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2011/08/02 リニューアル 柴犬ハルがお伝えします

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7月12日 記念日 その4

ローリング・ストーンズ記念日。
1962(昭和37)年7月12日、イギリスのロックバンド、ザ・ローリング・ストーンズが、イギリスの首都、ロンドン中心部にあるライブハウス「マーキークラブ」に初出演した。ザ・ローリング・ストーンズは、ロック草創期の1960年代前半から現在まで半世紀以上、1度も解散することなく第一線で創作を続ける、ロックの代名詞的な存在である。ブライアン・ジョーンズ(ギター、ハーモニカ)、イアン・スチュワート(ピアノ)、ミック・ジャガー(リードヴォーカル、ハーモニカ)、キース・リチャーズ(ギター、ボーカル)によって結成され、その後間もなく、ベーシストのビル・ワイマンとドラマーのチャーリー・ワッツが参加した。バンド名は、アメリカのブルース歌手・ギタリストでシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの楽曲「Rollin' Stone」に因んで、ブライアン・ジョーンズが命名した。なお、結成当初のリーダーはブライアン・ジョーンズ(ギター、ハーモニカ)であったが、後にミック・ジャガー(リードヴォーカル、ハーモニカ)とキース・リチャーズ(ギター、ボーカル)がコンビで作曲を行ない、グループをリードするようになった。1969(昭和44)年、ブライアン・ジョーンズは体調不良と法律問題のためバンドへの貢献が減少し、ツアーへの参加もできなくなり、バンドを脱退する。その3週間後、ブライアン・ジョーンズはプールで溺死した。ブライアン・ジョーンズの後任としてギタリストのミック・テイラーが加入、1974(昭和49)年に脱退するまで活動を続けた。その後、ギタリストのロン・ウッドが加入する。ビル・ワイマンは、1993(平成5)年にバンドを脱退、後任としてベーシストのダリル・ジョーンズがベースを担当するようになるが、正式メンバーとしては加入していない。イアン・スチュワートは、1963(昭和38)年に公式メンバーから外されるが、バンドのロードマネージャーを続け、1985(昭和60)年に死去するまでピアニストとしてツアーやレコーディングに参加した。1982(昭和57)年以降は、ピアニスト・キーボーディストのチャック・リーヴェルがバンドのキーボードを担当している。ザ・ローリング・ストーンズの音楽的ルーツは、黒人音楽のブルースにある。その活躍は、黒人音楽にルーツをもつ、他の白人ミュージシャンが1960年代後半から1970年代初頭にかけて、米英等で多数登場するきっかけとなったとも言える。ザ・ローリング・ストーンズのサウンドの欠かせない特徴として、その独特のリズムがある。本来バンドであれば、ドラムとベースの絡みが重要と言われているが、ザ・ローリング・ストーンズは違う。そのリズムの核となるのは、チャーリー・ワッツのドラムス、キース・リチャーズが弾き出すリズム・ギターにある。この2人が絡むことで、その独特のリズムが生まれている。ギターがドラムと絡み合うことで、当然ベースも独特な演奏をしていて、サウンドの核となるキースのギター・ラインと、そのギターに絡もうとする他の楽器パートの隙間を、まるで縫い合わせていくように弾いていることに特徴がある。キース・リチャーズのギターが中心となってバンドの音を引っ張っていっていると言ってもいいそのサウンドは、まさに唯一無二である。しかし、1993(平成5)年にビル・ワイマンが脱退して以来、そのリズムが変わって、サポート・メンバーであるダリル・ジョーンズの弾くベースは、より安定したものながらも、それに古くからのファンは「不満」があるようである。ザ・ローリング・ストーンズは、様々な流行の音楽をも取入れ、一部のメンバーの交替や、様々なアクシデントを乗越えつつ成長し、デビュー40周年を超えた21世紀に至ってもなお、ブルース(リズム・アンド・ブルース)ルーツのロックンロールという音楽で、第一線で現役を貫き通している。そして、ザ・ローリング・ストーンズは、2012(平成24)年に結成50周年を迎えた。50周年記念コンサートのチケットは、全公演がものの数分で完売したという。また、50周年を記念して、大手飲料メーカーのサントリーでは、限定150本・価格50万円のウイスキーを発売した。50年ものの原酒を使ったウイスキーで、団塊世代のファンや高級飲食店を中心に完売したという。 
O157 堺市学童集団下痢症を忘れない日。
1996(平成8)年、腸管出血性大腸菌(特定の疾病を起こす大腸菌[棒状、又は円筒形の細菌である桿菌の一種で、健康なヒトの大腸内で生息し、また環境中にも広く分布している微生物]菌株) O157による食中毒に、児童7,892名を含む9,523名が罹患、児童3名が死亡した。1996(平成8)年7月12日の夜半から、大阪府堺市に住む学童の間に、下痢や血便等を主症状とする多数の有症者が発生した、との報告があったことから、この堺市学童集団下痢症を風化させないことを目的として、2012(平成24)年に大阪府堺市が制定。O157は、O抗原(大腸菌等のグラム陰性菌の細胞がもつ抗原の1つで、菌の細胞壁にあり、熱に強い)が157番の大腸菌である。一般には、特に腸管出血性大腸菌 O157:H7のことを指す。加熱の不十分な食材から感染し、100個程度という極めて少数の菌で発症するとされる。そのため、感染者の便から容易に二次感染が起こる。加熱に弱い菌であるため、ハンバーグ等、挽肉を原材料とする食品は、その中心温度を75℃以上に加熱することが、感染を防ぐために必要である。また、生レバー、生センマイ等は殺菌していないので、子供や高齢者等、抵抗力が低い者は、これらを食べないことが最大の予防となる。特異な例として、体験学習で牧場を訪れ、O157菌の付着している乳牛の乳絞りをした子供が感染したケースがあるが、これも子供は免疫が弱いため、と考えられる。下痢止めを服用すると、ベロ毒素が排出されないため、重篤、若しくは死亡する可能性が高くなる。大阪府堺市の小学校90校、養護学校2校において、学校給食による学童の集団感染が発生した。疫学(個人ではなく、集団を対象とし、疾病の発生原因や予防等を研究する学問)調査により原因食材として、カイワレ大根(ダイコンの発芽直後の胚軸と子葉を食用とする食材)が疑われると厚生省(現在の厚生労働省の前身の1つ)が発表し、大きな風評被害をもたらした(この問題に関しては、該当食材が残存せず、最終的に汚染源は特定されていない)。1982(昭和57)年、アメリカ合衆国北西部のオレゴン州や、アメリカ合衆国中西部ミシガン州等で、ハンバーガーが原因食と推定される食中毒から、腸管出血性大腸菌 O157:H7 が初めて検出される。1993(平成5)年には、アメリカ合衆国北西部、ワシントン州シアトル周辺で、大規模なハンバーガー食中毒事件し、その後もアメリカ合衆国、ヨーロッパ、オーストラリア等でも集団発生が相次いで発生している。1996(平成8)年には、日本において、爆発的な発生が見られ、岡山県邑久郡邑久町(現在の岡山県瀬戸内市邑久町)の学校給食に起因するO157食中毒事件を、岡山県保健福祉部環境衛生課が5月28日に発表した際に、マスコミを通じて「O157」の名称が知られるようになった。なお、堺市学童集団下痢症の発生から19年を経過した2015(平成27)年10月、その後遺症を原因として死亡する事例も出ている。

7月12日 記念日 その3

ひかわ銅剣の日。
1984(昭和59)年7月12日、島根県簸川郡斐川町(現在は、島根県出雲市の一部)の荒神谷遺跡(神庭荒神谷遺跡)から弥生時代の銅剣が発見された。その数は全国最多の358本に達し、また、全てが国宝に指定されたことから、当時の島根県簸川郡斐川町が制定し、斐川町が編入された島根県出雲市が引継いでいる。1983(昭和58)年、広域農道(農村地域に散在する農地を1つの団地と捉え、集出荷・加工プロセスの一元化等により、産地としての市場競争力を高めることを目的とした農道で、ここでの愛称は「出雲ロマン街道」)の建設に伴なって遺跡調査が行なわれた。この際に、調査員が古墳時代(3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い)の須恵器(古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器)の破片を発見したことから、発掘が開始された。当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず調査発掘をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が土中から出てきた。担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていった。当初は100本位であろうと考えられたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達した。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘されたことは、当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となった。1984(昭和59)年から1985(昭和60)年の2ヶ年に亘る発掘調査により、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。銅剣は1985(昭和60)年、銅鐸・銅矛は1987(昭和62)年に、国の重要文化財に指定されていたが、1998(平成10)年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館等に保管されている。遺跡自体は、1987(昭和62)年に国の史跡に指定された。島根県簸川郡斐川町(現在は島根県出雲市の一部)が中心となり、1995(平成7)年には、遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備された。2005(平成17)年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示等が行なわれている。現在、出土品は、2007(平成19)年3月に島根県出雲市大社町杵築東に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されている。銅剣は、丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段の内の下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さが50cm前後、重さが500g余りと、大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半(概ね1世紀から2世紀頃)に製作されたとみられている。この形式の銅剣の分布状況から、出雲地方(現在の島根県東部)で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一であり、同一の地域で作られたことは確かである。また、この内の344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところ、これらと島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の遺跡、加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性が窺える。当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していたことが、記紀(日本最古の歴史書『古事記』と日本に伝存する最古の正史『日本書紀』との総称)の記述にもあり、また、神話の中の3分の1を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっている。更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社(朝廷から官社として認識されていた神社)の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致が挙げられる。銅剣の1ヶ所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は、日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手掛かりとしての重要性はさらに高まった。
宇佐からあげの日(USA☆宇佐からあげ合衆国建国記念日)。
からあげ専門店発祥の地として知られる大分県宇佐市で、2006(平成18)年11月に結成された任意団体、「宇佐市からあげ探検隊」が、2012(平成24)年7月12日に「USA☆からあげ合衆国」を建国した。その日を記念して、「宇佐からあげ」をさらに広めようと制定された記念日である。「宇佐からあげ」は、各店独自の秘伝のタレを使って調理し、できたてアツアツを提供、冷めても美味しいと人気で、発祥の地に記念碑である「からあげ石」を建立、「宇佐からあげ」の商標登録等、「からあげによるまちづくり」を進めている。2010(平成22)年5月27日、大分県宇佐市内に本店・支店があるからあげ専門店15店舗により、「宇佐市からあげ協会」が発足した。その後、「宇佐からあげ」の商標登録に伴ない、2012(平成24)年7月に「宇佐市からあげ協会」は、「宇佐からあげ協会」に改称された。「宇佐からあげ協会」には、イメージキャラクターとして「うさからくん」がいる。性別は男の子で、仕事はからあげ屋さんであり、趣味はトング収集と歌を歌うこと、とされる。また、ほね(?)が出ている「からあげのかぶりもの」をかぶっている。現在、単に「からあげ」とだけいう場合は、鶏肉のものを指していることが多いが、本来は食材は問わない。漢字表記では、「空揚げ」(又は「空揚」)や「唐揚げ」(又は「唐揚」)と書かれる。からあげがどのように日本に広まっていったのかについて、郷土料理・伝承料理研究家の奥村彪生によれば、室町時代には中国の精進料理の揚げるという技術が伝わっており、安土桃山時代には小麦粉をまぶして揚げる料理がポルトガルから伝わり(南蛮料理)、江戸時代中期以降には天ぷらが庶民の間で流行し、明治時代には主に粉を付けない素揚げが空揚と呼称され、第二次世界大戦後(1950年代以降)には一般の主婦が読む料理書に唐揚が記載されるようになったもので、「それまでの揚げ物と大きく違ったのは下味を付けるということ。中国料理から取入れられた技術なので唐揚になったというのが通説のようです。ちょうど餃子の普及と同時期ぐらいのことです」と述べている。また、料理評論家・料理学校長の服部幸應によれば、からあげは、一般的に小麦粉や片栗粉をまぶした食材を油で揚げた料理を指し、日本にやってきたのは、第二次世界大戦後中国から引揚げてきた人達が大陸の調理方法を持込んだのが始まりと言われている、と著している。からあげが一般料理として、外食店や家庭に広く普及したのは第二次世界大戦後からで、食糧難に対応するため九州等で養鶏場が作られ、アメリカのブロイラー技術が輸入されて増産されてからである。食肉用ブロイラーが生産されるようになると、ローストチキンやフライドチキン、からあげ等に調理され、高度経済成長期(日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期)以降の1970年代からは、アメリカのケンタッキーフライドチキンが日本にも紹介されて普及し、香辛料の効いたフライドチキンも外食メニューの1つになっていき、醤油味をベースにしたからあげ販売店も人気となっていった。2010(平成21)年頃には、大分県宇佐市や大分県中津市のからあげ専門店が東京に進出したことで、新規専門店も誕生する等した。

7月12日 記念日 その2

洋食器の日。
新潟県燕市東太田に事務局を置く業界団体、日本金属洋食器工業組合が制定。日付は、7月12日の「7」と「1」と「2」を、代表的な洋食器、「ナ(7)イ(1)フ(2)」と読む語呂合せから。洋食器の優れた機能や役割を広くPRし、感謝の意味を込め、産地の新潟県燕市等でイベントを行なう。食文化の違い、食品・食材の違いによってさまざまな食器が存在するが、日本では和食器・洋食器に大別されることが多く、洋食器はさらに、ガラス食器と陶磁器のチャイナ等に分かれる。洋食における食器、洋食器の内で食卓用金物の総称がカトラリーで、フォーク・ナイフ・スプーンを指すことが多い。銀製や金製、ステンレス製、プラスチック製、木製のもの等がある。なお、広い意味では給仕に用いられる金物類も含む。フォークは、先端部が分かれて櫛状になった飲食用・調理用の器具である。大抵、3つ又か4つ又になっている。古くは飲食用でも2つ又で、今日でも果物やケーキ等を食べる際のデザート用や、ステーキを焼く際に使う大振りのものでは、2つ又のフォークが見受けられる。飲食時に食べ物が動かないように突き刺して押さえたり、食べ物を突き刺して口へ運んだりするための食器である。日本語では「突き匙」「肉叉(にくさ)」という訳語が当てられる。主に金属製であるが、プラスチック製や竹製のものもある。柄の部分が別部材でできている別柄型のものと、一体成型のものとがある。フランス料理等のテーブルセッティングでは、位置皿(ディナープレート)の左側に、外側からオードブル用フォーク、魚用フォーク、肉用フォークの順に配置する。また、位置皿の上側にデザートフォークを配置する。スプーンと合体させた食器として、「spork(先割れスプーン)」がある。こちらはもっぱら、簡便な食事に便宜的に用いられる簡易食器的な性格が強く、正統なテーブルマナー中には「spork」を使うものは見られない。ヨーロッパの食文化においては、独特の食卓用ナイフが広く用いられ、古くは調理された肉を切取るために、ナイフ全般同様によく切れる刃が付いていたが、今日広く使われるものでは、細かい鋸刃を持つものがみられる。バターやジャム等、ペースト状の食品を取ったり、パンに塗るための「バターナイフ(バタースプレダー)」もあるが、これには刃付けされていない。テーブルセッティングでは、位置皿(ディナープレート)の右側に、外側からオードブル用ナイフ、魚用ナイフ、肉用ナイフが配置される(なお、さらに外側にスープスプーンが配置される)。また、位置皿の上側にデザートナイフが配置される他、パン皿の位置にはバターナイフが配置される。食卓で塊の肉を切分ける際には、よく切れるフィレナイフやステーキナイフが利用されるし、果物を切分けたり皮を剥いたりする場合には、やはりよく切れるフルーツナイフが利用される。匙(さじ)とも呼ばれるスプーンは、食品等を掬い取ったり、混ぜたり、潰したりする道具である。フランス料理等のテーブルセッティングでは、スープスプーンが最も右側に配置される。日本で洋食器の生産が開始されたのは1914(大正3)年、又は1915(大正4)年とされ、産地である新潟県燕市の基幹産業として発展してきた。新潟県燕市は、洋食器の生産で世界的なシェアを誇っている。新潟県県央地域は、日本を代表する金属加工製品の一大産地で、機械、自動車部品の製造が非常に盛んで、とりわけ燕市は、ステンレス製品の加工業者が数多く立地し、特に、カトラリーを中心とした金属製洋食器においては、日本国内生産シェアの約90%以上を占める。また、プレス金型の製造業者が数多く、プラスチック等、非金属製品の製造も盛んに行なわれている。燕市には、得意とする部品や加工技術(溶接等)を異にする小規模な工場が多い。このため、医療機器等、技術的に高度な少量の案件にも、経営者や職人が話合って素早く対応し、生産品目を多角化してきた。
人間ドックの日。
1954(昭和29)年7月12日、国立東京第一病院(東京都新宿区戸山に所在する、現在の国立国際医療研究センター病院)で人間ドックが始められた。人間ドックは、自覚症状の有無に関係なく定期的に病院・診療所に赴き、身体各部位の精密検査を受けて、普段気が付きにくい疾患や臓器の異常や健康度等をチェックする健康診断の一種である。「ドック」は船渠(船を修理・点検するための設備)を意味する英語「dock」に由来するため、「人間ドッグ」は誤記である。最初の人間ドックは、6日間で12,000円と当時としては高額で、日数も掛かり、一般の勤め人の受診は難しかった。人間ドックでは、データを元に医師の問診、診察を受け、生活習慣病の予防や治療、その他の健康問題について助言、指導を受ける。概ね、人間ドックの専門病院、専門診療所で受けるのが通例である。検査の一部には、前日の夕食時辺りから絶飲食等、事前の準備が必要なものもあり、確認が必要である。結果は、その日の内には判明しないものもある。オプションで追加した検査項目により、検査時間も増加する。半日の日帰りで済むものから1日、若しくは2日というコースが一般的である。2日間の場合は、2日続きで通うという訳ではなく、病院側で宿泊も手配する。中には5日、1週間というコースを設けている診療機関もある。人間ドックで異常が見付かり易い項目は、肝機能障害、高コレステロール、肥満、腎・膀胱疾患、高中性脂肪等である。脳の認知機能やホルモンバランス等、加齢に伴ない衰弱する傾向にある項目を重点的に検査する人間ドックのことを、特にアンチエイジング・ドック(抗加齢ドック)と呼ぶこともある。日本では、人間ドックは医療保険の対象ではないが、加入している健康保険組合によっては、年齢等の条件(35歳、或いは40歳以上)を満たせば一定額の補助が出る。人間ドックは、「労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)」や「労働安全衛生法(昭和47年6月8日法律第57号)」で定められている健康診断に含まれる。日本における生活習慣病検診は、1953(昭和28)年に社団法人ライフ・エクステンション倶楽部(東京都台東区に所在する現在のライフ・エクステンション研究所付属永寿総合病院)が初めて行ない(当時の呼び名は成人病精密総合診断)、短期入院を伴なう人間ドックは、その翌年、1954(昭和29)年7月12日に保健同人社(健康に関連する書籍の出版や、看護専門職と指導医体制で行なっている電話相談を中心とする健康相談事業等を展開する企業)の発意により、保健同人社が運営面を担当、検診作業を国立東京第一病院(現:国立国際医療センター病院)が担当して開始されたのが始まりである。1954(昭和29)年2月、先立って行なわれた人間ドックの試運転には、政治評論家の細川隆元、画家の東山魁夷、ロイター通信記者の恒川真も協力している。 その後、東京都中央区明石町にある聖路加国際病院、東京都品川区旗の台にある昭和医科大学病院(現:昭和大学病院)、東京都新宿区河田町にある東京女子医大病院が相次いで開始した。人間ドック誕生から約3年後には、全国の病院で次々に創設され、厚生省(現在の厚生労働省の前身の1つ)から病院単独での運営が公認されたことに伴ない、当初、受診者の受入れ、登録、補充等の現場運営を担っていた保健同人社は、検査作業の委託と受諾の契約を解消し、当局に返上している。初めは「短期入院精密身体検査」と堅苦しく称されていた人間ドックであるが、この検査について報道した読売新聞の記事において、「人間ドック」という巧みなネーミングがされたことから、やがてこの呼び方が定着したとされる。

西暦(グレゴリオ暦)AD2019年 平成31年(1月1日 - 4月30日) 令和元年(5月1日 - 12月31日)  
昭和94年 大正108年 明治152年 皇紀2679年 干支 己亥(つちのと い)
第2金曜日 旧暦   6月10日、先負(庚戌)、月齢  9.3
グレゴリオ暦で年始から193日目、年末まであと172日。
誕生花 ノコギリソウ・ゼニアオイ・トルコキキョウ。

日本標準時制定記念日。
1886(明治19)年7月12日、東経135度を日本の標準時とし、1888(明治21)年の1月1日よりこれを実施するとの勅令、「本初子午線經度計算方及標準時ノ件(明治19年7月13日勅令第51号)」が署名された(公布は1886[明治19]年7月13日)ことに由来する。これによって兵庫県明石市の正午が全国どこでも正午となった。なお、公布された日である7月13日を「日本標準時制定記念日」とする説もある。日本における「標準時」に関する法令は十分に整理されておらず、法令上、「標準時」と「中央標準時」という名称は現れるが、「日本標準時」という名称は現れない。日本国の法令では、標準時の定義について「東経135度の子午線の時」をもって日本における一般の標準時と定め、その標準時を中央標準時と称すること以外に具体的な定めはない。但し、標準電波の発射、及び標準時の通報に関しては、総務省(情報通信国際戦略局技術政策課)がその事務を掌る(この所掌事務は、旧電気通信省から旧電波監理委員会、旧郵政省を経て総務省に引継がれている)。さらに、郵政大臣(現在の総務省と日本郵政[JP]グループの前身、郵政省の長)が法令に基づいて発した郵政省告示により、標準電波で通報される標準時は、協定世界時を9時間進めた時刻とされる。この定めは、1971(昭和46)年の郵政省告示、「標準周波数局の運用(運用規則第140条、昭和46年12月27日郵政省告示第981号)」(1972[昭和47]年1月1日施行)からである。 なお、独立行政法人情報通信研究機構は、法令と告示に基づいて標準電波を発射し、及び標準時を通報する業務を行なう。また、中央標準時の決定、及び現示に関しては、大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台が、その事務を目的の一部として設置されている。この設置目的は、1955(昭和30)年に改正された旧東京大学東京天文台の目的から引継がれている。従って、中央標準時とは、法令に基づいて国立天文台が中央標準時として決定、及び現示する時刻と言える。情報通信研究機構が通報する標準時と、国立天文台が決定、及び現示する中央標準時との関係については、どちらの機関も国際原子時の作成に寄与する原子時計を運転し、それらの時計で決定する協定世界時(UTC)+ 9時間をそれぞれ標準時、中央標準時としているが、いかに不確かさが小さい(正確度と精度に優れた)時計であっても、同一の時計ではないので、完全に時刻が一致することはない。これについて、情報通信研究機構を所管する総務省と国立天文台を所管する文部科学省は、共同告示により、情報通信研究機構が通報する標準時については、国立天文台の決定する中央標準時により、その偏差を算出し、これを情報通信研究機構において公表するとしている。子午線上の兵庫県明石市にある明石市立天文科学館では、日本標準時を刻む大きな時計を設置している。1978(昭和53)年に設置された2代目の時計は、1995(平成7)年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)で破損し、停止してしまったため、撤去されて神戸学院大学(兵庫県神戸市中央区港島に本部を置く総合大学)で展示されている。現在設置されている大時計は3代目であり、時計関連で著名な企業、服部セイコーからの寄贈である。日本標準時(JST)を国内外に広く供給するために、総務省所管の国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)は標準電波(標準時と周波数の国家標準、又は国際標準として政府機関等が送信している電波)を発信している。この電波により送信されている周波数の標準と標準時の信号は、国家標準であるセシウムビーム型原子周波数標準機や水素メーザ型、実用セシウムビーム型原子時計(原子や分子のスペクトル線の高精度な周波数標準に基づき正確な時間を刻む時計)群を用いたものより高い精度に保たれている。なお、標準電波の発信は、電離層の影響を受けにくい長波を使用しているため、24時間の周波数比較平均値では 1×10−11 の精度を得られる、と発表されている。1999(平成11)年6月10日に「おおたかどや山標準電波送信所」(福島県田村市都路町 大鷹鳥谷山に所在)が開局した。しかし、九州沖縄方面では受信しにくい現象が起こる等で日本全国をカバーできなかったため、2001(平成13)年10月1日には佐賀市富士町の羽金山に「はがね山標準電波送信所」を開局し、これにより日本国内の広い範囲で標準電波が受信ができるようになった。いわゆる電波時計は、この標準電波を受信し、自動で時刻を合わせる時計である。
ラジオ本放送の日。
1925(大正14)年7月12日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区)にある丘陵、愛宕山(標高25.7m)に所在した東京放送局(東京都渋谷区神南に所在する、現在のNHK[日本放送協会]放送センターの前身)が、ラジオの本放送を開始したことを記念。仮放送が始まったのは同年の3月22日で、この日は放送記念日になっている。ラジオは、無線通信により音声を送受信する技術である。一般的には、ラジオ放送(放送無線電話)やラジオ受信機の略称の意味で使用される。「radiotelegraphy(無線電信)」の短縮語を語源とする。レディオ、レイディオと呼称される場合もあり、古くはラヂオとも表記した。会話や音楽等の音声信号を、電波を使って送受信する。幾つかの方式があるが、最も歴史の長いのは振幅変調(情報を搬送波の強弱で伝達する変調方式)による中波放送で、基本的な方式は100年間も変わらず、現在でもラジオ放送の主流である。この方式、及び受信機は、一般に「AM放送」「AMラジオ」と呼ばれる。また、周波数変調(情報を搬送波の周波数の変化で伝達する変調方式)による超短波ラジオ放送も広く普及しており、「FM放送」「FMラジオ」と呼ばれる。1950年代 、NHKラジオ第1放送・第2放送や民放各社等が、2つの放送波を使ったステレオ放送(当時は立体放送と呼ばれた)を行なった。日本放送協会(NHK)の例で言えば、第1放送が左側の音声、第2放送は右側の音声をそれぞれ放送し、2つのラジオを並べて置くとステレオ音声が楽しめるという試みであった。テレビ放送が開始されると、ラジオとテレビを併用した立体放送も実施された。番組の冒頭では「左のラジオを○○放送に、右のラジオを○○放送に合わせ、私の声が真ん中から聞こえるように調節してください」といったアナウンスと、受信機の調整のための音楽が流された。立体放送の聴取用に、中波のチューナーを2つ搭載した受信機も発売されたが「モノラル放送との互換性が取れず、受信機を2台用意しないと片方のチャンネルしか聞くことができない」「左右の受信機に位相特性、周波数特性、レベル等の特性差があると正しいステレオイメージが得られない」「周波数帯域を2波分占有する」「NHKを除き、2局が協力しないと実現できない」等の問題が多かった。1960年代半ばには、FMラジオ放送でこれらの問題点を解決した、本格的なステレオ放送が行なわれるようになったことで、2つの放送波による立体放送は終了した。

1961年 - ユナイテッド航空859便墜落事故。アメリカ合衆国北東部、ペンシルベニア州フィラデルフィアからアメリカ合衆国西部、コロラド州デンバーに向かっていたユナイテッド航空859便ダグラスDC-8型機が、デンバーのステープルトン国際空港(1995年に閉鎖)への着陸に失敗、18名の死亡者と44名の重軽傷者を出す。
1962年 - 日本初の国産旅客機、日本航空機製造YS-11が完成。
1962年 - 宗教法人の創価学会が、参議院院内交渉団体「公明会」(後の公明党)を結成。
1962年 - アメリカ航空宇宙局(NASA)が打上げた通信放送衛星『テルスター衛星』により、アメリカとイギリス・フランス間で、初の大陸間衛星中継が行なわれる。
1963年 - 「老人福祉法(昭和38年7月11日法律第133号)」公布。「老人福祉法」は、老人の福祉に関する原理を明らかにすると共に、老人に対し、その心身の健康の保持、及び生活の安定のために必要な措置を講じ、老人の福祉を図ることを目的として制定された法律である。
1966年 - 広島市議会が、広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)である『原爆ドーム』の永久保存を決議。『原爆ドーム』の名で知られる『広島平和記念碑』は、元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれている。広島市は、日清戦争で大本営が置かれたことを契機に、軍都として急速に発展していったが、経済規模の拡大と共に、広島県産の製品の販路開拓が急務となる。その拠点として計画されたのが、1915年に竣工した広島県物産陳列館である。1933年には、広島県産業奨励館に改称され、この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献している。しかし、戦争が長引く中、1944年3月31日には奨励館業務を停止し、行政機関・統制組合の事務所として原爆投下の日を迎える。原爆炸裂後、建物は、原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存する。1951年頃には既に、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていたが、復興が進む中、全半壊した被爆建造物の修復、或いは除去が進められ、その頃は、産業奨励館廃墟も取壊すべき、という意見も多く、存廃の議論が活発になる。後に、保存を求める運動が強まり、1966年には、広島市議会が『原爆ドーム』を永久保存することを決議する。国際連合教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)の世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に「負の世界遺産」と称される。
1966年 - 第1回全日本サーフィン大会が、千葉県鴨川市の鴨川海岸で開催される。
1968年 - 大手出版社、集英社が発行する日本の少年漫画雑誌『少年ジャンプ』が創刊される。『少年ジャンプ』は月2回刊誌として創刊、翌1969年より週刊となり『週刊少年ジャンプ』に改名される。1995年に約653万部という漫画雑誌の最高発行部数を記録している。
1971年 - 南アメリカ南部に位置するチリの議会が、国内の銅山の国有化を決定。
1973年 - ヴァリグ・ブラジル航空820便墜落事故。ブラジル南東部に位置するリオデジャネイロのガレオン国際空港(現:アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港)からフランスの首都パリにあるパリ=オルリー空港に向かっていた、ヴァリグ・ブラジル航空820便ボーイング707-320C型機で、着陸進入中に客室(トイレ付近と推測される)で火災が発生し、空港手前約5kmの地点に不時着する。不時着の際に脚と左翼が折損、エンジンは脱落し、そのまま約500m暴走した後に炎上。乗客118名、乗員17名の計135名中、乗客117名、乗員7名の計124名が死亡する。
1975年 - 「私立学校振興助成法(私学助成法、昭和50年7月11日法律第61号)」公布。
1979年 - 日本坂トンネル火災事故。静岡IC - 日本坂PA間にある東名高速道路日本坂トンネル内で、乗用車2台と油脂を積んだトラック4台が絡む追突事故が発生。さらに、玉突き事故に拡大し、173台の自動車が炎上し焼失、7名が死亡、2名が負傷する。この事故は、日本の道路トンネルにおける火災として史上最大規模の事故となる。
1979年 - アメリカ合衆国初の宇宙ステーション『スカイラブ』が大気圏に再突入して消滅。
1982年 - 東南アジアのインドシナ半島南部に位置するカンボジアで、反ベトナム3派による民主カンボジア連合政府が発足。
1984年 - 松山事件(宮城県志田郡松山町[現:大崎市]で発生した放火殺人事件)の再審無罪判決。
1987年 - 国際連合によれば、この日、世界の人口が50億人を超える。
1991年 - ノリス・エア2120便墜落事故。カナダの航空会社、ノリス・エアのチャーター便(2120便)ダグラスDC-8型機が、サウジアラビア西部のジッダにあるキング・アブドゥルアズィーズ国際空港を離陸直後に墜落。乗客、乗員計261名全員が死亡する。なお、この機体は、元日本航空のJA8057である。
1991年 - 悪魔の詩訳者殺人事件。茨城県つくば市にある筑波大学で、五十嵐一助教授が大学のエレベーターホールで刺殺される。五十嵐一助教授は1990年にイギリスの作家、サルマン・ラシュディの長編小説『悪魔の詩』を日本語に翻訳している。
1995年 - 7.11水害。新潟県上越地方・長野県北信地方で集中豪雨が発生。国道148号、東日本旅客鉄道(JR東日本)・西日本旅客鉄道(JR西日本)の大糸線全線が長期間不通となる。
2002年 - 欧州人権裁判所大法廷の裁判官17名全員が、イギリスの性転換者の出生証明書の性別訂正の訴えを認める判断を下す。
2002年 - 気象庁が、民間気象事業者に対して、携帯電話サイトを作らないこと、及びインターネットによるデータのダウンロードサービスを行わないことを約束する。
2004年 - 第20回参議院議員通常選挙の投開票が行なわれる。
2006年 - ムンバイ列車爆破事件。インド西部にあるインド最大の都市、ムンバイで列車爆破テロが発生。ムンバイ近郊鉄道の車両が7ヶ所で爆破され、死者209名、負傷者700名超の被害となる。
2006年 - アメリカ合衆国に本社を置く世界最大のコンピューター・ソフトウェア会社、マイクロソフト社がパーソナルコンピュータ用OS『Windows 98』と『Windows Me』のサポートを停止。
2008年 - アメリカ合衆国に本社を置くコンピューター・ソフトウェア会社、アップル社のスマートフォン『iPhone(アイフォーン)』がソフトバンクモバイルより発売される。
2010年 - 第22回参議院議員通常選挙の投開票が行なわれる。
2010年 - 2010 FIFAワールドカップ(第19回南アフリカ大会)の決勝戦、オランダ対スペイン戦が行なわれ、スペインが初優勝を果たす。
2012年 - 太陽系外縁天体内のサブグループ(冥王星型天体)の代表例とされる、準惑星に区分される天体である冥王星の5個目の衛星、ステュクスの存在が公表される。
2013年 - 家庭用レジャー機器メーカー、任天堂が開発、発売した携帯型ゲーム機『ニンテンドー3DS』のソフト『妖怪ウォッチ』のシリーズ第1作目が発売される。ソフトが発売されてから半年後の2014年1月8日より、テレビアニメ版が放送されたことで、一躍注目を浴びるようになる。それを裏付けるように、『妖怪ウォッチ』の販売本数は2014年になってから右肩上がりに変動し、アニメ放送開始直前であった1月初旬(26週目)に30万本を越える等、ヒットの兆しを見せる。続けざまに、1月11日にバンダイ(玩具や模型、既製服、生活用品等を手掛けるメーカー)より玩具のDX妖怪ウォッチと妖怪メダルが発売されると、小学生を中心にブームが沸き起こる。販売から約1ヶ月で妖怪メダルは累計300万枚以上を出荷し、瞬く間に各地で完売する程の人気商品となる。
 

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