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日本にキリスト教が伝来したのはいつか?
戦国時代のさなか、1549年のことであり、カトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教である。ということは日本史で習ったから多くの日本人は知っているはずですね。 ポルトガルの国の人だったんですね。 という前置きを述べておき、本題に入ります。 そのポルトガルが、原発の無い国へ挑戦しているという東京新聞の記事です。 <原発のない国へ>
再生エネ100%達成 ポルトガルの挑戦
ポルトガル北部、スペインとの国境に近いアルト・ラバガン・ダム。
水力と太陽光発電を組み合わせた世界初の試みだ。
「変電施設が一つで済む。
環境への負荷を減らすことこそ、再生可能エネルギーを進める上で重要です」。
ポルトガル電力のルイ・テイシェイラ執行役員が強調した。
再生エネの複合システムは二〇一六年十一月末に完成した。
年間発電量は水力が約二万八千四百戸分に相当する八五・二ギガワット時、太陽光は百戸分の三百メガワット時を生み出す。
仏シエル・テール社製のパネルは防水機能があり、プラスチック製のフロートは耐用年数二十年で再利用もできる。
こうした取り組みを重ねた結果、ポルトガルは今年三月、全人口千三十万人の月間消費量の100%相当を再生可能エネで生み出すことに成功した。
◇
日本政府は四年ぶりに決定したエネルギー基本計画で、二〇三〇年度の全電力量に占める再生エネの比率目標を従来通り22〜24%に据え置き再生エネ導入が急速に進む世界との差があらためて鮮明になった。
四〇年までに再生エネ100%化への完全移行を目指すポルトガルの現場を歩いた。
(ポルトガル北部ポルトで、竹田佳彦)
太陽と水 組み合わせ
水力と太陽光発電を組み合わせたポルトガル北部のアルト・ラバガン・ダムの発電設備。
太陽光パネルを水面に置く効果は高い。
パネルの冷却効果で、地上に比べて発電効率は4〜10%上昇。
湖面から水分の蒸発を抑え、水力発電の敵となる藻類の繁茂も抑えられ、「農業用地も奪わない」(仏シエル・テール社のカミーユ・マルリエールさん)。
水力発電所に併設したため、太陽光用の土地開発や送電施設も必要なく、投資総額は四十五万ユーロ(約五千八百五十万円)で済んだ。
ポルトガル電力関連会社の事業責任者ミゲル・パテナさんは「太陽光パネルのおかげで、電力需要に合わせて水力発電の放水をしなくて済む時が出てくる。
その分を次回の発電に取っておくことができます」と解説する。
再生可能エネルギーは天候や季節に左右されやすい。
複数の発電源が補完的に働くことによって、電力をより安定的に供給できる。
ポルトガルでは第二次大戦後間もなく原発の研究が始まった。
実験施設の建設は一九五〇年代から進み、五九年には国内最大規模のウラン鉱床が見つかった。
だが、アンゴラ、モザンビークなどアフリカの植民地の独立戦争に追われ、経済は疲弊。商業炉建設は進まなかった。
長く続いた独裁政権が七四年に軍事クーデターで倒れると、二年後に初めて公表された原発建設計画に対する反対運動が一気に広がった。
七九年三月の米スリーマイル島原発事故で反対運動はさらに拡大。
原発はタブー視され、政府も石油や天然ガスの輸入に頼らない国産エネルギーとして、南北に長い海岸線を生かした風力や水力発電を進めてきた。
今年三月には、国の全人口約千三十万人の月間消費量の100%相当を再生可能エネルギーで生み出すことに成功。
例年は風力が24%、水力が25%程度だが、四倍近い降水量をもたらした暴風雨がそれぞれ42%、55%に押し上げた。
年間日照時間が日本の約二千時間程度に比べて格段に長く、二千五百〜三千時間とされる太陽光にも期待がかかる。 非原発を求める国民の声も大きい。
隣国スペインには原発計七基があり、うちポルトガル中部との国境近くにある原発には、たびたびポルトガルの市民団体が抗議に訪れる。
北部の街ポルトで働くラケル・エイラスさん(27)は「事故が起きたら、スペインだけの問題じゃない」と懸念を示す。
「世界で事故が起きているのに、安心なんてできない。
イベリア半島から無くしてほしい」
一方で「電気代が高い。少しでも安くなるなら原発でも構わない」との声も。
リスボンの下町でクラスパウラ・フェルナンドスさん(52)は「原発を持ってないなんて知らなかった。
生活が厳しいから、少しでも安くなれば」と漏らす。
ポルトガルは二〇一一年、財政危機に陥り、欧州連合(EU)に金融支援を要請。その後、財政再建を進めて立ち直りつつあるが、家賃や光熱費、食費などが軒並み上がり、「原発なら安い」と信じる住民も多い。
だが、ポルトガル電力のテイシェイラさんは「原発は高い」と言い切る。
「建設や解体、極めて長期間になる放射性廃棄物の管理など、維持費は膨らみ続ける。原発を放棄した選択は正しかったのです」 ◆
改めてポルトガルを見てみましょう。
そして日本とポルトガルの繋がりがいつ頃だったか見てみましょう。
織田信長の時代であり、それを今の織田信成くんに期待しても無理なことは分りますが、単に宗教上の違いで片づけるわけにはいかないようです。
仏教文化の中で考える生命とキリスト教文化で考える生命には基本的な違いがあるようです。
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昨年5月29日、安倍首相の茶坊主と言われるジャーナリストの山口敬之氏に「レイプされた」と主張するジャーナリストの伊藤詩織さん(28)が、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、山口氏を不起訴処分とした東京地検の判断を不服として、検察審査会に審査を申し立てたことを明らかにしました。
2015年4月、山口敬之氏に「レイプされた」とする伊藤さんは、警察に被害届を出し、警察も山口敬之氏の逮捕準備をしていましたが、土壇場になって逮捕が見送られ、山口氏は書類送検されたものの、2016年7月、東京地検は最終的に嫌疑不十分で不起訴としたとのことです。
この経緯について、被疑者の山口敬之氏が安倍首相の茶坊主であったために、警察・検察が安倍首相の気持ちを忖度して動いたことにより、山口敬之氏が逮捕もされず、不起訴処分になったのではないかと取り沙汰されています。
この、山口敬之氏の逮捕にストップをかけた人物として、当時、警視庁刑事部長だった中村格氏の名前が挙がってきました。さらに、元経済産業省官僚・古賀茂明氏が、著書『日本中枢の狂謀』(講談社)で明かすところによれば、中村格氏は、第二次安倍政権発足時の菅義偉官房長官の秘書官であった時にも、『報道ステーション』の「古賀氏降板事件」にも関わっていたようです。
伊藤さんの申し立てを受けた東京第六検察審査会の判断が注目されましたが、同審査会は、昨年9月23日に「不起訴相当」とする議決を公表しました。信じられない話です。
この「不起訴相当」とする腐った議決を受けて、伊藤詩織さんは、山口敬之氏を相手取って、東京地裁に民事訴訟を起こされ、さる12月5日に同地裁で初公判が行われましたが、山口敬之氏は出廷しなかったようです。往生際の悪いこと、この上もありません。
この「レイプ事件」について、日本の大手メディアは一切報じませんが、ニューヨークタイムスやBBCなどの海外メディアは取り上げています。
日本の大手メディアと司法は腐っています。
アメリカの男性向けファッション・カルチャー雑誌『GQ』の日本版『GQ JAPAN』が、伊藤詩織さんへのインタビュー記事を掲載していますので、御紹介します。
■以下、『GQ JAPAN』の記事の転載(コピペ)です。写真は一部を除き、割愛させて頂きました。
CULTURE
2018.06.23
Shiori Ito’s ”#MeToo” Struggles Continue
伊藤詩織さんにインタビュー──たたかいはつづく【前編】
「#MeToo」運動が世界的なひろがりを見せるなか、この国でも徐々にではあるが確実に、さまざまな種類の性暴力にたいする告発の動きが活発になっている。ここに登場する伊藤詩織さんは、堂々と顔と実名を出して、去る大物男性ジャーナリストの、かの女にたいする性暴力を告発した。この「事件」をめぐっては、いったんは逮捕状が発令されたもののそれは執行されず、刑事事件としては不起訴が確定している。しかし、詩織さんは、「意識を失っているあいだに望まない性行為をされた」ことによってこうむった肉体的・精神的な苦痛にたいして慰謝料を支払うように要求、民事裁判をたたかいつつ、「#MeToo運動」も展開している。ロンドンを拠点にジャーナリスト活動をするかの女が4月に来日した機にインタビュー取材した本誌編集長が、「事件」のあらましをあらためて跡付けるとともに、詩織さんの現況を訊いた。
文・鈴木正文(GQ) Photos: Eric Micotto Styling: Kaz Ijima @ Balance Hair & Meke-up: Motoko Suga
2つの「銀賞」を受賞する
まずは朗報から。
4月10日、ラスヴェガスで行われた国際的なメディア・コンクールである「ニューヨーク・フェスティヴァル」の2018年度の優秀作品発表・授賞式で、伊藤詩織さんが2つの部門で、めでたくも「銀賞」を受賞した。
「ニューヨーク・フェスティヴァル」は、テレビ時代が本格的に花開いた1957年にアメリカではじまったもので、テレビ番組、映画、広告、インターネットなど、あらゆる映像作品を対象にした世界的なコンクールとして名高い。各国から選出された放送関係者などからなる審査員による2度の厳しい審査を経て、金賞・銀賞・銅賞が授与される。
銀賞その1は、日本社会の孤独死を扱ったシンガポールのテレビ局「チャンネル・ニューズ・アジア」制作の『Lonely Deaths』(孤独な死)にたいするもの。「社会問題部門」でのエントリー作品であったこの1時間のドキュメンタリー・フィルムを企画し、監督したのが伊藤詩織さんだ。その2は、「スポーツ・娯楽部門」にカタールのテレビ局「アル・ジャジーラ」がエントリーした30分弱のドキュメンタリー・フィルム、『Racing in Cocaine Valley』(コカイン谷のレース)で、ここではかの女はカメラマンを担当した。ちなみに、コカイン谷とは、ペルー最大のコカ(コカインはコカの葉から抽出できる)の産地。そこでの毎年恒例の一大イベントであるオートバイ・タクシーを使ってのレースに出場する若者に密着したドキュメンタリー作品で、スポーツ・娯楽部門であったとはいえ、ペルーの人々にとってのコカの、欧米社会におけるコカインとは異なる文化的意味を浮かび上がらせた佳作である。
というように、かの女はフリーランスのジャーナリストおよびドキュメンタリー作家としてすでに独自の地歩を固めるにいたっている。襲いかかったいわれなき困難に打ちのめされ、翻弄されたにもかかわらず、打ちのめされきらず、翻弄されきらずに、みずからが立てたジャーナリストとして生きるという志の旗を降ろすことなく、いっそう高く掲げている。そんなかの女とかの女の才能が、ラスヴェガスで祝福されたことを、まずよろこびたい。
"突然なんだか調子がおかしいと感じ二度目のトイレに席を立った"
「事件」と、その後先
伊藤詩織さんが編集部を訪れたのは、この「ニューヨーク・フェスティヴァル2018」の授賞式への出席のために、アメリカに旅立つ前日の4月8日のことであった。このときはまだ、2つの作品がファイナリストに残ったことを知らされていただけで、受賞するとまでは聞いていなかった。ガラ・パーティーがあるとのことで、「なにも用意してなくて、なにを着ていけばいいのかしら」と、ちょっと困った表情を見せていた。
監督した『Lonely Deaths』が、シンガポールのチャンネル・ニューズ・アジアで放映されたのは2017年3月。2016年のほぼまるまる1年をかけて製作したという。しかし、その2016年は、詩織さんにとって、苦難が連続した年でもあった。
例の「事件」が起きたのは、2015年4月3日の夜から翌4日の未明にかけてだった。そして、詩織さんにたいする「準強姦罪」の被疑者となった元TBSワシントン支局長、山口敬之氏が成田空港で捜査員によって逮捕されるというまさにその瞬間の直前に、警視庁上層部からの命令によって逮捕とりやめになった、つまり逮捕状の執行が見送られたのは2015年6月8日のことだ。ちなみに、山口氏はそのおよそ1年後の2016年5月30日付けでTBSを退社し、東京地検は同年7月22日に嫌疑不十分としてこの件を不起訴処分とすることを決定している。ついでにいえば、山口氏が安倍晋三首相の政権運営の内幕を取材した『総理』(幻冬舎)を出版したのは2016年6月9日であり、同月22日には第24回参議院議員選挙が公示され、結果が与党の圧勝であったことは記憶にあたらしい。このあたりから、山口氏はコメンテイターとして頻繁にテレビに出演するようになる。
というような2015年4月の「事件」以来の事態の推移のなかで、詩織さんは「事件」前に取材に着手していた「孤独死」をめぐるドキュメンタリー・フィルムの製作をねばり強くつづけていた。その事実に感銘を禁じ得ない。
「事件」直前の2015年2月、ニューヨークから帰った詩織さんは、東京・赤坂にあるロイター通信の東京支局とインターン契約を結んで働きはじめた。2カ月間は無給で、3カ月目から給与を支給されるという条件のもとに、ロイターの仕事に取り組んですぐのころ、詩織さんは孤独死にまつわる仕事を担当し、23歳の若い女性の「遺品整理人」に出会うことになる。このことが、のちの作品づくりのきっかけになる。
孤独死した人は孤独死した事実そのものを何カ月も知られないことが多く、たとえば2、3カ月後に発見されたとすれば、故人の体液はすべて漏出してしまっているという。また、遺体には、その大きさの2、3倍にも達するほどの大量の蠅がむらがっているようなこともあり、そういう蠅じたい人を食べて肥満しているので通常の蠅の2、3倍の大きさになっているといえば、少しは状況への想像力がわくだろうか。体液が漏出しきった遺体の場合は耳が落ち、皮膚や毛髪ははがれている。そうしたもろもろをふくむ「遺品」のすべてを、すさまじい異臭のなかで清掃するのが「遺品整理人」である。
詩織さんはその仕事を、遺体にたいする愛と敬意をもって丁寧におこなう23歳の女性と知り合い、かの女に密着したドキュメンタリーをつくりたいとかんがえたのである。その女性はちなみに、父親を孤独死にちかいかたちで失くしていた。
ロイター・ジャパンでは、配信のための映像ニュースはどんなものであれ3分以内にまとめることが要求されていた。しかし、この「遺品整理人」と孤独死のテーマを3分以内にまとめるのは無理だった。フリーになって作品づくりをしたい、と詩織さんがかんがえたのは自然なことであったといえる。
とはいえ、そのいっぽうで、ニューヨークにいたときに蒔いた種子を刈り取る作業も並行して進めていた。それは、アメリカでの就職である。当時、TBSのワシントン支局長だった山口敬之氏は、詩織さん宛てのメールで、インターン契約の可能性があるし、有給のプロデューサーとして雇用することも検討に値する、と伝えていた。いずれにしてもビザが問題なので、次に山口氏が帰国するときに会って相談しましょうという約束が成立していた。その約束の日が、4月3日だった。
山口氏と知り合う
山口氏と知り合ったのは、2013年9月、詩織さんがまだニューヨークの大学でジャーナリズムと写真を学んでいた24歳のときだ。
留学生活は苦しかった。両親の反対を押し切っての渡米でもあったので援助もほとんどなく、学費も生活費も翻訳やベビーシッティング、そしてピアノ・バーでのアルバイトなどによってまかなっていた。「バーの方は帰りが深夜になるため、当時一緒に住んでいたパートナーは心配し、頻繁には出勤できなかった。しかし、ベビーシッターに比べれば、こちらのほうが時給はずっと高かった」と、著書の『Black Box/ブラックボックス』(文藝春秋)のなかで詩織さんは書いている。
山口氏とはじめて会ったのは、その「頻繁には出勤できなかった」ピアノ・バーで、だった。
山口氏はジャーナリストをめざしているといったかの女にたいして好意的だったという。名刺を差し出し、機会があったらニューヨーク支局を案内するからメールをください、とまでいった。ほどなくして、ふたたびニューヨークに来た山口氏から連絡があり、TBSのニューヨーク支局長とランチをしているので、よければ来ないかとの誘いを受け、ランチ場所の日本料理店に行って紹介してもらった。「事件」のあった2015年の4月3日まで、山口氏と会ったのは2013年のこの2回がすべてだ。
2014年の夏の終わり、大学卒業を目前にした詩織さんは、インターンシップの受け入れ先を探すためにいくつかのメディアにメールを送り、送り先のひとつが山口氏だった。かれはそのとき、知己の日本テレビのニューヨーク支局長に連絡することを助言したという。そして、面接とテストを経て、詩織さんは同年9月から日本テレビのニューヨーク支局でインターンとして働く。しかし、仕事と勉学に追われてバイトができなくなり、いったん、ニューヨークぐらしを切り上げることにする。そして、日本に帰って2015年2月に、ロイターとインターン契約を結ぶのである。フリーランスのドキュメンタリー作家として企画・監督し、「ニューヨーク・フェスティヴァル」の受賞作品となった『Lonely Deaths』の製作につながる初期取材がはじまった前後の状況はこのようなものだった。
そして4月3日、山口氏と2年ぶりに再会し、例の「事件」が起こる。
CULTURE
2018.06.24
Shiori Ito’s ”#MeToo” Struggles Continue
伊藤詩織さんにインタビュー──たたかいはつづく【後編】
"目を覚ましたのは激しい痛みを感じたためだった"
わかっていること
ここで「事件」の内容を整理しておかなければならない。以下は詩織さんの著書『Black Box』からの引用である(248-249ページ。註は筆者が適宜挿入したもの)。
あの日(註:2015年4月3-4日)の出来事で、山口氏も事実として認め、また捜査や証言で明らかになっている客観的事実は、次のようなことだ。
TBSワシントン支局長(註:当時)の山口氏とフリーランスのジャーナリストである私は、私がTBSワシントン支局で働くために必要なビザについて話すために会った。
・そこに恋愛感情はなかった。
・私が「泥酔した」状態だと、山口氏は認識していた。
・山口氏は、自分の滞在しているホテルの部屋に私を連れて行った。
・性行為があった。
・私の下着のDNA検査を行ったところ、そこについたY染色体が山口氏のものと過不足なく一致するという結果が出た。
・ホテルの防犯カメラの映像、タクシー運転手の証言などの証拠を集め、警察は逮捕状を請求し、裁判所はその発行を認めた。
・逮捕の当日(註:2015年6月8日)、捜査員が現場の空港(註:成田空港)で山口氏の到着を待ち受けるさなか、中村格警視庁刑事部長(註:当時)の判断によって、逮捕状の執行が突然止められた。
検察と検察審査会は、これらの事実を知った上で、この事件を「不起訴」と判断した(註:検察の判断は2016年7月22日、検察審査会の判断は2017年9月21日)。
成田空港で逮捕すべく所轄の高輪署の刑事が所持していた逮捕状の罪名は「準強姦罪」である。この罪名は2017年7月13日に施行された改正刑法では「準強制性交等罪」と呼称されており、「強制性交等罪」(旧強姦罪)が暴行・脅迫を用いて姦淫や肛門性交、口腔性交などの性交類似行為をおこなったときに成立するのにたいして、暴行・脅迫によらずに、心神喪失や抗拒不能となった人にたいして、姦淫や肛門性交、口腔性交などの性交類似行為を行った場合に成立する犯罪である。心神喪失や抗拒不能の状態とは、たとえば酩酊して抵抗できないとか、精神的な障害によって正常な判断力を失っているとか、心理的または物理的に抵抗できないといった状態のことだ。
詩織さんは、2015年4月3日に山口氏との待ち合わせ場所であった東京・恵比寿の串焼き屋に入ると、山口氏と1対1であることにおどろいたというが、その串焼き屋では「目の前に出された串焼きを五本ほど食べた。他に、もつ煮込みと叩ききゅうりがあり、ビールを二杯とワインを一〜二杯飲んだ。小さなコップだったし、私はもともとお酒にはかなり強い方だったので、酔いは回らなかった」(『Black Box』47ページ)と、はっきりした記憶をもとに述べている。そこでおよそ1時間半過ごしたあと、歩いて5分ほどの鮨屋に移動したのが9時40分ごろであったという。ビザのことはまだ話題になっていなかった。
詩織さんは書いている。
「鮨屋の奥まったカウンター席に座り、日本酒を注文した。少しのおつまみで二合ほど飲んだが、なぜかお鮨はちっとも出てこなかった。そこでも、具体的なビザの話は出てこなかった」(48ページ)
詩織さんは二合目を飲み終える前にトイレに立つ。席に戻り、三合目を頼んだ。「そして突然、何だか調子がおかしいと感じ、二度目のトイレに席を立った。トイレに入るなり突然頭がくらっとして蓋をした便器にそのまま腰かけ、給水タンクに頭をもたせかけた。そこからの記憶はない」(48-49ページ)。
次の記憶はこうである。
「目を覚ましたのは、激しい痛みを感じたためだった。薄いカーテンが引かれた部屋のベッドの上で、何か重たいものにのしかかられていた。頭はぼうっとしていたが、二日酔いのような重苦しい感覚はまったくなかった。下腹部に感じた裂けるような痛みと、目の前に飛び込んできた光景で、何をされているのかわかった。気づいた時のことは思い出したくもない。目覚めたばかりの、記憶もなく現状認識もできない一瞬でさえ、ありえない、あってはならない相手だった」(49ページ)
「私の意識が戻ったことがわかり、『痛い、痛い』と何度も訴えているのに、彼は行為を止めようとしなかった。(中略)何度も言い続けたら、『痛いの?』と言って動きを止めた。しかし、体を離そうとはしなかった」(50ページ)。
このあと、『Black Box』の56ページまでの箇所に書かれていることは、引用にしのびないほどおぞましい男の行動である。山口氏は、しかし、この性行為は合意のもとでおこなわれたものだ、と主張しており、成田空港での逮捕状執行が見送られた2015年6月8日のあと、事件は同年8月26日に検察に書類送検され、検察による捜査を経て、翌2016年7月22日に不起訴が確定した。
"じぶんはもうどこかで 死んでしまったとおもっていた"
顔を出して記者会見
2017年5月29日、詩織さんは司法記者クラブで記者会見を開き、この「準強姦罪」事件の不起訴処分を不服として検察審査会に申し立てしたことを報告し、性暴力の根絶にむけて積極的な努力をかならずしもしているとはいえない日本の現状を、変革すべきだ、という意志をあきらかにした。
詩織さんは、あえて顔を出して訴えた。すぐさま、かの女は北朝鮮のスパイであるとか、SM嬢であるとか、政治的な謀略の実行者であるとかの中傷がネットにあふれた。また、かの女が住んでいたマンションの近くで不審な黒いクルマが頻繁に目撃されるようになった、と詩織さんと詩織さんの周囲はいう。被害者として告発したのに加害者であるかのような心理状態に、かの女は追い込まれていった。
「(記者クラブでの)会見をやろう、やらなきゃいけないと思ったのですが、でも怖かった。彼(山口氏)には”右”のサポーターがたくさんいることがわかっていたし、家族を守れるのか、とくに妹のことが心配になりました。じぶんはもう、どこかで死んでしまったとおもっているところもあったのですが、妹はなんで(会見をするのが)お姉ちゃんじゃなきゃだめなのって反対しました」
そして、遺書を書いたという。それも3度にわたって、だ。
「会見の前は身の危険を感じていたので遺書を書きました。会見の後は、たくさんの誹謗中傷を受けて、ふつうに暮らすことができなくなって、死ぬことをかんがえて遺書を書いたし、3回目は本(『Black Box』)を出す直前でした」
著書の発刊は2017年10月20日。そのころまた周囲に不審な動きがいくつかあったという。「これは(出版を)潰されるんじゃないかとおもって、それまでずっと隠れて生活していたのですが、どうしても海を見に行きたくなったんです。で、いちばん近い由比ヶ浜(鎌倉)に行こうとおもいました。絶対に自殺なんてしないから、何かあったらキチンと調べてほしいという遺言を書きました。でも最終的に怖くて行かなかった」。
最初と最後の遺書は、たたかいの一環としての積極的な意志(遺志)表明であったともいえる。しかし、2回目の、会見後の遺書はちがう。「じぶんの生きる社会がなくなったとおもったんですよね。で、親友のところに隠れるように居候させてもらっていましたが、そうしているうちにじぶんの場所がなくなったとおもうようになりました。それで、自殺防止センターに何度も電話したんです。でも、3日間、だれも出なかった。通話中なんです。英語専用のホットラインもあったのでかけましたが、やっぱり出ませんでした。ああ、おなじ気持ちの人が日本中にたくさんいるのだ、とおもいました」。
そのころだった。女性の権利を擁護するイギリスの団体から連絡が来た。あなたのニュースを見ました、イギリスに来て講演していただけますか、という。それが助け舟になった。会見から3カ月たってなお、詩織さんは外出もままならない状況のなかにいた。ネットにはかの女への罵詈雑言が氾濫し、家族の写真まで流れていた。詩織さんはロンドンに行った。
いま、かの女はイギリスをベースにジャーナリスト活動を継続している。日本に「じぶんの場所」がなくなったからだ。
うれしい電話
取材日の前日、詩織さんにはちょっとうれしいことがあった。高輪署で捜査を担当し、山口氏にたいする逮捕状を請求してそれを執行できず、その後ほどなくして高輪署から異動になった捜査員の消息をある人が教えてくれたというのだ。この捜査員は「A氏」として『Black Box』のなかにもたびたび登場する。当初、詩織さんの捜査依頼にあまり気が進まないようだったA氏は、しかし、丹念な捜査のプロセスを重ねていくうちに判明した「事実」にたいして謙虚に向き合い、逮捕状を請求する決断をした。A氏の捜査員としての誠実な行動に、詩織さんは救われたと感じていた。それだけに異動になったあとのA氏の消息についてはいつも気にかけていた。電話をくれた人によると、A氏はまだ勤務をつづけているらしいという。よかった、と詩織さんはおもった。
そこで僕はふと、詩織さんにいった。A氏はあなたのことを心配しているかもしれませんね。いまでも、と。そんな気がしたのだ。
詩織さんは一瞬の間を置いたあと、笑顔をつくりながら口を開いた。「それは、何度も遺書に書いているから。絶対、自殺なんてしないから。なにかあったら調べてくださいって……。I have no regret」
後悔なんてなんにもない、と最後は流暢な英語でいった。これまでにも強い感情をともなう発言ではたびたび、かの女の口から自然に英語が出ていた。さらに、念押しするかのように、「いま、きょう、これで終わりでもなんにも後悔してない」とつけくわえるのだった。
いや、終わりになってはいけない、詩織さん。あなたは「ニューヨーク・フェスティヴァル」で銀賞をとったほどの才能ゆたかなドキュメンタリー作家なのだから。そして、でも、まだ金賞は手にしていないのだから。
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伊藤詩織
1989年生まれ。ジャーナリスト。フリーランスとして、エコノミスト、アル・ジャジーラ、ロイターなど、主に海外メディアで映像ニュースやドキュメンタリーを発信している。国際的メディアコンクール「New York Festivals 2018」では、Social Issue部門とSports Documentary部門の2部門で銀賞を受賞。著者『Black Box』(文藝春秋)が第7回自由報道協会賞大賞を受賞した。
(以上『GQ JAPAN』の記事の転載おわり、)
「明治維新以降、強姦容疑者(山口敬之元TBS記者)に対する逮捕状の執行停止に対し、声を上げた被害者はいなかった。伊藤詩織氏は、声を上げた。日本国を【法の支配の国】にしたい。今の日本は法治国家ではない」(升永英俊弁護士2017-11-18 Facebook )
「お友達は女性をレイプしても逮捕されない。親友には獣医学部をプレゼント。支持者には8億円の土地。奥様は税金でやりたい放題。自衛隊は戦争へ。これってもう北朝鮮を超えている?こんな政府。もう終わらせよう。それができるのは国民だけだ!」(映画監督・太田隆文氏2017-6-14ツイッター)
権力を傘にきて、犯罪までも揉み消す、腐り切った「自公維ファッショ政権」を打倒しましょう。
『ストップ・ザ・アベ!』『ストップ・ザ・極右!』です。
(註)添付写真は『GQ JAPAN』の記事に掲載されたものです。2018年4月10日の国際的メディアコンクール「New York Festivals 2018」での授賞式の時の1枚。
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