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こんにちは〜♪
土曜日は久々に、去年受け持ったクラスの生徒が遊びに来てくれました。
今春、中学受験をし、みごとに栄冠を勝ち取った男の子。
もともと身体の大きい子(170cmくらいあった!)でしたが、さらに10cmくらい伸びた感じで、「何だかずいぶんお兄さんになったのねぇ」と、非常に感慨深いものが。。。
ぽっちゃりした顔も、少し頬がそげたようで、子供から少年に鮮やかに変化していました。
さて。
以前、記事にした「百人一首」ですが。
これを、1首ずつ記事にしてみようかな?などと思ってしまった次第です。
なぜならば。
最近のテーマが、「変化」だと思うから。。。(ま。ネタ切れも当分起こることはなさそうですし)
自分ももちろんですが、何となく皆さまも、社会も、世界も。
(キムタクも「CHANGE」だし。。。)
「百人一首」の成立についても、もともとの選者である藤原定家(1162−1241)の選んだものと、現在伝えられている『小倉百人一首』とでは、相違があります。
有名なところでは、最初に後鳥羽院(99)や順徳院(100)の歌は入っていなかったそうなのです。(当時はお二方とも、承久の乱で遠島配流の身の上でしたから。。。)
これらは、息子の為家の代になって補訂されたというのが、学者の通説です。
また、細かいところでは歌詞に変化が生じているものもあります。
そして、これが一番肝心なのですが。
「百人一首」の描き出しているもの・・・〔四季のうつろい〕や〔恋心〕です。
これらは、微細な変化にも敏感にならなければ、決して和歌(うた)に昇華することはできなかったと思うのです。
【「百人一首」の成立】
『名月記』(定家の漢文日記)によれば、息子為家(ためいえ)の舅から、別荘の障子(現代のふすま)を装飾する色紙に、古来よりの秀歌を100首撰び、したためるよう依頼された、と記述されています。
今でも、由緒あるお宅に伺うと、そのようなふすまを見かけますね。
全然、関係ないのですが。
横溝正史氏の「獄門島」の殺人事件のモチーフにも、和歌を書いた色紙を張った枕屏風がでてきていたような。。。
ま。当時の貴族の流行のインテリアが、発祥だったというわけです。
それにしても。
いいアルバイトになったのでしょうね。
世は、すでに武士の時代。
文化の担い手としてしか、貴族の生きる道がなくなりつつあり。。。
「芸は身を助く」。
やはり、現代のわれわれも、何かひとつくらい「一芸」に秀でているべきなのでしょうね。
最近、勝手に私淑している【わかりすぎる55_55さん】(元祖カリスマ英語講師。井川治久先生)の記事にもありました。
「1日に1語ずつでも覚え続ければ、どんな先生にも勝てる」。。。
そうです♪
過ぎ去った1日1日は取り戻せないにしても。
これからの1日1日は、まるで白紙状態のまま、何か書き込まれることを待っている。。。
そう思うと、何だかワクワクしてきませんか?
最後に。
『今日は、明日より若いんだよ!』
恩師の言葉。
「もうトシだしぃ〜♪」とか言って、現実逃避を目論んでいた私に喝を入れてくれました。。。
ではでは。
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