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第42回文藝賞受賞者の年齢は、青山七恵が22歳で、三並夏が15歳(執筆時14歳・中学生)。

アイドルと文学賞受賞者の低年齢化は歯止めが効かないようだ。とりわけ『文藝』の受賞者の年齢は低い。
選考委員の高橋源一郎が釘を刺す。

――文学賞の受賞者の低年齢化が進んでいる。その裏側に、「話題作り」という、主催者側の(商売上の)思惑が透けて見えるのも事実だ。気持ちは分かるが、ちょっとマズくないかい、と僕は思う。「××歳にしてはすごい」というのが受賞理由では困る。(中略)選考会の席上、ぼくはその点を編集部に質し、「正直なところ、こんなに若くなければよかったのにと思いました」という返答を得た。それならいい、『文藝』編集部は、まともだった。

また、三並夏の執筆時年齢が14歳だったことにも次のように釘を刺す。

――誤解してもらっては困るのだが「14歳にしては素晴らしい、だから受賞に値する」とぼくは思ったのではない。その逆だ。「14歳であるにもかかわらず、受賞に値する」とぼくは思ったのだ。


さて、その肝心の小説の内容は?

・『平成マシンガンズ』(三並夏・14)

正直、自分の半分しか生きてない著者の年齢を念頭におかずして読む事はできない。つまり、「14歳にしては素晴らしい」という感想がついつい出てきてしまう。これは著者に失礼な読み方だろうか? よく、算数オリンピックなどの競技で高速の暗算を披露する天才少年や、五嶋龍(だっけ?)みたいにチャイコフスキーを弾きこなす天才少年バイオリニストがいたりするけど、14歳でこれだけの小説を物す三並夏もまた、その種の天才に含まれるだろうか? 小説って何なんだろう、って思ってしまう。作家の資質に恵まれた人間は、年齢に関係なく小説を書けてしまうのではないか? という疑いが出てくる。勿論、今作は荒削りの小説である。けっして洗練されたものではない。でも、どうしようもなく小説になってしまっているのは確かで、それはやっぱり凄い。中学生らしく、イジメというキーワードが出てくる。また、親が離婚したりする。家にも学校にも居場所を見出せない女子中学生の物語で、それ自体、本当にありふれた話だ。「14歳にしては」いじらしいほど真摯に問題と向き合っている。けっして環境に言い訳を求めず、健気に生きようとする少女の物語だが、実際に「14歳の女の子が書いたから」無性に泣ける。(トリュフォーの『大人は判ってくれない』を彷彿とさせる)という前提を踏まえて尚、これが小説であることを保証するのは、著者の視線だろう。大人側の論理に引き付けられず、あくまで自分の視線を固守すること。安直な環境の言い訳に引っ張られないこと。自分の実感と思考から言葉が出てきていること。畢竟、小説が小説であることを保証するのはこの一点に限る。だから彼女は、暗算少年や、天才バイオリニストのような、「早熟の天才」とはやはり違う。彼女は『早熟』ではなく、むしろ『熟していない』今を、自分の言葉で表したのだ。


・『窓の灯』(青山七恵・22)

しっとりと落ち着いた文体で、雰囲気が良い。好きな作風だ。主人公の女が住むアパートは、向かいのアパートと隣接している。互いの窓から、互いの部屋が丸見えになっている位置関係だ。向かいの部屋に男が越してきて物語が始まる。女は偏執狂的に、男の生活を覗き見るようになる。こう書くとありがちな話に聞こえるかも知れない。だが別にこの設定から、ロマンスが発生するわけでは全然ない。向かいの男は、ほとんど物語に関与しない。女は向かいの部屋だけでなく、オペラグラス片手に街に出て、あらゆる家の窓から住人の生活を覗き見て回る。彼女は何を見たいのか? 何を期待しているのか? 彼女は、人間の失態を目撃したいのだ。打てども響かず流されてしまう人間同士の当り障りないコミュニケーション、その浅薄さに倦んでいるのである。そうして彼女自身がヒステリックな失態を演じてしまうのだが、彼女のヒステリーは相手の失態を誘発できない。相手は冷静に彼女を扱う、というか無視する、笑いものにする。この小説は、没コミュニケーションを巡る物語である。とりたてて凄く面白い話ではないが、著者(あるいは主人公)の持つ視線、世界との距離の取り方が秀逸だった。かそけさ、というのか、触れそうで触れることができない世界と主人公の距離が切なくて良い。これを書いた著者は22歳、14歳と比べても尚、充分に若い。


・『台風一過』吉田修一

同誌に掲載された吉田修一の短編も読む。作品のほとんど最後に次のような一文がある。
「言いたいことを誰からも訊いてもらえない苦しみと、言いたくないことを無理やり言わされる苦しみとでは、いったいどちらがつらいのだろうか」
吉田修一が、作品のテーマをこのように分かりやすく文中に示すのは珍しい。この作品は原稿10枚程度の短編だが、作家があるテーマに導かれて、どのように小説の世界を立ち上げるのかが分かり、とても面白い。テーマに風景を与える作業だ。いみじくも保坂和志が、「小説では、そこに書かれるテーマが小説の思考なのではなくて、風景の描写こそが小説にとっての思考である」と言っている。まさにそういうものとして、吉田は風景描写を通しながらテーマを深くする。

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これは戦争の狼煙か!?

阿部和重の芥川賞受賞第一作は、『課長 島雅彦』なる超短編で、「新潮」の11月号に掲載された。原稿枚数10枚もないんじゃないかな。というか、そもそもこれは小説ですらない。
『課長 島雅彦』とは、無論、コミック『課長 島耕作』からのパクリで、作家『島田雅彦』のことを指している。島田雅彦と言えば、『優しいサヨクのための嬉遊曲』で学生時にデビューして寵児扱いされた自称・左翼作家。広範な教養、ユーモラスで余裕たっぷりの態度、軽妙でエスプリの効いた文体を武器に文壇の第一線で活躍してきた大御所である。阿部和重は、その島田雅彦を『課長』に喩え、作中でクソミソに攻撃する。

「呆れた鼻糞野郎だぜこのSってライター(島田雅彦のこと)は。なんつうか、いかにもだ、善かれと思ってやってまーす、でも、失敗しちゃってまーす、けど、それは自分でも自覚しちゃってるんでーす、そういうちょっぴり痛いキャラって、ありですよね? みたいな、こういう見識? センス? どっちにしろ、こいつは作家の感性じゃない」(中略)「たまげたぜ! こいつは端から作家なんてもんじゃないんだ。作家の皮を被った日本狼、作家のふりをした絶滅種」(中略)「とどのつまりはこいつもまた、一人の『課長』ってわけだ」

これはものすごい罵倒ぶりだ。もはや小説という体裁を取っておらず、作品化するのもバカらしいという感じで、島田雅彦への怒りに任せて投げっぱなしたわずか見開き2ページの短編。阿部和重にしてみれば島田雅彦など、サラリーマン課長に過ぎない、ということか。しかし狭い文壇のこと、またその大御所へ、こんなに激しく噛み付いて今後どうなる!? 
そもそも事の発端は何か、と言うと、島田雅彦が朝日新聞・土曜版で、『孤独悩むな 最後の文士・中原昌也君へ』というコラムを掲載したことにある。
(参考・http://www.be.asahi.com/20050827/W24/20050818TBEH0004A.html )
記事を読めば分かるが、島田雅彦が先輩風を吹かせ、後輩の中原昌也の心配をしているのである。だがその内容たるや、独り身の中原昌也へ彼女を紹介してやるとか、なんかバカにしてるような内容なのである。そりゃあ島田雅彦だって、本当に中原昌也のことを支持しているのだろう。だが松本仁志『遺書』ではないが、人をけなすより、褒めるほうが圧倒的に難しいのであり、下手な支持表明は、バカにしているように聞こえる。今回の記事がまさにそうだった。中原昌也の盟友である阿部にとって、それがカチンときたんだろう。その不快感を、小説という体裁を装うことで表明したのだ。かなりストレートに。阿部和重って、けっこう義に厚いというか、仲間思いなのである。ともかく若い世代は、上の世代に噛み付かないと面白くない。活気がでない。原因は下らないが、どんどんやれやれ!


同誌に発表された第37回新潮文学賞受賞作『冷たい水の羊』(田中慎弥・32・無職)は、最近の新人賞の中でもかなり好感を持てる作品だった。いじめられっこの中学生が主人公の話。どんなに酷いイジメに遭っても、自分がイジメられてると思わない限りイジメにはならない、そして自分はイジメられてると思ってないからイジメられっこではない、と捻れた論理に縋る「イジメられっこ」が、イジメっことの間にサド・マゾ的な共感を感じたりしてさらに捻れ、中途半端な傍観者として振舞う意中の女の強姦・殺害を企図、そして自殺もしてしまおう、というとてもありふれた話である。本当に、ありふれた話である。が、本気の本気で書きました、という愚直な迫力に関しては、ありふれた小賢しさから完全に抜きん出ていた。文章も非常にうまい。なんと言うか、小説というのはやはり、小賢しくしようとしても全然ダメだ。何しろ、選考委員というのが、桁外れの教養を備えているので、何か戦略を立てたところで、まず百パーセント近く底を見透かされる。彼らの目は絶対に欺けない。また彼らの教養に先んじんることは絶対にできない。だから戦略そのもので満足している作品は絶対に通らない。その先に、もっと愚直な、狂気じみた本気度が要求される。一切手を抜かず、本気で作品に取り組んだ時にのみ出てくる、言葉の一つ、二つ、そういう身を切った言葉なら、あらゆる快楽を探求しつくした大企業の会長みたいに教養に倦んでしまった選考委員をも、あるいは刺激するだろう。この本気というのは、自分に正直にやればいい、という甘えとは全く別物である。この恐るべき選考委員どもは、手を抜いた箇所を探り当てる嗅覚が、また並外れている。とにかく文章とどこまで向き合えるかが、ある意味でシンプルに、ある意味で多次元的に問われている。そして余談だが、この新潮文学賞の選考委員に、今回から阿部和重が加わった。


*大塚英志 『物語消滅論 −キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』読了。
*島田雅彦 『優しいサヨクのための嬉遊曲』読了。

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地下街の片隅に佇む隠れ家的な名曲喫茶で『阿修羅ガール』(舞城王太郎)を読了。余韻に浸りながら煙草を吸っていると、背後からいきなり何者かにバチコーン! と肩を叩かれる。驚いて振り返ると、謎の美女が微笑んでいる。そして「ひっさしぶり〜!」と親しげに声をかけてくるではないか! 「おお、久しぶりじゃん……ゴニョゴニョ……」と、言葉を濁す自分。いったいこの美女は!? 何者!? 慌てて記憶の糸を手繰り寄せるが、一向に思い出せない。そんな自分の当惑をよそに、彼女は向かいの席に座り「こんなとこで何してんの?」と問う。そう、自分はちょうど読書を終えたところで、煙草を吸いながら『阿修羅ガール』の解読を試みていたところだった……。

舞城王太郎の文章の特徴については、以前、『みんな元気』の記事で触れた。ドライブ感のある文体と、ミステリ仕込みの精細化した高度なコンテキスト、そして物語性の高い構成が特徴だった。彼のそうした志向性は他の作品にも一貫している。三島賞受賞作となった『阿修羅ガール』も同様であった。またこれも以前に触れたが、彼の作品は物語性が高くても、明確な起承転結を欠いている為、中原昌也の作品がそうであるように、要約することができない。彼の作品を読んでいると、必ず途中で、話の流れが大きく脱線する。これでもか、これでもか、と言うくらい横滑りを繰り返し、ほとんど雪崩に身を任せるように読み進めるのだが、不思議な事に、最後には一巡してきちんと「結」に収斂する。
物語の本道から脇道に逸れ、大胆な逃避行を敢行するわけだが、逃げ続けた果てでまた物語の本道に辿り着くという按配だ。通常、そのような脱線物語を読む場合、読者は不安や退屈を覚えるものだろうが、彼の軽快に畳み掛ける文章のリーダビリティ(推進力)が、読者の不安・退屈を凌駕する。一体どうしてこのような作品作りが可能となるのか、そこのところが今一つ分からなかったのだが、今回『阿修羅ガール』を読んでやっと判明した。間違いなく舞城は、作品を「後ろ」から書いている。当たり前だが読者は、前から読む。その前後の時間差を最大限に生かすのだ。で、この場合の後ろから書くと言った時の「後ろ」とは、実際の執筆の手順を言っているのではなくて、主題的なもの、裏テーマのことである。そう、彼の作品にもう一つの特徴を付け加えるならば、とても「主題」的であることで、これは「メッセージ性が強い」とも言い換えられる。作品につき、必ず何がしかの「主題」「メッセージ」がある。そんなの当たり前じゃないのか!?と思われるかも知れないが、純文学の場合、明確な「主題」というのは必ずも必要ではなく、むしろ作品を束縛・貧困化する場合が多い。だから舞城のように、強く「主題」「メッセージ」を打ち出す作家というのは稀有であり、彼が物語作家の由縁でもある。で、「後ろ」から書いている、の話に戻すと、たとえ彼が実務的には「前から」書いていたとしても、「結」の部分は、書き始める前に頭の中で出来上がっているはずなのである。逆に言えば、そうでなければ、あんな大胆な物語の脱線は不可能なはずなのである。ここでまたしかし、「結」が決まってて書き出すなんて、そんなの当たり前ではないか!?と思われるかもしれない。しかし純文学においては、「結」が決まってて書き出すというのは、稀な事態なのである。勿論、主題なり結論なりをそれなりに仮構しながら書き進めていくことはあるのだが、多くの場合、とりわけ良い作品とされる場合、必ず仮構したものからズレていくのである。キャラクター産業のコミックにおいても、良い作品は、途中でキャラが著者の意図を超えて勝手に動き出すと言うし、意外に知られていないが、謎解きミステリーのような作品においてさえ、著者が真犯人を決めぬまま書き出すことが多いのである。だからとりわけ舞城の、圧倒的な地滑り的ダイナミズムを前面に押し出した作品において、「結」があらかじめ決まっているのではないか、という解釈は、まさに発見と言っていいものなのである。そしてもう一つ「後ろ」の意味を考えてみたい。読者が、脱線に次ぐ脱線の中で、物語的な宙吊りを強いられている間も、当の文章は不思議な自信に満ち溢れ、背筋がピンと伸びている。この確信に満ち溢れた文章は、「保留」を喰らった読者に、確かな「後ろ」を感じさせる。文章の「背後」にあるもの、今はまだ見えていないが、意図されて隠された作品の「素顔」とも言うべきものの気配が蠢いている。

……と、そんなようなこと名曲喫茶で考えているまさにその時だった。バチコーン!と背後から肩を叩かれたのは。不意に出現した、親しげに語りかけてくる見知らぬ美女。テーブルを挟んでアレコレと差し障りのない会話を交わす。その間、彼女が誰だったか、ぼくは必死に思い出そうとする。そうして10分ほど経った頃か、おもむろに彼女が言う。
「そう言えば、天王寺のヤツ、元気してるかなぁ?」と。
「あぁ、あいつなら相変わらずだよ」と何気なく答えながら、ぼくは心の中でパシッと膝を打った!
やっと彼女の正体が分かったのだ。彼女の口から出た「天王寺」という、共通の友人の名前を介すことで。そう、彼女(=Aさん)に出会ったのは半年くらい前、天王寺のコンサート会場でのことだった。食事をしながら演奏を聴くというイベント形式だった為、相席になった彼女と、その時はじめて会話を交わしたのだった。そのことを、すっかり忘れていたのだ。彼女がAさんと分かってから、ようやく会話に弾みがついた。いやはや、すっかり失礼してしまったものだ。

名曲喫茶を後にして、Aさんと別れてから考える。多かれ少なかれ、誰にでもある場面だろう。声をかけられても、その人が誰か思い出せないという失礼極まりない場面。しかしこれは、考えてみれば実に奇妙な経験なのである。ぼくはAさんと会話をしている10分の間、必死に思い出そうとしていた。誰を? 勿論、Aさんを、である。しかし、思い出そうとしている当の実物が、目の前にいるのである。Aさんを目の当たりにしながら、Aさんを思い出せないのだ。思い出そうとしてるAさんは、目の前にいるAさんなのに、Aさんが思い出せないのだ。解答があまりにも明白な形で現前しているにも関わらず、ぼくは必死に解答を探す。どういうこと、これ??? 種明かしはこうである。ぼくにとってAさんが謎であり続けた10分間、ぼくにとってのAさんは、文脈がなかったのである。人は何かを思い出す時、多くの場合、それ単独で思い出すのは無理なのであって、文脈(物語)を必要とするのである。そしてAさんを読み解く文脈とは共通の友人「天王寺」だったのだ。これが以前にも言った、記憶と物語の関係である。人は物語的に記憶する。また、人は物語的に思い出す。つまり人は、物語的にしか事象を解せない。例えば一つの問いとして、複雑な方程式が与えられる。次に、その解答を以下の数字の中から選べと言われる。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10のいずれかから選べと。解答はその中の「3」である。ぼくは数字の羅列の中に、さっきからずっと「3」を見ている。解答を見ているのだ。だがそれが正解とは分からない。なぜかと言えば、計算の過程が奪われているからだ。それはつまり、物語の文脈を奪われていることに他ならない。では、純粋で単独な「物それ自体」としての理解・記憶は、ありえないのだろうか? 人の意識の中では、何事も何事かの文脈に収まるしかないのだろうか? 獣のような「目」「耳」それ自体として世界を知覚することはできないのだろうか? であるならば、彼女がAさんであると判明するまでの10分間、ぼくにとって彼女は一体誰だったのだろうか? 恐らく、「1」とか「2」とか、つまり他のテーブルに座っている面識のない客と同じ存在だったはずだ。彼らと彼女を区別するものがなかったのだから。

ぼくがAさんを思い出すまでの10分間、それは舞城の作品に置き換えると、文脈を剥奪された読者が、宙吊りにされた物語の中を彷徨って、脱線している状態である。物語の本筋に背を向けて逃避行を続けている不安な状態である。だが相手が美女であれば(文章そのものが面白ければ)、脱線もまた良し、とりあえず脇に逸れた会話そのものを楽しめる。そして舞城は必ず最後に「天王寺」(文脈)を用意してくれる。読者はパシッと膝を打ち、奇跡のような眩暈を感じることだろう。そうしてその謎の10分間が、決して単なる脱線や迂回ではなく、大きなメタファーとして機能していた、ということに気が付くのだ。

そういう次第で今回の記事は、舞城流に「後ろから」書いてみた。(って、勿論、前から書いたけど)


(*Aさんの件は妄想) 

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前々から、記憶のシステムには物語の構造が絡んでいるんではないかと疑っていた。
簡単に言えば、世の中に起こる様々な事象を理解・記憶する際、人間は物語的にしかそれを行えないのではないか、と。それ自体、いかにも思いつきそうなことではあるが、きちんと専門書で裏を取ったわけではなかった。というわけで、認知心理学講座「記憶」(G.コーエン M.W.アイゼンク M.E.ルボワ)海文堂を読む。

1989年の出版となっているので、最新の学説に基づいたものではない。が、専門書と入門書の橋渡し的な書なので、読みやすい。そして結論から先に言えば、記憶と物語が関係しているのではないか、という推測は、全くもってその通りだった。いわゆる「スキーマ理論」というのがそれで、新しく何かを覚える場合、それまでの知識に影響される、というものである。細かく見ていくと必ず例外があったりしてキリがないのだが、大雑把に言って、スキーマという情報の束があり、我々が何か新しい経験を処理しようとすると、この先行するスキーマに収束されていくのである。スキーマ自体は、整理された論理的な情報なので、これを大きな意味で「物語」と捉えることもできる。「ウッカリ」や「混同」と言った、事実と反する記憶錯誤が生じるのも、スキーマの仕業であることが多い。見てないものを見た、と言う時、それは先行するスキーマの雛型に、新しい経験が影響されているからである。

ここで一気に話を飛躍すると、所謂、ニューアカとかポストモダン的な物の考え方というのは、このスキーマを粉砕することにあったのではないだろうか。例えば何か絵画を見て、「この光は神を象徴している」とか、「この陰は死の暗示である」とかの象徴化・記号化は、いかにもスキーマ的なものであり、それは絵画を「見ている」のではなくて「読んでいる」だけじゃないか、ということになりがちだ。同様に映画や小説においても、物語的・テーマ的な読みは効力を失い、画面そのもの、文章そのもの、の魅力を再発見することに重きがおかれた。そうでなければ、その芸術ジャンルそれ自体を直視していないことになってしまうから。これは物語的理解よりも、「目」あるいは「耳」そのものの回復でもある。またそうした鑑賞の態度と共に、飛躍するようだが、文化人のヒエラルキーの転倒というようなことも起こったのではないか。いわゆる階級の無化、というのか。それまで一部の知識人・表現者がトップダウン式に批評・表現活動を行っていたのが、「新人類」と呼ばれる人種が台頭し、同じ水位で物を批評・表現するようになる。垂直方向の階級が、水平方向に置き換えられる。これにはメディアも大きく加担していたようだし、そもそもこうした横並び階級を先導したのは「新人類」というより、「知識人」からだったようだ。こうしたことは、少し話が飛ぶかもしれないが、例えば「ホットドッグ・プレス」誌を「監獄の誕生」(M.フーコー)と同じ水位で読んでしまうという読者を生み出したりする。こういう階級・価値のヒエラルキーの転倒は、恐らくスキーマ(一点透視図法的な遠近法)の転倒とどこかで確実に通じており、物語的な読みを覆すことだった。こうしたことにメディアやコミュニケーション・ツールの発達が輪をかけ、いよいよ、「価値」におけるヒエラルキーは崩れ出す。だからメディア・リテラシーのような、主体的な受け手・消費者が求められるのだが、これは何もニュースに限ったことではなく、野菜に農家の名前や使用した農薬名が記名されるのも同じ事で、商品全般におけるリテラシーが必要とされるようになった。2チャンネルでイラク情勢を知ることも、100円ショップでフライパンを購入することも、立派な主体性の表れとなる。また主体的な消費者・受け手の登場が、作り手・表現者との差を曖昧化させていき、更なるヒエラルキー無化の円環が巡られる。

ここでもう一度、認知心理学講座「記憶」に戻ると、例えば交通事故や犯罪が起きた場合、目撃者が誤った記憶に基づく、誤った目撃談を証言することが度々あることについて触れている。見てないものを見た、見たものを見なかった、とする錯誤。勿論、目撃者に何らかの意図があったわけではなくても、そういう物語的錯誤、人間特有の傲慢さを、表現の分野から駆逐するというのが、ポストモダン的な思想だったのではないだろうか。極端な話、悪い意味でのハリウッド的な物語主義は、意図的に「真実」を見落とし、誤報している可能性があるわけだ。但しここで、じゃあ、「真実」とは何なのか? 何に基づいて「真実」を定義するのか? というもっともな批判が出てくる。つまり、なんだかんだと言っても人間は、物語的、つまりスキーマに基づいて世界を理解し、記憶しているという、生物学的な限界が出てくる。獣とは違うので、純粋な「目」や「耳」には、なれるはずがない。また、それを限界と否定的に捉えるより、スキーマがあるからこそ膨大で無秩序な世界の成り立ち把握できるという恩恵があり、このデメリット・メリットを比較した場合、メリットの方が圧倒的に大きいのである。だからこうした人間性も、一方ではきちんと踏まえなくてはいけないし、また無闇に批判の対象にすべきではないだろうと思う。もしかするとこの辺の議論は、サルトルとカミュの虚無主義(ニヒリズム)を巡る対立とどこかで繋がっているのかもしれない。彼らはきっと、同じことを両面から言っていただけであって、単に整合性の高いサルトルが勝利しただけではなかったかと思うのだが、これはきっと蛇足だろう。ぼく自身は、物語性の高い作品が好きだ。それ以前にそもそも、言葉そのものが、そうした意味作用、つまり象徴記号としてあるのだから。

映画批評家セルジュ・ダネー「不屈の精神」に、確かこんなエピソードというか、文章があった。
アウシュビッツか何かの強制収容所へ、アメリカの撮影隊が初めて入り、カメラにその映像を収めた。その作品を見たセルジュ・ダネーが感銘を受ける。なぜかと言うと、そのフィルムには「無垢」さが感じられたからだ。あるいはその「無垢」さとは、「驚き」と言っていいかもしれない。そこにはまことしやかに装われた悲しみも怒りもなく、ただ純粋な「驚き」がある。こうした「無垢」さは、初めてそこを訪れた者にのみ許される特権である、とダネーは語る。
この、「初めてそこを訪れた者に許される特権」から来る「無垢」とは、言うまでもなく、先行するスキーマに収まらない未知なる体験ということになるだろう。今の時代、明確な価値のヒエラルキーが容易に見出せない。またメディアの発達によって、その価値基準の曖昧な情報が氾濫しているから、実感(リアリティ)の伴った情報を得ることも困難である。こうした状況下にあって、そうした「無垢」な瞬間をいかに体験できるか、というのは、稀有だけに貴重だと思われる。とりわけ70年代以降に生まれた世代の場合、そうなるだろう。

ここでまた思い出すのが「ジパング少年」(いわしげ孝)という漫画だが、あれは、徹底した管理教育が行われている高校や、画一的な価値観に汚染された日本に反発した高校生が、南米へガリンペイロ(金堀り)に出かけ、その設定の中で、「金」ならぬ「自分」探しをする話だった。主人公が最後、南アメリカ大陸の最南端まで出かけ、モンゴロイド(インディアン)の老婦に出会うところで、話は終わる。主人公が「自分探し」の最後に見出したのは、「ゼロ」の感覚、ということだった。彼が言うには、どうも自分の人生が、ゼロからではなくて、100とか1,000とか、中途半端なところからスタートさせられた気がする、と。だからそうした旅の果てで、0ゼロの感覚を掴みたかった、ということだ。今思うと、かなりストレートな話だが、つまりこれも、「無垢」を求める話であり、そこを基点にして自分なりの価値基準を再構築してきたい、という、人生的なリテラシー(主体的な取捨選択)を求めるスケールの大きな話だったように思う。その「ゼロの感覚」とは、あらゆるものに先行する実感(リアリティ)のことでもあったはずだ。このゼロの感覚を強く求める気分というのは、正しく時代の気分を反映してのことだろう。そしてまた先の「真空が流れる」(佐藤弘)の記事に絡めて言えば、こうした「自分探し」「通過儀礼」の物語、つまり「ビルドゥングスロマン」なるものが、日本を飛び出した南米を舞台に行われているという点も注目していいかもしれない。

小説家と言えば自意識の塊みたいな存在だが、最近の若手作家の資質とは、いかに自意識を消すことができるか、ということにあるようだ。無論それは、彼らがやはり自意識の塊でしかないことを反証するわけだけど。

第36回新潮文学賞受賞作「真空が流れる」(佐藤弘・24)を読む。
佐藤弘は、日芸の出身だ。どうでもいい話のようだが、阿部和重は日本映画学校の出身である。実は自分は、この二つのうち、どちらかに行こうかと迷った一時期があった。結局、どちらにも行かなかったが。それはともかく、日芸の佐藤弘、日本映画学校の阿部和重、今回はこの2人を比較するところから書いてみたい。

阿部和重のデビュー作「アメリカの夜」は、自主映画制作に関わる若者を主人公に据えた自伝的な物語だった。表現者の過剰な自意識を巡る物語でもあり、「特別な自分」、「他人とは違う個性的な自分」を求める「自分探し」の物語である。主人公は、何の恥じらいもなく表現する者たちを軽蔑の対象にしながらも、しかし自分もまたその中に含まれてしまうジレンマに自覚的であり、いかにして彼らと自分とを差別化するか戦略を練る。そういう話だった。
今回、日芸出身の佐藤弘が書いたデビュー作「真空が流れる」は、ビデオで撮影した友人の自殺ドキュメントを編集する高校生の物語だった。映像製作に関わる者の物語という点で「アメリカの夜」と同一の背景を持つが、こちらは自意識が綺麗に消毒された作品となっている。「特別な自分」、「他人とは違う個性的な自分」、つまり「自分探し」というベクトルを意図的に感じさせない。しかし佐藤弘の受賞の言葉を読むと、「自分の小説を読んでくれとは言いません。表現するという行為に羞恥心を感じるからです」とあり、また受賞後のインタヴューでなされた<日芸という環境でほかに学んだことはありますか?>という記者からの質問に対し、「羞恥心ですかね。日芸には、周りに恥ずかしげもなく表現したいという欲求にあふれている人々がたくさんいるわけです。見ているこっちは恥ずかしくてたまらないのに、表現し終わって打上げやって、わーいと喜んでいる。そんなある日、恥ずかしいと感じながら面白い作品を作っている松尾スズキさんの芝居と出会って、自分もああいう距離感で自分の作品と付き合いたいなあと思いました」と答えている。こう述べることで逆説的に彼が大きな自意識を抱えているのだと明らかになるのだが、こういう羞恥心というのはやはり必要なのだろう。お笑い芸人も面白い人は羞恥心を抱え、自意識過剰な人だったりする。だがここで検証してみたいのは、彼のように実際には自意識を抱えた者が、作中においても自意識も消すということが、果たして「節度がある」というふうに言えるのか? 阿部和重の場合は逆に、自意識に自意識を上塗りするような形でその向こうへ突破するような戦略を取っており、それはある意味で潔いし、デビュー作に相応しいあり方だとも思う。だが、浅田彰を筆頭に、「自意識」や「自分探し」を扱った小説を時代錯誤として認めない文壇の風潮には、若干の違和を感じてしまう。そんなに瑣末なところに拘るほど文壇は度量が狭いのか? そう言えば宮台真司も「自意識なき自分に悩まない新世代の登場」というようなこと現代人に当てはめて言っていたようだが、実際問題として、自意識から自由であることはそもそも可能なのだろうか。とりわけ表現する者の場合、そんなの無理でしょ、と素朴に思う。だから自意識過剰を嫌う知識人は逆にもっと自意識過剰な天邪鬼にも思える。ただのスカしたポーズなんじゃないのか? と。でもそんな風に言っても仕方ないので、社会学的な見地から彼らの意見を補足してみる。民俗学者でもある大塚英志の「『おたく』の精神史−1980年代論−」を読むと、なるほど、現代の日本は「通過儀礼」(つまり「自分探し」による大人への成熟)の機能を欠いた時代らしい。ちょっと引用してみる。

「近代の終着点としての80年代においては自分たちは男も女も『成熟』を徹底して遅延せさ、そこに生じた一種のタイムラグを生きる存在としてあったのだ。人に『主体』であることを求める社会的な強制力は相対的に弱体化しつつあるのも事実だし、あらゆる立場や役割が相対化していくとされた時代にあっては、何かになったところでそれはあたかも刹那的のことのように思えた。主体であることからそのつど逃走し続ければよいと語るポストモダン的な言説と気分はそれを首肯する思想としてあった(中略)確かに文化人類学的な『通過儀礼』は、小さな共同体が確固として存在し、同時に『大人』なり『成熟』という枠組みもまた単純かつ固定した状態で初めて可能になる。その小さな共同体が崩壊した近代ではまず『国民国家』という共同体がそれを代行し、それさえも揺らぎ、再度世界が微分化し多元化した時代をぼくたちは生きている。だから現実に『通過儀礼』を復活させるのは困難であり、仮に『儀礼』を行ったとしても成熟のためのモデルもそれを成立させる場も失われているのだ」

このように「通過儀礼」が成り立たない社会、主体が求められない現代にあって、「自分探し」という「自意識」もまた不毛なのだろうか。佐藤弘の「真空が流れる」の「真空」とは、まさしくそうした主体を欠いた透明感を反映した言葉なのだが、作品に戻ってもう少し詳しく考察してみる。この小説ではまず、主人公の友人がピストル自殺する。「自殺」というのは本来、「自分探し」の選択肢を全て絶たれた者の、つまり「自意識」があってこそ成り立つ人間ならではの精神的行為であるはずだろう。が、この小説では、主人公の友人がなぜ自殺したのか、そこところを徹底的に不問にする。主人公は、コメカミに銃を突きつけた友人にビデオカメラを向けながら、他愛のない言葉を拾う。「ラーメン食べたいな」「ラーメンの味を思い出すだけでこみあげてくるこの嬉しさ!」「だから俺は幸せなんだよ」と友人は言い、その直後、手にした銃でコメカミを打ち抜いて死ぬ。それを主人公が淡々とビデオに収め続ける。こうした悲壮感のない晴れやかな自殺場面を演出し、友人の死を「自分探し」のベクトル上から逸らす。だが、ドストエフスキー「悪霊」のキリーロフでもあるまいに、自殺というのはもっと実際的な心の問題ではないのか。この作品では、友人の死の背景を成す心の部分には徹底して触れない。それこそ「ラーメンを食べる」気軽さで自殺を扱う。この感覚は、鶴見済「完全自殺マニュアル」にある「死にたければ死ねばいいじゃん」的な、あっけらかんとした軽さがある。だからこの「死」に重要な意味を求めないリリー・フランキー「東京タワー」の対極に位置する軽さは、生き残った者が勝手に「死」を解釈できるほど「死」の意味は軽くないとするアルベール・カミュ「異邦人」の倫理的な態度とも根本的にニュアンスが違う。そうした倫理的な態度は、「死」を何とかして理解しようとする飽くなき希求の果てで反転する倫理であるのに対し、この小説の主人公は、「死」を理解しようとする欲求がそもそも希薄である。死ぬほうも死ぬほうなら、それを見届けるほうも見届けるほうであり、両者とも重い意味から解放された透明(真空)な存在なのである。くどいようだがここには自意識がない。
と書いてみたものの、実はそれは装われたものであり、周到な戦略によるものである。表面的に文章から自意識を消しているだけである。それは阿部和重の「アメリカの夜」とは対照的な戦略である。対照的ではあるが、佐藤弘のインタヴューを振り返るまでもなく、2人の作家が根底に同質の自意識を抱えていることは明らかであって、要は、見せ方が違うだけである。実際には、この小説はやはり「自意識」「自分探し」の上に成り立っている。この小説の大半は、友人の死そのものよりも、友人の死を捉えたビデオ映像の編集に明け暮れる主人公の姿を描いている。「編集」を介して何かを理解しようとする態度は、極めて現代的だと言えるだろう。ちょっと話が逸れるかもしれない。以前にも書いたが、現代はメディア機器の氾濫に伴って、リアルとフィクションの境目が曖昧化した時代である。この小説の場合、ビデオカメラというフィルターを通じてリアル/フィクションの境界を曖昧にさせている。CG合成まで施している手の込みようだ。主人公はこの編集作業に関しては真面目で真摯な態度を貫く。この生真面目な態度は、そのまま友人の死へ対するものでもある。だから彼は、仕上がったビデオが「作品」であることを、自分に禁じる。「作品」は人に見せるものだが、この「自殺ドキュメント」はそういうものではない、と考える。それはちょうど、佐藤弘が受賞の言葉で、「自分の小説を読んでくれとは言いません。表現するという行為に羞恥心を感じるからです」と言っていることと似ている。そうしてこの主人公は、確かに仕上がったビデオを最後まで誰にも見せず、物語は終わる。一貫して「死」の意味を求めようとしなかった彼が、彼なりに「死」と向かい合った倫理的な態度として、ここに示される。そしてここには、表面的には描かなかった主人公の「自意識」、友人の死を通しての「自分探し」という裏テーマが垣間見える。と言ってしまうと、何だか簡単な作品と思われるかもしれない。が、表題の「真空」という感覚が確かに作中に流れていると感じられるからには、稀有な作品でもあるのだ。字面(表面)における徹底した自意識の消毒によるもの、というだけではなさそうだ。この「真空」の感覚をもう少し違った言い方に変えてみると、リアル/フィクションの曖昧化された現代という時代感覚が、よく反映されているとも言える。何とも不思議な感じなのは、まず友人の「死」という圧倒的なリアルがあるのに、そのこと自体に主人公は驚かない。その「死」は、本来、ビデオ編集などという生易しいクッションなど何の意味も成さないほど究極的なリアルのはずなのにである。ところが主人公が彼なりに「死」を理解するのは、そのビデオ編集を媒介してのことなのだ。何と言う複雑さ。これはもう、リアル/フィクションという単純な二元論ではなく、「リアル/フィクションのリアル」とか、「リアル/フィクションのフィクション」とか、そういうことになってしまっている。つまり、理解すべきものがリアル/フィクションの境目にあるだけでなく、それを理解しようとする自分の立ち位置そのものがリアル/フィクションの曖昧化されたところにある、というような感覚だ。佐藤弘は1980年生まれである。大塚英志が「通過儀礼」が機能しなくなったと指摘した世代である。ということは、生まれながらにして、リアル/フィクションの曖昧化した社会を生きてきた世代である、と言えるかも知れない。そういう世代であって描ける時代の空気、つまり「真空」というものなのだろうか。この感覚はやはり、同質の自意識を抱えているとは言え、阿部和重とは違うと思うのだ。


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