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文学

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「TAKESHIS'」の記事で一つ書こうと思っていたことが抜け落ちてたので補足。

タケシがタケシという人物を撮ったのはナルシズム的欲求からではないだろう。そうではなくて、タケシを撮った映画監督がたまたま北野武だったのだ。その結果としては、本人が一番本人を知っているという意味で、この被写体と監督の組み合わせは最高の相性だったと思う。また、本人が本人を撮るから、本人しか知り得ない「夢」というコンセプトを導入することもできた。しかし「夢」とは、醒めた状態での内面の自意識に比べ、なんと滑稽だろうか。無邪気で、不気味でもある。

ともかく、タケシを撮ったのがたまたまタケシだったというのは、「タケシ」は個の意識に留まらない全体的な意識の上に成り立った存在だという意味である。簡単に言うと、タケシはタケシだけのものではなくて全員のものである、ということ。←なんか、こういうこと書くのは恥ずかしいな。ともかくここに、先の記事でも書いた「鏡像」把握の問題が絡んでくる。タケシとは一体誰なのか? という輪郭を、タケシその人が誰よりも欲したからこの映画を製作しただろうか。あるいはそうかもしれない。だがそれよりも、日々TVに露出してしまっているタケシの催眠状態について、タケシなりに弁明を試みる必要があったのではないか、と思うのだ。ここで「夢」というコンセプトを導入したのは本当に素晴らしいというか、TVに自動化され催眠状態にあるタケシの、素直な、ある意味で開き直りともとれる告白だったのではないか、と思う。そういう意味で倫理的だ。

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文学の死が取り沙汰される状況の中でも、将来何か大きな仕事をやってみせるのではないかと可能性を感じさせるのが阿部和重で、一応彼の作品は全作読んでいる。「シンセミア」のような大作を余裕たっぷりに書き上げてみせる底知れない筆力は頼もしいと同時に不気味でさえある。そしてそのような大作もさることながら、新潮社の文庫版「ABC戦争」におさめられた『公爵夫人邸の午後のパーティ』が特に印象深く残っていたので、今回、衝動に駆られて再読してみた。

再読したことで一読目に気がつかなかったことがいろいろと見えてきたので、ここに記しておこうと思う。短編ながら、パラレルで進む二つの物語が、繁華街のスクランブル交差点(渋谷とは書いてない)で起こる事故へ収斂していく筋立てが見事にカチッとはまっていて、また事故現場で舞う一万円札を浮浪者が見つめる最後の一文の「落ち」も完璧だ。こういうウェルメイドな構成物を書かせるとミステリ作家並の腕前を発揮するところが何とも頼もしい。
ところでこの作品の特異な点は、二つの並行する物語をそれぞれ牽引している2人の女に、主体性がほとんどないことだ。主体性がないにも関わらず、というか主体性がないことをいいこととして、物語は2人の女を置き去りにしてどんどん進んでゆく。が、それでいて物語の軸は2人の女から一つもずれない。一つずつ具体的に見ていってみよう。二つの物語のうちの一つは、表題にある通り、公爵夫人邸のパーティを巡るものである。あらゆる性的快楽を味わい尽くした為にセックスレスに陥った楠木夫妻の妻の方が、新たな刺激を求めるために、実体の分からない乱交パーティらしきもの(公爵夫人のパーティ)へ参加する。この参加は、性的欲求を満たす為という楠木夫人の初動のベクトルに導かれてのことだが、それはあくまで初動でしかない。旧い屋敷とさせるパーティ会場へ着く前から、楠木夫人は自分が場違いなところへ来てしまったのではないか、と不安になり、ほとんど無力の状態、つまり自発的なベクトルが消えた状態になり、ただ窓辺で突っ立って会場の様子を傍観するばかりとなる。そこへ黒いタキシード姿の男が表れ、いきなりパーティの主催者である公爵夫人の暗殺計画を打ち明けだす。無力な楠木夫人はまるで事件に巻き込まれた被害者のようにタキシード男の奇妙なおしゃべりに付き合わされる。

【ちなみにここで少し話が逸れるが、この場面でタキシード男が延々と話している内容は、無意味に見えて実は深い意味が隠されている。男が執拗に繰り返して話すのは、公爵夫人を慕ってこの会場へやってきた来賓への罵倒である。それがどういう罵倒かと言えば、仮装パーティでありながら、みんな公爵夫人の好みに合わせた同じような格好で参加していることへの批判である。公爵夫人の好みの姿への模倣、その模倣も徹底化すれば逸脱して面白いことになるかもしれないが、逸脱を恐れるあまり適当に似せるだけしかできない、出来の悪い模造品しか生まない来賓たち。またタキシード男は続けて、「宴会主義の打倒」つまり「公爵夫人の暗殺」について口にする。一体この狂ったタキシード男は何を言っているのだろうか? 再読してはっきりしたのだが、それを解く為の簡単な方法がある。実は、「公爵夫人」のところを「小説」に置き換えて読むと、全てすっきりと意味が通るのである。この記事の【 】になっている部分の「公爵夫人」のところを「小説」に置き換えるだけでも明瞭だが、原文で試すとよりはっきりする。このタキシード男とは実は阿部和重の化身であって、彼は小説の劣悪な模造品しか生もうとしない来賓たち(他の作家連中)を批判しているのだ。そうであってみれば実はこの公爵夫人のパーティとは、いわゆる文壇パーティのことを指しており、文壇における悪しき宴会主義を打倒しようと阿部和重は言っているのである。だから公爵夫人暗殺とは、そのような悪しき宴会主義と劣悪な模倣によって支えられた「小説」ならば、自分が息の根を止めてやる、という大胆不敵な挑戦状でもあるのだ。一旦そのように読めてしまえば、いかにも阿部らしい、明白で過激な宣言であると分かるのだが、しかしそのような意味が隠されていることと、この小説の面白さとは一切無縁であって、こんな謎解きにはほとんど意味がない】

で、話を元に戻すと、公爵夫人のパーティにおける楠木夫人の、ほとんどわけもわからず「受動的」に状況に取り込まれていく物語の進め方そのものが、この小説の面白さになっている。つまり、カフカの『城』でも同様のことだが、この小説には、大きな俯瞰した視点、見取り図のようなものが存在しないから、絶えず現場で生起することのみが情報となっている。だから読者は、楠木夫人と同じように、この小説の中を曖昧に彷徨うことしかできない。一体、公爵夫人とは何者なのか? そもそもこれはどういうパーティなのか? そしてこの屋敷が全体としてどういう構造の建築になっていて、どこにあるのか? こういうことが、読者にも分からないから、読みながらどこか釈然としない見通しの悪さが付き纏う。勿論この見通しの悪さは、阿部和重が戦略的に取った方法である。サーチライトが照らした範囲内は見えるが、それ以外は暗闇で何も見えない。絶えず、目の前しか見えないようにこの小説全体が書かれているから、目の前しか見えない断片の全体としてこの作品を受け止めるしかない。しかしここで結論めいたことを言う前に、この小説のパラレルする物語のもう一方を簡単に見ておこう。

もう一方の物語では、ジュンコという女子高生が出てくる。そして彼女はある意味で楠木夫人に増してベクトルを持たない無力な女である。一応、ゴトウという銃の密売人に、合意で援交の相手として買われているわけだから、初動のベクトルとしては、金目的か性目的かがジュンコにもあったわけだ。しかしその意志すらもほとんど曖昧なまま、ゴトウのベンツに乗せられて運び去られ、森に包まれた平屋のアジトへ連れ込まれる。まるで最初から誘拐された被害者のように「受動的」なのである。そしてそのアジトで起こる奇妙な事件の一部始終については、ここでは詳しくは触れない。ただ、銀行強盗から帰って来たばかりの一味と遭遇し、激しい銃撃戦に巻き込まれ、生き残った薬の売人である青年と大金をせしめて逃げ去るのである。このアジトで起こる一連の緊張感に溢れたサスペンスの見事さを支えているのは、一体なんだろうか? タランティーノの『レザボア・ドッグス』に出てくる男どものように、互いに引くことを知らないゴトウ、クドウ、強盗一味、まぬけな猟師など、銃を手にした男どもが、一触即発の緊張を演出しているのは確かなことだが、その一番の基底を支えているのが、実は「受動的」なジュンコの視線なのである。これも「公爵夫人のパーティ」のパートにおける楠木夫人と同じように、ジュンコというベクトルを欠いた、いわば純粋視線というか、無垢な視線というのがあって、この視線はやはり、徹底的に現場そのものに向けられている。地の文が状況を概観的に、俯瞰的に説明するということは一切なく、あくまでもジュンコの視線、あるいは聴覚などの器官が、目の前の現場しか照らさないサーチライトとして機能していて、読者における情報もそこからしか入ってこない。そして、その現場性への阿部のこだわりというか、細心に払われた注意は見事としかいいようがなく、風の吹き付ける音や、停電のもたらす暗闇、順番に現れる登場人物への視線の移行など、まるで自分がその場に居合わせているかのような錯覚をもたらす。そしてだからこそこれほど豊かなサスペンス世界として立ち上がっている。

以上、二つのパラレルで進む物語が、それぞれ楠木夫人とジュンコという、現場性に徹底した純粋視線(サーチライト)によって立ち上がっていることを確認したわけだが、阿部和重がいかにその点に注意を払って書いたのかということの証拠として、今作では奇妙な文体が多用されている。というのは、「――」でつなぐ文章だ。例えば、冒頭部分から一部引用すると、

……黒のニット帽を眉毛がかくれるくらいすっぽりかぶり、真っ黒な――曇天なので辺りの景色はあかるさがなく、薄墨でぬられたような色に染まっているため、つやが消され、いっそう黒さの濃度が増して深みさえ感じさせる――ウール地のオーバーで全身をつつんだロング・ヘアーの男なのか女なのかよくわからない――あるいはオカマかもしれない――人物が足音もさせずに横からすうっとあらわれ、とおくに――これもまた真っ黒い――シルエットが見える建物――その黒翳のなかにはカーテンのかかっていない部屋の窓からもれているらしい黄色い光がほんのちいさくではあるがぽつりぽつりと灯っている――をゆびさして、あそこへゆくにはボートにのる以外はないのですか? とたずねてきたので……

という風に書かれていて、はっきりと「――」の多用が目に付く。これは楠木夫人が屋敷へ向かうところで、タキシード男に声をかけられた場面の描写であるが、しかしなぜ、このように「――」を多用しなければいけないのだろうか。妙に読みづらいだけではないのか。しかし、何も阿部は、気をてらってこんな書き方をしているわけでは全然なくて、上記したような現場性の問題をいかに文体として立ち上げるか、意識的に取り組んでいるのである。つまり、写真や映像であれば、現場の光景というのは一見すれば分かるようになっている。しかし文章というのはリニア(線的)であるから、あれもこれも一遍に描く事は原理的に無理であり、ふだん我々が実際に世界を感得しているようには、文章にできない。例えば映画ではスクリーン(平面)を一見すれば同時的に分かる光景を、文章の場合、その画面の隅から隅まで描くのに、自然の法則に反した時間差がどうしても生じてしまう。その時間差をなるべく感じさせない文章が一般的に上手いとされ、小説家も苦心するわけだが、阿部の場合、そのような錯覚を利用した名文を回避して、不自然を不自然のままゴツゴツした文章で提出し、苦労して一文を読み終えることでスクリーンを見せるようなやり方をしている。三次元を二次元に無理やり投影した結果として生まれた歪さや軋みのがある。ここには小説の限界というか原理を剥き出しにして見せるような不思議な感覚が漲っている。しかしこの手法で作品全体を貫くまで露骨なことはしれおらず、平屋のアジトなどは、スムースに流れるような文章で描かれてもいる。そういう意味では、阿部としてもこの文体を実験的に使用するに留めているのか、あるいはこの小説における創作上の問題意識を読者に宣言する程度で済ませている、とも言えるだろう。ともかくこういう小説の書き方をする阿部だからこそ、公爵夫人(=小説)のパーティに並み居る来賓ども(無自覚な作家連中)を批判し、公爵夫人(=小説)の暗殺を企図するのだ。


またしても長い記事になってしまったが、最後にもう一点だけ阿部小説の特異な点を指摘しておくと、彼は小説にリアリティを持たせるとき、自然主義的なリアリズムの手法よりも、戯画的、映画的な、フィクションの方向へ過度な重点を置く。そもそも舞台が現代であると思われるこの小説において、「公爵夫人」という時代がかった言葉は最初から違和感がある。また、強盗一味がそのリーダー格を呼ぶときに「旦那」と口にするが、「旦那」なんて言葉もかなり漫画的だ。こういうフィクショナルな志向を過剰に強めておきながら、そのことのもたらす違和感が、奇妙なリアリティに通じる。リアリティとはつまり、他の作家のどの作品においても、違和感のことなのではないかと思うのだ。

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ここ4日間ほど高熱に魘(うな)されていた。「魘されていた」というと大袈裟だが、38〜39度が常態で、ベッドで横になってる分には苦でもなく、ただひたすら夢を見ていた。この間、テレビを集中的に見ていて、いつの間にかつけっぱなしのまま眠るということを繰り返していた。すると、テレビから聞こえてくる言葉や音が夢の中に浸入してきて、現実とも夢とも判別のつかないないような「夢」を何度も見た。浅い眠りの中で、聴覚だけ醒めていて、外界の音を拾っては夢の中に持ち込んで、現実に似た夢を構成するのだった。だから例えば、先日放送されていたビートたけしの教育番組(3時間スペシャル)、あれをぼくはどこまで実際に見て、どこまで夢の中で見たのか曖昧に感じている。ともかく昨夕やっと平熱になり、煙草が吸えるようになって、仕事にも復帰し、夜勤明けで今朝、衝動的に「TAKESHIS’」を観た。これがあまりにもタイムリーな映画だった。


ここで最近読んだ本の中から幾つか文章を引用したい。編集も加えながら。


「緊張病」というのは外から見ると死んだようにひたすら眠っているように見えて、起こそうとしても反応がないという症状で、広い意味での「統合失調症」(精神分裂病)の一種であって、「言ってみれば、筋肉が勝手に緊張の度合いや運動の仕方を決めてしまうので、主体はその筋肉の自動運動の中で囚われの身となってしまうのである。とくに、反応の無い状態は『昏迷』という独特の名で呼ばれるが、それはあたかも自由の利かないモビールスーツを着ているようなものだと思えばいいだろうか」
 緊張病は昏迷とその反対の激しい力を出す興奮を繰り返す。六ヶ月に渡って昏迷と興奮を繰り返したある患者は、そこからやっと抜けきったとき、
「醒めない夢を見ているようだった」と言った。

 我々は朝目覚めたときに、そこが夢の世界ではないことにすぐに気がつく。たった今まで真剣に夢を見ていたのに、夢だったのか、で済ませてしまう。たとえば夢の中でどこかへ行き着こうとして、どうにも行き着けないような夢を見ていたとすれば、いったん起きればもうそこに行くことなどどうでもよくなり、それがどこだったかも気に留めない。これはいささか節操を欠いてはいないか?

……なんとしても、そこに辿り着かねばならない。「運命」だから。ここに、「夢から醒めないでいる倫理」あるいは「昏迷の倫理」が開けてくるのである。しかも、この意味での「夢」は、もはや眠りの一種ではない。それは通常の覚醒よりさらに覚醒度が高い。すなわち「夢から覚めないでいること」は、「真に覚醒すること」へと、裏返しに倫理化されるのである。そして、覚醒して掟の世界に生きることは、むしろ、「惰眠をむさぼること」へと、反倫理化されるのである。

 実際、掟は、掟の信奉者を寝かしつけるものである。我々も、法律を遵守して生活しているが、それは法律によって自分の精神の一部を眠り込ませるためである。その状態は、分析用語で言えば、超自我と自我の間柄に属する。つまりそれは一つの催眠なのである。掟に従属するということは、起きていながら眠ってしまう催眠状態に自ら進んで陥るようなものなのだ。
 書くという行為は、起きていることを前提としている。人よりもはっきりと目覚めていることは、カフカの自己決定の一部であったと思われる。しかし彼は眠りたかった。それゆえ、彼は、眠りの外側を、催眠と同じ状態だと断じることにした。世間と一緒に起きていてどうするのだ? それは実は眠り込んでいることと同じなのだ。


以上引用した文章は、新宮一成の論考「カフカ、夢と昏迷の倫理」を、保坂和志が「小説の自由」という本の中で紹介したもので、それをぼくが孫引きした格好になる。
カフカの未完の小説『城』を読む時、読者は『城』が何の隠喩であるのか、そこのところがどうしても気になる。『役人』とは誰なのか? とか。でも、そういう解釈はできない小説になっている。未完だからということではない。この小説には俯瞰の視点が最初からないのだ。鳥瞰図のような、大きな引き絵がない。常に現場で起こることだけが描かれている。逆に言うと現場は描かれている。それはあたかも、サーチライトで照らした範囲だけはよく見えるが、それ以外は全く見えないということで、全体的な意味や視点が成り立たない。城とは? 役人とは? という問いたてに対応する大きな視点がない。これが醒めた夢のような不気味なリアリティをもたらす。覚めてしまった後では滑稽でしかない悪夢の中での必死さとは、紛れも無い本当の必死であるわけだが、しかしその時に自分に起こっている事態を論理的に把握しているわけではない。で、「TAKESHIS’」だが、これもそうではないだろうか。映画だけに、スクリーンに映るものは見えている。が、大きく解釈できる視点がない。というか、無理に解釈してもはっきり言ってあんまり面白くないだろう。岸本加代子はやはりタケシのお母さん的存在なんだなぁ、とかって言っても、そうかもしれないけど、それまでというか。
それより芸人「ビートたけし」をTVで見ていると、彼はほとんど眠っていると思う。ただ「ビートたけし」という名のパッケージをテレビ局に利用させているだけで、アンビリーバボーなんかでも、ほんのちょっぴり顔を出すだけのホスト役に収まっているし、TVタックルでも、激論に参加することはない。芸人たけしの眠りというのは、ほとんど投げやりのようでもある。惰性・惰眠と言ってもいい。もっとはっきり言ってしまうと、仮死状態である。この「死」は、彼の死生観、というと大袈裟だが、ニヒリズムから発生していると思う。事実、実人生においても命を投げ出すようなことを何度もやらかし、映画でも自殺を繰り返し、読んでないけどエッセイの類でもそのような死生観を隠さずに語っているはずだ。生死半々とは淀川長治の言葉だが、死を見据えて生を生きるというのが、タケシの色っぽさに繋がっているのだけど、彼はテレビおいてはもう隠さずに死んでいるように見える。そうとはっきり言い切れるわけではないけれど、大体においてそんなところではないか。こういうと彼が、いかにも無責任な男に聞こえるかも知れない。しかしそうではなくて、こういうことが言えるだろうか。彼の責任の取り方は、ちょっと普通の人と変わっているのである。無責任であることの、責任性なのだ。この感覚が分からないとタケシの映画は理解しずらいような気がする。
ところで話がどんどん逸れるので戻すと、今回の「TAKESHIS’」を観ていて面白いのが、タケシがタケシを演じるというコンセプトに、夢を見る感覚を融合させたところだ。なぜ、それぞれ別なコンセプトをドッキングさせたのか。というか、このドッキングはやはり天才的だと思う。芸人としてTV局の流れに自動化されているタケシというのがいて、このタケシは自動化されているゆえに睡眠(仮死)状態にあり、そこから醒めない夢が堂堂巡りするのだが、この夢はどれも断片化されたもので、何かに辿り着く、「城」に辿り着くという安易な救いのあるものではなく、断片断片をその都度見ることしかできないから、意味を求めることができなくて、全体それ自体として受け止めるしかない。そうして、断片断片において何度も飽くことなく繰り返される銃撃シーンや、京野ことみのいかにもタケシ的な肉体化された女優ぶりとか、執拗に登場してタケシを困らせる岸本加代子だとか、ゾマホンとか、松村、寺島進、ヤクザらなどタケシの好きそうなイメージが、いかにも夢らしい無邪気さと不気味さで何度も表れては消え、その度に観る者の中に確実に蓄積されていき、どこかでコップから水が零れるような仕方で、全体としての「量」を不意に感じさせる。この「量」というのは「説得力」と言ってもいいし、「リアリティ」と言ってもいいかもしれない。付け加えるなら、何度も何度も演じられるタケシの銃撃シーン、これも繰り返された『量』が、もともとの素直な何かを変形させている。つまり、無邪気なヒロイズム・ナルシズムであったものが、そうではなくて、むしろ投げやりなヒロイズム・ナルシズムにも見えてくる。ここでまた一つの仮題が思いつく。自分を自分で演じることの、つまりは自分で自分を受け止めることの、痛々しさとでもいうのか。『鏡像』というのがあって、生まれたての赤子は、鏡を見てもそれが自分の姿であることを認知できないという。が、そのうちに自然とそこに映っているのが自分の姿『鏡像』であることを認知できるようになる。タケシの場合、自分の『鏡像』をどこまで正視し、どこまで明確にその輪郭を認知できているだろうか。タケシが毎日楽屋で眺めている、被り物などしている『鏡像』は、本当にタケシ自身がタケシ自身を見ているものなのだろうか。もしかしたら数え切れないほど多くの視線がそこに混じってはいないだろうか。こういうことを言い出すと、ジェームス・ディーンとかリバー・フェニックスみたいに、ファンの期待の大きさやマスコミの作ったイメージに自分を見失ってしまった若者、みたいな伝説がちらついて困るが、人生の多くをメディアに晒され続けてきたタケシという存在もまた、その確かな自己像『鏡像』を把握することが本人でも難しいのではないか、という推測は自然に成り立つと思う。だから今作でも、ピエロというあまりに分かりやすい比喩が、その分かりやすさゆえに半ば告白的な作用を伴って使用されていた。という風に書き進めていくと、あたかも安直に『城』を見出した気になって困るわけだが、結局のところ、タケシのこうした繊細さ、脆さ、みたなものが、その壊れやすさゆえに危険に見え、怖いから死にたい、みたいな自暴自棄ともとれる死への衝動に繋がっていて、その境地からのみ見える世界とか、倫理、美意識、リアリティが出てくるのは間違いないところで、そこはやっぱり芸術家肌なんだと思う。タケシの映画におけるバイオレンスの怖さってのは、人が一瞬で死ぬあっけなさというのもあるけれど、つまりそれはタケシという存在にかかっている力学でもあって、そういう意味で今回の「TAKESHIS’」は久々に武映画の真髄を観れた気がした。


なんかこれ書いてたらまた悪寒がしてきた……。

「週刊少年ジャンプ」を読み、「プロレス」を見て育った自分の中学・高校くらいの時期を、文化史的な視点から捉えるとどうなるのか、ということに興味があって、ここのところ、大塚英志、宮台真司、東浩紀など何冊か読んでみた。まぁ基本的にどれも「オタク」「新人類」文化というのを軸に論じたもので、大塚や宮台の本は、70〜80年代の状況を知るのに興味深かったんだけど、90年代について書かれたものについては東浩紀の「動物化するポストモダン」で補った。
僕自身はいわゆる「オタク」世代であっても、「オタク」市場と密接に絡み合って生きてきたほうではなく、むしろ距離を置いて付き合ってきたような気がする。それでも時代の雰囲気とか、問題意識というのは分かるから、読んでいて「分かる、分かる」と頷く場面も多い。ただ、本当の意味でこういう本に新しい発見があるかと言うと、それはたくさんあるんだけど、なんかもう一味足りない気も。既に自分の中にあった問題意識に輪郭を与えてくれるということはあって、面白いんだけど、自分の中になかった感覚を引き出されるというところまでの発見はそんなにはない。というか、兼ねてから自分でもこのブログで問題意識として取り上げていたようなことを、もっと精細化して書いているという感じなので、自己確認みたいな作業になってしまう。
大塚英志も面白いし、切れ味鋭くて知的興奮を味わえるんだけど、どこか自分の理論を証明するのに急な気がするし、どっかで信用できない、というか、人間的にあまり魅力を感じない。
宮台真司もそうで、頭がいいのは分かるが、ペダンチックなところが初めて読む読者の壁となっていて、なんか好きになれない。でもちゃんとこっちも腰据えて読んでるわけじゃないから何とも言えないが。
東浩紀も切れ味鋭く、しかも分かるように書いているのでありがたいが、自己確認の域をでないような気がする。というか、もちろん、自己確認のために書いてるからそれでいいのだろうけど。
と、本当は読みながらかなり知的興奮を味わわせてくれる彼らの本を、敢えて批判的に書いてみたのは、総じてこの手の本が読んでいると暗くなるからだ。これは彼らのせいなのか、時代のせいなのか。それに、もし文学側が彼らの論調の後手に回っているなら、とても情けないことだと思う。

全く余談になるけれど、77年生まれの自分が、そろそろ三十路を控えてモラトリアム的気分を総仕上げしようという今日まで、様々な価値観の中を何順も巡ってきたような感覚があって、どんどんさばけてくるというのか、大きな物語や大きな意味のようなものから、もっと細かな、もっと平板なところへ目を向けるようになってきたということが、世界史的な価値観の変遷と、奇妙に重なり合う錯覚がある。価値観を巡る個人史と世界史とが、スケールも尺度も違えど、大雑把に重なっているというのか。この場合の世界史というのは、近代以降のことだけど。

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保坂の『カンバセイション・ピース』は、日本人が日本語で書いた小説だという事実をまず、疑いたくなる小説である。

ところで『文体』。
『文体』とは作家の脳の中で響く『声』であると僕は思う。口に出す以前に脳に響く『声』である。それはまず、リズムやテンポを伴った音楽性を『聴覚』的に捉えることができる。また『声』であるならば、そこには『指紋』ならぬ『声紋』があるだろう。『声紋』とは『声』を周波数分析装置で複雑な縞模様に図示したものだが、犯罪捜査で利用されているのは周知の通りである。作家の『文体』とは、そのようなものである。さらに『文体』とは、『視覚』でもあるだろう。世界を見るアングル、フレームと言った視覚要素がその中に含まれている。と同時に『文体』は、読者の側からすれば、『触れられる』ものである、とも思う。体温を感じ、質感を楽しむ『手触り』としか言いようのない、『触覚』的に感知しえるもの。あるいはもっと官能的に舌触りや『味覚』に置き換えることも可能だろうか。と、やや強引に『臭覚』を除いた四感に『文体』を喩えてみたものの、でもそれほど強引な比喩だろうか。強引でないとして続けると、感覚に置き換えられる『文体』とはつまるところ、作家が世界を知覚する固有の『癖』のことではないか。保坂和志は保坂和志である、と同語反復的にしか指し示すことのできない固有名詞的な『癖』ではないか。(大塚英二にこういうことが分かるだろうか)

ところで『感情移入』。
映画でも演劇でも小説でも何でも良いがこれは文学ブログなので小説に限定して、読者が作中の登場人物に感情移入して読む場合、それは本当に『登場人物』への感情移入だろうか。そうかもしれない。が、もう少し考えてみる。例えばドストエフスキーの『罪と罰』を読了した後、個人差があるにせよ数時間〜数週間に渡り、ラスコーリニコフの気分で過ごす読者がいるとして、それは果たして、ラスコーリニコフに感情移入して読んだから、だろうか。そうではなくて、もしかしたら、地の文も含めた『罪と罰』という一冊の小説全体へ移入していたとは考えられないだろうか。つまり、『文体』という、ドストエフスキーに固有の感覚器の癖へ読者の感覚器がシンクロし、そこから抜け出せなくなってしまった、ということではないだろうか。平たく言えば、ラスコーリニコフの視点ではなく、ドストエフスキーの視点で世界を見るようになる、ということ。ぼくはそういう考え方の方がしっくりくる。そしてそこに、小説の小説性があり、人によっては数時間どころから、一生に渡ってドストの厄介な感覚癖を引き摺って生きていくのではないかと思う。ところでぼくがこれまで目にしてきた『小説の定義』の中で最も多かったのが、『小説とは、読む前と読む後で読者が変化する』というもので、その別な言い方として、『表面的には暗い物語でも、良い小説なら読了後に必ず元気になる』というものもあった。

そして『カンバセイション・ピース』
この途方もない小説には、極めて固有の『紋』が刻まれている。あらゆる小説を読み、あらゆるリアリティに倦んでいる人でさえ、『カンバセイション・ピース』の『文体=感覚器』を通せば、未知なる世界を知覚すること請合い、そういう一作であり、つまりこれは『新しい言葉』で書かれたもので、似ているけど『日本語』とは全く別物の言葉で書かれた小説である。ぼくはこの小説の面白さをどう言っても伝えられないような気がする。この小説には、書かれる現場で閃いた思考の乱反射が激しく飛び交っていて、その煌きは読む現場の中でしか見えないからだ。賭けてもいいが、保坂はこの小説を、同じようには二度書けないし、書きあがった原稿を自分で読み返してさえ、その時にどういう思考回路でそれを書いていたか復元できないだろう。だから保坂ですらない読者がこれを読む時の労力とスリルは計り知れない。

『ユーモア』と『アイロニー』、『科学』と『超常現象』
保坂の理屈家ぶりは、ほとんど病気か狂気に近い。『狂気』という表現だと非常に安っぽいし、『病気』というと心理学的なニュアンスが匂って困るので、『ビョーキ』的とでも言っておこうか。あるいは単に『変人』と言ったほうがスッキリするかもしれない。ともかく理屈家ということは通常、論理的な思考が身についた人、ということで、保坂に関しても概ねその通りなのだが、彼の作品には必ず科学と超常現象がセットで出てくる。保坂は科学へも、超常現象へも、『ビョーキ』的な知的好奇心を持ち続ける変人作家だ。科学とは世界の成り立ちを経験・観察に基づいて合理的に証明立てるものだが、世界の中で科学が証明できる範囲は限られているから一概に超常現象を否認することも論理的におかしい、という有り勝ちな位置とも違った独特の視点から、保坂はこの対照的な二つを見ている。
ところで保坂の文章は、論理的な割りに脱線が多い。脱線というのか、横滑りというのか。読んでいると、保坂の関心がどんどん連想ゲームのように横滑りしていって、収集がつかなくなるのだが、本人はそんなことにお構いなしのようだ。これはつまり、書かれる現場での思考のダイナミズムを全面に出そうとしているからで、好い加減とか適当というのでは全然なく、むしろ現場性に命をかけているような圧倒的な凄みがある。
ところで、『ユーモア』と『アイロニー』という概念がある。理屈家には得てして、アイロニー(皮肉)の人が多いものである。アイロニーとは何かと言えば、あるものに論理的な欠陥があるのを指摘すること、あるいは、あるものが全体でなく一部であることを指摘すること、ではないかと僕と考える。どういうことかと言うと、例えばある論文があるとして、その論文が論理的に誤っていることを指摘するか、あるいは、その論文が論文内において論理的に正しくても、その論文が世界の一部分しか対象にしていないから、論文外の世界全体に通用する論文ではない、と指摘することだ。しかしアイロニーのつまらなさは、アイロニーは絶対に無敵だということだ。世界全体を全体として丸ごと論文の中に収めることはできないから、アイロニカルな視点で見れば、どんな論文でも、絶対にケチをつけられる。では、『ユーモア』の人とはどんな人なのか? ユーモアとは、仮に立てた問いたてに対して、とりあえず、最後までずーっとどうなっていくのか見ていく人であり、彼らはただ見るだけでなく、身体を使って演じもする。そうして、とりあえず出発した仮の問い立てから、気がついてみたら何やらとんでもないとこに来てしまったなぁ、などと呟いて、頭をポリポリ掻いているような人のことであり、「バカなやつだなぁ」なんて人から言われたりもする。ユーモアはもともとが何かを証明するためのものではないから、横滑りを繰り返した挙句、もっともらしい解答になど辿り着かない。アイロニーのつまらなさに対して、ユーモアの豊かさ、おおらかさ、滑稽さは、人の気持ちを明るく元気にさせる。もちろん人は、誰もがアイロニーの人であり、ユーモアの人である。どちらか純粋に一方だけということはあり得ない。バランスの問題なのだが、だがそういう意味で、人はアイロニーの人かユーモアの人か、どっちかの人である。で、保坂は稀代のユーモアの人である、と僕は言ってみたかったのだ。ユーモアの人であるということの中に、保坂の横滑りする作風も、書かれる現場での思考を尊重するという志向性も、思考するということが本来持つはずの明るさや元気や過剰さも、全部入っているはずだ。保坂はつまり、理屈家ではあっても皮肉屋では全くない。そしてこんな変人が、そもそも何かを証明できるはずなんてないんだ。証明しない代わりに、思考の乱反射の輝きがそのままリアリティの煌きになっていて、生真面目な解答の代わりにリアリティが踊っている。

よく、一般常識とズレたところで奇妙な理屈を展開するんだけど、よくよく耳を傾けてみると妙に説得力のあることを言っていて思わず笑っちゃうというか、話に引き込まれちゃうような話し手がいるけれど、保坂和志というのはそういう人種の中の最大の親玉で、またそんな保坂作品の中でもそういう特性が最大級に発揮されたのが『カンバセイション・ピース』である、と言えば少しはこの小説の面白味を言えたことになるのだろうか。


ここからは蛇足であるが、『カンバセイション・ピース』に出てくる主人公の姿が、まるで保坂の師匠・小島信夫の存在に近づいてきているという気がしてならないのと、恐らくそのせいでもあるだろうが、いよいよ保坂が円熟味・貫禄を増し、ちょっと怖いくらい達観してきたように見えるなぁ、と思った。
また、これこそ本当に蛇足で、保坂自身はそういう読みを最も嫌うだろうが、この小説全体が、亡くなってしまった飼い猫・チャーちゃんの、その死をどう受け止めるかという、壮大で血の滲むような思考の集積であったように思えてならない。

なんていろいろ書いてみても、この小説の面白さの1/10も言えてない。


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