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基本的に日記、生活の中の思いつきなど

文学

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保坂和志の小説は、デビュー作の『プレーンソング』から最後に書いた『カンバセーション・ピース』までほとんどの作品で猫が登場する。既に書いたが、猫が出てこない『季節の記憶』ではクイちゃんという子供が、猫の代わりをしていた。(クイちゃんのモデルは、上の写真のチャーちゃんというトラ猫)

『猫に時間の流れる』は、その中でも猫を中心に据えた作品となっている。そして、すごく妙な作品だ。保坂という作家は、何かを記号的に解釈する文学的な手続きを潔癖なまでに自分に禁じた作家である。これまで文学において猫という題材は、他の題材と同じように、記号的に描かれ、読まれることが多かった。人間の尺度で解釈されることが多かった。猫は猫である以前に、何か人間の感情や思考を代弁する隠喩だった。だが、猫好きの保坂は猫を猫として描きたいと願う。と同時に、猫を語る猫用の言葉を人間は発明していないから、人間用の言葉で猫を書くしかない、というジレンマを抱えてもいる。このジレンマには、保坂が普段から抱えている言葉の問題意識が極度に凝縮している。保坂が抱えている問題意識というのは、人間が世界を把握するのには言葉が必要だが、世界は言葉以前の場所にあるから、言葉を通している限り人間が世界を丸ごと受け止めることは不可能であり、だから、通常の言葉の外に出るしかないわけで、例えば猫を理解するには猫用の言葉でなければ理解できないだろうが、それを持たない人間は人間用の言葉で猫を受け止めるしかない、というような問題意識だ。こういう問題意識自体は、純文学の世界で意識的な作家なら普通のことかもしれないが、保坂は変人レベルで偏執的に拘るから面白い。物凄く禁欲的な書き方をする。が、禁欲的な一方で極めて自由度の高い散文性を発揮することと、解放感に満ちた大らかな世界を描き出すという信じ難い離れ業が、保坂の一番の特徴だろう。それで『猫に時間の流れる』なのだが、この作品が妙だと言うのは、上記のような保坂の文学的な問題意識の所在とは別の感情的な次元で、つまり保坂の猫に対する思い入れの強さ、という『感情』が文学批評と別な次元から『混入』していることだ。勿論、小説に書き手の感情が混入してくるなんて当たり前の話であり、むしろ、作家が小説を書く動機とか、基礎的な部分にあることが多いから、『混入』という言葉自体に違和感があるかもしれない。が、保坂に限っては、小説で感情を扱うことはほとんどないから、まさに『混入』という言葉が相応しい。この場合の感情とは、物語を支えるレベルでの感情のことで、つまり恋愛小説などの、感情の売り買いが物語を牽引するようなレベルで感情を扱わないということだ。思考を通さない感情が世界の理解の妨げとなるのを避けているのだろう。例えば『哀しい』という感情があって、その『気分』のままで片付けられる理解を善しとしない。だからと言ってでは、保坂の小説に全く感情が描かれていないかと言えばそういうことではなく、つまり物語を支えないレベルでの(そもそも物語自体希薄なのだが)素直な喜怒哀楽は描くということだ。またその場合でも、感情が先にあって、それを後追いするような形で世界を描くのではなく、必ず世界が先にあって、その反射として感情が表れるように描いている。それで『猫に時間の流れる』なのだが、この作品でも充分にその辺の意識を自覚しながらも、それでもなお、どこか恋愛小説に似た、感情の揺らぎのようなものが感じられる。この小説は、マンションの住人である「ぼく」と、そのマンションにやってきてはションベンを引っ掛けて回る野良猫「クロシロ」との5年間に渡る奇妙な触れ合いを描いたものである。クロシロは近所一帯のボス猫として君臨し、人に媚びない誇り高い猫として存在する。主人公の「ぼく」は、マンションにションベンをかけるクロシロを見かけると追い払う。そんな敵対関係にありながらも、「ぼく」は得意の知性的・好奇心的な観察の眼差しをクロシロに注ぎ続ける。またいつもの保坂作品と同様に、マンションの住人たちとのうつらうつらとした共同生活的な日常が季節感豊かに流れていき、一貫してクロシロはそのマンションから追い払われ続ける。が、ある日、近所の住人がこのクロシロに煮え立った油を被せたことで、クロシロはマンションにやって来なくなる。実際に血に塗れ瀕死の状態のクロシロを目撃した「ぼく」は、クロシロはもう死んだのだろう、と思う。が、ある日また、クロシロはマンションにやってくる。体毛の色は変わり、身体の具合も見るからに悪く、完全に弱りきった姿で現れる。「ぼく」は餌を与える。クロシロはもう、人に媚びない誇り高い野良猫ではなく、餌を目の前で食べ、「ぼく」の足元に寄ってくる。そしてある程度回復すると、クロシロはまたマンションにションベンをひっかける、というところで小説は終わる。他の保坂作品と同様に、感情におもねない、観察と思考を通じた知性的な筆致が一貫していながら、その中から漏れ出す感情があり、珍しくここにカタルシスが生まれる。これはヘミングウェイを読む時のカタルシスと恐らく似ていて、ヘミングウェイの作品は、感情や心理の描写を極力排したそれこそ非情なストイシズムに貫かれていて、即物的なんだけど、その即物性ゆえに描かれなかった感情が押し出されるように溢れ出す、という仕組みになっている。それと保坂の『猫に時間の流れる』は似ていると思った。そして、思わず泣けてしまった。それは間違いなく、自分も猫や犬を飼っていて、何度もその死に立ち合っていて、その都度感じてきたちょっと言いようのないショックというのが体験としてあったからだと思う。
保坂はこの小説のあとがきで、次のように書いている。

「人間中心でない話というものを、犬ではなく猫によって、今回いちおう実現させることはできたが、あまり気楽そうな話にすることができなかった。そのことを『彼ら』に申し訳なく感じている」

『彼ら』とは、保坂がかつて飼っていたが、もう亡くなってしまった犬や猫のことである。『彼ら』という言葉はもちろん意識的に書いたものだ。猫を猫として描こうとして『彼ら』という言葉になってしまったところに『猫に時間の流れる』の感動が象徴的に表れていて、もちろんそれは、安易な擬人化とは程遠い。

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すごく好きというわけではないのだけれど、なぜか舞城王太郎の小説についてはアレコレ言いたくなる。戦略性が露骨に出た挑発的な作品だからだろうが、素直に反応してしまう自分が何とも歯がゆい。

以前にも書いたのだが、舞城王太郎がその作品の中で、ダイナミックというのか大胆不敵というのか、物語の横滑りを繰り返すことができるのは、つまり主題上の『犯人』がいるからではないか、と思う。『犯人』というのはもちろん比喩で、舞城自身が立てた主題的な「問い」への『解答』が用意されている、ということであり、その『解答』が、ミステリ小説における『犯人』と構造的に同じ働きをしているような気がするのだ。ミステリにおける『殺人事件』を、純文学的な主題上の『問い』へ変換し、それらに対応する形で『殺人犯』を『解答』に置き換える。これがミステリから純文へフィールドを移した舞城の戦略手法である。前にも書いたが、舞城は確実に小説の「結」を想定してから書いているはずだ。そしてだからこそ、『お約束』に縛られたミステリ小説がそれゆえに『自由度』が高いのと同じ理屈で、舞城の小説は『横滑り』という遊びができる。舞城を心から好きになれない理由の一つはここにある。物凄く破綻してるように見えて、けっこう予定調和的でもあるのだ。でも、これはちょっと見方が厳しいかもしれない。前言を翻すようだが、それでもやはり、舞城は少し壊れている。『遊び』としての『横滑り』が、ちゃんと『遊び』になっているのだ。『遊び』とはつまり、書かれている時間そのものの中に、また読者に置き換えれば読んでいる時間そのものの中に、飛び散るような思考のダイナミズムが横溢している。あ、これは書きながらいま考え付いたことでしょ? という言葉が満載になっている。ミステリ小説において『犯人』が見つかるのが、作家にとっても読者にとっても案外どうでもいい形式上の『お約束』であるのと同様、舞城の設定した主題的な問いへの『解答』も案外どうでも良く、むしろ重要なのはそこへ至る『過程』ということに、ちゃんとなっている。これは構造的にミステリとほぼ同じだが、一つだけ大きく違うのは、ミステリの場合、犯人という身体性を持った『解決』なのに対して、舞城が設定する問いとその解答は抽象的なため、身体性と具体性を欠いた理念的なものにならざるを得ない。『解答』はだから、『犯人』よりスッキリしない。あるいは逆の言い方も可能である。『犯人』は身体性を持つことで否応なしに『犯人』となってしまう強引さがあるが、主題的『解答』は抽象的な理念だから逆に明確な論理に導かれなければいけない。そういう意味では『解答』の方がずっと具体的でスッキリしなければいけないだろう。といろいろな言い方が可能だが、舞城作品の自由度は、犯人にあたる『解答』が保証しているのは確かだろう。

では次に、物語の『横滑り』を支えるもう一つの大きな要素、『文体』について考えてみたい。ラップ調のような、ドライブのかかった読ませる文体のことだが、この文体がきちんと舞城の『声』になっている。小説における文体というのは作家の頭の中に流れる『声』であり、つまり思考様式そのもののことであるのだが、舞城の軽佻な文体も、その軽佻さにおいて自由な展開を可能とする思考様式そのものとなっている。だからこそ、「あ、いま考え付いたでしょ?」という思考の生の部分、アドリブが垣間見え、ダイナミズムが伝わる。この書かれる(=読まれる)現場における生々しい思考の展開がその都度、世界の発見とその歓びを感じさせ、『リアリティ』の獲得にも繋がっている。またドライブがかかっていると言われる舞城の文体は、そうひと言で言い表せない何かがある。人間が世界を感じ取るのは五感に基づいた感覚器官からで、各感覚から伸びた神経が脳で纏められて共事的な把握をする。この世界を把握する感覚のスピードに比べて言葉はあまりに遅い、ということに舞城は自覚的であると思う。言葉はリニア(線的)に連なるものだから、順列で把握していくしかないようにできている。映画の画面とは違い、風景や音が一遍に伝わるわけもなく、一つ一つを線上に重ねていくしかない。ここに大きな時間差が生まれるわけだが、作家にしてみれば、読むよりもまたいっそう遅い書くという行為で、この圧倒的な時間差と戦わなくてはいけない。一般に良いとされる文章はこの時間差を埋める志向性で書かれたものであり、世界に生起する現象が脳に与える刺激と、そこから生まれる思考とを上手に順序立てて組み立てる。だから上手い風景描写は、いま風景が書かれている、と読者に意識させないほど、すんなり頭に入るように書かれている。舞城の『文体』が複雑なのは、まず、この時間差を埋める書き方が非常に上手いばかりでなく、時々、『先回り』までしてみせるような『省略』の技術を使う。これだから読者は『退屈』しないですむのだが、だが舞城は一方で、時々、妙な『粘り腰』を見せたりもする。一見、言葉遊びのような形で、理屈ばった文章展開をくどくどする。ここで時間がぐっと停滞する、かのようである。が、舞城の文体にドライブがあると言う場合、前者のように時間差を埋め、先回りさえするような文章の流れより、停滞しているときにこそあるのではないか、とも考えられる。時間は確かに停滞しているようだが、そんな時に限って、文章の水面下で思考が蠢いているからであり、またそれこそがダイナミズムであり、『犯人』≒『解答』へ最も『遠く接近する』からだ。

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小川洋子の『博士の愛した数式』がけっこう売れているらしい。
交通事故で80分間の記憶しか保持できなくなってしまった数学博士と、彼の面倒を見る28歳の家政婦、そして彼女の10歳になる息子ルート君の三人の物語である。
記憶における物語的な構造に関心があったのと、以前に読んだ小川洋子の『妊娠カレンダー』がまずまず面白かったのとで、ためしに読んでみる。
ただ、売れている、というのが読む前から引っ掛かっていた。小川洋子って、売れるような作風ではなかったと思うのだが。でも、たまには売れる作品も書かないと食っていけないのだろうから、自分で調節しているのかもしれない。あと、新潮新人賞の選考委員でもある彼女が、応募する新人に向けて次のような言葉を書いているのが気になってもいた。
<小川洋子>
「真新しいものを書こう、などと思う必要はないのかもしれない。人間は長い年月、同じことを繰り返し書いてきた。自分もその繰り返しの波に飛び込んでいこう、という覚悟のほうが、ずっと難しく意義深いのだと思う」

彼女は自分のキャリアの中で、そういう結論に辿り着いたのだろうか。無論、新しさとは何か?を何度も自分に問い続けてきたから出てくる意識的な言葉だろう。
ところでついでに、面白いから他の選考委員の言葉も紹介すると……。

<福田和也>
「新しいとは、どういう事態なのか。文藝にとって、今日ほどこの問いが、深刻なスリルを帯びた時はない。新しい人たちよ、この愉楽に満ちた使命をまっとうして欲しい。新しさそのものを否定する形においてさえも」

ってちょっと、小川洋子と言ってることが逆じゃない? 選考委員が足並み揃えてくれないと新人が混乱するだろ! 最後の一文で誤魔化してるけど。

<町田康>
「書きやがれクソ野郎。読みやがれ、馬鹿野郎。真面目に書いた作品は真面目に読む。ふざけて書いた作品も真面目に読む。みすぼらしい手製の爆弾で世界を爆砕。間違えて自分も爆砕。それが文学だ」

何を書けというのだ。

<浅田彰>
「(前もって言うべきことはなにもない)」

そうっすか……。

阿部和重
「デビュー作には、自分の総てを投入すべきだろう。なぜならそのような作品にこそ、より高い将来性が宿るはずだからだ。むろん本当に総てを書き尽くす必要はない。それほどのものだと読める作品に仕上げればいいのだ」

阿部和重って、実はすごいマトモなんですよね。

とにかく、選考委員の言っていることは全くアテにならない。

本題に戻って『博士の愛した数式』を読んでみると、やはり小川洋子らしくないハートフルな物語となっていて、記憶と物語の関係性についての考察というのはあまり感じられなかった。そういう方向性の作品ではなかった。あまりにウェルメイドで、綺麗な物語に纏まっている。確かに、繰り返されてきた物語への開き直った回帰と言える。家政婦の一人称になっているのがその原因だろう。もしこれを、博士の一人称で書いたとしたら、もっと狂った作品になっていて、とても売れるようなものにはならなかったろうと思う。だが、それをこそ読んでみたい。本作はいかにも文学的な言い回し、設定に満ち溢れていたが、そのことを否定しようとはあまり思わない。それはそれとして、保っていく役割の人がいていいと思うし、それも小説の面白さの一面だろうと思う。読者の側も小川洋子と同じように開き直って読めば、それなりに味わって読むこともできる。御伽噺的なファンタジーをさえ感じる。

だが、この設定を別な方向に活かしたとしたら、という思いは残る。引っ掛かりなくスラスラと読めてしまう、良く出来た物語としてあるよりも、もっと狂暴な仕掛けができたはずだと思う。80分の記憶しか保持できない博士とはつまり、物語から断絶された存在である。そしてこの場合の記憶とは、何度も他の記事で言うように、イコール物語のことである。だからその博士が、家政婦の一人称の物語(=記憶)に綺麗に収まりすぎている構成が最大の問題だ。無論、記憶障害の博士が巻き起こすドタバタ騒動がいろいろ描かれているが、それとても家政婦の物語(スキーマ・記憶)に収まってしまうものとしてある。記憶障害とはつまり、物語障害のことでもあるわけだから、こんなに綺麗に物語になってしまうことに、抵抗を感じてしまうのだ。小川洋子という人はそもそも「悪意」をテーマに描いてきた人で、非常に残酷な一面を持っている作家なわけだけど、今回は博士を家政婦の物語に押し込んでいく傲慢な手つきに、その残酷性が垣間見えたかもしれない。でもそれは、深読みし過ぎだろう。それよりも本来、セルジュ・ダネーが言うところの「無垢」、つまり、「最初にそこを訪れたものにのみ許される特権」というような瞬間をこそ、作品の中で全面追求すべきではなかったか、と思うのだが。ただちょっとだけ彼女を弁護すると、そういう問題に無自覚な作家ではないのだ。たぶん、ぼくなんぞが言ったような問題意識は踏まえた上で、意識的に物語作家への道を選んだようにも思われるから、それならそれでもいいのかな、という気もする。セルジュ・ダネーが出たからついでに言うと、小川洋子はそもそも『アンネ・フランクの日記』を始めとしたホロコースト文学を自分の文学のルーツに定めている作家なのだ。

この記憶に関する作品でもう一つ気になっているのが、ドリュー・バリモア主演の「50回目のファースト・キス」という映画で、まだレンタル始まってないから見れてないんだけど、どんなものか見てみたい。交通事故で一日分の記憶しか保持できなくなった女と、そんな彼女に一目惚れした男のラブ・ストーリーで、つまり、一晩立つと記憶をなくしてしまう女へ、毎日新しい人として出会わなければいけない男のちょっと変わった純愛物語ということらしい。もう見る前から、どんなに綺麗な物語に仕上げちゃってるのか想像がついてしまうけど、とりあえずレンタルされたら見てみよう。


*全く関係ないが、昨日、保坂の記事をアップしたら、多くても一日20〜30止まりの訪問者が、100を越えたのは一体なんだったんだろう。不可解な現象だ。

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保坂和志と猫

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最近、各文芸誌で、保坂和志の文章をよく目にする。50回目の記事を記念して、敬愛する保坂和志について触れてみたい。

彼は小説家であると同時に批評家のような活動もかなりこなしていて、批評家・保坂和志は、小説家・保坂和志のマネージャー的な役割をしている。彼の小説の評価は、デビュー当初から賛否両論に分かれていた。否定の文脈は、大抵、物語性が乏しいというものだった。特別に何か事件が起こるでもなく、うつらうつらとした日常描写が大半を占め、分かりやすいカタルシスのようなものはほぼ皆無である。彼自身が、そういうのが嫌いなのである。だが、否定の文脈とは概ねそういうものだった。だから保坂は、自分の作品の良さを、自分自身で解説する必要を感じ、自分自身のマネージャーをする格好で、批評活動を行うようになった。ぼくはどちらかと言うと、湿っぽい感傷的な物語や、刺激の強い物語が好みだったりした。だから友人から、保坂和志の『季節の記憶』を勧められて読んだ時も、最初はその良さがあまりピンとこなかった。勿論、面白いのは面白いのだが、小説としてのダイナミズムにかけるような気がして、ちょっと物足りなく感じたのだ。ところが、ここ2,3年くらい保坂の批評を目にしている内に、すっかりと啓蒙されてしまった。今では、日本人作家の中で、三番以内には入るかもしれないくらい、大好きな作家である。と同時に、自分に小説の読み方、楽しさを教えてくれた師匠的な存在とすら言えるかもしれない。ぼくの小説観の軸は、やや軋みを感じさせながらも、明らかに移動したと思う。そして、かなり視界が開けたと思う。保坂和志という人は、まず人物として相等変わっていて、大袈裟に言えば世間からズレた変人・奇人の類でもあり、そこがまた最高に面白い。それは文章にも良く表れていて、彼はいわゆる名文のような綺麗な文章を書く人ではなく、画で言うと山下清を思わせるような、不器用な感じがある。と同時に、非常に知的でもあるんだけど。ちなみに彼は早稲田の出身で、しかも学生時に映画研究会に所属していたというのだが、それって早稲田の映画研究会のこと? だとしたらぼくの先輩に当たるわけだけど、どなたか知ってる人いたら教えて下さい。

ところで彼は、小説に関してかなり原理主義者で、感情的、とりわけ感傷的なものを持ち込むことを嫌っている。と同時に作風はユーモラスで、サービス精神すら感じられるのだが、とにかく感情論で読者を釣ろうとは決してしない。そういう意味では非常にドライで、知性的な人なのだ。ただ、ぼくが少し不思議に感じていたのが、どこまでもドライに知的に小説を書こうとしても、それを書く側の立場に立った場合、やはり何がしかの感情は必要ではないか、そうでなければ、原動力にならないのではないか、ということだ。勿論それが、人の死だとか失恋だとか暴力だとか、そういう有り勝ちなところから発生するものではないにしても。彼が純粋知性として、記憶の問題や、風景の問題などを、小説の中で扱って見せるのは、読者としても知的興奮を味わえて、本当に面白いわけだけど、小説として作品化する場合、そうした知性のみでは書く原動力にならないんじゃないか、とも疑っていた。そんな彼が例外として、猫についてだけは、こちらが読んでいて気恥ずかしいくらいリリカルに語る。彼は猫好きで有名で、何匹も捨て猫を拾ってきては育てている。中でも「チーちゃん」という拾い猫が大好きだったようで、そのチーちゃんが白血病で亡くなったショックをいろいろなところで語っている。彼にはこういう、一見すると矛盾した人間臭さがたくさんあって、それが大きな魅力にもなっている。原理主義的な厳しさで小説を書く知性的な顔を持ちながらも、読者に伝わるような配慮や、サービス精神も豊富に併せ持ち、また感情論を良しとしないドライな顔を持つ一方で、猫についてはナイーヴな心情を吐露し、小説を書く事は世界全体を丸ごと描くことだと言いながら、彼は自分の好きな世界しか書かない、また小説を書くのは苦しい作業だと言い、それが楽しさでもあると言う。端的に言って彼は、馬鹿みたく素直なのだ。素直すぎるから、かえって分かりづらいこともある。彼の言葉を表面的に、一義的に、あるいは額面通りに受け取ると、混乱させられる。ぼくは彼の言うことにとても興味を感じつつ、二重にも三重にも読めてしまうその言葉に、時折り混乱されられてきた。しかしついに、そうした混乱が綺麗に晴れ渡る日がきた!

そのことを言う前に、保坂和志の『季節の記憶』のことを少しだけ紹介すると、これは、鎌倉に住む中年男の「ぼく」と、彼の息子であるクイちゃん、それからその他数名の近所の住民の日常生活を延々と描いた長編で、本当に事件らしいものは一切起こらない。登場人物の個性がそれぞれ豊かで、主人公の子供であるクイちゃんも、多動症気味というのか、落ち着きがなく好奇心旺盛で、ウロチョロウロチョロしている。近所の家の庭に勝手に入っていっては、虫を捕まえて遊んだりし、その度に父親が謝りに出かけたりする、とても面白い子供である。
この小説の書き出し部分をほんの少しだけ引用してみよう。

 
 僕が仕事をはじめるとさっき昼寝についたはずの息子がニンジャの格好で部屋に入ってきて、
「ねえ、パパ、時間って、どういうの?」
 と言ったのだが、僕は書きかけの文の残りの数語を書ききるまで答えなかった。
 僕が返事しないでいると息子は、
「ねえ、パパ。ねえ、パパ。――ねえ、ねえ。パパ、パパ。
 パパ、パパ、パパ、パパ。
 パパ、パパ、ねえ、ねえ」
 と、猫の「ニャア、ニャア」、アヒルの「ガア、ガア」、羊の「メエ、メエ」と同じように「ねえ、パパ」「ねえ、パパ」を連発しはじめ、僕はサインペンを息子に分かるようにはっきりした動作で音をたてて机に置いて、
「終わったよ」
 と、息子を見た。
 息子はニコッと笑って肩をクックッと一、二度上げて、
「時間ってどういうの?」
 と言った。


どうだろうか。少しでもこの作品の雰囲気が伝わればいいのだが、父親は息子のクイちゃんを相手に、いい父親ぶりを発揮する。そうしてこの季節を跨いで描かれる長編には、不思議な親子のやりとりが一つの軸として最後まで展開する。クイちゃんの活き活きとした描写に、これを読んだ読者は、誰もが保坂和志に、実際にクイちゃんのような息子がいるのではないか、と信じる。だが保坂には、子供はいないのだ。ではこの活き活きとしたクイちゃんは、全くの保坂の想像の産物なのだろうか? 保坂は自分のホームページの中で、このクイちゃんにはモデルが存在すると語っている。そのモデルとはなんと、既に述べた、白血病で亡くなったチーちゃんという猫だったのだ……。恐らく保坂は、こういう読みを嫌うだろうが、ぼくはそのことを知って、一挙に保坂に纏わるウヤムヤというのか、混乱が晴れた気がした。そして、ホント泣きそうになってしまった。

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「元気な文学」開店以来、旗印に掲げてきた祖母のプロフィール画像を変更しました。
入れ替わった写真の、窓辺で本を読んでいる子供は、フランソワ・トリュフォーというフランスの映画監督の幼少期のものです。本当は最初からこの写真でいこうと思ってたんですが、データを紛失しており、昨夜やっと発見した次第です。

『トリュフォー、ある映画的人生』(山田宏一)からトリュフォー自身の言葉を抜粋すると、彼の読書体験には以下のような切ない背景があったようです。


――母はわたしが家の中で声を出したり音を立てたりすることを許さなかった。わたしの存在そのものに母は我慢がならなかったのです。だから、わたしは自分の存在を忘れ、物音ひとつ立てずに何時間もじっと息をひそめていなければならなかった。母を苛立たせないためには、そうするほかなかったのです。わたしは小さなアパルトマンの片隅の椅子に静かにうずくまって、ただひたすら読書に逃避することにしました。読んだのは、とくに小説でした。ひとりで留守番をさせられることが多かったので、大人の本も読み、母の本棚からこっそり持ってきて読んだものもあります。


トリュフォー少年は、祖母の家に預けられたり、また自分の家に戻ってきたりを繰り返して幼少期を過ごしていたんですが、その祖母が、トリュフォーに読書の楽しさを教えたと言われています。また祖母自身も、小説を書いたりしていたらしい。そうしてトリュフォーは、アリストパネスからゾラまでアルファベット順に世界の作家を網羅した廉価版の古典文学全集(全375巻)を読破するに至る。


山田宏一は、トリュフォーの映画的人生が、いかに小説への思い入れに支えられてきたか指摘する。以下、その箇所を簡単にまとめてみる。

母の本棚からこっそり持ってきて読んだ「黒衣の花嫁」など、アメリカの犯罪小説(クライム・ストーリー)にとり憑かれ、後に『ピアニストを撃て』『暗くなるまでこの恋を』『私のように美しい娘』『日曜日が待ち遠しい!』などを撮り、子供時代からの読書傾向を剥き出しにしてみせる。とりわけ『華氏451』という偉大な失敗作は、書物への愛、読書の歓びが、気恥ずかしいくらいナイーヴに素直に描かれている。また『突然炎のごとく』『恋のエチュード』では、アンリ・ピエール・ロシェという作家の二冊の小説に捧げられた映画だった。自伝的連作ドワネル物の『逃げ去る恋』の中で、アントワーヌ・ドワネルは自伝的処女小説「恋のごたまぜ」を書いて出版する。『恋愛日記』は、「女たちを愛した男」という一冊の本を書いて死んでいく男の物語であった……。

――映画作家になったトリュフォーは、のちに、「わたしの人生の歯車は、書物を映画にし、映画を書物にすることを噛み合せることによって回転してきた」のであり、「映画と書物がお互いに愛の行為のように交じり合って、一つの物語を生み出してくれること」こそ夢であったと述懐するだろう。「純粋に視覚的な」映像と映像にならない「美しい言葉」のあいだでトリュフォーの映画はゆらぎつづけることになる。「わたしの映画は小説も読む観客につくられたもの」なのだとトリュフォーはしばしば自分の思いを語ったものだった。

とある。
「わたしの映画は小説も読む観客につくられたもの」
ここがつまり、映画監督トリュフォーの一面での限界だったのかもしれない。そういう意味では、『ある小説的な人生』という風に読みかえることも可能なのかもしれない。

実際、トリュフォーは11歳の時にエミール・ゾラを読んで小説家になろうと志すのだが、その後にオーソン・ウェルズの『市民ケーン』を見て映画監督になろうと思い直す。二つの贅沢な夢を見ながら、映画と小説の中間にあるシナリオ・ライターならどうか、と考えたこともあったという。結局、少年鑑別所からアンドレ・バザンに拾われて映画道を邁進し、ヌーヴェル・バーグの旗手となっていくのはあまりに有名な話。ぼくもあんまり詳しいわけではないから適当なことしか言えないが、盟友ゴダールとの訣別も、仲が良すぎる者同士に特有の感情の縺れがあったにせよ、こうしたトリュフォーの小説的世界へ回帰していくような作風が、当初の理念から外れていったように見えたのかもしれない。つまり映画を映画としてのみ考える原理主義的なゴダールに比べて、トリュフォーには捨てがたい小説世界への憧憬・感傷があった。とは言え、ぼくとしては、仮にあるならば小説家トリュフォーの書いた小説を読みたいと思いつつも、それでもやはり、トリュフォーが映画監督であってくれて本当に良かったとも思う。確かに文学への志向があったにせよ、そうとは言い切れない、映画ならではの楽しさがトリュフォーの映画作品には満ち溢れていたはずなのだ。それは本当に、遺作の『日曜日が待ち遠しい!』まで一貫していた。失敗作も含めて。誰かもっと、トリュフォーの映画を見直して、再評価してくれてもいいと思うのだが……。


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