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			<title>考え中</title>
			<description>新作小説を中心にした感想。
脱線あり。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>考え中</title>
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			<description>新作小説を中心にした感想。
脱線あり。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459</link>
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		<item>
			<title>浅井健一 『Jet Milk Hill to Sherbet Street』</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;先日、浅井健一氏の個展に行って来た。ミュージシャン以外にも、画家・詩人としての才能も天才級だ。と言って、一目瞭然、我流の表現なので、その道のプロがどう評価するのかは定かじゃない。でも浅井氏の表現は、音楽もそうなんだろうけど、技術体系に縛られない自由さの迸りに本領がある。芸術はそもそも、作家が自由を獲得する活動でもあろうけど、実は、芸術ほど様々な縛りが多い不自由な活動も珍しいんじゃないか。かえって、理系の技術屋が発明する様々な新製品の方がよっぽど自由だったり無邪気だったりするくらいで、医療・宇宙・家電・考古学・IT等、先端技術の開発に携わっている専門家の日常は、きっと夏休みの子供みたいなんじゃないか。だけど芸術活動は、先行する技術体系の踏襲、プロデュースする際の商業的な配慮、無意識・意識的な時事問題の取り込み、そしてなにより自身の良心や哲学に縛りを受け、ガチガチに硬直してしまうことが多い。そうした中で浅井健一氏の活動や言動を見ると、その世間離れした自由さに心底から圧倒される。自由はそう簡単に口にできるものでもなく、概念としては分かるけど、日常で感じるのは極めて困難だ。最近は小学生くらいの子供を見ても、あんまり自由とは思えなくなってきたし、せいぜい幼稚園児くらいになら感じるけど、でもそれぐらいの年齢なら自由は当たり前だ。結局、自由とはなんぞやと具体的に考えてみると、大人になっても子供心を持っていて、さらにその子供心を実践できる、ということなんじゃないかと思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　浅井健一の画集『Jet Milk Hill to Sherbet Street』を見ていてふと思い出したのが、小学低学年のときに「ムツゴロウの愉快な仲間たち」とかいう番組を見て感激し、自分も大人になったら広大な土地を北海道に買い占め、そこで動物たちと一緒に暮らそうという気になって、スケッチブック一面に、様々な動物と一緒に暮らす為の施設の設計図を書いた時のことだ。夜通し、この部屋はホッキョクグマだからプールと氷の塊を用意して、この草原には馬の群れがいて、居間には世界中の犬と猫がいて、ライオンやトラは檻に入れて……と、ノアの箱舟のような設計図を夢中で書いていった。そういう純粋な子供心というのか、時間を忘れて熱中する感覚、それが浅井氏の画集に漲っていて、これは物凄いことだと思った。結局、自分が子供の頃に書いたノアの箱舟計画も、そこにメッセージ性なんか一つもなかった。敢えて言えば、面白い、ということが全てであって、面白さそれ自体が力であって、その力が勝手に後から意味解釈を生んでいくということだろう。よく、この小説には現代性がない、という批判があるけど、それは現代性があるとかないとかの問題じゃなくて、単に面白くないだけだろう。面白いか面白くないか、の問題だと思う。面白ければ自動的に現代的とも言える。面白くなければ自動的に古いとも言える。本当は現代的かどうかはどうでもいい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/46569597.html</link>
			<pubDate>Fri, 06 Apr 2007 11:08:38 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>『恋人たちの失われた革命』 フィリップ・ガレル</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今年に入って手応えある映画を立て続けに観ている。&lt;br /&gt;
『それでも僕はやってない』　周防正行&lt;br /&gt;
『魂萌え！』　阪本順治&lt;br /&gt;
いずれも良かった。特に『魂萌え！』は本当に素晴らしく、号泣ものだった。&lt;br /&gt;
でも今回は、今日観てきたフィリップ・ガレル『恋人たちの失われた革命』の印象を忘れないように、いくつか簡単にメモっておきたい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;この映画は、流通している他の映画と同じ評価軸では論じられない。『それでも僕は……』、『魂萌え！』も優れた作品だが、これらは観客に向かって作られている。一方、フィリップ・ガレルの作品は、なによりまず監督自らに向けて作られている。もともと作品に対する倫理が別種だから、同じ評価軸で論じられない。&lt;br /&gt;
では、監督自らに向けて作られた作品を、観客が観るとどうなるか。監督の主観的な何かが、もしかしたら観客一人一人の主観に重なることがあるかも知れない。ないかも知れない。重なった場合、その重なった部分が、本当の意味での普遍なのかもしれない。真の客観が、真の主観の寄せ集めならば。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;エンターテイメントの志向性が微塵もない。さもしさがない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;結果的に物語が浮上するが、物語そのものを描こうとしていただろうか？&lt;br /&gt;
物語を語るためのカットや台詞が一つでもあっただろうか？&lt;br /&gt;
なかった、と思う。&lt;br /&gt;
断片的な生活の素描が集積した結果として、物語が感じられたというだけではないか。&lt;br /&gt;
逆に言うと、ここまで物語の説明を排除しても、物語は幽霊のように現れる。&lt;br /&gt;
物語の代わりに、何が映っていたか？&lt;br /&gt;
金太郎飴のように、どこをどう切っても、生身の生活がそこにあった。&lt;br /&gt;
それは取り立てて、ぼくらが普段そうだと思い込んでいる映画的なシーンではなかったかもしれない。&lt;br /&gt;
何気ない生活の一断面が絶え間なく流れるが、すべて生身の生活だった。&lt;br /&gt;
どこからスタートさせ、どこでラストにしても、たぶん成立するのではないか。仮に10分でも。&lt;br /&gt;
でも、本当にそうだろうか？&lt;br /&gt;
3時間という長さが、その長さそのものが、何か意味というか、力を持っていないだろうか。&lt;br /&gt;
端的に小説に喩えると、短編より長編の冊子のほうが、手に取ったときに「ずしりと重い」というのと同じような意味で、長さそのものに、「重さ」に匹敵する力がなかっただろうか。&lt;br /&gt;
3時間という長さ、その中に息づくテンポは、日進月歩で科学的な進化を遂げていく猛スピードの時代にあって、真っ向から逆行しているようにも見える。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;他にも驚くべきことがある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;間もなく60歳になろうという監督が、20歳の若者の恋愛を撮り得るという事実。&lt;br /&gt;
主役フランソワを演じるのはフィリップ・ガレルの実の息子、ルイ・ガレル。&lt;br /&gt;
恋人のリリーと、昼間の散歩のシーン。&lt;br /&gt;
リリーが、「いまこの瞬間を忘れないで」と、フランソワに言う。&lt;br /&gt;
なんでもない散歩の場面でだ。&lt;br /&gt;
こんな印象的なシーンを60歳の監督が撮るのは、けっこう驚嘆すべきことじゃないか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ところでこの作品は、世界に向かって閉じているだろうか。それとも開かれているだろうか。&lt;br /&gt;
今の日本の純文学がそうなりがちなように、世界と断絶された、芸術という名の真空空間に追い込まれているだろうか。それとも、世界との接続面を有しているだろうか。というか、世界と向き合う、とはそもそもどういうことだろうか。世界の前に自分と向き合うということ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;興行面では、ニッチ的に閉じた感があるとしても、スクリーンに投影された光と影は、そのまま世界に開かれているように思う。逆に言うと、世界と等価過ぎるために、非日常を描く映画の興行的な意味を奪われて単館（東京都写真美術館ホール）に閉じ込められているのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;では、そもそも、世界と等価なものをスクリーンに出現させるという行為は、いったいどういうことなんだろうか？　単純な生活を追っかけ回したドキュメンタリーではない。ドキュメントよりもっともっと複雑か、あるいはもっともっとシンプルな表現だ。ドキュメントではないが、何かを「再現」しているというのもなにか違う。再び現すのではなく、やはり出現だろう。出現したそばから消えていく再現不可能なもの。人生＝世界と等価なもの。世界を丸ごとそのように現す行為。&lt;br /&gt;
しかし、リアルというのとは違う。リアルというのは本来、フィクショナルな、不自然なものだ。本当にもし世界と等価なものが現れたら、リアルなんて呑気な言葉は当てはまらないんじゃないか。でも、幻想とか詩でもない。主人公は詩人だが、作品は散文だ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;スクリーンに投影されたな光と影、世界との等価物。それはつまり、「生活の風景」。そしてそれは、現れたその瞬間から消えていく。それでも最後に何かが残るなら、なんだろうか？&lt;br /&gt;
それは、その『生活と風景を見ていた私』ではないだろうか。監督自らの視線だけが、限りなく純粋なものとして残される。&lt;br /&gt;
監督は、何かを見てきた。何かを見ながら生きてきた。生きながら何かを見てきた。丸ごとそのままが映っている。これはすごい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/44716625.html</link>
			<pubDate>Wed, 31 Jan 2007 00:47:26 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>52型 プロジェクションテレビ</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;先日、52型のリアプロジェクションTVを思い切って購入し、今日届いた。&lt;br /&gt;
ヤマダ電機で、45万円の店頭表示価格を33万円まで値切り、10％ポイント還元のところを15％に引き上げての購入だったが、交渉するしないで信じ難い差額（13万！）、やってみるものだ。&lt;br /&gt;
リアプロジェクションテレビというのは、『液晶テレビ』でも『プラズマテレビ』でもない、第3のテレビ。と言っても、アメリカでは主流らしい。&lt;br /&gt;
というのも、リアプロは映画を観るのに適した大画面テレビだから、大きな家を持ち、我が家で映画を楽しむアメリカ人文化に合っているのだ。&lt;br /&gt;
性能もいい。液晶とプラズマの良い部分を掛け合わせた感じ。つまり、黒の階調が豊か、画面への映り込みが少ない、動きの処理速度が速い。そしてスピーカーも高性能。重低音～低音～中音～高音までカバーしている。2,3万円出してマルチサラウンドシステムを作るよりも、既にいいスピーカーが内臓されている。&lt;br /&gt;
ただ薄型ではないので、スペースは食う。特に自分の部屋は狭いので、なんだか冗談みたいな大きさだ。やや恥ずかしい代物でもある。購入前に何度も店頭通いし、飽きるほど展示品の画面を見てきたはずだが、我が家に来ると店にあったときより二回りは大きく感じる。&lt;br /&gt;
なぜ薄型じゃないか、というと、これがまたいいんだけど、画面（パネル）の裏側に水銀ランプが仕込んであるからだ。画面は液晶パネルなんだけど、そのパネルそのものが発光するっていうのじゃなくて、裏から水銀ランプの強烈な光を投射するので、画面の明るさが違う。&lt;br /&gt;
裏から光当てるって古典的な発想なのが味わい深い。前か後ろの違いはあれ、光学的に映画っぽいのだ。しかも、ランプが切れたらランプを交換すればいいだけなので、プラズマや液晶より寿命が長いし、消費電力もかなり低い。&lt;br /&gt;
また、還元したポイント（5万円）＋1万円で『HDD+DVDレコーダー』も購入した。300ギガバイト。&lt;br /&gt;
テレビとレコーダーをHDMI端子でつなげるので、最高画質と音響が楽しめる。デジタル放送の録画もし放題。&lt;br /&gt;
配線やら設定やら半日がかりだったけど、やっぱりこれでDVDを観ると、映画館の気分を味わえる。&lt;br /&gt;
去年から部屋でDVDを観る機会が格段に増えたので、21型のブラウン管で観てるより、52型のリアプロで観たほうが、もう日々の映画体験の質がまるで違ってくる。&lt;br /&gt;
グリフィス、ヒッチコック、チャップリン、ゴダール、トリュフォー、ホウシャオシェン、イーストウッド、スピルバーグ、阪本順治、周防正行、山下敦弘、なんでもござれだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/44651513.html</link>
			<pubDate>Mon, 29 Jan 2007 01:30:02 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>『ブロックブッキング』の功罪</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ブロックブッキングは、大手映画会社（今なら東宝、松竹、東映）が、約一年先までの配給計画を用意し、系列の劇場が配給計画に従って興行を行うという邦画界の特異なシステムである。この構造だと、仮にヒット作でもあらかじめ決められている上映期間で打ち切られるし、逆に評価の低い作品でも上映期間を確保することでそこそこ集客する。例えば『ゲド戦記』が○○万人動員したと言っても、ブロックブッキングで劇場数と上映期間を守った形での集客なので、一つの劇場当たりの収益率、つまり純粋な作品の支持率を表すパー・スクリーン・アベレージで見れば惨憺たる結果であったりするらしい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ブロックブッキングが邦画界の構造を硬直させている、という批判は前々からある。つまり、どんなに優れた作品であっても、ブロックブッキングに組み込まれない限り、単館あるいは少数の劇場でしか上映されないのである。いくらそこでロングランを重ねても、アメリカや韓国のように劇場数を拡大していく流れにならないから観客動員に限界がある。代わりに大手が作った低調な映画が、強力な宣伝をバックにして全国公開される。これでは健全な自由経済とは言えない。具体例で言うと、いま日本でも上映中の『リトル・ミス・サンシャイン』は、非常に優れたハートフル・コメディで、アメリカでは当初単館上映だったのが、人気を反映して一挙に全米公開となった。絶対に客受けする良い映画なのに、日本では2館くらいでしか上映されておらず、しかも構造的に拡大することもない。ブロックブッキングは、関税で守られた稲作を保護しているのと同じである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;10年以上前から徐々に増えてきたシネコンは、大手配給会社に系列ではないので、劇場主体の興行を打つことができるという。ここにブロックブッキング打破の兆しがあると言えば言えるかも知れない。大手の支配下にないのだから、頭のいい劇場経営者だったら『リトル・ミス・サンシャイン』をやるべきだ。&lt;br /&gt;
大手の外にいる独立系の映画人はみな、ブロックブッキングを煙たがっている。いくら良い映画を作っても多くの劇場でかけられないのだから当然だ。自分は単なる映画ライターだが、やはりブロックブッキングは不健全だと思う。しかしよくよく冷静に考えてみると、批判だけに終始しているわけにもいかない。昨今、大手TV局が参加した邦画は興収を伸ばして勢いづいている。珍しく邦画が洋画より強くなっているのだ。ところがまさに今ちょうど節目を迎えていて、また邦画から洋画への転換が起ころうとしているらしい。主な原因は、ここ数年でTV局が主導してきた映画作りの方法が、もう観客に飽きられ始めているからである。東宝がTBSと組み、20億の巨費を投じた『どろろ』が黒字を出せるのか、非常に疑問だし、邦画界のガリバーこと角川春樹が30億で製作した『蒼き狼～地果て海尽きるまで～』も、どれほどの人が観たいと思うのか？　前者は塩田明彦、後者は澤井信一郎、いずれも力量ある監督だが、20億、30億の予算を与えて、果たして充分な作家性を確保しながら映画製作ができるのか。CG班だの美術班だのアクション班など、製作パートが多岐化する分だけ監督の個性が薄まっていくような気がする。つまり、もはや塩田や澤井という個人の監督ではなくて、ビジネス・モデルが一人歩きして映画を作っているのではないか。そういう骨抜きされた映画が、いつまでも大量の観客を動員できるわけはない。いまがちょうどその節目なのだ。すると、邦画が弱体化した当然の結果として、洋画の盛り返しが必ず来るはずだ。我々観客としては、邦画だろうが洋画だろうがアニメだろうが、純粋に面白い映画を劇場にかけてほしい。東宝・松竹・東映の大手3社も、邦画がダメと判断すれば、ヒットしそうな洋画を買い付けて自社の系列劇場に配給し、収益をキープするだろう。しかしその大手3社も、いまや製作の大分を外部プロダクションに投げているとは言え、共同製作なり共同出資なりという形で年間20本なりの映画を手がけるのだから、やはり自社映画もブロックブッキングで守りたい。国が稲作を保護するように。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;このブロックブッキングという鉄壁のガードは、二方向に対して働きかける。邦画が順調なときは、国内の独立プロが製作した良作を弾き出し、邦画が低調なときは、必要以上の洋画の侵入を防ぐ、というわけだ。そして後者の場合に限っては、遺憾ながら、確かに邦画界全体を守る役目を果たしてもいる。考えてみれば分かるように、もしブロックブッキングが完全になくなって自由競争が行われた場合、エンターテイメントにおいて、質量ともに邦画が洋画に匹敵することは困難である。基本的に邦画が国内市場だけを相手に映画作りしているのに大して、ハリウッドは世界全体を市場に映画作りしている。ということは、そもそも興行収益が桁違いなのである。興行収益が違うというこは、それを見込んだ上でかけられる製作費も桁違いなのである。世界市場を想定するからこそ超大型予算のブロックバスター映画が作れるわけだ。邦画と洋画では、エンターテイメント製作において、立っている土壌が違う。もちろん、本来は予算と映画の面白さは関係ないのだけど。ともかくそうなってくると、ブロックブッキングが国内産業としての邦画を守る役目を果たしていることは、遺憾ながら事実であり、必要悪なのかも知れない。ブロックブッキングがなくなれば、日本はあっという間に洋画に食い潰されてしまうだろう。そうなっても構わないのではないか、とも思うが、それではいよいよ、日本映画が製作される土壌すら廃れていってしまう。産業全体が縮小してしまう恐れがあるのだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さらにもう一歩踏み込んで考えてみたいのが、邦画が面白くなくて、さらに洋画も面白くない場合だ。充分にあり得る状況だが、仮にそこでブロックブッキングを外すと、大きな宣伝力を持たない劇場側が邦画でも洋画でも当たりを取れないため、どんどん潰れていき、国内の映画産業全体が沈没しかねない。自由競争とはそういうことだ。しかしブロックブッキングであれば、それほど面白くない映画であれ、豊富な宣伝費を活用し、全国の劇場と一定の上映期間を確保しながら興行を打てるので、不健全な形であれ『ゲド戦記』的な観客動員にこぎつける。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ブロックブッキングには功罪の両面があるということだ。問題を根本から解決するためには、当たり前過ぎることだが、本当に面白い（集客力ある）映画を量産するということだ。一方で芸術性がある映画をもっと多くの劇場でかけたい、となると、これはもう、製作側の問題ではなくて、観客を教育していく場が必要になってくる。宮台真司が、これからの映画産業を守っていくなら、映画学校で製作面だけ教育するのでなく、観客をどう育てていくかという面もフォローしていくべきだ、と言っていたが、まさにそういう取り組みが必要なのだろう。そうなると、批評家や評論家の活躍の場も、どんどん広がっていかないとならないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/44215017.html</link>
			<pubDate>Sun, 14 Jan 2007 20:03:00 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>『Shall we ダンス？』 周防正行</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;年が明けてもTUTAYA通いの日々が続く。11年ぶりの周防正行作品『それでも僕はやってない』に先立ち、いま改めて『Shall we ダンス？』を見た。パッとしない邦画ばかり目に付く現状では、『Shall we ダンス？』の出来栄えが新鮮に映る。当時、周防監督＆桝井プロデューサーは、充分な勝算をもってこの“王道”の良識派エンターテイメントを撮り上げたことだろう。アメリカでの興収やハリウッド版リメイクは望外だったにせよ、国内の社交ダンスブームを作り出した本作は、もともと映画が持っていた風俗への影響力をいかんなく発揮し、それまでのエンターテイメント映画のスタンダードを更新した。でも、このエンターテイメントに「王道」という枕詞をふるのは、今だからできることである。冴えない中年サラリーマンが社交ダンスを通じて人生を取り戻し、家族関係を回復する物語、またその物語の展開のさせ方、構成、色物キャラクターの配置の仕方、確かにすべて定番だが、あまりに丁寧に作りこまれているため、既視感を突き破る力がある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;いま、大手ＴＶ局の資本投下を受け、製作委員会が合議制で主導する邦画界は、『Shall we ダンス？』みたいな企画力ある作品をこそ最も熱望しているはずだ。脚本と企画書でスポンサーが製作費を保証し、プリプロ段階で採算が見込める卓抜な企画。しかしその発想が逆に、人気のお笑い芸人の出演、何百万部売れた原作、有名ミュージシャンの主題歌という、先行ビジネス・モデルに基づいたオプション積み立て方式のマーケティング感覚に短絡し、緊張を欠いたイージー・ドライブを助長させる。エンターテイメントの“王道”、ゴルフで言うフェア・ウェイをキープするのに焦り、やたら刻んだショットを連発しているのだ。目先の手堅い消費を追いかけるばかりで、『Shall we ダンス？』みたいな、骨太の勝負精神というか、本気さというか、観客をスカっとさせる大振り一発がない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そもそも“王道”という言葉を、けっこうみんなが誤解している。多くの先人たちに踏み固められた道を王道と呼ぶのではないはずだ。王道は、既成ジャンルがあって成り立つ道ではあるが、しかし普段はそれとなくみんなに理解されている程度で、実際に誰かが通らないと、そこが王道だったとは気づかない。再度ゴルフに例えると、普通なら刻んでいくべきコースで、勝ち気なタイガー・ウッズがティー・ショットをフルスイングした場合。ギャラリーが見守る中、ボールが大胆不敵な放物線を大きく描いていく。落ちたボールの位置がフェア・ウェイをキープしたとき、初めてギャラリーは、いま目の当たりにしたボールの軌跡（奇跡）を納得する。王道は、通った後にしかできないのだ。あるジャンル（ゴルフならコース）の潜在力をフルに前面化させたとき、あまりにそれがそのジャンルそのものであるため、初めてそのジャンルを発見した気になる。しかしそのジャンル自体は、確かに我々が何度も見てきた既成の枠組み（ゴルフ・コース）なのである。おかしな言い方だが、既存を発見する道が王道なのだ。ちなみにヒッチコックがサスペンス映画の王道を築き上げた時代では、確かに王道それ自体が、ジャンルそのものの発見であったかも知れない。しかし今の時代、新ジャンルを発見するなど不可能だから、既存のジャンルに内在する王道を見出すしかない。例えばイーストウッドの『トゥルー・クライム』は、サスペンスという手垢に塗れたジャンルを徹底した職人技で洗練させ、王道を感じさせた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;王道を行くには、大胆さが必要だ。『Shall we ダンス？』で、杉山なるサラリーマン（役所広司）が、ダンス教室の美人コーチ（草刈民代）からマンツーマンの指導を受ける。(既にこのキャスティングが王道)２人が互いの体を密着させた状態で、杉山から最初の一歩を踏み出す必要があるのだが、杉山は女コーチに遠慮して大きく踏み出せない。「遠慮しないで、もっと大きく踏み出して！　最初の一歩で全てが決まるのよ！」とコーチに叱咤され、意を決した杉山は遂にファースト・ステップを踏む。それは、草刈民代の股間を直撃するような大胆極まりない踏み出しだ。しかしそのステップの着地点が、“フェア・ウェイ”だった。大胆な一歩こそ、王道への一歩なのだ。杉山の通勤路は、社交ダンスに熱中する日々の中で異化されていく。道、駅、公園、会社のトイレといった日常風景が、ダンス・ステップに踏まれて活性化し、いままた再びそこにあったことを発見させられ、杉山の中で生き直される。そのとき杉山は、手垢に塗れた退屈な世界を自らの手に取り戻し、王様になっていたのかも知れない。それは、映画を通じて草刈民代と結婚した周防の人生と重なってもいるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/44149972.html</link>
			<pubDate>Fri, 12 Jan 2007 15:40:54 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>『パプリカ』 今敏×筒井康隆</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ここ2,3日ほど不眠状態だったが、眠い目をこすりながら頑張って『パプリカ』を観に行ったら、まんまと”夢”を題材にした映画だった。しかしこれが面白くて、逆に覚醒させられた。上映後にはすっかり、受付で『サントラ』と筒井康隆原作の文庫を求める男、になっていた。&lt;br /&gt;
最近、『夢』を題材にした映画が多い。これには何かはっきりした意味がありそうだ。&lt;br /&gt;
いやいや、それは今にはじまったことじゃない。昔から夢は映画の題材の宝庫だったじゃない、って声もあるだろう。F・フェリーニ『8 1/2』とか、黒沢明のその名も『夢』とか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ぼくは学生時代、ゼミでフロイトと映画の勉強を平行してやって、映画が製作される一連の過程と夢が見られる一連の過程は原理的に酷似しているんじゃないか、という比較検討を拙い論文に纏めたことがあった。それからずっと、夢というのは、どっかで気になるテーマであったりする。この前、仕事で『ゆれる』の監督・西川美和さんにインタヴューしに行ったら、西川さんは夢から映画の題材を着想している、と言っていた。その話が面白かったので持ち時間を裂いて夢についてどう考えているか伺い、あまつさえぼくの持論を語って聞かせる一幕もあったが、その部分はもちろん記事にはならなかった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;表現と夢は、意識的・無意識的の相位で分かれてくるけど、原理的にかなり似てる行為だと、未だに思っている。映画は集団で撮り、集団で観るので、非個人的な夢という点が特徴的ではあるが。それで、少し飛躍するようだけど、表現と精神病の関連についてこんな話もある。アル中で精神病院に入り浸りだった画家ユトリロが、医者から絵を描くように勧められて、病状が少し快復したという話。とても示唆的な話だ。一般にナルシズムと言われる自己愛性人格障害とか境界性人格障害は、フロイト時代には治療の手立てがない、お手上げの病だったらしい。ところがオーストリアの著名な精神科医H・コフートが、確か1950年頃に治療法を発見した。それは、ナルシズム患者に芸術の表現手段を身につけさせること、だった。ユトリロのエピソードをそのまんま裏書きしたような話だけど、つまりこれは、個人の内側に抱えた夢（リビドー）を、社会のどこで交通させるか、という話である。そうなると、これは誰もが既に思ってることだろうけど、人の集合意識が交錯するインターネット空間も非常に夢じみている。ってな話をしてると、どんどん『パプリカ』の話から遠ざかっていってしまうようだが、実はちゃんと繋がっている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ところで、この前試写で見たばかりの塚本晋也の『悪夢探偵』は、人の悪夢に入り込んで怪物と対峙する探偵（松田龍平）の物語で、いかにも塚本節な映画だったが、『パプリカ』もやはり人の夢に入ってモンスターと対決する女（パプリカ）の物語であり、話の設定の類似ぶりが凄い。こういう夢の映画でまず問題にされがちなのは、セカイ系かどうか、だろう。&lt;br /&gt;
ぼくは、今年創刊されたライトノベル誌『ノベルジャパン』の映画コラム欄を担当しているので、宮台真司が『映画芸術』最新号で以下のようなことを語ってるのに少なからず興味を惹かれた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;～小説の世界では2000年紀に入るころからライトノベルズ、とりわけセカイ系が隆盛です。ライトノベルズはかつてのジュヴナイルの等価物としての側面もあるけど、内容的には96年に流行った『エヴァンゲリオン』の碇シンジのような主人公を描きます。自分が救済されるとなぜかセカイの秩序も復元する。「自分の謎」と「世界の謎」が等置されるという内容です。ちなみにアニメ版の『ブレイブ・ストーリー』も『ゲド戦記』もそう。これをセカイ系と言います。不完全な主人公が自己承認に到ると、世界も秩序を回復する～&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;すごく極論的な言い方で、人間はみんな精神病って言い方がある。厳密には、人間はみんな精神病の傾向がある、ってことだと思うんだけど、意識と無意識の明確な区分というのは人間にはなくて、そのラインの相位が精神病か否かを決定する。でも情報化が進んだ現代は、大量な無意識がどんどん情報空間に流れ込んでるんで、意識的であること、精神の健常者であることは、リテラシーの基準を自分の中に設定して茫漠たる情報の海を渡っていく、という事態を指す。けど、それは簡単なことではない。ロジック的には主客転倒するような言い方になるけど、その”無意識的”な不安感や危機感が、夢を題材にした映画の量産に拍車をかけている”現実”がある。そういえば”セカイ”のタケシも『TAKESHIS&amp;#39;』なんて虚実の臨界点を突き詰めた映画を撮っていて、やっぱりこういう映画がぼくは好きだったりする。で、セカイ系の話を簡潔に纏めると、情報氾濫によって、自分／セカイの区分の文節が曖昧化したことで、自己承認と世界秩序の回復が一致する、という奇妙な世界観が生まれた、と言える。って、いつまでたっても『パプリカ』の話にならないようだけど、いや、ちゃんと繋がっている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;『パプリカ』の原作は筒井康隆で、最近は筒井康隆原作の映画化が多い。まず思い起こされるのが、細田護『時をかける少女』で、本年度アニメNo1の呼び声が高い傑作だ。『時をかける少女』は、いろいろ見どころが多いのだけど、最終的には、セカイ系でなかったところが評論家筋の支持を集めたのだと思う。主人公である女子高生は、自分の秩序を回復するために頑張るわけだけど、それは世界の秩序と交わらない。世界の秩序が優位にあって、少女の願望は打ち砕かれる。と言って後ろ向きなのでなく、少女から大人へ、というイニエーションをきちんと描いていて、淡い恋愛物語もきっちり決めている。ぼくも大好きな映画である。そんなことはいいから、『時をかける少女』より『パプリカ』の話を早くしろ、と言われそうだが、実はもう始まっている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さて『パプリカ』に関しては、思うに、セカイ系かどうかって、どうでもいいんじゃないのって思う。え！　じゃ、今までの長い前振りは何だったんだ？って話になってしまうけど。セカイ系という批評軸は、大きな社会学や文化論の観点に立った時に議論されなければいけないテーマだと思うけど、個人的な鑑賞については、実はどっちでもいいと思ってる。というのも、セカイ系の議論は下手をすると、ハッピーエンドで終わるのかどうか、みたいな結末の仕方に必要以上の議論が集中してしまうからだ。一般的には、どういうエンディングを迎えるか、ってことがけっこう重要らしく、『グエムル』の少女が死んだから『グエムル』はセカイ系じゃない、個人よりも世界の厳しさに焦点を当てている、とか、そういうのって、けっこう貧しい議論だと思う。エンディングなんて、ファンサービスの次元の問題であって、そこに至る過程の面白さに比較したら、もうどっちだっていいじゃないかって思う。ただ肝心なのは、ラストでなく過程に貫かれている世界観の立ち上げ方であって、それが安直な個人秩序と世界秩序の連動という形を取っているなら確かに問題かもしれない。その点、『パプリカ』は微妙な点を残している。ラストへの持って行き方もやや強引だ。というか、『パプリカ』の面白さは、物語がどう、ということじゃなくて、もっと単純に、今敏監督が、楽しんで絵を描いているな、っていう感覚が全面に漲っているのがいい。ぼくはまだ原作を読んでないけど、かなり物語は捨象して、絵それ自体の面白さを優先させたらしい。確かに、物語や細かい設定はよく分からないが、夢の中でだけ可能な、ダイナミックな連想的場面展開、その思い切ったテンポの速さと発想の飛躍に面白さがあった。主人公パプリカと、その正体の女科学者の分裂したキャラ設定は、萌えを期待する層をがっつり取り込む魅力に溢れている、とも言えるだろう。物語を語るための絵じゃなく、絵を見せるための物語、という割り切りがハッキリ感じられ、今敏のエンターテイメントに特化させた潔さとクールさに比べれば、セカイ系の議論なんてどうでもいいように思えてくる。あとサントラもいい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/42993384.html</link>
			<pubDate>Thu, 07 Dec 2006 00:56:54 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>『小説の誕生』 保坂和志</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-aa-ac/sunno3459/folder/467456/69/42864669/img_0?1165423650&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_500_500&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;『小説の自由』に続く保坂和志の文芸批評。保坂自身は、「この本は文芸批評でなく、小説そのものである」と言っているが、その発言には疑問が残る。これは確かに普通の文芸批評ではないが、小説と言い切ることもできない気がする。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;いずれにせよ、読みでのある分厚い本だ。確かに保坂自身が&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ソフトカバーであるにもかかわらず、このように自力で立つ！！&lt;br /&gt;
「一晩で読んだ」「一気に読んだ」などと言わせない。&lt;br /&gt;
それなのに税込み１９９５円&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;と宣伝（？）してるように、絶対に一晩では読めない難渋な一冊である。ぼくも多忙にかまけて2ヶ月くらいかけて読んだ。ただ、『小説の自由』から継続して保坂が考えている様々なテーマ群が深化しているかと言えば、そうとも言い切れない。ミシェル・レリス、レーモン・ルーセル、ピエール・クロソウスキー、ニーチェ、荒川修作、はたまたゴダールから膨大な引用をするが、テーマ群を深めたり、答えを導き出すというより、その周辺をウロウロしながら考察を続けていく、という保坂ならではの特異な粘り腰体質そのものを扱った本ともいえる。ぼくは保坂の本をずっと読んできて、答えを出すのでなく、その周りを巡り続けることそのものが重要である、という姿勢にけっこう説得されている。でもそういう態度が保証され、積極的に肯定される背景には、もともと答えを出したい、という強い願望が必要なので、一見すると矛盾した態度であり、煮え切らない態度でもあり、そこが、読者が保坂を受け入れるかどうかの分岐点になる。&lt;br /&gt;
ぼくとしては、保坂がこういう本を書くことで、いわば小説家・保坂のプロデューサーを自ら任じていること、それが功を奏している事態を、本当にいいことだと肯定する。と同時に、一種の危険性も感じる。保坂という人は、先日他界された巨人・小島信夫の系譜に繋がる、いわば変人である。文章に流れ込んだ保坂の思考形態・身体性は、連想と唐突さに満ちていて、小島譲りの珍品だ。ただ保坂は小島信夫より要領が良いので、自分を客観視しながらプロデュース作業もできている。というより、そうしなければいけないほど今の文学界の空間は貧しいとも言える。ともかく、小説家・保坂とプロデューサー・保坂という二束のワラジを履いた状況で、どちらに重点を置くのか、そのバランスが重要になってくる。冒頭に掲げた本人の発言「この本は文芸批評でなく、小説そのものである」という言葉は、保坂が小説とプロデュース作業を同質の仕事として取り組んでいることを語っているが、読者としてはやっぱり保坂の純粋な小説を読みたい。それは多分、けっこう皆が期待してると思う。保坂は今後も、1～2年くらいかけて、『小説の自由』『小説の誕生』の続編に当たる三作目を執筆するのだろう。生前、小島信夫も『私の作家評伝』という3部から成る大作文芸批評を執筆していて、その異色の出来栄えは伝説になっている。ぼくも図書館から借り出してきたが、2冊読み終えたところで断念したほどの凄まじい出来栄えであった。保坂が手がけている今のシリーズは明らかに小島信夫の作家評伝シリーズを意識したもので、3部という数字にもこだわりがあるのだと思うし、この時期に保坂が、自分の批評の集大成に取り組んでいる姿勢はやっぱり肯定しなきゃいけない。ただ小島信夫は、作家評伝シリーズを書きながら小説も同時に書き続けたのだが、保坂にはそういう器用さというか、メチャクチャさがないと思うので、基本的に批評一本槍になってしまう。その間、小説家・保坂の作品を読めないことに不満を持つとしたら、良心的な保坂ファンとは言えないのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/42864669.html</link>
			<pubDate>Sun, 03 Dec 2006 09:31:44 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>『マイアミ・バイス』 マイケル・マン</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-aa-ac/sunno3459/folder/560710/19/39750819/img_0?1157655353&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_300_142&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;a href=&quot;https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/aa/ac/sunno3459/folder/560710/img_560710_39750819_0?20060907071421.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/aa/ac/sunno3459/folder/560710/img_560710_39750819_0?20060907071421.jpg&quot; alt=&quot;https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/aa/ac/sunno3459/folder/560710/img_560710_39750819_0?20060907071421.jpg&quot; border=&quot;0&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;来ました、今年一番ツボにはまった映画。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;うまく言えそうにもないけど、すごく新鮮な触感にあふれた映画だ。&lt;br /&gt;
監督は、闘う男の美学を描かせたら右に出る者なし、と評されるマイケル・マン。代表作『ヒート』、『コラテラル』。&lt;br /&gt;
ＣＡＳＴも豪華。マイアミ警察特捜課（バイス）の刑事コンビを演じるのは、人気・実力ともにうなぎ上りのコリン・ファレルと、『Ｒａｙ/レイ』でアカデミー主演男優賞を獲得した黒人俳優・ジェイミー・フォックス。そしてマフィアの愛人を演じるのが『ＳＡＹＵＲＩ』の国際派女優コン・リー。&lt;br /&gt;
この映画の美点はたくさんあり、それぞれ離れがたく結合してるので、順を追ってひとつずつ列挙していこう。まず最初に、ロケ地・マイアミの美しさを最高の形で映像化した撮影の功績だ。本作はフィルムをほとんど使わず、高解像度のＨＤビデオ・カメラを用いている。基本的にＨＤカメラはスタジオ向きとされているから、自然を撮るにはかなり異例の選択だ。しかしこの作品を観て、これまで旧態依然としたフィルム愛好家を気取ってきたぼくは、ついに目を開かせられた。フィルムの良さは今さら言うまでもないけど、まさかＨＤカメラがこれほどまで空気の質感をニュアンス豊かに切り取るとは……。マイアミなら断然フィルムで観たいって普通は思うでしょ？　でも、違うんだなぁ。熱帯地方の湿り気、熱気、立ち上る入道雲、海、空の透明感を、「クール」に映し取る。フィルムというのはどこか素朴で、疑いを知らない純真さというか、そういう美学が根っこにあるような気がするけど、逆にビデオの美学には、感情すら情報化してしまうクールさが根っこある。そんなクールな肌触りの映像が、ヒリヒリした暴力の世界に生きるクールな男どもと、ヘミングウェイが愛した雄大な自然美とを奇跡的な回路で接続させてしまう。この思い切ったフォーマットの選択に、マイケル・マンの計り知れないセンスの良さを感じさせられる。&lt;br /&gt;
そして、役者もすばらしい。コリン・ファレルにジェイミー・フォックス。二人は潜入捜査、つまりオトリ捜査の刑事として、巨大なマフィアの内部に潜っていく。もともと優秀な刑事という設定だが、オトリ捜査をする際に一番重要なのは、相手に自分が刑事だと一瞬たりとも気取られないこと。つまり、自分の属性＝刑事というのを完璧に封じ、本物の悪党になりきなければならない。本物の悪党とはどういうことか？　単に目つきや態度を悪くすればいいという単純なことじゃない。もっと本質的に、体の内側から滲み出てくるワルの雰囲気が求められる。ワルは、なによりワルを見抜く目を備えている。動物の本能に根ざした目だ。その目の前では、生半可な演技は通用しないだろう。映画と違って、リテイクもきかない。もし演技をしそこなえば、その場で殺される。そういうヒリヒリした緊張感が、これまたＨＤカメラが捉える生々しい空気感も手伝って非常に強く伝わってくる。そうした状況におかれたコリン・ファレルとジェイミー・フォックスなのだが、肝が座った本物のワルの雰囲気をいかんなく発揮し、映画内の敵を欺くと同時に、映画外の観客をも大いに納得させる。歩き方ひとつとっても、獣じみており、たいした存在感なのだ。本物のワルを演じるなら、やりすぎぐらいがちょうどいい。だから結局、彼らが潜入捜査の刑事だとバレる原因が、「やつらはデキすぎる。なにか臭いぞ」という、発想の逆をいくものであり、しかもそこに説得力がある。マフィアの愛人役として登場するコン・リーもすばらしいが、コリン・ファレルとジェイミー・フォックスの存在感の強さの前では、なかなか対等というわけにいかない。だからこそ、コリン・ファレルになびくコン・リーには、女のサガに負けたのだな、という力学的な説得力がある。あと、黒人女優ナオミ・ハリスもいい演技を披露してた。ジェイミー・フォックスとのセックス・シーン、重なり合う黒い肌の未知なるエロス。&lt;br /&gt;
美術のすばらしさも挙げておくべきだろう。もともとのＴＶシリーズがそうだったらしいのだが、刑事らが使う車、船、飛行機といった乗り物が、とんでもなく豪華。現実の世界ではそんなことありえないのだろうが、やはり映画ではこういうアイテムが生きてくる。『ＭＩ３』でも、スポーツ・カーを乗り回すマギーＱが印象的だったけど、あれはどこか、単なるスパイ・アイテムとして登場するだけなのに対して、マイアミ・バイスに登場するスポーツ・カー、パワー・ボート、小型ジェットといったモンスター・マシーンの数々は、非常に有効的に作品の世界観に貢献している。これらのアイテムが、なによりまず、ヘミングウェイが愛した広大な自然の美しさを最大限に引き出すリゾート・マシーンとしての役割を大きく負っていることに注目すべきだろう。と同時に、レオス・カラックス『汚れた血』で、モトクロス・バイクにジェリー・デルピーをニケツさせながらぶっ飛ばし、「疾走する愛を信じるか？」と言ったドニ・ラヴァンの、寡黙性と凶暴性が激しく屹立した感覚を彷彿させるのだ。寡黙で気障な男の美学とでもいうのか。ついでにもうひとつ言い忘れていたことを付け加えると、けっこう夜のシーンが多くて、夜の道路や、夜の海を、そうしたモンスター・マシーンで疾走するわけだけど、これまた、ＨＤカメラが効果的に働いている。フィルムとＨＤの違う大きな点は、やっぱり夜のシーンなんじゃないか。港から運河をパワー・ボートでさかのぼっていく場面（参照：写真）、港湾に灯る光、ボートのコクピットに光るコンソールの計器の数々、それらの質感がなんとも艶かしい。そう、コンソールの計器に光る、赤や青の光が、こちらの感性に未知なる触感で迫ってくる。なぜかって言うと、暴力、自然美、といった言わばアナログな価値観を、ただ単にむき出しに見せるというのでなく、クールな理性というチャンネルをいったん通してることの象徴性として、これら計器の光は、画面の隅々で静かに光っているわけだ。ここにおいて、ＨＤカメラというフォーマットを選択したマイケル・マンの一貫性に深く納得させられる。こういう細部の提示の仕方に、なにか現代的で新鮮な触感を感じさせられるのだ。&lt;br /&gt;
最後の銃撃戦は、映画史上最長の銃撃戦（12分間）と言われる『ヒート』を上回るものらしいが、その激しさよりも、銃撃戦が開始されるまでの場面の作り方が面白かった。警察側とマフィア側が銃を構えて対峙し、その間をブツと人質のコン・リーとが交換される。その交換される場面の緊張がピークを迎えたときに最初の銃声が響く。これは、西部劇の決闘シーンと全く同じ場面の作り方だろう。だがこの場面は、上記したような、フィルム的、牧歌的なものでなく、どこまでもクールなＨＤ的感性として立ち上がってくる。&lt;br /&gt;
で、最後にもう一個だけ。音楽もよかったな。冒頭のクラブのシーンで、いきなり流れてるのがジェイ・Ｚ＆リンキン・パークの”Ｎｕｍｂ/Ｅｎｃｏｒｅ”。作品のイメージをいきなり決定付けるクールなサウンド。&lt;br /&gt;
この映画は、地球からの恩恵、マイアミという雄大な自然を最高形で見せるため、極めて精緻に設計されている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/39750819.html</link>
			<pubDate>Thu, 07 Sep 2006 03:30:52 +0900</pubDate>
			<category>その他芸術、アート</category>
		</item>
		<item>
			<title>『グエムル～漢江の怪物～』。</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;『グエムル～漢江の怪物～』は、『殺人の追憶』のポン・ジュノが撮ったモンスター・パニック映画。ちょうどこの前ソウルに行ってきてばかりで、市内の中央を流れる大河、漢江（ハンガン）を目の当たりにしてきただけに、なるほどと実感できる部分も多かった。漢江はソウルのセーヌ河なんぞとも言われるようだが、大都市を貫く大河を映画の舞台にできるのは特権的な幸せであり、東京人にとっては羨ましい限りだと思った。ジャンルは違えども、本場セーヌを舞台にした『白夜』とか『ポンヌフの恋人』もしかりである。東京の場合、河川があるにはあっても、残念ながら新宿なり銀座なりといった中央部を横切るとまではいかず、江戸の頃にはけっこう盛んだったらしい川岸の文化というものがない。多摩川といっても、せいぜい「タマちゃん」とかいう奇妙な生物が散発的に出没するだけで、とてもグエムルのような怪物を生み出すスケールはない。しかしポン・ジュノという監督、『殺人の追憶』のようなシリアスな映画を撮ったかと思えば、今回のようなコミカルなパニック映画も撮ってしまう器用な人で、ともかく場面の構成力と演出力に安定感がある。こういう韓国映画を観てしまうと、早く日本映画も盛り上がってほしいと切に思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/39645548.html</link>
			<pubDate>Mon, 04 Sep 2006 15:59:01 +0900</pubDate>
			<category>その他芸術、アート</category>
		</item>
		<item>
			<title>『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;『パイレーツ～』は、ジョニー・デップ、オーランド・ブルーム、キーラ・ナイトレイの3人を軸に展開する海賊アクション大作。この映画は前作も含め、ジョニー・デップ扮するジャック・スパロウ船長の立ち位置が絶妙。ハリウッド映画の場合、役者の人気の高さがそのまま物語における役割のウェイトに反映する。本シリーズでも断然ジョニー・デップが主役を演じるのかと予想される。だが、メインストリームのドル箱映画より作家性の強い佳品を好んできたこれまでのジョニー・デップのフィルモグラフィがそうであるように、本シリーズの中でも、物語の中心から微妙に外れたところで、何とも味わい深い役柄を演じている。オーランドとキーラは、基本的に二人一組でロマンスを展開するわけだから、物語としてブレないわけだけど、なにやらデップはその脇でチョロマカしてる印象。でもそれがすごくいい。ところでキーラ・ナイトレイだが、ウィノナ・ライダーの正統派後継者（？）なんぞと言われるだけあって超絶美女だ。頭はよくないかもしれないが。すっかり気になってしまい、ゴシップ記事などネット検索してみたら、なんでもアカデミーにノミネートされてから急に傲慢な態度をとるようになった鼻持ちならぬ女優などと書かれており、現場スタッフからはキーラ・ナイトメア（悪夢）と恐れられているらしい。しかしそんなゴシップも、ハリウッドというショー・ビジネスの世界ではむしろ頼もしいぐらいであり、さっそく大女優の片鱗を覗かせているとも言えるだろう。そんなキーラのように、実力や人気度がそのまままかり通るハリウッドのシステムの中で、デップの立ち振る舞いは知的で反体制的であり、清々しい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sunno3459/39645510.html</link>
			<pubDate>Mon, 04 Sep 2006 15:57:47 +0900</pubDate>
			<category>その他芸術、アート</category>
		</item>
		</channel>
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