|
保坂和志の小説は、デビュー作の『プレーンソング』から最後に書いた『カンバセーション・ピース』までほとんどの作品で猫が登場する。既に書いたが、猫が出てこない『季節の記憶』ではクイちゃんという子供が、猫の代わりをしていた。(クイちゃんのモデルは、上の写真のチャーちゃんというトラ猫)
『猫に時間の流れる』は、その中でも猫を中心に据えた作品となっている。そして、すごく妙な作品だ。保坂という作家は、何かを記号的に解釈する文学的な手続きを潔癖なまでに自分に禁じた作家である。これまで文学において猫という題材は、他の題材と同じように、記号的に描かれ、読まれることが多かった。人間の尺度で解釈されることが多かった。猫は猫である以前に、何か人間の感情や思考を代弁する隠喩だった。だが、猫好きの保坂は猫を猫として描きたいと願う。と同時に、猫を語る猫用の言葉を人間は発明していないから、人間用の言葉で猫を書くしかない、というジレンマを抱えてもいる。このジレンマには、保坂が普段から抱えている言葉の問題意識が極度に凝縮している。保坂が抱えている問題意識というのは、人間が世界を把握するのには言葉が必要だが、世界は言葉以前の場所にあるから、言葉を通している限り人間が世界を丸ごと受け止めることは不可能であり、だから、通常の言葉の外に出るしかないわけで、例えば猫を理解するには猫用の言葉でなければ理解できないだろうが、それを持たない人間は人間用の言葉で猫を受け止めるしかない、というような問題意識だ。こういう問題意識自体は、純文学の世界で意識的な作家なら普通のことかもしれないが、保坂は変人レベルで偏執的に拘るから面白い。物凄く禁欲的な書き方をする。が、禁欲的な一方で極めて自由度の高い散文性を発揮することと、解放感に満ちた大らかな世界を描き出すという信じ難い離れ業が、保坂の一番の特徴だろう。それで『猫に時間の流れる』なのだが、この作品が妙だと言うのは、上記のような保坂の文学的な問題意識の所在とは別の感情的な次元で、つまり保坂の猫に対する思い入れの強さ、という『感情』が文学批評と別な次元から『混入』していることだ。勿論、小説に書き手の感情が混入してくるなんて当たり前の話であり、むしろ、作家が小説を書く動機とか、基礎的な部分にあることが多いから、『混入』という言葉自体に違和感があるかもしれない。が、保坂に限っては、小説で感情を扱うことはほとんどないから、まさに『混入』という言葉が相応しい。この場合の感情とは、物語を支えるレベルでの感情のことで、つまり恋愛小説などの、感情の売り買いが物語を牽引するようなレベルで感情を扱わないということだ。思考を通さない感情が世界の理解の妨げとなるのを避けているのだろう。例えば『哀しい』という感情があって、その『気分』のままで片付けられる理解を善しとしない。だからと言ってでは、保坂の小説に全く感情が描かれていないかと言えばそういうことではなく、つまり物語を支えないレベルでの(そもそも物語自体希薄なのだが)素直な喜怒哀楽は描くということだ。またその場合でも、感情が先にあって、それを後追いするような形で世界を描くのではなく、必ず世界が先にあって、その反射として感情が表れるように描いている。それで『猫に時間の流れる』なのだが、この作品でも充分にその辺の意識を自覚しながらも、それでもなお、どこか恋愛小説に似た、感情の揺らぎのようなものが感じられる。この小説は、マンションの住人である「ぼく」と、そのマンションにやってきてはションベンを引っ掛けて回る野良猫「クロシロ」との5年間に渡る奇妙な触れ合いを描いたものである。クロシロは近所一帯のボス猫として君臨し、人に媚びない誇り高い猫として存在する。主人公の「ぼく」は、マンションにションベンをかけるクロシロを見かけると追い払う。そんな敵対関係にありながらも、「ぼく」は得意の知性的・好奇心的な観察の眼差しをクロシロに注ぎ続ける。またいつもの保坂作品と同様に、マンションの住人たちとのうつらうつらとした共同生活的な日常が季節感豊かに流れていき、一貫してクロシロはそのマンションから追い払われ続ける。が、ある日、近所の住人がこのクロシロに煮え立った油を被せたことで、クロシロはマンションにやって来なくなる。実際に血に塗れ瀕死の状態のクロシロを目撃した「ぼく」は、クロシロはもう死んだのだろう、と思う。が、ある日また、クロシロはマンションにやってくる。体毛の色は変わり、身体の具合も見るからに悪く、完全に弱りきった姿で現れる。「ぼく」は餌を与える。クロシロはもう、人に媚びない誇り高い野良猫ではなく、餌を目の前で食べ、「ぼく」の足元に寄ってくる。そしてある程度回復すると、クロシロはまたマンションにションベンをひっかける、というところで小説は終わる。他の保坂作品と同様に、感情におもねない、観察と思考を通じた知性的な筆致が一貫していながら、その中から漏れ出す感情があり、珍しくここにカタルシスが生まれる。これはヘミングウェイを読む時のカタルシスと恐らく似ていて、ヘミングウェイの作品は、感情や心理の描写を極力排したそれこそ非情なストイシズムに貫かれていて、即物的なんだけど、その即物性ゆえに描かれなかった感情が押し出されるように溢れ出す、という仕組みになっている。それと保坂の『猫に時間の流れる』は似ていると思った。そして、思わず泣けてしまった。それは間違いなく、自分も猫や犬を飼っていて、何度もその死に立ち合っていて、その都度感じてきたちょっと言いようのないショックというのが体験としてあったからだと思う。
保坂はこの小説のあとがきで、次のように書いている。
「人間中心でない話というものを、犬ではなく猫によって、今回いちおう実現させることはできたが、あまり気楽そうな話にすることができなかった。そのことを『彼ら』に申し訳なく感じている」
『彼ら』とは、保坂がかつて飼っていたが、もう亡くなってしまった犬や猫のことである。『彼ら』という言葉はもちろん意識的に書いたものだ。猫を猫として描こうとして『彼ら』という言葉になってしまったところに『猫に時間の流れる』の感動が象徴的に表れていて、もちろんそれは、安易な擬人化とは程遠い。
|