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最近「自分らしい葬儀」なんてことがマスコミで語られる。
私の周りの坊主達はだんまりを決めているかのように何も言わない。
元々は葬儀費用が高過ぎるという批判から散骨だの直葬だのと言われるようになり、今の「自分らしい葬儀」という流れにつながっていると理解している。
好きだった花に囲まれ、自分の好きな色に包まれ、自分の好きな人達に送られる。
たとえばイーグルスの「エスぺラード」が流れるなか出棺するのも悪くはないけれど、どれだけ好きなものを集めてみてもそこに自分はいないから仕方がないし、どこまでも中心は自分で個人性を超えようという視点は微塵もない。
大事なことは仏教儀式としての葬儀をするのか、通過儀礼としての告別式をするのかである。
通過儀礼の告別式なら思いつくまま好きなようにすればいいのである。葬儀屋さんと綿密に打ち合わせをすればたいていのことは出来るだろう。それはそれでありだと思う。
ただそこには坊主はいらないし、呼ぶ必要もない。風景としてまたBGMとして坊主がいるなら誰かに坊主の格好をさせとけばそれでいい。坊主はただお布施目当てに出かける必要はない、そんな最低限のプライドくらいは持ってもいいだろう?坊主は食わねど高楊枝である。仏事としての葬儀を依頼されたらタダでも行く気概を持て。それが真宗の坊主じゃないか?
祭壇は時代によって変わり続ける、その中で何を中心にするのかがハッキリすればいい。
簡単に言うと真宗の葬儀は「正信偈」で亡き人を送る、それだけである。
中心になるもの、それがわかればいらないモノが見えてくるはずだ。
葬儀という仏事を司る人を「導師」と呼ぶ。誰が導師をするかといえば亡き人の手次寺の住職である。
手次寺の住職は門徒の仏事の執行権を持つ。この関係を門徒制度と呼ぶのであるが平たくいえば所属である。まぁ最近はユルユルのグズグズにはなって来ているのだけれど。
この関係の元になっているのは「寺請制度」(檀家施度・寺壇制度ともいう)であるが、それは、
1664年(寛文4)に江戸幕府がキリスト教や日蓮宗不受不施派を禁制とし、信徒に対し改宗することを目的として制定し制度としとものである。仏教の壇信徒である証明を寺院から請ける制度で、いずれかの寺院を菩提寺として定め、その檀家となることを義務付けされた。寺院では今の戸籍に当たる宗門人別帳が制作され、旅行や住居の移動には証文(寺請証文)が必要とされた。宗門人別帳から名前が削除されると無宿(帳外)となり野非人(無宿非人)として扱われる。
封建時代において常人が非人に落とされるということは死刑宣告に近い。
当時非人に3種類の区分があり、
1、代々の非人素性の者・・非人頭が支配する非人小屋に属し、小屋主の配下に編成される。
2、非人手下(ひにんてか)という刑罰で非人になる者・・犯罪による非人への身分移動。非人頭に身柄が引き渡され完了。
3、野非人・・非人組織に属さないままの浮浪状態にある者。経済的困窮などにより欠落(かけおち)し非人化し取締りの対象となる。また勘当を奉行所が許可した場合は人別帳から外される。
天明の大飢饉(1782−88、天明2−8)以後無宿者が大量発生し江戸に流入したため、無宿者を捕らえ佐渡金山の水替人足とした。遠島刑の流人は島流し、水替人足は島送りと呼び区別した。
江戸期の関東では関八州穢多頭の浅草矢野弾左衛門の支配下に入り、江戸には
浅草の車善七、品川の松右衛門、深川の善三郎、代々木の久兵衛、木下川の久兵衛の5名の世襲の非人頭が置かれていた。
このような背景から江戸初期において葬儀・法要を手次寺を呼んで勤めるという習慣が出来る。旦那寺は所属の信徒に人別帳を持つ特権で支配を確立した。
これをを未だに引きずっただけの門徒制度なら仏事としての葬儀はいずれ消えていくだろう。
さぁ、何から始めればいいのだろうか・・・。
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布教に熱心なのは「カルト」ばかりですし、辻説法も大概「カルト組織員」でしょ
なんちゃって門徒の私も分からぬ事ばかりですし…他の人達はもっともっとだと思います。≧θ≦
2010/12/17(金) 午後 8:56 [ 竹光侍2008 ]
難しいです。信仰心なんてのは大仰に考えずに、皆が気持ちの中に持ってる価値観みたいな、こだわりみたいなものでないのかなって。何もキリストさんや釈尊さんと無縁でもかまわない(笑)
2010/12/17(金) 午後 9:24