少年期とプロ野球

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

そして日本シリーズ

1962年 前半戦ぶっちぎりの快進撃を続けた東映フライヤーズはチーム創設以来、初めてのパリーグ征覇を成し遂げました。

最終的には南海ホークスを振り切っての偉業でしたが、前半の大きな貯金がモノを言っての首位だったようです。

この年の私のプロ野球の記憶は開幕時の尾崎行雄だけだったようです。彼の鮮烈なデビューはやはりたった9歳の私の脳裏にきちんと焼き付けられました。

そして、日本シリーズ以降の東映フライヤーズについてのシーンはいくつかが断片的に思い起こされます。

その当時、世田谷に住んでいた同い年のいとこは阪神のファンでした。
私はパリーグ以外にはほとんど選手の名前も知らない野球少年でしたので、いとこが語る阪神というチームの選手が名前も新鮮でそのプレーぶりに関する話も好きでした。

もっと幼いころは「なぜ、東映と阪神は試合をしないのか?」という漠然とした疑問も持ちながら、幼いゆえ解決もしないでいたようです。

そんな私にとって別の世界にいるような阪神タイガースとこの秋日本シリーズで雌雄を決することになったのです。

いとこからの常日頃の情報で私が知っていたタイガースの選手は、村山、小山の投手陣と吉田、鎌田、三宅、安藤の野手陣。
そのほかには、ソロムコとかバッキー(投手)という変な名前の外国人選手がいました。

そして、始まった1962年の日本シリーズは、阪神の2連勝で始まり、その後は引き分けを挟んで東映が4連勝という逆転のシリーズになりました。

シーズン優勝の立役者尾崎行雄は、このシリーズでは殆ど出番もなく、記録に(1敗)を残しただけで終わりました。

土橋正幸、種茂雅之のバッテリーは以後も含めて記録にない2人のシリーズMVPに選ばれました。

賞品の発売したばかりの日本初の国産高級乗用車「トヨペットクラウン」のボンネットの左右に腰掛けた写真は
翌日の新聞を飾り、その構図の記憶も長い間私の中に残っています。

敵地甲子園球場(第7戦目)で優勝を決めた選手たちは、翌日帰京して球団のオーナーの自宅のある場所までパレードをします。
大川博オーナーは、東映映画の社主でもあり、絶対権限のあるワンマンオーナーとして君臨した人でしたし、宣伝目的とは言えファンサービスを大切にする人でしたので、自らがフライヤーズのユニフォームを着て、オープンカーに乗りパレードを計画したのだそうです。

その大川オーナーの自宅が世田谷にあるのです。

その途中にあるのが、フライヤーズゆかりの地、駒沢なんです。

今では、曜日も時刻も定かではありませんが、私たち近所の野球少年には「東映のパレードがそこを通るらしいぞ」という噂がどこからか入ってました。

その日、学校が終わってから、みんなで走っていた記憶はあります。
駒沢のほうのバス通りを走っていた記憶があります。

その次の記憶はパレードが通り過ぎていく記憶でした。
私が覚えているのは「毒島章一」キャプテンの顔を見た、ということたけです。

どこで、どういう形で、まわりにはどれくらいの人がいたのか、あれは駒沢のどの辺りなのか、
全く覚えてません。
確かに「毒島」がオープンカーに乗っている姿を見た、のは間違いありません。

そんな思い出を残して、45年前の初の日本一の1962年のシーズンは終了しました。

1962年 日本一へ

(第7回)

1962年(昭和37年)の開幕カード、大毎オリオンズとの第二日目。
その後、シーズンを象徴する試合になるこのダブルヘッダーの第一戦を私と親父はスタンドで観戦していました。
小学校3年生になっばかりの私は神宮球場での初めての観戦でした。
当時は日曜日の13時開始のダブルヘッダーは普通に行われていましたので、小学校も親父の会社も当然のように週休1日制の時代。
デーゲームが見られるのは日曜日だけでした。

偶然だとは思えませんが、
親父がこの日に野球を見に連れて行ってくれたのも、前もって切符を手配しておいたのも。

結局はその試合が、尾崎行雄投手のプロデビューのゲームだったのです。

小学生の私でも尾崎の名前は充分に知っていましたし、前の年の甲子園で彼の浪商(大阪)と後の読売ジャイアンツの柴田勲(神奈川法政二高)との有名な決勝戦もテレビでみていた記憶もあります。

そんな尾崎が東映フライヤーズに入団してくることも知っていました。

しかし、私が神宮球場に行ったその日が最初の登板日だとは知っていたとは思えません。
ただ、親父が話の中で「今日は尾崎が投げるかもしらんぞ」とは言っていたかもしれません。

けれども、その日の彼の「初舞台」のうちの一つのシーンは、今でもはっきりと覚えています。

それは、

大毎オリオンズの「ミサイル打線」を象徴するクリーンアップ、田宮謙次郎、山内一弘、葛城隆雄との対決でした。
この3人を次々に速球で空振り三振にしとめたシーンは、今でもその光景を目に焼き付けたままですし、あの歓声を耳に残しています。
それが、最初の対決だったのか、試合の中のどこかであったのかはもおう定かではありませんが、
打順から考えて初打席の対決ではないことはわかりますので、試合中の何回目かの対決が3番からの打順だったのでしょう。

野球少年にとっての投手のヒーローは「打たせて取る技巧派」では決してありません。その後もずっとそうであるように「三振をバッタバッタと取るピッチャー」なのです。
それも「空振り三振」こそが投手の最高の勝利なのです。
オリオンズの強打者を「バッタバッタと空振り三振に切って取った」。
その記憶が怪童尾崎行雄のシーンとして今でも残っています。

そのとき尾崎は弱冠17歳でした。

そしてその年彼は20勝して、フライヤーズの日本一奪取に大きく貢献するのです。

私がもう一つ尾崎のまつわる出来事で記憶に残っているのは、その年の夏前のことです。
その日、親父がいつも読んでいるスポーツ新聞を覗き込んでいました。
「尾崎18勝」という言葉が、これも、今でも見出しの活字書体まで含めて覚えていることです。

確かに数年前には西鉄ライオンズの稲尾和久投手が42勝という驚異的な年間勝利数を記録していますし、南海ホークスの杉浦忠投手も35勝を、そして東映では土橋正幸投手が30勝を前年記録したばかりです。
もちろん投手分業制もない時代でしたので、連投連投は実際に行われていました。
それで尾崎行雄のルーキーイヤーの20勝なのです。

が、私が「尾崎18勝」の見出しを見たのが「オールスター戦前」の時期だったのです。

つまり、彼は前半戦、八面六臂の活躍をして7月までに18勝しましたが、うって変わって後半戦はわずかに2勝しかできなかったということです。

確かにプロの打者が彼の投球に慣れてきた、ということもあるとは思います。
後半戦のチーム状態が前半の「ぶっちぎり状態」ではなく、南海を始め後続のチームの追い上げが
激しかったのも事実です。

しかし、私はこのデビュー早々に17歳の剛速球を投じるピッチャーに酷使を重ねたことが、
彼の選手寿命を縮めたのではないか、と今では思っています。

野球少年である私は、そんな事情は露知らず、
我が東映フライヤーズはリーグ優勝に向かってひた走ります。


つづく

怪童 尾崎行雄の登場

(第6回)

1962年(昭和37年)、この年東映フライヤーズは栄光を獲得します。

本拠地を駒沢球場から神宮球場、後楽園球場へと移しシーズンに入って行きます。

就任2年目にあたる水原茂監督と球団は前述のように大きな選手補強をしました。
既にエース格であった土橋正幸、久保田治らに加え、尾崎行雄、安藤元博が大卒、高卒の新人として加わりました。(もっとも尾崎は大阪、浪商高の2年中退でした。)

また、野手陣での大きな補強はセカンド青野修三とショート岩下光一の大学出の新人でした。

この年の先発レギュラーは:

ピッチャー 土橋、久保田、安藤、尾崎、冨永、橋詰

キャッチャー 安藤順三、種茂雅之

ファースト 山本八郎

セカンド 青野

サード 西園寺昭夫

ショート 岩下

レフト 張本勲

センター 吉田勝豊

ライト 毒島章一(主将)

いろいろ記憶と記録を辿ると、このような主力メンバーで後に日本一になるこのシーズンをスタートしました。

特筆すべきは、新人でいきなりローテーション投手に2人、そして重要な二遊間もルーキーをレギュラーとしていたことでしょう。

それ以外のスターティングラインナップも前年30勝を挙げた土橋を中心の投手陣と入団3年に至る天才打者張本を中心にした選手と、前年惜しくも南海ホークスの後塵を配し2位になり、しかし久しぶりのAクラスにした水原監督の手腕もあり、パリーグ全体でも優勝候補にあげられていたのです。
それに加えての大補強と順調なキャンプです。

ファンも含めて、開幕への期待はただならぬものがありました。

開幕の相手はライバル大毎オリオンズ、田宮、山内、葛城、榎本を擁する名づけて「ミサイル打線」。

親会社、オーナー同士のライバル心も激しく、神宮球場で開催されるこの開幕カードはメディアの注目度も高いものでした。

初戦はエース土橋の完投勝利。

そして第二戦目は私たち父子も神宮球場に出かけました。
その日は日曜日で、ダブルヘッダー。

今のように予告先発もスポーツ新聞の先発予想もありませんでしたので、恐らく長いことファンである親父の勘と予測もあったでしょう。

ダブルヘッダー第一試合で「あの」尾崎行雄が先発したのです。


つづく

駒沢の暴れん坊たち

(第5回)

話は遡りますが、水原茂が監督に着任する前には東映フライヤーズのチームカラーは規律、誠実、上品という言葉の対極を行くものでした。
いつも二日酔いの状態で試合に出場し、ホームラン王にまでなった大下弘に象徴されるような、よく言えば「ワイルド」「奔放」「野放図」な球団カラーでした。

この時期、大阪の浪速商業高校(いわゆる浪商)から入団した張本勲とその先輩であるレギュラー捕手の山本八郎はその「駒沢の暴れん坊」の最後のヒーローでした。

特に山本八郎選手には

試合中に主審を殴ったとか、相手捕手にバットで殴りかかったとか、暴力的な要素を含んだ話はつきませんでした。
喧嘩で怪我をした影響で捕手を出来なくなり、さりとて打棒は期待できるので中堅手にコンバートされたとか、試合中の暴力事件で数ヶ月の出場停止の処分を受けたとか。

われわれ野球少年には山本八郎選手の話題が次々と入ってきました。事実なのか噂なのかはわかりませんでしたが(事実らしいです)、「山本八郎」という名前は子供たちにとって、逆にヒーローのように受け入れられていたのです。

現に駒沢球場のナイターも、昨今の世田谷区の上品なイメージからは考えられない雰囲気を作りだしていたそうです。
私は親父に連れられて何度かナイターに足を運んでいましたが、後年親父が「子供を連れていく場所でなかった」と述懐していましたように「下品」な野次や相手チームの選手に投げられる罵詈雑言に満ちていたそうです。

結局私は子供でしたので、殆どの下品な言葉などが理解できるはずもなく、ただ回りから飛び交う様々な声音や音量のセリフが無邪気に楽しかったことを覚えています。

特に罵詈雑言の標的にされていたのは、南海と西鉄の選手たちで、中でも南海の野村捕手と西鉄の高倉外野手は手ひどくやられていて、その個人攻撃を子供心にむしろ喜んでいた自分を思い出します。

山本八郎選手は私のヒーローでした。
サラリーマン家庭に育って、しかも周囲に「怒鳴りあうような環境」も体験せずにいた私にとって、やはり「怒鳴ったり」「殴ったり」という感情の表し方を目の前でしているというのは「憧れ」だったのでしょう。
子供がプロレスや格闘技などのある種の暴力性に魅力を感じるのは今でもあります。

「背番号8」はいつでも私はユニフォームに付けていました。

ある時、その頃では珍しい「東映のレプリカユニフォーム」の子供用が親父の勤めている百貨店で売り出したという話がありました。
早速、野球少年たちは話し合い、少々高額だけど、親にねだってみようということになり、
それぞれの背番号を決めようということになりました。
張本勲の10、西園寺昭夫の7、吉田勝豊の9、毒島章一の33などが多くの要望を集め、中には長島茂雄が好きだから3、というのもあり(当時の東映では3は巨人から移籍してきた坂崎選手だった)、
外国人選手ながらその時点ではヒーローの一人だったラドラ選手の44番というヤツもいました。

もちろん私は山本八郎の8番にしました。


しかし、水原監督を招聘した球団とオーナーの深慮は別のところにあったようです。
もちろん後で聞いた話ですが、
球団は「野武士」のような球団イメージを変えたかったらしいのです。

かつて六大学野球で鳴らした慶応ボーイの水原は、更に加えて「紳士たれ」といわれる球団の監督を選手時代も含めて長年続けていました。
東映本社と東京急行電鉄は経営するプロ野球の球団イメージを「暴れん坊」から「洗練された」ものに変えたかったのでしょう。

その結果、わが愛する山本八郎選手は「マイナスイメージ」の象徴として除々に中心選手から外れていき、数年後に近鉄バッファローズにトレードされてしまうのです。

そんな変換期でした。
そんなころチームは駒沢をあとにしました。




つづく

黄金時代へ

(第4回)

水原監督が東映フライヤーズの監督になるというニュースと、駒沢球場が取り壊されるという情報は、記憶の中ではほとんど同じ時期に我々野球少年の耳にはいったような気がします。

もちろん、大人の世界ではそれぞれもっと早い時期に知らされていたのだとは思いますが、子供たちに入るまでの情報は、その時代ではあまり迅速性がありません。
そのかわり、一旦子供にニュースが入ると、その後のクチ込み情報のスピードは目を見張るほどでした。

私たちには駒沢球場でプロ野球を見ることができなくなることはもちろん悲しいことでしたが、
あの有名な、読売で優勝したこともある水原茂監督が「東映の」監督になって、東映を強いチームにしてくれるのが何よりも嬉しかったのです。

その頃のパリーグは、西鉄、南海、大毎の3強時代で、東映は辛うじてそれに続き、阪急、近鉄はそれぞれ5位6位が指定席でした。
南海には、鶴岡監督のもと、杉浦、皆川、スタンカ、三浦などの投手陣と野村、広瀬、小池、寺田などがいました。
西鉄は、三原監督のもと、中西太(後に監督)、豊田、高倉、仰木などの野手陣と稲尾を中心とした投手陣が充実していました。
大毎は、なんと言っても山内、田宮、榎本、葛城の強力打線が西本監督に率いられていました。


1961年の水原監督の率いた東映は、上位に早速進出しました。
最終的には南海に続いて二位に終わりましたが、万年Bクラスのチームにとって、まずは充分な生まれ変わりでした。

そんな中で東映は新たに1962年のシーズンに向けて充分な選手補強をします。
土橋、久保田の投手陣に早大から安藤元博を獲得し、さらに世間を賑わした補強は「まだ高校生の」尾崎行雄を大阪・浪商から獲得しました。
野手陣は張本、山本八郎、吉田勝豊、毒島章一、ラドラの外野手は充実していましたが、
内野は西園寺昭夫以外には戦力が足りません。
そこで青野修三、岩下光一の大学生を二遊間の守備補強で獲得しました。

充分な補強費用を親会社の東映、大川博オーナーから供給され、チームの戦力、ムードも格段に充実していくのです。


そして、本拠地も神宮球場に移した東映フライヤーズの1962年度のパリーグが開幕します。

われわれ子供たちにとっても、優勝するかもしれない「東映」はますます目が離せないチームであり、駒沢にはいなくなってしまうけれど、依然として「最愛の」チームでした。



つづく

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
suz*ta*e4*ibe*
suz*ta*e4*ibe*
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事