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1973年福井生まれ、という意外全く謎に包まれた覆面作家・舞城王太郎。
ミステリ小説「煙か土か食い物」で第19回メフィスト賞を受賞してデビュー。2001年に短編、「ピコーン!」で日本推理作家協会賞の候補となる。同年「熊の場所」で純文学に活動の場を広げ、2003年、「阿修羅ガール」で第16回三島賞を受賞するも、授賞式に表れず素顔は謎のまま。同賞の式典を欠席した受賞者は初めて。「好き好き大好き超愛してる。」が第131回(2004年下半期)芥川賞にノミネート。
作家自身の露出は皆無だが、その創作量は怪物じみており、また各作品の際立ったハイ・テンションぶりは一向に弛緩の気配がない。昨年「新潮」9月号に掲載された「みんな元気。」も、舞城王太郎の得意とする何が飛び出すか分からない疾走感あふれた文圧で、破天荒な展開連発の奇想天外な物語を一気呵成に語り倒す。
「みんな元気。」の物語を要約して紹介するのはおそらく無理だろう。舞城の度外れた想像力のスケールが、物語の要約を許さない。一読、舞城の物語は、既読感に塗れたあらゆる物語的なものに罠を仕掛け、換骨奪胎し、そこらに破片を撒き散らしたまま暴力的な推進力(リーダビリティ)で眩暈に襲われるほどの場面転換に次ぐ転換を繰り返す。が、それでいて舞城の場合、純粋で真摯な物語作家である。「祈りは愛で、愛は物語である」と、「好き好き大好き超愛してる。」の冒頭部で主人公が何度も宣誓した信仰は、そのまま覆面作家・舞城王太郎の裸の本音でもある。
くどいようだが、彼の作品は、要約が難しい。普通、綺麗に起承転結した物語であれば要約しやすいものである。だが、彼の作品は物語的なのに要約しづらい。この矛盾は何なのか? 謎を解く鍵は、ミステリ畑から純文学に殴りこんできた彼の出自だ。恐らく彼は、自分の書く作品をミステリーか純文かそれほど意識していないだろう。本来、そこに問うべき隔たりなどないことを彼自身が了解しているのだ。だからこそ確信的に、ミステリ文学の高度に洗練された技法で純文を書く。ぼくはミステリ小説のことはよく分からないから、わずかな知識で想像するだけだが、舞城が他の純文作家とはっきり毛色が違うのは、そんな背景からだろう。ミステリ界では清涼院流水はじめ、箍が外れたスケール感・想像力・技巧で、平然とテンションを持続した大長編が編まれる。とても純文が太刀打ちできる輩ではない。「物語」への現場意識もまた彼らの方が数段上だろう。何しろ科学的に捉えている。数学者ばりの聡明さで、複雑なメタフィクション、ミザナビーム(入れ子構造)、ミメーシス(模倣)、パロディを満載しておきながら、最後にきっちり帳尻を合わせてくる。先行する「物語的なもの」をあの手この手で解剖し、腑分けし、散らかすようでありながらも。
そればかりじゃない。舞城の場合、その特異な文体を併せて説明しなければ片手落ちだ。誰もが彼の文体を「ドライブ感がある」と評する。一読すれば明瞭。どこかラップのような小気味よく畳み掛ける軽いノリの言葉群が、極めて高いテンションで散弾銃さながら放たれる。この文体。これでなくては語れない物語を、彼は語っている。考えてみれば当たり前だが、例えば同じ5分間の曲で、ラップとロックでは歌詞に詰め込める言葉数が全く違う。ということは、同じ時間でも情報量が違うということだ。この単純な理屈を小説に当てはめるか? 理論上は無理である。なぜなら小説は、現代文の試験か朗読でもない限り読書における決まった時間がないからだ。220枚の原稿枚数は、ラップ調で書いてもロック調で書いても同じ枚数であり、つまり言葉数はほぼ同じである。ということは情報量も同じだ。だがそれはまやかしで、実は違う。何がと言って、調子(テンポ)が違う。言葉の調子(テンポ)が違うということは、読書における内的時間が違う。文字を追う目を先へ先へと進めるスピード感、これをドライブがかかっている、と言い、リーダビリティがある、とも言う。小説に時間(スピード)はあるのだ。ここで例文を引用してみたい。舞城とは別の作家によるものだが、こんな「一文」がある。
デブネガネが何を言っているのか全然聞いていなかったがその鼻にかかったようなツルツルの声はものすごくムカついてちょっとだけ気分が治ったのにまた遠近法が狂ってきて昔センセイは心のシャッターを閉じないで我慢をしてその時に目の前にいる人の話を努力して聞きなさいと言ったのだがデブメガネの話はどうしてもまじめに聞くことができなくてあたしはタケオのことを思い出そうとしたのだが突然タケオの顔やタケオのあそこやタケオの背中を忘れてしまってタケオなんて本当は最初からどこにもいなかったんじゃないかって考えてしまってそういうことは絶対に考えちゃいけないとすぐに気付いたんだけどもう遅くてあたしは必死になってタケオの体のどこでもいいから憶えている部分を捜してそれはタケオの背中に生えている毛だけだってことに気付いてタケオは東北の生まれのくせにうっすらとしてそれでも触ると硬い毛が生えていてあたしの頭がそれを憶えているんじゃなくてあたしの手がそれを憶えていてあたしは両手を拡げて手の平に向かって何度もガンバッテねガンバッテねと言った、
という「一文」で、これは極端な例にせよ、ドライブ感で読者の読書内時間を操作することで、息をつかせぬ場面転換が可能になる。そうであれば、同じ時間(紙幅)でも、より多くの情報が詰め込めるのだ。非常に砕けた言い方をすれば、物を語るにはそれに相応しい語り方がある、ということだ。
さて、これで舞城の小説を支える両面が見えた。ドライブのある文体だからスピーディな場面展開の連発を可能にし、またこの場面転換の連鎖が雪崩式に既読感ある物語的なものを打ち崩していき、それでいながら数学者のごとき論理を地に這わせ、最後にカチッと帳尻を合わせてくる。その帳尻が合わさった瞬間、読者は奇跡か魔術でも見たような、奇妙なカタルシスに襲われる。多方向にばら撒かれた話の筋が一点に収斂する瞬間に味わうこの感動は、紛れもなく「物語的なもの」ではなかったか。
表面上、舞城の文体を真似ることはそれほど難しいことではないかもしれない。しかし彼の数学者的な聡明さを真似ることは極めて困難だろう。以前ぼくは、現代社会が、ファンタジーの層を開拓し尽くした結果としてパロディの無限変奏を繰り返し、小さな差異を持って大きな意味を見つけなければいけない難しい時代であるというふうなことを書いた。この場合、中原昌也の「脱臼する文体」が一つの有効な武器であり、またその一方で、舞城のように高度に精細化した文体を武器にする方法もあるのではないか。
というより、こんな長い記事を最後まで読んでくれる人がいるのか、そこのところが実に気がかりだ。
(引用・村上龍「イルカ」)
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