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昨日、PRIDEのミルコVSヒョードル戦にかこつけて、リアルVSファンタジーの記事を書いたのだけど、
一応文学ブログなので、この問題を文学ネタに引きつけて考え直してみたい。
蓮實重彦と村上龍の、『描写』を巡る対談から引用。
まず村上龍がこんなことを言う。
「『イビサ』という連載の時に、主人公がちょっと精神をおかしくして、クローム鍋で水を沸かすところを『描写』したんですけれども、その時に、『彼女は不安とともにクローム鍋を見た』と書けば簡単なんだけど、クローム鍋のなかの水が沸騰する様子を彼女の視線で……、実際にクローム鍋を見ても駄目なんですね、沸騰する様子を記憶として再生して、自分でも、ちょっと俺、おかしいんじゃないかと思うくらい偏執狂的な感じで『描写』していくと、普段だと一行で済むところが、例えば、原稿用紙二枚とか三枚になってくるわけです。そうすると『彼女は不安と恐怖とともにクローム鍋を見ていた』という一行が不必要になってくるんですよね」
それに対して、蓮實重彦がこんなことを言う。
「まず一つ、『描写』してると何が起こるか。過不足ない言葉をやはりある程度は、重ねていきますよね。『描写』すべき対象にそぐわない言葉は排しながら、ある種の過不足のなさに近づいていきながら、描写を重ねているうちに、その過不足のなさが不意に消えるんですね。例えばミシェル・フーコーが『図書館の幻想』ということを言っていて、図書館というのはあらゆる知が過不足なくあるところなんだけれども、それに必死に、というかほとんど偏執狂的にその過不足のなさにグイグイ入り込んでいくと、ある種の『幻想』に至る。正等な言葉遣いに徹していると、ふとその正当さが超えられてしまうというのが『描写』の原理じゃないかと思います。どこかで『描写』されている対象とは違ったものになっちゃう。これだけの言葉を連ねれば、これだけのことが分かるはずだという、これをどこかで超えてしまう」
以上。
明治になって言文一致がなされ、小説は「散文」で書かれるようになった。
なぜそうなったかと言えば、やっぱり『描写』する必要があったからだろうと思う。『描写』とはある種のリアリズムだと思う。それまでは例えば、「古池や、岩に染み入る 蝉の声」みたな象徴化に向かう言葉で世界が描かれていた。でもそのような象徴言語では複雑な自我に目覚めた近代社会を描けないからということで、散文がどうしても必要になる。散文の「散」とは、そういう象徴・記号みたいなものを「散らせる」という意味のことなんじゃないかと思う。散文なら、携帯電話の取り扱い説明書でも、犯行声明でも、ラブレターでも、何にでも対応できるし、正確に物を伝えることができる。
しかしこのリアリズムに即した散文による『描写』を積み重ねていくと、なぜか不意に、『幻想』に反転するという。この辺のカラクリがすごく面白い。面白い小説って、この転倒が必ず起こっているような気がする。
例えば保坂和志は、かなり自覚的にこの「散文」を活かしている作家だと思う。「季節の記憶」という小説は、鎌倉で暮らす人たちのこれと言って何も起こらない日常生活を延々と描いた長編だった。絶対にドラマチックなことや象徴的な出来事など起こさないぞ! という意気込みさえ感じる散文の極致だが、その延々積み重ねた日常の果てで、「季節の記憶」というタイトルその通りの、ある種の幻想というか、象徴に達する。
リアルとファンタジーというのは、やっぱり裏表が1枚になってるんだと思う。
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