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現実⇔幻想

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スタジオ収録のテレビ・ショッピングにおける宣伝マンと観客が、宗教における教祖と信者みたいに見えるということを書いたのだけど、もう少し補足してみたくなった。

確かに上記のように言ってしまうこともできるんだけど、本当はもっと洗練されていて、幾つかのステージを積み重ねているはずだ。そのステージとは……。

第1ステージ

これがつまり宗教的世界のことで、宣伝マン(=教祖)、観客(=信者)の図式。
アメリカ人なみの大袈裟なリアクションを繰り返す観客が何とも痛快。

第2ステージ

でも実は、誰も宗教を頭から信じているわけではない。観客(=信者)はサクラで、またデモンストレーションに身近でリアクションする芸能人もまた、最大のサクラ。
つまり、TVの向こうにいる膨大な観客の前に存在する、1番目の観衆とは、サクラである。

第3ステージ

スタジオ観客がサクラであることを、テレビの向こうにいる観客(一般視聴者)も知っている。
つまり、誰も宗教など信じていない。

第4ステージ

誰も宗教など信じていないことを、番組制作者、デモンストレーターも知っている。
つまり、スタジオ観客がサクラであるというヤラセを、一般視聴者も知りながら楽しんで見ている、ということを製作者サイドも熟知している。



と、こういうことになる。だから本当のことを言うと、宗教とは別物である。(もし今時の信者が、騙されていることを知りながら教祖を崇拝しているのなら別だが)

で、一つ疑問として残るのが、こうしたヤラセ含みの演出を誰もが了解しながら、なぜこのスタイルが通用しているのか? ということである。これは簡単に言ってしまうと、いわゆる表現の原理、快楽原則みたいなものが根っこにあるからではないか。未知なるもの(のデモンストレーション)→リアクション、というコテコテだが外しようのない表現原理・快楽原則。だから深夜などにテレフォン・ショッピングがやっていると、ついついつられて見てしまう、という人も多いのではないか。川口探検隊もプロレスも、洗練さの度合いを抜きにすれば通底しているだろうし、グルメ番組で芸能人が「うまい!」のリアクションを競い合うのも同じ問題かもしれない。ここには無駄なものを省いた原理があるんだと思う。勿論、その商品が実際に素晴らしいのか、料理がうまいのか、ということは、また別の問題になってくるだろう。

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TVのことを書いたらもう一つ思い出したんだけど、やはりTVは「視聴率」に支えられているというのが大きな性格になっていて、その視聴率とはコマーシャリズムに繋がっている。当然すぎる話だが。
コマーシャルというのは、視聴者の欲望をいかに引きずり出して顕在化するかという戦略だと思うけど、この戦略が発展したのは言うまでもなくTVの普及と歩みを共にしている。
ちなみにコマーシャルの歴史をずっと遡れば宗教宣伝に行くつくらしく、例えば今でもフィリピンで行われているシャーマンの心霊手術やサイババなどトリック紛いのもの、香具師、大道芸的パフォーマンスを含んだもの、キリスト教の福音書に代表される伝道活動など大々的なものもあり、これは他者をどのように説得するかという技術の原型だった。最近よく目にするTV通販の宣伝マン、あのパフォーマンス力とスタジオの観衆のやり取りはまさにプチ教祖と信徒の姿だ。
話を元に戻すと、TVにおけるコマーシャリズムだが、これは初期から、視聴者の潜在意識に訴える戦略がとられていた。例えば洗剤を扱う場合、一般商品では汚れの取れが甘いとか、ばい菌がついてるとか、主婦層を脅迫する形で自社製品のセールスポイントを強調する。これは60年代からアメリカでやられていた。脅迫観念に訴えるということが今でもコマーシャルの主流で、TVをみているとそのことがよく分かる。生命・損害保険はその性格から当然としても、歯磨き粉、食器洗いなど洗剤系、化粧品、ダイエット食品などコンプレックス産業の商品、それから一見すると夢見させるようでありながら、時代に遅れた者の尻を叩く携帯電話や家電製品の類、また消費者金融のあからさまに取り繕った外面も不気味だし、リゾート・ビーチでビールというのも考えようによっては充分脅迫的だ。

「広告批評傑作大会」という、850ページに及ぶ広告批評の別冊があって、これがけっこう面白い。中沢新一という宗教学者の記事を読むと、日本では70年代の終わりから80年代はじめにかけて、糸井重里や川崎徹といった大変な才能が広告界に集中し、古いタイプの広告技術を刷新したという。それ以前までは大道芸・香具師的なインパクト狙いの広告で通じていたのだが、類似商品が飽和してきたため、従来の広告技術では開発できる欲望の層が限られてしまう。そこで、小さな違いを競い合わなければいけないようなタイプの現代の資本主義が発達するようになって、もっと深いレベルの欲望まで開発する必要がでてきた。ここで中沢新一の言葉を引用すると、

「(糸井・川崎など)は、いままで未開発だった無意識の欲望の層を外に引っ張り出して、それを消費の欲望に作り変える、そのための見事な技術を開発したのだと思います。広告の言語は、サブリミナルな領域にまで浸透できるようになりました。広告の言語は、潜在にあるものを挑発して、外に引っ張り出すという意味では技術の原型みたいなもので、その新しい技術が未開発の地層を掘り進んだわけです。だけど、いまはまた、そこで開発された欲望さえも、飽和状態に達してしまっています。そして、ここから先は、たぶん宗教が開発してきたような技術によってしか進めない領域が広がっているんです」

この潜在下にあるものを掘る、という意味では、糸井が徳川埋蔵金を掘り出したことも一貫していて感動的だ、と中沢新一はつけ加えている。それはいいとして、そうした糸井などが開発した技術ですらでもすでに引き出せる欲望が飽和に達しており、その先には宗教的な世界しかない、という中沢氏の言葉が気になる。それがホントか嘘かぼくには分かりようもないけれど、中沢氏の意見では、飽和に達した欲望意識を新興宗教が吸い上げるという社会現象もあるが、大きな流れとして見ると、現代人の良識がその先(宗教世界)に進むことにきちんとストッパーをかけていて、つまり、パロディという無限の変奏を繰り返しながら何とか留まっていると。しかし深いレベルの欲望の層を引き出して活性化しないと資本主義経済が止まってしまうのも事実。だから一方で、日本国内で飽和に達した意識は、経済活動の拡大と、国際化に伴って、システムを横に広げている。90年代には急激な勢いで市場経済が地球上にネットワークを形成したと言う。この辺が、どうもインターネットなどメディア機器の発達におけるファンタジーの拡散、という問題とリンクしているように思えてならない。なぜならファンタジーとは、つまり潜在下の欲望のことではなかったかと。こういう飽和したファンタジーが、パロディを繰り返して、小さな差を争うところも似ている。言うなれば、ファンタジーと欲望の膨満感。資本主義ではしかし、腹が膨れたからと言って先に進むことを止めることはできない。この「先に進む」という感覚をどうしても満たさなければすまないのが人間の性か。だから社会主義より資本主義が人間の性に合ってたのか、って何でも通り一遍に言ってしまうのは悪い癖だけど。ともかく先に進めなくなった意識、言い換えれば社会で満たされなくなったリビドーってのがUターンして内側に戻ってきてしまうと、自分そのものが最大の関心事となってナルシズムに陥るというのが心理学の説だったと思うけど、今の社会はどうなんだろうか。懐古趣味、レトロブーム、都市型生活から田舎生活へ回帰する一連の流れ、なども「先に進めない」感覚の裏返しかもしれないし、ノストラダムスの終末論みたいなのが持て囃されたのも、いったん世界を潰して一からやり直したいという願望が飛びついた幻想なのかもしれない。そう言えば、「ジパング・ボーイ」という漫画を思い出したけど、これなんかまさにその辺をテーマに扱っていた。この漫画についてはまたいつか書きたいが。

ともかく、小説における言葉と、広告における言葉が、どのようにリンクし、どのように違っているのか考えてみることは面白いのかもしれない。糸井の名コピーとして知られる西武百貨店の広告「おいしい生活」「ほしいものが、ほしいわ」日産自動車「くう ねる あそぶ」などに対して、実際、村上龍や高橋源一郎は文学側から批評していて、これもなかなか面白い。が、ちょっと長くなったのでまた次回。

TVドラマ

引き続き現実(リアル)とファンタジーの問題を考えてみたい。なんだかシリーズ化してるので、遡って読まないと分からないかもしれないけれど。

様々なメディア機器の発達が、表現者・消費者の境を希薄化して、ファンタジーが日常化してるんじゃないか、と分かり切ったことを考えていたんだけど、じゃあ、そんなにメディア機器が発達してなかった時代はどうだったのか?
まずTVのなかった時代を想像してみると、やはりこれは今とは明確に一線を画した別世界なのではないかと思われてならない。今の人の道徳・美意識みたいなものがどこで培われているのかと考えてみると、ぼくが想像するに、何よりもまず『TVドラマ』ではないかと思う。ぼく自身はあまり見てこなかったのだが、多くの人がTVドラマの新シリーズを楽しみにしていて、キャストが誰かとか、脚本家が誰かとか話題になる。時代の気分を最も敏感に映して、しかもキムタク・坂口憲二などカリスマが、ゴールデンタイムで視聴者の注目を集める。憧れというのは、そのままその人の感性に訴えるはずだ。昔は、小説とか映画が、その時代の人間の道徳・美意識を支えてきたんだろうけど、今はTVドラマがその役割を負っているんじゃないか。漫画もデカいとは思うが。
ともかくTVがなかった時代の人々が、映像ファンタジーを求めるならば、金を払って劇場に行くしかなかった。これは日常というより、非日常の愉しみだったのだろうけど、TVが普及してから家庭で日常的に映像ファンタジーに馴染めるようになった。よく頭の固い人が「TVを見るとバカになる」と言うけれど、その言葉に一理あるとしたら、今の人達はかなりバカになってるってことか。
ところで話が変わるけど、よく昔の人はケンカをして、今の人はしなくなったと言う。今の人からしてみれば、例えば前田日明や辰吉や赤井秀和などの若かりし頃の武勇伝をファンタジーとして憧れの目で見る。また彼ら自身も、ヒーローへの憧れといったファンタジーを胸に戦っていたのだろうが、実際のところ、ケンカで殴られると血が出て痛かったりするので、これはファンタジーより現実だと思う。昔は現実に生きている感覚が今よりもずっと強かったのではないかと思う。
話を元に戻すと、TVの登場のよって、ぼくらはそれ以前よりも桁違いの膨大なファンタジー光線に晒されるようになったのではないか。何事もまず、物語という形を通して理解する、そういう思考回路がインプットされるようになったのではないだろうか。またTV以降も、インターネットの普及に伴ってファンタジーが網の目状に氾濫するようになり、また数々の表現ツールの発達が、双方向的・波状的にファンタジーを拡散させていく。こうしたかつてない未曾有のファンタジー時代が到来したことと、時代を背負う大型新人が台頭しづらくなったことは無関係ではないだろう。今は、新鮮なファンタジーを感じることと生の現実を感じることが、同じくらい難しい時代になっているような気がする。
などと分かりきったことを言ってみても何もはじまらないのだが、別段、悲観的な物言いをしているわけでは全然なくて、やはり「作品」というものの奇跡性みたいなものは信じている。「作品」というのは、こういう分かりきった文脈とは断絶した別次元から意表をつく形で出てくるものだと思うし。新たな感性というのは、文字通り、「新たな」ものだから、出てこないと分からない。出てきてから、批評家などが慌てて逆算して解説するんであって、やっぱりそれは異物というか、奇跡的な性質を持った不可逆的なものだと思う。

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名門・早稲田大学探検部の一大プロジェクト。その名も「モケーレ・ムベンベを追え!」

モケーレ・ムベンベとは、アフリカはコンゴ共和国のジャングル奥地にある幻想的な湖、テレ湖という湖に生息されると言われる恐竜の生き残り、未確認生物UMAで、その手の動物の中ではネッシーに追随する抜群の知名度を誇る。
数々の目撃談が飛び交い、また周辺の森にはピグミー族の住処跡や、貴重なゴリラの一種ローランドゴリラなどが生き延び、古代生物モケーレ・ムベンベの生存にも信憑性が募る。その姿形はかのブロントザウルスを彷彿とさせるという。
このモケーレ・ムベンベを発見すべく、チームリーダー高野秀行率いる早稲田大学探検部が、数年越しの執念の準備の果て、ついにジャングル奥地のテレ湖へ潜入、命をかけた40日間の密林サバイバルが展開される。

「モケーレ・ムベンベを追え」とは、この探検の後に高野秀行がつづったノンフィクション本のタイトルで、「幻獣ムベンベを追え」に改題されて文庫化もされているようだ。とにかくこれ、最高に面白い探検記録となっている。

前置きが長くなったが、この本のことを思い出したのはやはり、引き続きリアル・ファンタジーのことを考えていたからで。

この探検では、当時最新の機器を携えて、科学的な調査を一ヶ月に渡り敢行している。例えば湖をソナー探査機で隈なく調査するばかりでなく、絶えず見張りの人間を二箇所に配置し、湖全体を24時間、一ヶ月体制で監視するなど、その発見への意欲と執念は凄まじいのひと言。こうした科学的、リアリズムに徹した方法で、モケーレ・ムベンベというおよそ考え付く限りで最高度の幻想を追いかける。これほどリアル・ファンタジーが高密度に結実した記録があるだろうか。いわゆるバカ本のジャンルに置いてもトップクラスの出来栄えであり、ぼくは何度も再読したのだが、その度に底知れぬ勇気を与えられるのだ。またバカ本である以前に、写実的で硬派な味わいが感じられる文章そのものも非常にしっかりしていて、冒険の醍醐味を余すところなく伝えてくれる一級品のノンフィクションとなっている。
ともかくその執念たるや……、東京での準備期間、現地の言葉を習得するために東京中を歩き回って東京在住の現地人を探し回ったり、いざテレ湖に着いたらメンバーの一人がマラリア感染して死の際を彷徨ったり、現地部族との理不尽な折衝を余儀なくされたり、ともかく幾つもの波乱を乗り越えていく圧倒的な現実があって、その最果てに「モケーレ・ムベンベ」という、これはもう何のことなのか誰にも分からない響きの幻、巨大な「?」があるのだ。

何気ない日常生活の中でもリアル・ファンタジーは錯綜しているのだろうが、結局のところ、この二本の螺旋構造をどこまでもどこまでも高く高くしていくのは、その人のファンタジーを求める強度にかかっているのではないか、と思われてならない。こういうと元も子もないような気になってしまうが。
例えば今、小説やその他の表現ジャンルで、これといって時代を代表する大型新人が台頭しないのならば、それはなぜか。新人の出現というのは、つまりその時代の感性を背負った代弁者が出てくるということだけど、それがなかなか大きな存在感を持って出て来れない状況というのは、そもそも世界に伏在したファンタジーを引き出すこと自体が難しくなっているんじゃないだろうか。

ちょっと当てずっぽうというか、自分なりの予感で言うのだけど、現代はもう、表現者・受け手の境界が曖昧になるほど、ファンタジーが氾濫・浸透しているんではないだろうか。以前はもっと、表現者がファンタジーを発見して作品化して送り出し、受け手がそれを受け取る、という上手から下手への流れが明確にあったと思うんだけど、あらゆる表現ジャンルが製作上でも消費上でも身近になって、このブログにしてもそうだけど、一億総表現者みたいなことになってくると、ファンタジーそのものが拡散してしまっているのではないか。メディア機器の発達と、ファンタジーの氾濫は、歩みを共にしてきたのか、いやそうではなくて、まず先にファンタジーの氾濫があって、その膨らんだ集合意識というのか、氾濫を治水するように、PC、ネット、デジカメ、ワープロ、イラストレーター、フォトショップ、MIDIなどなどのメディア機器が生み出されたのか。いずれにせよ、この事態を悪いと言ってるわけではなくて。ファンタジーというのがもう、追いかけたり夢見たりするようなものではなくて、ごく普通に日常を理解する際のフィルターとなっているような気がする。かなり濃密に、日常生活を浸しているようなイメージがある。表現者も消費者も、もうほとんど同じになってる。黒と白じゃなくて、中間色の灰色に均一化されているから、そのグラデーションの微差が問題化される。ちょっと話が横っ飛びするけど、PTSDに見舞われた精神病患者というのは、この日常を包んでいるファンタジーが剥ぎ取られて、生の現実界が剥き出しで見えてしまうということではなかったか。またその反動として「離人症」というのは、剥き出しの現実を遮断する防御反応ではなかったか。さる精神科の先生によれば、普段、我々の生活する空間には、液体のようなものが流れていて現実をうまい具合に隠蔽しているという。ところがある種の患者には、その液体みたいなものが感じられず、本来そこには何も存在しない空気の部分に、生の現実界を感知するのだが、生の現実界というのは本来、理解される以前の禍々しい狂気の世界であって、だからそれが見えてしまうというのは大変恐ろしいことなんだと。PTSDと離人症というのも、リアル・ファンタジーの裏表なんだと思う。表現というのはだから、絶えず心理学の要素を含んでいるだろう。
なんだか話がどんどんずれるけど、松浦寿輝がさる座談会でこんなことを言っている。

「言葉というのは人間個体にとって決定的な他者なんです。他方、イメージというのは基本的にナルシズムの空間に属しています。ラカンの精神分析用語で言うと、イマジネール、つまり想像界というのは母性的なナルシズムの次元のことであり、私がただそのままの私として限りなく肯定してもらえる空間でもあるわけです。小説でも、映画でも、漫画でも、何でもいいんですが、イメージでできている作品は人々の心を慰めてくれる。(中略)本来、言葉というものは、父性的なロゴスであって、ラカンの用語で言うとサンボリック、つまり象徴秩序に属する装置なんですね。それは母子融合のナルシズムを断ち切る装置です。」

で、当然のごとく松浦氏は、後者の作品、つまりナルシズムを断ち切る作品を推奨するわけなんだけど、これももう、声高に叫ぶまでもなく、なんだか趣味志向の問題になってしまってるのではないか、と思えるほど、一般化されているような。通俗・非通俗という二元論も起点はここにあるんだろうけど、今の表現者・消費者は、そういうことももう踏まえた上で自分の好きな方をやってるんじゃないか、という気がする。明確に線を引いて、という意識自体がもう、もしかしたら古いのかもしれない。ともかく考えても考えても、それこそ螺旋的に抜けだせない問題だ。

だいぶ収集のつかない話になってしまったが、そこはなにぶん「モケーレ・ムベンベ」という巨大な謎を枕に振ってしまったのだから仕方ないか。。

リアル・ファンタジーの問題を考えてたら、高橋源一郎の言葉を思い出した。
rolandgorilaさんもいつかブログで取り上げられていたスラヴォイ・ジジェクについて語っている。
けっこう、これまで書いてきたことと重なると思うので、ちょっと長いけど引用してみたい。


保坂VS高橋の対談より。


高橋源一郎  「9・11」の同時多発テロがあって、タワーに飛行機がぶつかる映像があったでしょう。あの映像を見たときの感想が全員「ハリウッド映画みたいだった」わけですね。ぼくもそんなことを書いたので、後ですごく恥ずかしくなったんです。そのことをうまく説明できないかなと思っていたら、おもしろい本をこの前読んだんですね。それはスラヴォイ・ジジェクの書いたラカンに関する本なんです。ぼくはラカンもジジェクも、よくわからないのだけど、その本は非常におもしろかった。ジジェクによると、あの映像を見てみんな同じように驚いたというけれど、それは少しも不思議なことではない、あの一連の反応はラカンの精神分析的治療の中にある概念の一つとぴったり合う、と書いているんです。つまり、「ファンタジーの反駁」という概念があって、それは精神病の患者――先進資本主義国の人間は広い意味ですべて患者だ、という感じで書いてあるんだけど――は現実を現実として認識する方法として、ファンタジーを用いるということだというわけです。どういうことかというと、ワールド・トレード・センター・ビルを、ふつうわれわれは、ニューヨークの真ん中にある高いビルディングというふうに考えていますね。それともうひとつ。ハリウッド映画のなかで、高層建築は、『ダイハード』のように危機に陥ったり、ゴジラがやってきたり、スパイダーマンが駆け上がったり、事件が起こりうるものである、と考えている。つまり、あの建物は映画のなかだけで危機に陥るものになっていた、そういうファンタジーがあって、現実を構成していたというわけです。だから、あの映像を見てなぜびっくりしたかというと、現実にはそんな事件は起こらないと確信していたからです。それはハリウッド映画のみで起こることだから。ぼくたちがハリウッド映画みたいだと思ってびっくりしたのは、ぼくたちがあるものをファンタジーと現実のワンセットで見るように訓練されているからだと。そして、その破綻は精神分析的治療のスタートだというのです。現実と虚構は境界で混じっているけれど、違うものだと考える。しかし、実際はそういう構造になっていない。最初から二重化して見ているわけです。


保坂和志  東京タワーとか何度見ても、ああ東京タワー見てるなあと思うもんね(笑)。


高橋源一郎  本当にそこにあるんだって感じでしょ。だからもしハリウッド映画を観たことがない人たちがあの映像を見ても、あっぶつかった、でおしまいなんです。ハリウッド映画的なものをずっと観ている人間が意味のない衝撃を受けるわけで、それはファンタジーにとらわれているからだ、というのがジジェクの説明なんですね。これは映画に関してだけど、じつは同じことが言葉に関してもいえるわけですね。現実と虚構の違いくらい知ってますよと誰でもいう。これは小説で虚構の部分でこっちは本当のことですねって言うけれども、ほんとうは区別なんかできないんだよね。ただ、日常の言語があって、それにフィクショナルなものもノンフィクション風のものも乗って流れているだけで、実はワンセットになっている。その区別をどうやってつけるか。本当は、区別できるようなものが小説のなかにないといけないんだけれども。


保坂和志  ノンフィクションは、フィクションよりもくさいフィクションの手手法を使いますよね。


以上! 長かった……。
記事を探すのと、キーボード打つのに疲れたので、本日は引用のみで。。

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