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もう20年以上前のことになる・・
定例の勉強会が終わり定宿のホテルまで車で送った時のことだ。
話の流れの中から先生に聞いた、
「念仏者とはどんな人なんでしょうね」と
先生はしばらく黙った後、こう答えられた。
「出会うと、そんな人に自分もなりたいと思わせる人でしょう」
馬鹿な私にわかるように言って下さったのだろうと思う。
何か教学の話を答えられるだろうと思っていたから驚いた。
ずっとその言葉が頭にある。
貴方はどう受取られるだろうか。
単に人間性の話ではないだろう。
よく教学と声明は両輪だといわれる。
それはいわば「知識」と「技術」だ。
その二つをどれだけ深めてみても宮城先生の答えにはならない。
その二つを支える、あるいはその二つを包み込んだ生き方そのものなのだと思う。
たとえば親鸞が越後や関東に移った時に出会った人々に対して上段に構えた説き方をしただろうか?
それでは誰も寄りつかない、心を開かない。
当時、穢れ多きもの・悪人と思われていた人々の中に微笑みながら、優しい眼差しで、
自ら田畑に手伝いに出かけ、あるいは魚の取り方の教えを受け、ただただひた向きに生きただけだろう。
その姿に人が集まり、その生き方の根っこを問うたと思う。
どうしてそんな自由で腹の据わった生き方ができるのだと。
「出来ることなら自分もお前のように生きたいと願う」
そう言ったに違いない。
笑い、泣き、何者にも媚びず、恥じず、大らかに凡夫の身を胸を張って生きる姿。
そんなことを思う。
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「妙好人」を思いだしました。念仏者は「妙好人」になっていけのではないかと感じました。
2010/12/7(火) 午後 1:59 [ 竹光侍2008 ]
確かに妙好人ですよね。自分の愚かしさに立てばいいだけと思いながら、立てない自分がいる・・。
2010/12/8(水) 午後 3:26