな悪臭をはなつのさ、あばら屋の階段の花キャベツとかねぎとかじゃないし、水はけのわるくなった便所でもないんだ、ただの死肉、印刷した紙にくるまれた、頭でっかちの胎児、医者たちの意見がまちまちだったために、月たらずで死んで、ことばの経帷子を着せて下水へほうりこまれた、ちっちゃな巨頭動物にすぎないのさ……」、するとそのとき、テーブルの向こうで、宗教改革時代のドイツの司教ふうの椅子(というかむしろ聖座)に座っていた、学校の先生みたいな顔をした男が、非難するような顔つきで彼をにらみつけて、「おい、やめろ!」といったが、寄宿舎食堂用の細長いテーブルのはしに、片方の尻だけ腰かけたアメリカ人は、ばねつきの挿弾子に最後の弾丸をつっこみ終え、挿弾子を彼の大きなピストルの銃床にすべりこませながら、「……自由主義国の新聞特派員の熱狂的な一団によって、印肉リボンにタイプされた、何キロメートルもの長さの熱狂的な文章という臍の緒で扼殺され、くるまれたひどい臭いのするミイラさ。革命の胎児病、尊敬すべき新聞の後援と評価っていうやつの犠牲さ、たとえば≪マンチェスター・ガー……≫」といい、そこで学校の先生、「おい、いい加減にしろ」、するとアメリカ人は立ち上がって(尻を引き、すべり降りて、上体を起こし――というかむしろ折り曲げていたのを伸ばし、上下にひろげ、ピストルをズボンのポケットにつっこみ、背広のボタンを臍の上でとめ、窓に近づき、バルコニーに身を乗り出しながら、部屋のなかにいる人間に背を向けたまま、まるで天にむかっていうように(といってもやはりスペイン語で)、「だとするとその埋葬はいつなんだ?」といい、学校の先生は彼をじろりとにらみ、それから肩をすくめ)、並行するその大通りはいずれも、正方形をした規則正しい家々のブロックを斜めに裁ち切る対角線で横切られ…………云々


と、ある。思ったより引用が長くなってしまった理由は、この奇形(フリーク)な文章の、切れる箇所がなかったからだ。ちなみに念のため断っておくと、最後の<…………云々>というのは僕が書いたもので、実際にはこの文章はまだまだ続く。この文章を正確に理解することは難しい。というのも、()の中に、何度も()が挿入されているし、しかもその中に、「」とか――も挿入されているからだ。なぜ、引用があれほど長くなってしまったかと言えば、この文章の一番外側にある()の始まりが、最初のほうにある市松模様をなしていて( ←の( で、それに対応する閉じの )は、最後の方の、肩をすくめ) ←の )である。面倒だがここに引用した文章を、言葉だけ取り払って記号のみに置き換えると、次のようになるだろうか。

()(「」「―― ――」()「」「≪≫」「」(――()「」) 

こういう具合であるから、表面的にはとても読みづらい。それでだけでなく、登場人物や意識の流れも唐突であり、それらは示されるだけで説明されない。ぼくは、表面的には、ここに書かれている文章の意味が判然としないが、クロード・シモンが何をやろうとしているのかは痛いほどよく分かる。壁にかかったたった一枚の地図からこれほどまで膨らんだ連想の三次元を、無理やり二次元(言語)に変換して投影しているのである。だからこの文章からは、その無理な作業での軋みや歪みがギュウギュウと音をたてている。思わず笑ってしまう。これは言葉の変態ではないかと思う。二次元というリニア(線)に無理やり詰め込まれた言語が、その居心地の悪さからムチャクチャに足掻きまわった挙句、奇妙な脱皮(変態)をして、上記のような突然変異的奇形(フリーク)の三次元的言語に化けたのである。そう、これは、サミュエル・ベケットの文章にしてもそうだが、一代限りの突然変異(固体)であり、だから孤独でもある。試みはむしろ、ベケットを対照的なのだが、やはりこの文章が言語の限界を際立たせているのは、次のような理由からでもある。人間の注意力には制限があり、この文章は、人間の注意力の量を超えているのである。認知心理学講座「記憶」によると、情報を能動的に処理する場合、つまり文章を読む場合、情報は一旦、短期貯蔵庫に保持される。短期貯蔵庫の容量は小さい為に、一遍に多くの言葉を保持しておくことはできない。しかしクロード・シモンの文章は、短期貯蔵庫に保持すべき情報量が多すぎるので、理解・記憶される前に消えてしまい、とても一通りでは読み通せないのである。これはやはり、無理というものだろう。だがその無理を通すところに、言語の限界性が際立ってくるわけである。ともかくこの『ラ・パルス』、読了するのが大変そうだ。

吉村萬壱の文学界新人賞受賞作『クチュクチュバーン』と、芥川賞受賞作『ハリガネムシ』を続け様に読む。

『クチュクチュバーン』

「奇想に次ぐ奇想で選考委員の絶大な支持を得た文学界新人賞受賞作」と書かれている帯で小指を切ってしまう。ベケットの『モロイ』を読んだ後では、不条理物のこうした小説も、何か児戯のようなものに感じられてしまい、もう一つ積極的にというか、素直に評価できない心の狭い僕だが、新人賞の水準から言ってやはり異色でパワフルな作品であることは否定できない。いきなり六本腕が胴体から生えてきた母親の描写は安直にカフカの『変身』を思わせもするが、書き方、つまり世界の捉え方はちょっと違うと思う。これは後述しよう。また、馬や虫など他の生物、あるいは机や広辞苑などの無生物と融合を繰り返す人類の大異変は、永井豪の『デビルマン』を思わせ、徹底して救いのない世界のあり方や、世界の終末まで見届けるスケールの大きさも『デビルマン』に似ている。それはいいとして一つ気になったのが、単行本57ページにある次の文章。


ところで鳥人間たちは、見ることも聞くことも出来ず、ましてや生物ですらなかったのだ。彼らは凧であり、徹底した無機物で何の働きも為し得ない。それならば、シマウマ男こそ『我々』にとって限られた観察の窓であり、彼にこそ付き従う価値があろうというものではないか。


シマウマ男とは、シマウマと同化した男のことでそのまんまだが、このシマウマ男は、滅び行く世界を最期の瞬間まで目撃し続ける、目の役割をしている。その設定自体は良いのだが、上の文章に唐突に紛れこんだ『我々』とは、どの我々のことを指しているのだろうか? シマウマ男の目を通じて世界を見ようとする『我々』とは、著者と読者のことなのか? いきなり紛れ込んだこの『我々』の視点は、上の一箇所しか出てこなかったと思う。細かい指摘のようだが、こういう不条理劇を描く場合、視点が何よりも重要なものとなるだろう。だから不注意に紛れ込んだようにも見える『我々』という視点は、簡単に看過することができない。カフカやベケットの小説の最大の特質は、描かれた不条理な世界をメタ化する視点が絶望的に成り立たないことである。そのことによって不条理は、初めて本質的な不条理になる。だからこの『我々』のような、一段高いところから俯瞰する超越者の視点は、作品にメタレベルの要素を持ち込んでしまう恐れがあるから、不用意に使われるべきではないと思うのだ。そうして考えてみると、この小説には他にも、俯瞰するような視点が散見される。そしてここに描かれる世界は確かに不条理だが、限られた登場人物(登場生物?)が都合よく複数回使い回されたりするので、意外と狭く閉じられた世界に感じられてしまう。この辺の問題を著者がどこまで意識的に書いていたのかが気になるところだった。


『ハリガネムシ』

社会的な常識が最初から成り立たない不条理小説『クチュクチュバーン』でデビューした作家の、その問題意識は文学的に正しい。だが、そのようにデビューした作家が、その後、どのような作品でキャリアを重ねていくのかは関心のあるところだ。毎回、不条理小説を書いていて専業作家として食ってけるのだろうか、というさもしい関心に過ぎないが。で、この『ハリガネムシ』を読むと、きちんと社会の常識に即した世界が描かれていて、妙に納得した。と言っても、倫理を教える高校教諭がソープ嬢と出会ったことで、暴力と性の抗いがたい誘惑に引き込まれ、どこまでも堕落していくという、社会的な常識や倫理に反した物語ではあるが。でも社会的な常識・倫理に反している、と読めることはつまり、社会的な常識・倫理の成り立つ世界で書かれているということで、『クチュクチュバーン』とは根本的に違っている。
ぼくがこの小説を読みながら考えざるを得なかったことは、こういうことだった。
小説とはつまり、言葉を組み替えることである。言葉を組み替えるということは、その言葉で書くということでもある。つまり小説がなぜ、音楽のようでも絵画のようでも演劇のようでも映画のようでもなく、『言葉』で書かれた芸術である必要があるのか、と言えば、小説とは『言葉』を組み替える芸術だからである。普段遣われている『言葉』を、普段使われていないような『言葉』に組み替える為には、普段使われている『言葉』を借りて使用しないと意味がない。つまり、同じ物を別な物に見せる時、本当に別な物を見せても意味がない。同じ物を使って別な風に見せるから意味があるのだ。それはあたかも、宿主に寄生して、体内から宿主の組成を変質させていく行為と似ている。そしてそれは、つまり言葉を組み替えるとは、取り巻く世界への認識の仕方を変質させるということでもある。言葉とは認識のことだから。ということはつまり、社会の常識を疑い、顛覆させるということにも繋がってくる。これが小説の使命だが、そのような使命を負った時に、とりわけ現代小説の作家たちが、こぞって『暴力』と『性』の題材に取り付くのは一体どうしたことだろうか? 誰も彼もが、それしか描くことがないかのように、『暴力』『性』に飛びつく。こういうのを、個人の作家を越えた時代的な現象とでも言うのだろうか。無論、社会常識を根本から顛覆させる場合、『暴力』と『性』が一番手っ取り早く、また切実な題材であることは理解できるが、だからと言ってこの状況は瀰漫(びまん)ではないか、とも思うのだ。誤解されると困るが、ぼくが言っているのは、『暴力』『性』という題材を扱うことに対して、倫理的な抵抗感を感じている、ということでは全然ない。そうではなくて単に、そういう題材が自覚的にか無自覚的にか大氾濫している状況に、唖然としているだけなのである。この『ハリガネムシ』という題名は、カマキリの体内に宿る寄生虫ハリガネムシを意味しているが、主人公の高校教諭は自分の体内にハリガネムシのような、『暴力』『性』への衝動が寄生していることを感じ、そのことに抗えない。そして底なし沼のような『暴力・性』の世界へ沈み込んでいく。つまり体内に宿した【ハリガネムシ=暴力と性への反社会的な衝動】が、【言葉=世界への認識】を組み替えていく、非常に正統的な文学作品である。そうした文学的態度の是非とは別に、文章レベルで断片的に面白い箇所が散見され、『クチュクチュバーン』の作家の別な一面が見れて面白かった。

ともかく、その文学的な意識は明確な作家だから、注目に値する作家であるだろう。。『バースト・ゾーン』という長編傑作があるので、いつか読んでみたいと思う。

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世田谷中央図書館には、一般利用者が閲覧できる書棚とは別に、「保存庫」なる場所がある。これは地下にある資料室で、一般人利用者は入ることができない。その都度、司書に注文した本を持ってきてもらい、カウンターで受け渡しされるのだ。僕が借り出ししたサミュエル・ベケットの本は、その保存庫にあった。なぜノーベル文学賞作家の本が一般閲覧の書棚にないのか不可解だが、何か重大な意味が隠蔽されているのだろうか。読むと意識が狂う危険書だから、という意味だったとしたら、仕方のないことだろうが。

とにかく借り出した『世界文学全集 〜20世紀の文学〜 27巻』には、ベケットの小説が数編おさめられている。そして本日、その中の『モロイ』を読了し、またその勢いを借りて続け様に『追放された者』という短編も読了した。というか、もしそれぞれの小説の頭に題名が付されていなかったとしたら、ぼくは『モロイ』『追放された者』を、一つの作品と勘違いして読み進めていたかもしれない。それぐらいベケットの言葉は徹底した異生物の言語であり、作品の垣根を軽々と越えた、ベケット語としか言いようのない代物となっている。この読書体験は、事件である。読んでしまった以前と以後とで、自分の中の何かが変質しまっているという意味で。この作家の言葉は何だろうか? 

言語とは本来、都合のいいものである。例えばこういうブログの記事などを書いていても実感するのだが、言葉とは、1人で勝手にサイコロを振って、1人で勝手に上がりを宣言するスゴロクのようなものだ。今この瞬間にも、言葉がどこかから生まれてきて、指の運動をキーボードに伝え、画面上に定着していく。つまりカーソルと共に言葉のコマがゴールに向かって進んでいくのだが、このスゴロクのルールを決めたのも、ゴールを決めたのも、その当人であるから、読者は、その1人上がりの様を眺めるしかできない。書き手はいつも、いきなり上がり、いきなり勝利宣言するのだ。言葉というのは、生まれた瞬間から、そうした自律性を免れ得ない。この自律運動をボロクソに粉砕したのが、ベケットの言葉である、というふうにとりあえず言えるかも知れない。コマの進む基盤の、マッピング感覚がない。規則性がない。ゴールもない。

実はベケットの小説については、いろいろと言いたいことが尽きないのだが、あんまりにも山ほどあるので、他の小説の感想みたいには書けそうもない。ので、今回はこれで止めにしておこう。

もし、究極に奇妙な読書体験をしたい物好きな方がいたらなら、ベケットをどうぞ。

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サミュエル・ベケットの『モロイ』を読み始まった。まだ半分しか読んでない。中原昌也が好きな作家だとか、保坂和志も好きな作家だとか、いろいろ妙な噂を小耳に挟んできたが、やはりこれはとんでもない小説だ。これまで読んできたどんな小説とも絶望的に異質で、むしろ快い。この小説に書かれている言葉が、この小説に書かれている言葉のみによって支えられているような。日本人ではない作家だからという意味ではなく、全人類的な意味での根本的な外国人(異邦人)が、未知の言語で呟いている独り言に耳を傾けているような、不思議な読書体験である。「消尽したもの」だったか、ジル・ドルゥーズがベケットについて書いた本は。「消尽」したもの。もう全ての可能性・資源が使い果たされた後に遺された言葉の滓みたいなものでベケットの小説はできている。少し引用してみよう。


そして冬のあいだ、ぼくは外套の下に新聞紙の細い帯をからだに巻きつけ、四月になって大地がほんとうに目覚めるまで、それを取り除かなかった。≪ザ・タイムズ紙≫の文芸付録は、丈夫で水がとおらないから、その目的にうまく適していた。屁をしたって破れなかった。どうしようもないんだ、ほんのちょっとしたことでもぼくの尻からはガスがもれる、だからどうしたってときどきそいつのことを話さざるをえないのだ、あんまり気持ちのいいものではないけれど。ある日ぼくは屁の数をかぞえてみた。十九時間で三百五十回の屁、つまり平均して一時間につき十六回以上ということわけだ。いずれにせよたいした数ではない。十五分ごとに四回の屁だ。とるにたりない。四分ごとに一度の割りにもならないのだ。まったく信じられないくらいだ。まあとにかく、ぼくはめったに屁をしないようなものだ、屁について語る資格なぞない。数学がわれわれの自己認識にいかに役立つかは驚嘆に値する。


などとある。「モロイ」の中では珍しく読みやすい場面だ。何しろ、意味が繋がっている。でもこんな箇所を引用して何の意味があっただろうか。ともかくどこを引用しても、同じ事だろう。そして小説というのは、一般的に、恐ろしく誤解されていることを知る。一般には、偏ったイメージで流通している。ベケットという作家がいたことを抜きに、あまりにたくさんの小説が無邪気に書かれている。と驚きながら、「モロイ」を読み進めている。ベケットは、底の抜けた言葉によって、言葉の底を支えてきたのではないか、とは保坂和志の言葉だが、まさにそのように思う。読まなければいけない小説が、まだまだ山のようにあるようだ。読めば読むほど、いかにこれまで読んでこなかったかが分かる。


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