戦後グラフ雑誌と……

グラフ雑誌を中心に、現物に当たって、雑誌と時代について考えていきます。

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海外向けと国内向けの国策写真の「指導」と「実践」を担う日本写真公社(旧・写真協会)が発行する月刊誌『日本写真』(1944年5〜9月号?)に資料的価値を感じるのは、他の雑誌ではあまり目にすることのない組織・機構の話が、実際的な書きぶりで、記事にされている点だ。同時期に刊行されていた『写真科学』が、写真の科学的な側面からの記事ばかりで充たされ、巻末に日本写真学会や戦時写真技術研究会などの動向を、ほんの数行だけ載せていたのとは、大違いである。
たとえば、44年7月号の「写真宣伝の中枢機関 日本写真公社の発足――新機構と陣容決る――」という記事(前回参照)中の評議員のリストに、日本幻燈株式会社取締役・松本俊一の名が見えるが、同号には、松本による「写真幻燈の時局性」という記事が掲載され、幻燈が宣伝用に脚光を浴びるようになった経緯などが解説されていて、とてもわかりやすい。
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松本俊一「写真幻燈の時局性」『日本写真』1944年7月号(活版印刷)
 
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『日本写真』表紙と裏表紙(日本写真公社、活版印刷)。44年6月号から、裏表紙に回覧用の捺印欄が設けられている。上: 7月号(表紙撮影:真継不二夫)、下:8月号(表紙撮影:田村茂)
 
44年8月号には、興味深い記事が多い。春山行夫「対外グラフの重点 『フロント』の主張を中心に」は、「筆者は現在『フロント』の編輯委員会に席を置いてゐないので、その後の企画が、どのやうな委員会によつて審議されてゐるかを詳かにしないが」などと、一般には知られていない『FRONT』の企画の討議のされかたにまで触れる。また、東京写真工業専門学校教授・新井保男「写真行学の現状」は、前年に行なわれた写真教育機関の改称や学科の新設・転換などを、詳しく述べている(学徒出陣に連動して行なわれた変更である)。
「写真宣伝協議会を解説する」は、1ページものの記事だが、重要な内容を含んでいる。筆者は、「情報局週報課 渡辺史郎」。リード文に、「情報局に(写真宣伝協議会)と言ふものがある 大部分の人はそれが何をするものか知らない。併し凡そ写真に関係のある人々、特に報道宣伝分野に携はる人々は、一応知つておく必要がある」と記されている。「情報局では曩に用紙及映画用生フイルムについて夫々委員会及協議会を設けて之が重点的配給制度を確立したが、普通写真資材については未だ一元的な統制が行はれてゐなかつた」ので、「主として報道宣伝に要する写真資材の全面的統制を行ひ、之を重点的に配給することとし」、写真宣伝協議会を設置することになった。44年1月25日に大綱を決定、2月10日の次官会議で承認を得たという。
(国立公文書館アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/index.htmlで「写真宣伝協議会」を検索してヒットするのは、「内閣閣甲第二六号」という44年2月10日の次官会議で承認を得たという文書で、この「写真宣伝協議会を解説する」という記事の内容の正確さが裏づけられる。)
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渡辺史郎「写真宣伝協議会を解説する」『日本写真』44年8月号(活版印刷)。
 
つまり、写真宣伝協議会は、写真資材の割当決定機関である。44年3月22日の第1回会議で(大日本写真報国会発会式の1週間前である)、昭和19年度第1四半期の感光資材割当量を決定しているが、その対象は「日本新聞会、日本印刷文化協会、国際文化振興会、写真協会(日本写真公社)、日本報道写真協会(四月以後日本写真公社に移管)、大日本写真報国会等」である。第2回協議会において、「山端写真科学研究所、日本出版会及同盟、朝日、毎日、読売各社現地用資材が加へられた」という。割当の対象になった組織は、そのほとんどすべてが、日本写真公社の評議員か専門委員の所属団体である。大日本写真報国会に統合されたはずの日本報道写真協会の名が、大日本写真報国会とは別に載っていて、「四月以後日本写真公社に移管」と記されているのは、職業写真団体として日本写真公社の仕事に活用されるということなのだろうか。
いずれにしても、日本写真公社が情報局の指導の下にある国策機関であったことは、間違いないことだ。日本写真公社の前身である写真協会が、情報局の前身である内閣情報部によって38年に設立された事情については、白山眞理「反日宣伝に対抗する報道写真――「写真協会」の成立を中心として」(『インテリジェンス』4号、2004年)に詳しい。

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1943年後半に起こった写真団体統合の流れは、「大日本写真報国会」の発足で決着する(『写真科学』43年11月号での「誤報」については45回参照)。
『写真科学』44年5月号は、発会式の日を44年3月28日としているが、『日本写真』や『朝日新聞』は、3月29日と報じている。
『日本写真』44年5月号によると、写真8団体(日本報道写真協会、日本写真会、日本写真家協会、日本写真文化聯盟、日本写真技術家聯盟、東京写真研究会、興亜写真報国会、全日本写真聯盟)が3月25日に解散し、「大同団結」して、3月29日に「大日本写真報国会」が発足。「約一歳に及ぶ陣痛の悩みも消えて目出度く全国三万の写真人打つて一丸とする」と書かれているように、発足に至るまで、相当難航したようだ。会長は村田五郎(情報局次長)、理事長は成澤玲川(朝日新聞社)であり、事務所は財団法人写真協会[のちの財団法人日本写真公社]に置かれた。役員名簿を見ると、金丸重嶺、鈴木八郎、松野志気雄、渡辺義雄、井深徴、梅本忠男、木村伊兵衛、塚本閤治、野島康三、福原路草、安河内治一郎、吉川富三といったように、実際的な報道写真を仕事にしている者、写真技術教育者、写真雑誌編集者、芸術写真作家、肖像写真家まで、写真界の幅広い人材が集まっている。イメージ 1
「大日本写真報国会」の発足を伝える『日本写真』1944年5月号(写真協会、活版印刷)。以降毎月、「大日本写真報国会の頁」を設けて、会の活動の様子を掲載する。
 
発会式翌日、44年3月30日の『朝日新聞』は、「全日本写真聯盟ほか非職業写真団体が今回統合し、新たに大日本写真報国会を結成することとなり、その発会式が二十九日午後二時から翼賛会講堂で行はれ、今後は翼賛会の外郭団体として技能報国と軍事援護に邁進することを誓つた」と記す。この記事で注目すべき点は、「非職業写真団体」と規定していることである。たしかに、大日本写真報国会の規約(『写真科学』44年5月号、『日本写真』44年6月号掲載)を読めば、アマチュア写真家を対象としていることが明確だ。たとえば第四条は、「本会は前条の目的を達成する為左の事業を行ふ 一、軍人援護事業への協力 二、防諜への徹底的協力 三、写真人の錬成 四、其の他国策貫徹への協力に必要なる事業」と定めており、実際的な国策報道写真の作製ではなく、周辺・周縁的な事業に限定しているのだ。イメージ 2
「大日本写真報国会の頁」『日本写真』44年6月号(日本写真公社、活版印刷)。会の規約が掲載されている。また、「臨時措置 軍人援護強調運動奉仕」の項では、「四月二十四日より開始される軍人援護強調運動に対する慰問撮影計画は、本会発足、日未だ浅く支部設置準備未了のため」、旧団体支部が旧会員を動員して行なうことが記されている。
 
では、本当に実際的な仕事をする「職業写真団体」は、どこにあったのか。
大日本写真報国会の事務所が置かれた財団法人写真協会が、財団法人日本写真公社に改組されることは、まず『日本写真』の44年6月号で告知されていた(前回参照)。7月号には、「写真宣伝の中枢機関 日本写真公社の発足――新機構と陣容決る――」という記事が載る。6月29日に、第1回役員総会を開いたという内容である。以下に引用する本文記事から、この日本写真公社の性格がわかる。
「新公社は、名実共にわが国写真宣伝の中枢機関として、今後指導に実践に真摯な活躍を展開するが、対欧州へは「空飛ぶ弾丸」として、大東亜戦の戦果速報に貢献した伯林支局への電送写真をより活発化する他起ち上る大東亜共栄圏へは従来の写真定期通信に加へて、天然色写真、漫画、全紙六倍大展示写真その他写真月報、現住民小国民学校用教材「写真日本」フイチヤア通信等、写真を媒体とする活発なる宣伝啓蒙戦を展開、また国内に対しては、戦ふ銃後の羅針盤として絶讃を博する情報局発行「写真週報」の写真製作を始め、グラフ叢書、各種の国策写真展、写真幻燈、写真紙芝居、写真移動展等々、新構想による「写真も兵器なり」の実践を躬行して総力戦への有力なる一翼を担当することゝなつた」。
記事に掲載されている、日本写真公社の評議員のリストを見ると、実際に国策報道写真や対外宣伝雑誌などに携わっている組織の役員の名前がずらりと並んでいる。たとえば、「国際文化振興会専務理事 伯爵 黒田清」「山端写真科学研究所々長 山端祥玉」「国際報道工芸株式会社専務取締役 飯島実」「東方社理事長 林達夫」「日本移動展協会専務理事 山田長司」「日本幻燈株式会社取締役 松本俊一」といった面々である(大宅壮一の名も一番最後に見える!)。また、専門委員には、新聞各社と同盟通信社の写真部長の名前が並んでいる。イメージ 3
「写真宣伝の中枢機関 日本写真公社の発足――新機構と陣容決る――」『日本写真』44年7月号(日本写真公社、活版印刷)
 
本文記事は、大日本写真報国会との連繋についても記している。
「なほ、当公社発行に係る月刊雑誌「日本写真」は、大日本写真報国会(当社丸の内分室内)と緊密なる連繋の下に、戦ふ写真人の育成指導に当り、また全国に配置した撮影嘱託網と共に、報道写真家への連絡部門も新設して写真戦士の総動員態勢を確立、技術部門についても、天然色研究室を特設して、これが研究普及に当ることゝなつた」。
つまり、日本写真公社という組織は、実際的な「写真宣伝」の仕事を担う一方で、大日本写真報国会を指導する立場にあったことがわかる。
そこで、日本写真公社が写真製作を担当する『写真週報』344号(1944年10月25日)から、大日本写真報国会による慰問写真撮影の記事「写真が結ぶ前線銃後」を見てみよう。写真で見る内容は、『報道写真』44年2月号の「軍人援護と写真」(43回参照)と大筋は変わらない。大日本写真報国会では、「数年来軍事保護院の指導の下に、写真慰問を続け、既に何十万枚かの家族の写真を戦地に送つた。これを受け取つた兵隊さんたちの喜びに満ちた感謝状は、本部の倉庫にうづ高く山をなしてゐる」と枚数を挙げているが、これはあまりに大雑把すぎる数字だ。イメージ 4
「写真が結ぶ前線銃後」(『写真週報』344号、1944年10月25日、グラビア印刷)。「これは軍人援護に盡す『戦ふ写真』の微笑ましい一面である」と記されているが、すでに戦局は「微笑ましい」などという状況ではなくなっていたはずだ
 

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残っていた月刊の写真雑誌のもうひとつは、『報道写真』である。1944年3月号の「編輯後記」で、「なほ本誌は五月号より「日本写真」と改題し、唯一の写真綜合雑誌として新発足をするが、その準備の為四月号は休刊とする」と告知している。
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『報道写真』1944年2月号と3月号表紙(いずれも財団法人写真協会、B5判、活版印刷)。表紙用紙が、2月号は上質紙、3月号はコート紙なので、インキの乗りが違うのが一目瞭然である。2月号では、雑誌名の表記は右から左へ、発行所名は左から右へと、方向が逆になっている。
 
3月号の『報道写真』は本文70ページだったが、5月号の『日本写真』は本文60ページで、1割以上の減ページである。その上、6月号の『日本写真』から、発行元の財団法人写真協会は、財団法人日本写真公社と名称を変更する。6月号巻末の「編輯室」には、「写真協会も国内態勢整備強化の方策に対処して、その名称を日本写真公社と改めた。内外に対する写真宣伝の中枢組織として今後の活躍は全写真界の為に大いに期待されるものがあらう」と記されている。
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『日本写真』44年5月号表紙(財団法人写真協会、B5判、活版印刷)と6月号表紙(財団法人日本写真公社、B5判、活版印刷)。
 
なおかつ6月号「社告」では、「「オリエンタル・ニユース」並に「写真と技術」は出版事業の企業整備に即して、此度夫々の発行元東洋写真工業株式会社と富士フイルム工業株式会社から、財団法人日本写真公社に献納された」と、小さな2つの雑誌が『日本写真』に合併されたことを告げている。
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「社告」『日本写真』44年6月号(B5判、活版印刷)。「オリエンタル・ニュース」と「写真と技術」が『日本写真』に合併されたことを告げている。
 
さて、ここ数回にわたって、『アサヒグラフ』『写真週報』『同盟グラフ』『写真文化』『報道写真』の改題や体裁の変更、統合などを見てきた。これらの動きの背景には、出版社・雑誌の統合と、写真団体の統合という、大きな流れがある。
 
出版社統合の流れは、43年11月4日に「出版事業整備要綱」の決定だ。「整備」というが、実体は出版社統合の強制である。
「出版事業整備要綱」を伝える11月5日の『朝日新聞』1面記事は、「出版業の国家性昂揚 決戦即応、整備要綱決る」という見出しを掲げている。
「政府は四日の繰上閣議に「出版事業整備要綱」を附議、天羽情報局総裁より内容を説明ののち決定した、右要綱は戦局苛烈なる現情勢に鑑み、国家の綜合戦力増強の見地より出版事業をしてこれが公的性格を明確ならしめ、出版事業における人的物的両面の総力をあげて皇国文化の発揚と戦意の昂揚をはかり、内に戦力を増強し、外に対外宣伝の強化完璧を期する目的のもとに出版決戦体制の確立を期せんとするものである」。
同じ11月5日の『朝日新聞』3面の解説記事には、「書物も弾丸だ 「実績」にとらはれず「性格」で整備 出版界の〝戦時決定版〟」という見出しがつく。記事の書き出しは、「別面所報のやうに「出版事業整備要綱」が、四日の閣議で決定した、しかしこれは単に出版業者を減らすための措置ではなく、真に書物も弾丸だ!との見地から、出版界そのものに秩序と体系を与へ、企画力も実践力もあり、しかも公的性格の出版所のみにしようとするところにある」。
つまり、国策に合致する出版社だけに絞るという建前だが、結論が出るのに数ヶ月かかった。統制団体「日本出版会」で調整され、結論が出たのは、44年春である。
『日本出版年鑑 昭和19.20.21年版』(日本出版協同、1947年)によると、「書籍はその後の追加を含めて大体二〇三名、雑誌は九九六名となり殊に前者は以前の十八分の一に縮減されるに至つた」という。
前述の『日本写真』(『報道写真』改題)に、「オリエンタル ニュース」と「写真と技術」の2誌が合併されたのは、この流れに沿った動きであった。ちなみに、『写真科学』の版元であるアルスも、兄弟会社であるアトリエ社、玄光社など4社と統合して、北原出版となっていたはずだが、『写真科学』44年9月号を見る限りでは、写真原稿募集の宛先は北原出版、奥付はアルスとなっていて、ちぐはぐだ。

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1944年4月、週刊グラフ誌『アサヒグラフ』と『写真週報』が、同時に体裁を変えて「戦時版」になった前後に、月刊のグラフ系雑誌や写真雑誌でも、改題や統合などが続いていた。
国策通信社である社団法人同盟通信社から刊行されていた月刊の『同盟グラフ』(40年4月創刊、菊倍判、のちA4判)では、44年1月号巻末に、改題の告知が掲載された。「本誌『同盟グラフ』は次号から『大東亜報』と改題いたします。それと同時に、発行を毎月一日十五日の二回発行 体裁をB5判本文四十八頁(総グラビア紙) 定価を一部五十銭(送料二銭)と変更いたします」。
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『同盟グラフ』1944年1月号表紙(A4判、活版印刷)と、『大東亜報』44年2月1日号表紙(B5判、活版印刷)。
 
『同盟グラフ』最終号である44年1月号は、表紙は写真版(活版印刷)だが、定番の赤・墨の2色印刷である。本文72ページのうち16ページがグラビア印刷、8ページがコート紙を使った写真版(活版印刷)で、「グラフ」の名前を持つわりには、写真密度は高くない。『大東亜報』と改題された最初の号(44年2月1日号)は、実際には予告と違い、32ページがグラビア印刷、残りは活版印刷だ。活版ページのインキ濃度は低いが、むらのない印刷である。しかし、グラビアページは、インキが水溶性なのか、目詰まりを起こし、インキの掻き落としがうまくいかずに筋がついたりしている。印刷資材不足を強く感じさせる刷り上がりだ。
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『大東亜報』44年2月1日号のグラビア印刷は、緑色系インキで刷られている(活版は、茶色系インキである)。水性インキを使用したのだろうか、グラビア印刷の本来の調子が出ていない。
 
写真雑誌は、すでに「出版新体制」のなかで、41年1月号から『写真文化』(アルス)、『アサヒカメラ』(朝日新聞社)、『報道写真』(写真協会)、『写真日本』(明光社)の4誌に統合されていた(40回参照)。『写真日本』は41年2月号で休刊、『アサヒカメラ』も42年4月号で休刊となって、残るは『写真文化』と『報道写真』だけだった。
赤・墨の2色印刷の表紙だった『写真文化』が、『写真科学』に改題したのは、少し早く、43年11月のことで、それも突然だった。『写真文化』43年10月号に「『写真科学』の新発足に際して」というアルス社長・北原鉄雄による宣言を載せるが、「この予告なき突如たる本誌の大転換」と書くように、赤い字(印刷も荒い)で急遽印刷し製本に間に合わせたらしく、「編集後記」でも触れていない(改題した『写真科学』43年11月号には、同じ宣言を墨文字で印刷している)。宣言の前ページには、「我々は時局の要請にしたがつて卒(ママ)先、写真をもつて科学戦、生産戦の部門への突撃を開始し、本誌をもつてその指導機関たらしめようとする」とあり、業界の先陣を切りたいという意欲が見える。
戦後になってから、北原は、「十八年になり政府はこの重大危機にあたり文化なんか生ぬるいことを云つている時ではない。よろしく写真をもつて国家に協力せよ、誌名は「写真科学」と改めるよう命令し、もし命にしたがわぬ場合は即時発行を禁止するとのお達しで、止むを得ずその命にしたがい続刊したのであります」(「CAMERA創刊三十五周年に際して」『カメラ』56年4月号)と記しているのだが……。
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『写真文化』43年10月号表紙(B5判、グラビア印刷+活版印刷)と、『写真科学』43年11月号表紙(B5判、活版印刷)。
 
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北原鉄雄「『写真科学』の新発足に際して」を掲載する『写真文化』43年10月号(上、活版印刷)と、『写真科学』43年11月号(下、活版印刷)。
 
『写真科学』43年11月号の「『写真科学』の新発足に際して」の次ページには、「日本写真報国会の結成 全国写真団体の一元的統合いよいよ成る」という記事(役職員名簿も見える)を載せているが、これも、業界の先陣を切りたいという意欲の表れのような記事だ。「本号が市場に出る頃には最早各関係官庁側の出席を得て結成式が挙行された筈である」と記されているが、実際の発会式は、数ヶ月先の44年3月29日であり、団体の名も「大日本写真報国会となったのだから、ほとんど誤報記事なのである。12月号を休刊した次号(44年1月号)に、「本誌前号発表の日本写真報国会記事のうち理事氏名は都合により取消し、決定後改めて報告します」とある。12月号休刊の理由も、「用紙の関係で休刊」と記すのみだが、ひょっとすると、誤報記事で先走ったことに対するペナルティーなのか。『写真科学』44年5月号掲載の「大日本写真報国会」名簿によると、北原鉄雄は役員にはなれず、特別会員の中の維持会員の一員である

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前回、合成写真の例として挙げた『アサヒグラフ』1945年3月7日号は、墨版だけの表紙だったが、そこに至るまで、表紙やページ数は何回も変化している。
40年11月、『アサヒグラフ』は、それまでの表紙のカラー印刷(四六4倍判、表紙とも36ページ、表紙厚み0.10ミリ、本文0.07〜0.08ミリ)をやめて、地味な単色の表紙にするが、サイズは四六4倍判と変わらず、中途半端に国策に先回りしている感があった。実際には、本文共紙にすることで、4ページ減(表紙とも32ページ)としただけでなく、グラビアとオフセット併用で手間のかかる印刷をしていた厚い別紙の表紙をやめたので、用紙節約とコストダウン効果が相当あったはずである。
次には、41年1月に、ほんの少しだけ小さな「新体制規格版」(B4判、表紙とも32ページ、厚み0.07〜0.08ミリ)になる(37回参照)が、地味なモノクロ表紙のおかげで、雑誌の位置づけもはっきりせず、アピール性も弱いままであった。
朝日新聞社の雑誌が、国策に沿う方向性をはっきり打ち出してきたのは、ちょうど40年秋のことだ(40回参照)。40年10月に『映画朝日』を廃し、11月に『航空朝日』創刊。41年11月に『科学朝日』創刊。42年4月に『アサヒカメラ』を廃して、5月に『週刊少国民』創刊、といった具合に、戦争遂行に役立つ雑誌にシフトしていく。そんな流れのなかの41年7月、『アサヒグラフ』も、国内向けの国策グラフ誌という位置づけを鮮明にする。大きく変わったのは、表紙の印刷である。題字まわりと足元に朱色を配するデザインになって、厚みのある表紙が復活するが、同時に減ページも行なわれた(表紙とも28ページ、表紙厚み0.11ミリ、本文0.09ミリ)。朱と墨という色遣いは、ロシア・アヴァンギャルド以来のプロパガンダの定形であるが、ここでは、『LIFE』を意識したものだと考えるのが自然だろう。ちなみに、墨版はグラビア印刷だが、朱色は社外のオフセット印刷工場に依頼していた(23回参照)。
『アサヒグラフ』表紙の墨+朱の2色印刷は2年半続いたが、総ページ数は28→24→20と徐々に減っていた。44年4月5日号からは、再び別紙の表紙をやめ、本文共紙にして単色の表紙にするが、4ページ減(表紙とも16ページ、厚み0.10ミリ)となる。ちょうど「新体制規格版」になったときの半分のページ数である。雑誌名の横に「画報雑誌」という部門別の文字が入るという変化もあった(45年1月17日号で終わる)。裏表紙の下には、すでに43年12月から回覧用の捺印・署名欄が設けられ、「廻読が済めばスグ戦地の兵隊さんに送つて上げませう」と、慰問品としての再利用を勧めていた。手触りやツヤなど、グラビア用紙の質にばらつきが目立つようになるし、この先、厚みもだんだんと薄く、0.07ミリくらいになる。
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『アサヒグラフ』の2色刷り表紙最終号となった1944年3月29日号表紙(B4判、グラビア印刷+オフセット印刷)と、単色になった4月5日号表紙(B4判、グラビア印刷)。
 
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『アサヒグラフ』44年3月29日号と4月5日号の裏表紙。広告の下に、回覧用の捺印・署名欄が設けられている。
 
『アサヒグラフ』の外観とページ数が変わった44年4月、用紙不足を背景にして、他誌も同様な変更を行なっている。
当時、週刊のグラフ誌は、『アサヒグラフ』(B4判)以外は、「国策のグラフ」を謳う情報局編輯、印刷局発行の『写真週報』(38年2月16日創刊、当初は内閣情報部編発行、A4判)だけだった。イメージ 4
『写真週報』表紙(A4判、グラビア印刷+オフセット印刷)。左から創刊号(38年2月16日)、2号(38年2月23日)、3号(38年3月2日)。
 
『写真週報』314号(44年3月22日)の「『写真週報』戦時版のお報らせ」で、「本誌は来る四月五日号から現在の大きさの倍のA3版総グラビア刷八頁(戦時版) として発行することになりました。戦局の要請にもとづきこれによつて用紙の節約をはかるとともに新構想のもと(略)着々と準備を進めてをります。御期待下さい。尚次の三月二十九日号は休刊いたします」と告知をしている。創刊当初は総グラビア印刷だった『写真週報』も、このころは表紙とも20ページのうち、本文8ページは活版印刷になっていた(表紙厚み0.12ミリ、グラビア本文0.10ミリ、活版本文0.12ミリ)。
2週後の315号(44年4月5日)から大判の「戦時版」になり、それまでは表紙裏に掲載されていた「時の立札」と呼ぶスローガンが、表紙に大きく刷られるようになる。A3判8頁になっても、大幅な用紙節約にはならないが、針金で綴じない体裁なので、A2判の紙2枚にばらすことができた(表紙厚み0.12ミリ、本文0.10ミリ)。「本誌を読まれた後は、隣組や職場で回覧するばかりでなく、表紙や見開きの写真頁を、職場や校庭の掲示板などで「壁写真新聞」として是非活用して下さい。戦時版の狙ひもこゝにあります。また前線慰問にも送つてあげて下さい」と、壁新聞としての掲示が奨励されていた。
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『写真週報』314号表紙(44年3月22日、A4判、グラビア印刷+オフセット印刷)と、
315号表紙(44年4月5日、A3判、グラビア印刷+オフセット印刷)。315号から、「時の立札」が表紙に掲載されるようになった。3月29日の号は休刊。
 
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『写真週報』314号裏表紙(44年3月22日)では、回覧し、前線慰問に活用することを勧めている。315号裏表紙(44年4月5日)は、広告を載せない体裁になった。広げるとA2判になる大きさを活用して、壁写真新聞として掲示することが勧められている。

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