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1962年 前半戦ぶっちぎりの快進撃を続けた東映フライヤーズはチーム創設以来、初めてのパリーグ征覇を成し遂げました。
最終的には南海ホークスを振り切っての偉業でしたが、前半の大きな貯金がモノを言っての首位だったようです。
この年の私のプロ野球の記憶は開幕時の尾崎行雄だけだったようです。彼の鮮烈なデビューはやはりたった9歳の私の脳裏にきちんと焼き付けられました。
そして、日本シリーズ以降の東映フライヤーズについてのシーンはいくつかが断片的に思い起こされます。
その当時、世田谷に住んでいた同い年のいとこは阪神のファンでした。
私はパリーグ以外にはほとんど選手の名前も知らない野球少年でしたので、いとこが語る阪神というチームの選手が名前も新鮮でそのプレーぶりに関する話も好きでした。
もっと幼いころは「なぜ、東映と阪神は試合をしないのか?」という漠然とした疑問も持ちながら、幼いゆえ解決もしないでいたようです。
そんな私にとって別の世界にいるような阪神タイガースとこの秋日本シリーズで雌雄を決することになったのです。
いとこからの常日頃の情報で私が知っていたタイガースの選手は、村山、小山の投手陣と吉田、鎌田、三宅、安藤の野手陣。
そのほかには、ソロムコとかバッキー(投手)という変な名前の外国人選手がいました。
そして、始まった1962年の日本シリーズは、阪神の2連勝で始まり、その後は引き分けを挟んで東映が4連勝という逆転のシリーズになりました。
シーズン優勝の立役者尾崎行雄は、このシリーズでは殆ど出番もなく、記録に(1敗)を残しただけで終わりました。
土橋正幸、種茂雅之のバッテリーは以後も含めて記録にない2人のシリーズMVPに選ばれました。
賞品の発売したばかりの日本初の国産高級乗用車「トヨペットクラウン」のボンネットの左右に腰掛けた写真は
翌日の新聞を飾り、その構図の記憶も長い間私の中に残っています。
敵地甲子園球場(第7戦目)で優勝を決めた選手たちは、翌日帰京して球団のオーナーの自宅のある場所までパレードをします。
大川博オーナーは、東映映画の社主でもあり、絶対権限のあるワンマンオーナーとして君臨した人でしたし、宣伝目的とは言えファンサービスを大切にする人でしたので、自らがフライヤーズのユニフォームを着て、オープンカーに乗りパレードを計画したのだそうです。
その大川オーナーの自宅が世田谷にあるのです。
その途中にあるのが、フライヤーズゆかりの地、駒沢なんです。
今では、曜日も時刻も定かではありませんが、私たち近所の野球少年には「東映のパレードがそこを通るらしいぞ」という噂がどこからか入ってました。
その日、学校が終わってから、みんなで走っていた記憶はあります。
駒沢のほうのバス通りを走っていた記憶があります。
その次の記憶はパレードが通り過ぎていく記憶でした。
私が覚えているのは「毒島章一」キャプテンの顔を見た、ということたけです。
どこで、どういう形で、まわりにはどれくらいの人がいたのか、あれは駒沢のどの辺りなのか、
全く覚えてません。
確かに「毒島」がオープンカーに乗っている姿を見た、のは間違いありません。
そんな思い出を残して、45年前の初の日本一の1962年のシーズンは終了しました。
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