考え中

基本的に日記、生活の中の思いつきなど

文学

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

1973年福井生まれ、という意外全く謎に包まれた覆面作家・舞城王太郎。
ミステリ小説「煙か土か食い物」で第19回メフィスト賞を受賞してデビュー。2001年に短編、「ピコーン!」で日本推理作家協会賞の候補となる。同年「熊の場所」で純文学に活動の場を広げ、2003年、「阿修羅ガール」で第16回三島賞を受賞するも、授賞式に表れず素顔は謎のまま。同賞の式典を欠席した受賞者は初めて。「好き好き大好き超愛してる。」が第131回(2004年下半期)芥川賞にノミネート。

作家自身の露出は皆無だが、その創作量は怪物じみており、また各作品の際立ったハイ・テンションぶりは一向に弛緩の気配がない。昨年「新潮」9月号に掲載された「みんな元気。」も、舞城王太郎の得意とする何が飛び出すか分からない疾走感あふれた文圧で、破天荒な展開連発の奇想天外な物語を一気呵成に語り倒す。

「みんな元気。」の物語を要約して紹介するのはおそらく無理だろう。舞城の度外れた想像力のスケールが、物語の要約を許さない。一読、舞城の物語は、既読感に塗れたあらゆる物語的なものに罠を仕掛け、換骨奪胎し、そこらに破片を撒き散らしたまま暴力的な推進力(リーダビリティ)で眩暈に襲われるほどの場面転換に次ぐ転換を繰り返す。が、それでいて舞城の場合、純粋で真摯な物語作家である。「祈りは愛で、愛は物語である」と、「好き好き大好き超愛してる。」の冒頭部で主人公が何度も宣誓した信仰は、そのまま覆面作家・舞城王太郎の裸の本音でもある。
くどいようだが、彼の作品は、要約が難しい。普通、綺麗に起承転結した物語であれば要約しやすいものである。だが、彼の作品は物語的なのに要約しづらい。この矛盾は何なのか? 謎を解く鍵は、ミステリ畑から純文学に殴りこんできた彼の出自だ。恐らく彼は、自分の書く作品をミステリーか純文かそれほど意識していないだろう。本来、そこに問うべき隔たりなどないことを彼自身が了解しているのだ。だからこそ確信的に、ミステリ文学の高度に洗練された技法で純文を書く。ぼくはミステリ小説のことはよく分からないから、わずかな知識で想像するだけだが、舞城が他の純文作家とはっきり毛色が違うのは、そんな背景からだろう。ミステリ界では清涼院流水はじめ、箍が外れたスケール感・想像力・技巧で、平然とテンションを持続した大長編が編まれる。とても純文が太刀打ちできる輩ではない。「物語」への現場意識もまた彼らの方が数段上だろう。何しろ科学的に捉えている。数学者ばりの聡明さで、複雑なメタフィクション、ミザナビーム(入れ子構造)、ミメーシス(模倣)、パロディを満載しておきながら、最後にきっちり帳尻を合わせてくる。先行する「物語的なもの」をあの手この手で解剖し、腑分けし、散らかすようでありながらも。
そればかりじゃない。舞城の場合、その特異な文体を併せて説明しなければ片手落ちだ。誰もが彼の文体を「ドライブ感がある」と評する。一読すれば明瞭。どこかラップのような小気味よく畳み掛ける軽いノリの言葉群が、極めて高いテンションで散弾銃さながら放たれる。この文体。これでなくては語れない物語を、彼は語っている。考えてみれば当たり前だが、例えば同じ5分間の曲で、ラップとロックでは歌詞に詰め込める言葉数が全く違う。ということは、同じ時間でも情報量が違うということだ。この単純な理屈を小説に当てはめるか? 理論上は無理である。なぜなら小説は、現代文の試験か朗読でもない限り読書における決まった時間がないからだ。220枚の原稿枚数は、ラップ調で書いてもロック調で書いても同じ枚数であり、つまり言葉数はほぼ同じである。ということは情報量も同じだ。だがそれはまやかしで、実は違う。何がと言って、調子(テンポ)が違う。言葉の調子(テンポ)が違うということは、読書における内的時間が違う。文字を追う目を先へ先へと進めるスピード感、これをドライブがかかっている、と言い、リーダビリティがある、とも言う。小説に時間(スピード)はあるのだ。ここで例文を引用してみたい。舞城とは別の作家によるものだが、こんな「一文」がある。


 デブネガネが何を言っているのか全然聞いていなかったがその鼻にかかったようなツルツルの声はものすごくムカついてちょっとだけ気分が治ったのにまた遠近法が狂ってきて昔センセイは心のシャッターを閉じないで我慢をしてその時に目の前にいる人の話を努力して聞きなさいと言ったのだがデブメガネの話はどうしてもまじめに聞くことができなくてあたしはタケオのことを思い出そうとしたのだが突然タケオの顔やタケオのあそこやタケオの背中を忘れてしまってタケオなんて本当は最初からどこにもいなかったんじゃないかって考えてしまってそういうことは絶対に考えちゃいけないとすぐに気付いたんだけどもう遅くてあたしは必死になってタケオの体のどこでもいいから憶えている部分を捜してそれはタケオの背中に生えている毛だけだってことに気付いてタケオは東北の生まれのくせにうっすらとしてそれでも触ると硬い毛が生えていてあたしの頭がそれを憶えているんじゃなくてあたしの手がそれを憶えていてあたしは両手を拡げて手の平に向かって何度もガンバッテねガンバッテねと言った、


という「一文」で、これは極端な例にせよ、ドライブ感で読者の読書内時間を操作することで、息をつかせぬ場面転換が可能になる。そうであれば、同じ時間(紙幅)でも、より多くの情報が詰め込めるのだ。非常に砕けた言い方をすれば、物を語るにはそれに相応しい語り方がある、ということだ。
さて、これで舞城の小説を支える両面が見えた。ドライブのある文体だからスピーディな場面展開の連発を可能にし、またこの場面転換の連鎖が雪崩式に既読感ある物語的なものを打ち崩していき、それでいながら数学者のごとき論理を地に這わせ、最後にカチッと帳尻を合わせてくる。その帳尻が合わさった瞬間、読者は奇跡か魔術でも見たような、奇妙なカタルシスに襲われる。多方向にばら撒かれた話の筋が一点に収斂する瞬間に味わうこの感動は、紛れもなく「物語的なもの」ではなかったか。

表面上、舞城の文体を真似ることはそれほど難しいことではないかもしれない。しかし彼の数学者的な聡明さを真似ることは極めて困難だろう。以前ぼくは、現代社会が、ファンタジーの層を開拓し尽くした結果としてパロディの無限変奏を繰り返し、小さな差異を持って大きな意味を見つけなければいけない難しい時代であるというふうなことを書いた。この場合、中原昌也の「脱臼する文体」が一つの有効な武器であり、またその一方で、舞城のように高度に精細化した文体を武器にする方法もあるのではないか。


というより、こんな長い記事を最後まで読んでくれる人がいるのか、そこのところが実に気がかりだ。


(引用・村上龍「イルカ」)

開く トラックバック(1)

イメージ 1

昨年の群像新人文学賞で優秀賞を射止めた「グルメな女と優しい男」(望月あんね・28)を読了。

タイトルにグルメとあるので、料理を題材にした小説かと興味を惹かれた。読んでみると一応そうなのだが、だいぶ赴きが違った。自称グルメの主人公・りん子は、グルメの究極は人を食うこと、と大真面目に夢見ているイカれた女だ。で、そんな風変わりな性格のせいもあって男日照りが続く孤独な美食生活の中、りん子は土手で草を毟って食べている真心一郎という変人と出会い、恋に落ちる。真心一郎は肉が一切食べられず、また果物でもあっても、米であっても、一旦愛着を感じてしまった食材は一切食べない優しい男。だからそこらの草や苔、花などを採取して食っている。この対照的な奇人二人の恋物語を少女漫画風に描く。

この少女漫画風というのが、閉口した。全ての少女漫画がそうではないから語弊のある言い方かもしれないが、死後となった「オバタリアン」の予備軍を思わせるあつかましいOL達の描かれ方。主人公が一応OLなので、仕事場が舞台の一部になっているのだが、りん子を含めたOL仲間たちのキャピキャピしたはしゃぎぶりについていけない。仕事をさぼり、休憩室で談話に励み、上司に怒られても逆ギレをかまし、開き直って酒盛りまではじめる女どもの醜態。言動の全てが非常に浅はかで、地の文も話の設定も悪い意味での少女漫画そのものだ。キレたり、泣いたり、爆笑したり、感情を素直に発露するのは構わないが、場を弁えず、正直な感情なら全て許されると誤解したダダっ子じみたエゴ。忍耐を知らない一本槍な行動原理。(いや、全ての少女漫画がこういうだと言ってるんじゃなくて、自分でも好きなものはあるんです。萩尾望都とか)で、この「開き直り」とはつまり、自足して変化の望みようがない閉じた態度のことだから、小説の主人公としてはNGで、共感できる隙が微塵もない。この小説はダメだなコリャ、とサジを投げかける。ところがドッコイ、中盤まで読み進めると、一郎との少女漫画風ではあるが不思議と目が離せない奇妙なロマンスが展開。何と言っていいのか良く分からないが、物語そのものが持つリーダビリティが発動し、以後、一向にダレない。相変わらずコミック仕立ての展開に寒気を感じる場面もあるが、とりあえず最後まで付き合おうという気にさせられる。何が少女漫画風かと言って、著者の筆名や登場人物のネーミングはさておき、物語のクライマックス、クリスマスイブの夜に誰もいない湖に二人きりでボートを漕ぎ出し、満月で、それが湖に映っていて、また気恥ずかしい最高のタイミングで雪が降り出したりする、そういう臆面もない演出。でも実はこういうお決まりの展開って、結局のところ人間の快楽原則みたいな本能に刷り込まれているから、何だか読んでしまう。冒頭は少女漫画風で、最後の方はTVドラマ風。実際、これはTVドラマ化しても充分にいける話ではないか。案外バカにして読んでいると、そうも言い切れないところがあるのだ。著者の視点が一向にブレず、対象を一定の距離で描いているということ、これはなかなかのものだと思う。とにかくこの正確な視点というのがあって初めて、物語の自由な展開を保証するのだ。そう、この小説を読んで感心したのは、物語に殉じている、物語を信じている、という昨今では逆に珍しい姿勢を貫いていることだ。以前も書いたが、散文を連ねていくとどこかで書かれている対象を書いている言葉が越えていく、というダイナミックなズレが生じるのだが、恐らく自分がこの小説を読み続けたのも、そのズレに誘われたからで、最後の方では確かに、少女漫画ともTVドラマとも言い捨てられない何か切実なもの、擬態として装ったオチャラケタ顔の裏に潜む哀切感が感じ取れた。そしてこの小説が大人の小説というよりも、若さの至りという感じでありながら、それでも著者の世界観を等身大で書ききったことは、小賢しく背伸びすることよりもずっと貴重であり、ずっと賢いことを証明しているように思う。

イメージ 1

数ある猪木本の中でもこれが最強の決定版、と兼ねてから噂の「アントニオ猪木の謎」(加治将一)を読了。

帯に付されたコピーに
「稀代の英雄か、凡庸なる俗物か〜史上最強のレスラーの迷宮に迫る渾身のノンフィクション〜」
とある。

猪木の大らかな博愛主義の裏には、情け知らずの冷酷な顔が潜んでいる。その裏の顔に接した者は、猪木から離れていく。これまで猪木から離れていった人間の数は掃いて捨てるほどいる。それは何も、レスラーに限ったことではない。この本では特に、ビジネスや政治において猪木と関わった人を取り上げ、いかにして猪木に裏切られ、離れていったかを綴っている。それはそれは、本当に情け知らず。例えば長年の猪木の友人であり、自分を心の師と仰ぐ男にロスから東京へ銃を運ばせる。理由は、日本で射撃場を作りたいからという意味不明なものだが、友人は猪木の申し出ならばと危険な密輸を敢行。で、逮捕されてしまうと、猪木はあっさりとこの友人を切り捨ててしまう。そしてまた誰よりも著者その人が、冷酷な猪木の顔に何度も対面し、長年培ってきた確かだったはずの友情をあっさりと裏切られている。阿修羅面のようにクルクルと反転を繰り返す猪木の二面的な顔の前で、著者は何度も失望と友情(敬意)の念とを新たにする。この本がすごいのは、ということはこの著者がすごいのは、ごまんといる猪木から離れていった人間たちと違い、もう一つ上の次元で猪木を理解しようとし、接しようとしていることだ。この本は、何の記録だろうか。猪木という理解しがたい巨大な「?」を、必死に理解しよう理解しようと必死に喰らいつき、何度も新たな説明を作り出しては自分を納得させ、決して恨み節にならぬよう、猪木との交流を続けていく。友情の記録? それとも怨念の記録? あるいは奇人の観察記録? 丸ごと全部を、猪木というクエスチョンマークが飲み込んでいく。そして猪木は、毎回毎回、著者の友情に対して必ず手痛いしっぺ返しをお見舞いする。圧巻は最後の方にある猪木の引退試合の件だ。それまで幾度となく猪木の臆病さ、セコさ、腹黒さ、そういうものにかかずりあってきた著者だが、長年の親友として引退試合を見届ける。当然、猪木がチケットを用意してくれている。しかし試合当日、猪木が著者に用意していたチケットとは、当然「特別リングサイド」かと思いきや、一番後ろの立見席だった……。著者は悔しさで泣きそうになりながら、立見席にスタンバイ。どれだけ無念だろうか。やがて猪木のテーマ曲が流れ、会場が興奮の坩堝と化し、猪木が入場、リングイン。立見席からは米粒ほどにしか見えない。仕方なく巨大モニターに眼をやる。スポットライトを浴びた猪木の顔が大写しされる。その瞬間、著者は猪木の数々の非礼を水に流そうという気持ちになるのだった・・・・・・。

さて、この本が猪木という人間の核心に迫ったベスト猪木本であることは、もはや疑いがなさそうだ。
上記の大きな構成とは別に、他にもいろいろと見所が満載である。まず、この著者自身が相等の人物である。不動産業を生業に海外国内に確固たる地位を築き、日本の裏社会である大物ヤクザや、大物政治家との交流も驚くほど幅広い。その著者自身の広大な人脈の中で、またどういうわけか猪木があちこちに顔を出す。著者の預かり知らないところでヤクザの大物から多額の金を借りてみたり、小沢一郎と密談を行ったり。つまり、著者自身の絶妙な立ち位置があってこそ、猪木の表社会と裏社会における神出鬼没な行動が観察できる。あと、この本が一番すごいと思うのは、この本が、怨念の記録を乗り越えて、一種不思議な友情の記録に到達していることだ。これはすごい。並大抵のことではない。読めば分るが、あれほどのことが繰り返されてなお、恨み節を超えて友情の記録になっているのだ。これは著者の人徳か。またそれにも増してすごいのは、通常、このような濃密な関係性を持った人間を対象に一冊の記録を記す場合、とりわけ猪木のような理不尽な人間を描く場合、どうしたって文章が歪むものだ。ところがこの記録の、首尾一貫した正確な距離の取り方とは……、めくるめく数多の感情と積年の思い出に文章を歪められることなく、あくまでも硬派に、ハードボイルドに、猪木と自分の関係を記してみせる。男の意地と、こだわらりのないサッパリした性格の両方が感じられる。猪木というビッグネームにおもねることなく、一冊の純粋なドキュメントとして、非常に質の高いものとなっているのではないだろうか。

「箱男」 安部公房

イメージ 1

昨年の群像新人文学賞受賞作「さよなら アメリカ」(樋口直哉・24)は、買い物袋を頭からすっぽり被って街中を徘徊する「袋族」なる人種のロマンスを描いた一種の空想小説だった。選評者の言葉を読むと、松浦寿輝はじめほぼ全員が、この作品と「箱男」(安部公房)の強い類似性を指摘していたので、その「箱男」の方も読んでみた。

「箱男」は安部公房の中でも実験色が強いらしく、読めばなるほど、一言では表せないかなり複雑な内容になっている。ダンボールの箱を被って街中を徘徊する「箱男」なる人種の記録で、主人公の一人称で描かれているのだが、この主人公というのが誰なのか、最後になるまで分からない書き方をしている。いわゆる現代社会に生きる人間の「匿名性」のメタファとして、顔をダンボールで隠した主人公を立てているわけだが、一人称の「ぼく」を激しく入れ替えることで匿名性を効果的に強調している。とりわけ後半はその入れ替わりが激しく、「本物の箱男」と「偽箱男」が、箱の主の権利をかけて目まぐるしく交換されるダイナミックな展開。この小説は、箱男がダンボールの内壁の余白に書き綴った文章という形になっている。箱男が、その一人分のスペースの中に篭もりきり、妄想に妄想を上塗りした、いわゆる狂人日記という感じでもあり、閉じた自意識が生み出す「箱庭的」な世界観になんとも哀切感が漂っている。それでいて箱男が入れ替わるので、作者の不在感というのか、複数の登場人物のうち、誰が「ぼく」で誰が「あなた」なのか、主客の関係が錯綜することでまた妄想の色合いを強めていく。「書いているぼくと、書かれているぼくの不機嫌な関係をめぐって」という一断章があるが、この著者と登場人物の間のズレ、それからこの作品のもう一つのテーマである「見る」「見られる」の「主客の転倒」を繰り返すうち、この単なる「ダンボール箱」が、もう一つのメタファとしてダイナミックに作動する。「箱=世界の境界」というようなものになっていく。箱男が箱を脱ぐとき、彼は、世界そのものが箱で囲われているように感じる。箱を1枚脱いでも、世界そのものが箱としてあるので、その自閉した世界から抜け出したわけではない。こうした主人公の交代劇と、箱を脱いだ先の更なる箱という境界線の多重構造を描くことで、最後の方は虚実入り乱れた迷宮小説となって読者に迫る。世界が、誰かの頭の中で生まれた、巨大な妄想の箱と化す。
なんか、どうもこの小説の要領を得た解説というのはやっぱり不可能で、読まないとオモシロさが分からない。安部公房自身が撮影した写真や、詩も挿入されていて見所が満載だし、設定が複雑すぎるし、また「箱」に与えられたメタファもたくさんあるので、一通りではない。最後まで読むと分かるんだけど、肥大化した妄想を扱いながらも、その妄想にどうやったら力を与えられるのか、みたいなことをやっているんだと思う。作家が必ず行き当たる問題なんだろうけど、フィクションを扱いながら、そのフィクションに迫真性を出すにはどうしたらいいか、という。だからあえてこの野心作では、フィクションの色合いを全面に出しておいて、その中でリアルな説得力も出せるかどうかを計測しているような感じ。ほぼ最後の場面で、箱男が女に告白する場面がある。そこで箱男は、こんなことを言っている。


「結末なんかは問題じゃない。いまのこの熱風そのものが大事なんだ。眠っていた言葉や感覚が、高圧電気をおびたように、青い光を発してあふれ出すのは、こうした熱風の中でなんだ。人間が、魂を実体として眼にすることが出来る、得がたい『時』なんだ。」


と。これは非常に安直に言ってしまうと、フィクショナルなヴェールに包まれている中で、物事を鋭敏に感じとれる瞬間というのは、その「熱風」の中、つまりその者が昂ぶっている時、ということか。箱の中の男という、妄想に取り付かれた男の告白だけに、なにやら感動的な言葉だ。

また作品設定とは別に、安部公房の文章ってすごく面白いと思った。キザな言い回しも多いけど、比喩が抜群に冴えている。キザな表現を理知的な表現で消毒し、互いに引き立っている感じ。例えば箱男が、看護婦の裸体に間近で接した場面、女の裸体の魅力を次のような一文で表現している。


「むらなく内圧を受けた、張りのある曲面が、扱いの分らぬ機械のように挑発的だ。」


女の裸を「扱いの分らぬ機械」に喩え、それを「挑発的」だとする。オモシロ過ぎる。よくよく読むと、少なくても二段階のジャンプが見られる。まず「女の体」=「扱いの分らぬ機械」におけるジャンプ。ジャンプというのはつまり、一見二つの言葉の間に連関がないものだから、そこを跨ぐにはジャンプが必要という意味。で、この最初のジャンプは何とか思いつくとしても、続け様に次のジャンプ、つまり「扱いの分らぬ機械」=「挑発的」、これはなかなか出てこない発想。整理すると、「女の裸」→「扱いの分らぬ機械」→「挑発的」という二段階のジャンプをこれだけ短い一文の中にすっきりと収めるのは、読むほど簡単なことではない。三段論法になっていて、読者にもきちんと伝わる。たまたまこの一文を選んだけど、全編がこういう気の利いた比喩で満たされているので、とにかくそれだけでも面白い。一対一の言葉の関係性を、効果的な比喩で転倒させていく。

開く トラックバック(1)

広告VS文学

イメージ 1

糸井重里はやっぱり広告業界で神様という扱いになっていて、過去にいろいろな名コピーを放ってきた。

「くう ねる あそぶ」 - 日産自動車「セフィーロ」
「おとなもこどもも、おねーさんも」 - ゲームソフト『MOTHER2』
「TRAING」 - 東日本旅客鉄道
「君にクラクラ」 - カネボウ
「よろしく。」 - 矢沢永吉・ポスター
「やたッ。」 - RCサクセション・ポスター
「センチメンタル50%ジャーニー。」 - サンヨーレインコート

・スタジオジブリ

「このへんないきものは まだ日本にいるのです。たぶん。」 - 『となりのトトロ』
「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」 - 『魔女の宅急便』
「カッコイイとは、こういうことさ。」 - 『紅の豚』
「好きなひとが、できました。」 - 『耳をすませば』
「生きろ。」 - 『もののけ姫』
「タヌキだってがんばってるんだよォ」 - 『平成狸合戦ぽんぽこ』
「私はワタシと旅にでる。」 - 『おもひでぽろぽろ』
「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」 - 『千と千尋の神隠し』
「4歳と14歳で生きようと思った。」 - 『火垂るの墓』

・西武百貨店

1980年「じぶん、新発見。」
1981年「不思議、大好き。」
1982年〜1983年「おいしい生活。」
1984年「うれしいね、サッちゃん。」
1985年「情熱発電所」
1986年「元禄ルネッサンス」
1987年「じゃない。」
1988年「ほしいものが、ほしいわ。」
1989年「より道主義だ。」
1990年「いいにおいがします。」

などなど。

で、こうした新感覚の言葉に対して文学サイド・村上龍からの反論。

 糸井や川崎はコピーライターとしては才能があると思う。だが、彼らのコピーに意味を見出すのは間違っている。彼のコピーには意味がない。だから、ウケている。ところが、うけるし、彼らもそれなりに才能があるので、バカ共が「意味」を見つけようとしているだけなのだ。もちろん文学性もない。興奮もしない。快楽もない。気分がよくなるわけでもない。解放作用もない。つまりゼロなわけだ。
 要するに、糸井とか川崎は「ポップの波打ち際」で仕事をする勇敢なクリエイターなどではない。経済の従僕にすぎないんだ。
 さて、常識では、「内部」が作品を生むのだと考えられている。違う。それは悩みや病が表現を生むという誤解と同じだ。
 表現した瞬間に、「内部」が生じる。これが正しいのだ。
 ウォーホルの版画には、「意味」はないが、「内部」はある。糸井とか川崎のコピーにも意味がなく、「内部」はゼロだ。カラッポなのだ。それだけだ。だが、経済の従僕としてはそれで充分なのである。


以上。

毒舌の冴え渡った反論だ。高橋源一郎は、この村上龍の反論を、典型的な文学側からの反応としている。で、高橋源一郎はもっと細かく広告の言葉を分析してみせる。
それによると、例えば西武百貨店の「おいしい生活」というコピー。この言葉はウッディ・アレンの顔写真と一緒にポスターに刷り込まれている。で、この写真と言葉を一緒にすることで、ある効果が生まれるという。つまり、「おいしい生活」という言葉と、ウッディ・アレンの「おいしくない顔」の間に広がった領域に、「読者」あるいはそれを眺める「客」の存在がある、と。だから、「カラッポ」な方がよりたくさんの客層を詰め込める。で、こういう言葉は、文学みたいに何かを積み重ねていった果てに出てくる言葉とは全く逆で、まず言葉があり、そこから逆算して客が見えてくるあり方だと。

まぁ、村上龍の言うことも、高橋源一郎の言うことも、それなりに分かる部分はあるんだけど。いつぞやの松浦寿輝先生の言葉で言えば、広告の言葉は、まさにイマジネール、想像界、ナルシズム、癒しの言葉になると思う。広告なのだから、無論、そうなるだろう。そうなのだろうけど、しかし、糸井のコピーを改めて読むと、なんだか笑えてしまう。これが大の大人のする仕事だろうか。「生きろ!」ってコピーでいくらジブリから貰ったのか。ある意味、世の中ナメてるとしか思えない。でも、こういう空洞化した言葉が、その空洞さゆえに幅広い客層のファンタジーを吸い上げる。やっぱり文学とは逆の発想だ。文学の言葉が、一匹の魚に狙いを定めた銛の一突きだとしたら、広告の言葉は、雑魚でも大魚でもなんでも引っ掛かればもうけもん的な投網みたいなものか。いきなり話が飛ぶけど、「北斗の拳」のやられキャラが発する「ひでぶ」「たわば」などの、ナルシズムを断ち切る生の言葉、こういう言葉は広告にならないだろうか。ある意味、面白いと思うのだが。話を戻すと、なんだかんだ言って、村上龍があれだけ激しい論調で反応したのも、文学における言葉の力が弱ってきて、かと思ったら広告界で活きのいい言葉が出現してきたということへの危機感があったんじゃないかと思う。いま活きのいい言葉と言うと、(;´Д`)ハァハァとかキタ━━━━(。A。)━(゜∀゜)━(。A。)━(゜∀゜)━(。A。)━━━━!!!!みたいなことになるのだろうか。これでは小説も大変なわけだ。


.
sun*o3*59
sun*o3*59
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事