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ぼくの周りには映画の専門家が数名いて、いつも酒を飲みながら話を聞いて勉強させてもらっているのだけど、昨今はとりわけスピルバーグの名前が上ることが多い。『キネマ旬報』でスピルバーグの新作『ミュンヘン』特集を担当した編集者の友人から、これは絶対に観とけ、と勧められていた。また当ブログの記事に何度もコメントを寄せてくれているローランドゴリラ(東京大学・表象文化論・博士課程)によるミュンヘン記事も素晴らしく鋭い洞察に満ちていた。

そんなわけでぼくは大味なことしか言えなさそうなんだけど、いつものことながら、スピルバーグ映画にのみ感じる禍々しい刻印を今回もまた見せつけられたような気がした。
スピルバーグの、例えば『ジョーズ』とか『ジェラシック・パーク』を観ているときは、素直なハリウッド映画の観客として観れるのだけど、同質のサスペンス技法が『プライベート・ライアン』や『ミュンヘン』の中にもきっちり作動しているのを観ると、途端に映画の倫理について考えさせられる。ぼくの頭の中にはジャック・リベットの論文『カポのトラヴェリング』がけっこう頑固に刷り込まれていて、ときどき自分でも窮屈感に囚われて閉口するんだけど、スピルバーグの映画を観るとこの論文が頭の中で響き出す。他監督の作品やTV番組など見ていても、そんな風に感じさせられることはまずない。底の見えてしまう作品だと、目くじら立てて反論する気も起こらないわけだけど、スピルバーグ作品は自分の中で言い訳して見過ごすことができない突破力があって、だから禍々しい。
『カポのトラヴェリング』は、ある種の映画には倫理的に使ってはいけないサスペンス技法(禁じ手)があると言っている。しかしその使用可能・不可能の判定基準は多分に観る者の主観に基づくため、客観的に特定できるものではない。ぼくの印象では、スピルバーグはそういう禁じ手ギリギリの技法をどんどん挑発的に使ってくる。今回だと例えば、爆弾を仕掛けた電話の受話器をたまたまターゲットの娘が手にしてしまう、という場面だったりする。あのシーンで高鳴る効果音(不協和音)は、登場人物の心理を表現しているといより、観客に向けられている。水面下のカメラ(サメ視線)が泳ぐ人の足を捉えた時に鳴るあの有名な旋律のように、観客の緊張感を煽り立てる限りなく純粋なサスペンス技法だ。撮るべき対象(スクリーンの向こう側の世界)に向けられていたはずのスピルバーグの眼差し(関心)が、いきなり反転して観客をジロリとガン見している、みたいな。そんなスピルバーグの不意打ちする眼に、観客の目が正面からかちあってしまう。そんな瞬間、ぼくは、スピルバーグって本当は何をしたい人なんだろうか、とつい思ってしまう。ごく普通に考えてみても、『ミュンヘン』の世界の中にT-レックスが出てきたらおかしいわけなのだが。勿論、これはぼくの主観的印象であるから、『ミュンヘン』の中にT−レックスなど出ていないじゃないか、と言う人がいてもおかしくない。つまり、ぼくは『ミュンヘン』を観ながら、ときどき、『ジェラシック・パーク』を観ている時に感じる、純粋なエンターテイメント的ドキドキハラハラ感を味わわされるのだけど、そんな瞬間、毒を盛られたような気分になるのである。一つ断っておくと、上記の電話爆弾のシーンにしても、当然まず、普通の解釈をすべきなのだ。イノセントな者が暴力に巻き込まれてしまうという理不尽さを提示する為にはやはり必要なシーンだと思うし、高らかに鳴り渡る不協和音も、観客を体験として事件の中に引き込ませる手段なのだとしたら、それはそれで倫理化されるはず、ということを踏まえた上でなお感じるこの禍々しさ、不穏さはいったい何なんだ? ということが気になるのだ。

無論、今回の映画が「9・11」に重ねられた反戦的なテーマを持っていることは明らかで、スピルバーグの訴えるメッセージも明瞭だし、しかも、本当にスピルバーグはそう訴えているのだろうし、観客も真摯に受け止めるべきなのだ。まずはそうだし、最終的にもそうなのだ。スピルバーグがこうした史実に材を取って、理不尽な暴力を描くとき、そこにハリウッドの工業化された手法が集約される為か、撮るべき対象が個人を超えて工業化された暴力システムであるのと同じように、映画そのものもまた同様のシステム化された暴力の気配に満ち溢れる。その瞬間の禍々しさこそがスピルバーグ映画の沸点で、それはハリウッド映画の倫理的飽和曲線とちょうど重なるのかもしれない。
スピルバーグという人はしかし、ただ単に倫理的な感性が根本的に欠落しているということではなく、そうではなくて、絶望を一回通過した為に抱え込まざるを得なかった憤怒や諦観を持っていて、そこから毒をもって毒を制す、というような作品を取り続けている人なのかもしれない。たしか劇中で、「最良の幸せと最悪の不幸は同居しない」という主旨のコメントが使われていたけれど、スピルバーグの提示する希望はいつも絶望にそっくりだ。

などと言いたくなるのがスピルバーグ映画なのだろうけど、それ以前に、『ミュンヘン』にはもっと当たり前に言える美点が山盛りあるんだろうとも思う。巨匠スピルバーグともなると、ついその前提を当たり前のものとして語らずに済ませてしまうのだが。アヴナーの母が「お前の顔を見れば、お前のやっていることは全て分る」という主旨の台詞を言うけど、確かに今回、全体的にキャストの顔には物語の重たさを受け止める強度が感じられて良かったとか、フジ・フィルムの艶やかな質感が画面に陰影と奥行を出していて、ハリウッドにありがちなフラットな照明のもたらす浅さが回避され、とても世界観が出ていて良かったとか、十八番の残虐シーンは上記のサスペンス技法とは逆の意味で倫理化されなければいけないのだろうかとか、弛緩しない物語の運び方はさすがだとか。他に、アヴナーの最後のベッドシーンに象徴される実際には見ていないオリンピック選手殺害のフラッシュ・バックは何なんだろうとか、モサドの暗殺集団って本当にああいう活動ぶりだったのかとか、気になる点もあるのだが、とにかくスピルバーグの怪物性を堪能できた力作であることは疑いない。

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かねがね友人から「快哉!!」の叫びを聞かされていた「リアリズムの宿」。仲間と酒を飲むと毎回話題に上がる映画で、ディテールに渡るまで内容を拝聴していたため、頭の中で既に一回観た気になったほどであったが、実際にビデオで観ると、ほとんど頭の中で観たものとズレがない。友人の話術の巧みさに感心した次第である。また、映画の内容はさることながら、既にして、この映画に対する批評的な言葉も酒混じりに聞いていた。これも実際にビデオを観ると、本当にその通りだな、と思えた。だからここに書こうと思う感想は、友人の言葉を自分なりになぞる形になろうかと思う。

モノを表現する人の中には、構想している時が一番楽しい、と言う人がけっこう多い。自分などにも覚えがある。考えてみれば当然で、頭の中ではいくらでもいいように完成版を映写することができる。実製作の現場では、そのイメージがほとんど必ずズレていくわけだが、そのズレが「−」へずれていくのか「+」へずれていくのか、いずれにせよ、当初のイメージからズレた「何か」が定着するのだ。子供が大人になることと似て。この映画は、おそらく、「構想」と「完成」の狭間に広がる中間領域のグラデーションを詩情豊かに謳ったものではないかと思う。

簡単に設定を説明すると、駆け出しの「映画監督」と「脚本家」の顔見知り程度だった二人の男が、鳥取の寂れた温泉街を当て所なくさすらう。途中、海岸で半裸の女子高生と出会うことで、珍道中記の様相を募らせていく。出会う地元民はユニークで妖しい人ばかり。二人は金がないから高い宿には泊まれない。泊まった宿は泣きたくなるのを通り越して笑えてしまうほどみすぼらしい。音楽は「くるり」、原作は「つげ義春」。

この駆け出しの「映画監督」と「脚本家」という設定の二人の男の眼差しが、旅先の光景を「構想」と「完成」の中間領域へ誘う。この宙吊り空間に、つげ義春の世界観を背景とした様々なイメージの断片が交錯する。海岸をいきなり全力疾走してくる半裸の女、イラク人と思しき旅館の従業員、チンポコ丸出しケチャップ少年、金髪に白ジャージのアンちゃん、肺気腫と思しき宿の主人、床に伏せた老人……。これらは意味を背負わずにイメージのまま登場し、気がつくと去っている。半裸の女は例外にせよ、奇抜な登場人物たちが記号化されずに済んでいるのは、リアルな生活感を纏っているからであり、画面から浮かずきちんと地に足をつけている。唐突に現れ、いつの間にか消える、生身の存在感を放ちながら、夢のように朧げ、旅先の光景とは確かにそのようなものかもしれない。
ここで一つ指摘しておきたいのが、「つげ義春ワールド」なるものを映画化するときに、平凡な監督ならその世界観を退屈に象徴化してしまうものだろうが、本来、「つげワールド」というのはそういうものではないのである。鄙びた温泉街へ旅した人なら、現在でさえ健在な「つげワールド」が残されているのを目の当たりにするだろう。敢えて象徴化するまでもなく、それは現存しているということに、山下敦弘監督は自覚的なようだ。だから「くるり」の音楽でさえ、リアリズムの「つげワールド」を傷つけず、むしろ不思議に引き立て合っている。象徴化された虚弱な「つげワールド」なら、「くるり」ははまらないだろう。
さて、日本海側を「裏日本」と言うが、東京から流れてきた「映画監督」と「脚本家」の目には、まさにそのようなものとして映っていたのではないか。東京人からして見れば「裏日本」でも、その土地にはその土地ならではの「世界」がある。金がないからということで世話された民家では、家族が二人を無視するように日常的な生活風景(夕食の支度)を展開し、二人は呆然とそれを「眺め」、結局泊まらない。また海岸で出会った半裸の女が、逃げるようにバスで姿を消し、町中で再会したとき、二人は声をかけたりせず遠くから「眺めて」いる。地元民と東京から来た二人は、結びつく前に、つまり決定する前に、別れる。二人が「眺める」その眼差しの距離感、かそけさの中に、つまり「東京」と「裏日本」の狭間に、表現者の「構想」することと「完成」の狭間がシンクロするかのようだ。ほとんど最後のシーンで、オンボロ宿に枕を並べた二人が、「東京に帰ったら一緒に脚本書こうか」と言った時、この映画の観客は、二度この作品を観ることになる。と言っても勿論、ビデオを巻き戻して最初から見返すということではなく、観客の頭の中で観直し作業が行われるのだ。この当て所なくさまよう珍道中記そのものが、もしかしたら二人によって既に書かれた脚本なのではないか、あるいはまだ構想の段階なのだろうか……。「構想」されたが、まだ「完成」として定着されていない中間領域にたゆたっている湯気のようなものが、つまりはこの映画の不思議な魅力であり、すべからく、良いロードムービーにはこの魅力が備わっているはずだと思う。二人の映画監督と脚本家が「駆け出し」という設定もまた、この中間領域を広げているだろうし、先に挙げた「つげ」と「くるり」、「裏日本」と「東京」という狭間にも、同様の空間が広がっているのかもしれない。

などと小難しいことを言うまでもなく、素直に楽しめる作品でもある。旅先で地元民と交わすちぐはぐなやりとりはシチュエーション・コメディとして楽しく演出され、また、そんじょそこらの海外旅行物よりもずっと異国情緒豊かで、映画本来の醍醐味である視覚体験を充分満足させてくれるだろう。

「宇宙戦争」感想

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                          *オリジナル・キングコング

いきなり脱線ですが、本編上映前の宣伝が20分もあるのは長い……。予告編って、昔はもっと楽しいものだったと思うんだけどな。今回ちょっと目をひいたのが、「ロードオブザリング」のピーター・ジャクソンが「キングコング」をリメイクしたもの。予告編の割にしっかりとキングコングが映っているんだけど、キングコングって、こんなに小さかったっけ? 丁寧に映像が作りこまれているのは伝わってくるのだが、なんだかキングコングという「異物」が画面に綺麗に収まりすぎているような気がした。

で、「宇宙戦争」ですが、この映画のほうがよっぽど「キングコング」しているのではないか。CG映像には慣れっこになってしまったが、それでもきちんと「異物」としか言いようのないものが画面の中で暴れている。息つく暇もない、とまでは言わないが、現代の娯楽はここまできたか、という感があった。1933年に「キングコング」が公開されたとき、当時の観客はスクリーンに映るキングコングにド肝を抜かれたに違いない。ピーター・ジャクソンのリメイクに、それと同じだけのインパクトがあるかと言えば、やっぱり期待できない。予定調和の枠組みに収まったインパクトという気がする。しかし「宇宙戦争」は、その予定調和の枠組みをグイグイと突き抜けようとする意志が強く感じられた。

この映画は、異常気象などのパニック映画の作りと酷似していて、まずはブルーカラーの港湾作業員、トム・クルーズの生活風景から始まる。パニック映画の場合は、大抵ホワイトカラーの学者の生活風景からはじまるのだけど、一市民の生活から、そしてその家族の様子から描かれるところはそっくり。だけど「宇宙戦争」の凄いところは、宇宙人がアタックを仕掛けてくるまでの時間が異様に早いところ。気がつくと「あっ」と言う間もないうちにもう街中が大破壊されていて、大殺戮が行われていて、という有り様。普通、山場に向かって徐々に盛り上げていくのが格調ある映画だったんだろうけど、最近は小説でもなんでも序盤から一気に畳み掛けてきますね。これは一種の新しい倫理と見なしてよいのでしょうか。それとも経済効率的な要因なのかな。観客の感性が変わってきているのは確かなんだろうと思うけど。

ともかく序盤から最後までドライブが効いてて、娯楽としてみれば痛快なんだけど、トムクルーズの家族の描かれ方にはなんとも背筋が寒くなるような不気味さが漂っていました。親子が大惨事に巻き込まれて絆を深めるというのは、これもパニック映画の王道で、「宇宙戦争」もそのラインをなぞっているんですが、よくよく見ると不気味なんですよね。親父は親父、息子は息子、母親は母親ということで、別に協力し合うわけでもない。冒頭で描かれる家族風景も殺伐としていて、キャッチボールの一つもできない。「もうこんな家族、一旦ぶっ壊そうぜ!」という荒ぶるトムの怒声が聞こえてきそうで、まさにそういう感じで、世界が焦土化する。で、文字通りの地獄を潜り抜けて、最後に家族の抱擁に辿り着く……。この抱擁に説得力があるとしたらそれは一体何なのか? こじつけるわけじゃないんですが、冒頭で娘の手に棘が刺さる場面があって、娘は、「放っておいても肉が勝手に押し出すから抜かなくてもいい」みたいなことを言っていて、これは異物の浸入を自分の肉体が守ってくれるということだと思うんですが、で、攻めてきた宇宙人が人間の「血」を吸って、結局その「血」の中に含まれる細菌が原因で宇宙人が全滅するんだけど、これも娘が棘について言っていることと同じことで、異物の浸入を阻むのは自分の肉体、「血」なんですよね。機能不全の家族問題を考えたとき、もうこの最後に残された「血」という部分を肯定することでしか救われないのだろうか、というような、諦念とも希望ともとれる不気味な余韻が残りました。

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               *スワンクが手にしているのはチャンピオンベルトならぬオスカー


イーストウッドについてはこれまでに多くのことが言われてきただろうし、新作「ミリオンダラー・ベイビー」についてもすでにたくさんのことが言われているだろうから、自分が何を言っても付け足せるものはないだろうなと思いつつも、自分なりの感想を綴ってみたい。
すでにこれも言い尽くされているように、イーストウッドの映画には空撮の俯瞰映像が多いわけだけど、そこまでの大俯瞰は「ミリオンダラー・ベイビー」にはなかった、はずである。ボクシングジム、試合会場、控え室、マギーの部屋、病室と、閉じた空間が多かった。ただ空撮の代わりとして、モーガン・フリーマンの語りがあったように思うのだが、どうでしょうか? 語りというより、モーガン・フリーマンの視点というのか。このフリーマンの「語り・視点」の出し入れの仕方がやっぱり素晴らしくて。ダンとマギーの二人だけの世界になったとき、フリーマンの「視点・語り」は慎ましく消える。親子水入らず、邪魔しちゃいけないな、という感じで。二人三脚の練習風景、連勝街道まっしぐらの試合風景、マギーが家族に家をプレゼントするのを傍らからダンが見守る場面、車内、レモンパイを食べる場面などは、マギーとダンの世界。ただし、マギーがラスベガスで100万ドルのタイトル戦に挑戦したとき、フリーマンの不吉な視線が介入される。フリーマンは同行せずに、自分の部屋のテレビで観戦していたのだった。なんだかおかしな雲行きだ。タイトル戦なんて、それこそマギーとダンの二人きりの幸福な世界ではないか。このテレビ映像、フリーマンの視点が、いつもの俯瞰映像を代行していたのかもしれない。そしてそれは、いつだって運命の残酷さを奏でてはいなかっただろうか。そうして、マギーの首が折れたのだった。フリーマンの「視点・語り」が消えたのは、その首が折れた場面からだったと思う。そう、冒頭からつかずはなれず聞こえていた温かなフリーマンの声が、ここから長らく退場する。そうしてまた、マギーとダンの、「地上」における二人きりの世界、幼くして父を失った女と、娘から交流を拒否された男の、夢を追いかけた前半部とは対照的な、静かで残酷な、二人きりの病室が描かれる。再び聞こえてきたフリーマンの声は、ダンがマギーのあまりに哀しい願いを叶えてあげて、病院の廊下を去っていく孤独な背中へ向けられていた。「虚ろな気分だったろう」と。それからダンは帰ってこず、ラストはフリーマンの語りで閉じられていた。そしてこの語りが、不在のダンの娘へ語られていたことが明かされる。あなたのお父さんはこういう人でしたよ、と。
「モ・クシュラ」=「愛しい人」へ注がれるイーストウッドのあの眼差しが、フリーマンの隻眼に受け継がれ、この作品の全篇に漲って溢れかえり、観客のぼくらもその眼差しの中にありたいと願いながら、劇場をあとにするのだった。

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