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去月廿二日・廿五日之条有之東京府より御引渡相成候
脱走之者五人、明十二日未明当地出立吉田表へ差遺候事
(二月に引き渡された脱走者を吉田藩へ連れて行く)という内容です。
浮浪人之事。
都下往々脱籍無産之者輩有。
(明治のはじめは脱籍らが東京に集まっていたようです)
三月廿日
吉田表より帰り飛脚中間者左之御用状達ス
「吉田川御橋懸継之儀。一昨日十日迄に出来致し」
三月十二日 老集御連名と書かれております。
明治二年橋が掛けかえられ京都表へ申越候とあります。
「吉田大橋」と「とよ橋」が今あります。
この御用状に書かれているのは「とよ橋」の事です。
吉田藩は豊橋と吉田藩主によって変えられています。
吉田藩の時は大川とか吉田川と言っていたようです。
吉田藩の時、「とよ橋」は「今橋」と呼ばれていたようです。
明治二年三月
森半之助賊徒に党与し厳重謹慎被申付
刑部大輔家来森半之助義賊徒ニ党与シ、於上の野山内昨年五月十五日御敵対仕候段―――今更反省先非後悔仕―――何卒出格之御慈恵を以宥寛之御沙汰被成下置候ハ―――
(内容的には賊徒に加わったが厳重謹慎して反省しているのから罪を軽くして許してください)という文状です。これは東京府で起きています。
四月
三月廿一日・廿三日品川且大森辺ニ於イテ外国人を暴ニ馬車ヨリ引下シ剰刀ヲ抜カケ候抔之挙動有之
(内容的には品川の大森でイギリス人が日本の不満を持つ者に馬車から引きずり降ろされた事件。横浜でフランス人が打撃した者。当人は勿論その主人に厳重に叱咤したと知らせがあったという文状)
ネットで探しましたが載っていません。明治に変わるころはこのような事件が多かったと思われます。
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表に現れない歴史の一端に触れられる貴重な文献です.
川や橋の名を付ける権利…それが権威そのものなのですね.
2019/8/24(土) 午前 8:13
吉田藩関係の文書は虫食いにより判別不能なものが多いそうで、
本にされたのは読めるところ。それでも□(しかく)のところがありなんの文字があったのだろうと考えてしまいます。
2019/8/25(日) 午前 9:35 [ 答他伊奈 ]