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前々から、記憶のシステムには物語の構造が絡んでいるんではないかと疑っていた。
簡単に言えば、世の中に起こる様々な事象を理解・記憶する際、人間は物語的にしかそれを行えないのではないか、と。それ自体、いかにも思いつきそうなことではあるが、きちんと専門書で裏を取ったわけではなかった。というわけで、認知心理学講座「記憶」(G.コーエン M.W.アイゼンク M.E.ルボワ)海文堂を読む。
1989年の出版となっているので、最新の学説に基づいたものではない。が、専門書と入門書の橋渡し的な書なので、読みやすい。そして結論から先に言えば、記憶と物語が関係しているのではないか、という推測は、全くもってその通りだった。いわゆる「スキーマ理論」というのがそれで、新しく何かを覚える場合、それまでの知識に影響される、というものである。細かく見ていくと必ず例外があったりしてキリがないのだが、大雑把に言って、スキーマという情報の束があり、我々が何か新しい経験を処理しようとすると、この先行するスキーマに収束されていくのである。スキーマ自体は、整理された論理的な情報なので、これを大きな意味で「物語」と捉えることもできる。「ウッカリ」や「混同」と言った、事実と反する記憶錯誤が生じるのも、スキーマの仕業であることが多い。見てないものを見た、と言う時、それは先行するスキーマの雛型に、新しい経験が影響されているからである。
ここで一気に話を飛躍すると、所謂、ニューアカとかポストモダン的な物の考え方というのは、このスキーマを粉砕することにあったのではないだろうか。例えば何か絵画を見て、「この光は神を象徴している」とか、「この陰は死の暗示である」とかの象徴化・記号化は、いかにもスキーマ的なものであり、それは絵画を「見ている」のではなくて「読んでいる」だけじゃないか、ということになりがちだ。同様に映画や小説においても、物語的・テーマ的な読みは効力を失い、画面そのもの、文章そのもの、の魅力を再発見することに重きがおかれた。そうでなければ、その芸術ジャンルそれ自体を直視していないことになってしまうから。これは物語的理解よりも、「目」あるいは「耳」そのものの回復でもある。またそうした鑑賞の態度と共に、飛躍するようだが、文化人のヒエラルキーの転倒というようなことも起こったのではないか。いわゆる階級の無化、というのか。それまで一部の知識人・表現者がトップダウン式に批評・表現活動を行っていたのが、「新人類」と呼ばれる人種が台頭し、同じ水位で物を批評・表現するようになる。垂直方向の階級が、水平方向に置き換えられる。これにはメディアも大きく加担していたようだし、そもそもこうした横並び階級を先導したのは「新人類」というより、「知識人」からだったようだ。こうしたことは、少し話が飛ぶかもしれないが、例えば「ホットドッグ・プレス」誌を「監獄の誕生」(M.フーコー)と同じ水位で読んでしまうという読者を生み出したりする。こういう階級・価値のヒエラルキーの転倒は、恐らくスキーマ(一点透視図法的な遠近法)の転倒とどこかで確実に通じており、物語的な読みを覆すことだった。こうしたことにメディアやコミュニケーション・ツールの発達が輪をかけ、いよいよ、「価値」におけるヒエラルキーは崩れ出す。だからメディア・リテラシーのような、主体的な受け手・消費者が求められるのだが、これは何もニュースに限ったことではなく、野菜に農家の名前や使用した農薬名が記名されるのも同じ事で、商品全般におけるリテラシーが必要とされるようになった。2チャンネルでイラク情勢を知ることも、100円ショップでフライパンを購入することも、立派な主体性の表れとなる。また主体的な消費者・受け手の登場が、作り手・表現者との差を曖昧化させていき、更なるヒエラルキー無化の円環が巡られる。
ここでもう一度、認知心理学講座「記憶」に戻ると、例えば交通事故や犯罪が起きた場合、目撃者が誤った記憶に基づく、誤った目撃談を証言することが度々あることについて触れている。見てないものを見た、見たものを見なかった、とする錯誤。勿論、目撃者に何らかの意図があったわけではなくても、そういう物語的錯誤、人間特有の傲慢さを、表現の分野から駆逐するというのが、ポストモダン的な思想だったのではないだろうか。極端な話、悪い意味でのハリウッド的な物語主義は、意図的に「真実」を見落とし、誤報している可能性があるわけだ。但しここで、じゃあ、「真実」とは何なのか? 何に基づいて「真実」を定義するのか? というもっともな批判が出てくる。つまり、なんだかんだと言っても人間は、物語的、つまりスキーマに基づいて世界を理解し、記憶しているという、生物学的な限界が出てくる。獣とは違うので、純粋な「目」や「耳」には、なれるはずがない。また、それを限界と否定的に捉えるより、スキーマがあるからこそ膨大で無秩序な世界の成り立ち把握できるという恩恵があり、このデメリット・メリットを比較した場合、メリットの方が圧倒的に大きいのである。だからこうした人間性も、一方ではきちんと踏まえなくてはいけないし、また無闇に批判の対象にすべきではないだろうと思う。もしかするとこの辺の議論は、サルトルとカミュの虚無主義(ニヒリズム)を巡る対立とどこかで繋がっているのかもしれない。彼らはきっと、同じことを両面から言っていただけであって、単に整合性の高いサルトルが勝利しただけではなかったかと思うのだが、これはきっと蛇足だろう。ぼく自身は、物語性の高い作品が好きだ。それ以前にそもそも、言葉そのものが、そうした意味作用、つまり象徴記号としてあるのだから。
映画批評家セルジュ・ダネー「不屈の精神」に、確かこんなエピソードというか、文章があった。
アウシュビッツか何かの強制収容所へ、アメリカの撮影隊が初めて入り、カメラにその映像を収めた。その作品を見たセルジュ・ダネーが感銘を受ける。なぜかと言うと、そのフィルムには「無垢」さが感じられたからだ。あるいはその「無垢」さとは、「驚き」と言っていいかもしれない。そこにはまことしやかに装われた悲しみも怒りもなく、ただ純粋な「驚き」がある。こうした「無垢」さは、初めてそこを訪れた者にのみ許される特権である、とダネーは語る。
この、「初めてそこを訪れた者に許される特権」から来る「無垢」とは、言うまでもなく、先行するスキーマに収まらない未知なる体験ということになるだろう。今の時代、明確な価値のヒエラルキーが容易に見出せない。またメディアの発達によって、その価値基準の曖昧な情報が氾濫しているから、実感(リアリティ)の伴った情報を得ることも困難である。こうした状況下にあって、そうした「無垢」な瞬間をいかに体験できるか、というのは、稀有だけに貴重だと思われる。とりわけ70年代以降に生まれた世代の場合、そうなるだろう。
ここでまた思い出すのが「ジパング少年」(いわしげ孝)という漫画だが、あれは、徹底した管理教育が行われている高校や、画一的な価値観に汚染された日本に反発した高校生が、南米へガリンペイロ(金堀り)に出かけ、その設定の中で、「金」ならぬ「自分」探しをする話だった。主人公が最後、南アメリカ大陸の最南端まで出かけ、モンゴロイド(インディアン)の老婦に出会うところで、話は終わる。主人公が「自分探し」の最後に見出したのは、「ゼロ」の感覚、ということだった。彼が言うには、どうも自分の人生が、ゼロからではなくて、100とか1,000とか、中途半端なところからスタートさせられた気がする、と。だからそうした旅の果てで、0ゼロの感覚を掴みたかった、ということだ。今思うと、かなりストレートな話だが、つまりこれも、「無垢」を求める話であり、そこを基点にして自分なりの価値基準を再構築してきたい、という、人生的なリテラシー(主体的な取捨選択)を求めるスケールの大きな話だったように思う。その「ゼロの感覚」とは、あらゆるものに先行する実感(リアリティ)のことでもあったはずだ。このゼロの感覚を強く求める気分というのは、正しく時代の気分を反映してのことだろう。そしてまた先の「真空が流れる」(佐藤弘)の記事に絡めて言えば、こうした「自分探し」「通過儀礼」の物語、つまり「ビルドゥングスロマン」なるものが、日本を飛び出した南米を舞台に行われているという点も注目していいかもしれない。
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