今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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7月2日、薩英戦争

 平成18年7月2日(日)昨夜:巨人が勝った。上原2ヶ月ぶりの3勝目(4敗)

 1863年7月2日、薩英戦争が起こりました。(薩摩と英国)

1853年、ペリー来航、開国。(虚勢ばかりの攘夷論が盛ん)
1861年、イギリス公使館襲撃事件。(横暴なる英国への不満爆発)
1862年、生麦事件。(薩摩の島津久光、敢然と士道を貫く)
1863年、薩英戦争。(英国の想定外の開戦が、英国の大失態を招く)
1867年、大政奉還。(最後の将軍・慶喜の大英断)
1868年、王政復古の大号令。(畏れ多くも畏くも、天皇をダシに政権奪取)

 ○ 生麦事件(1862年<文久2年>8月21日)

 薩摩の島津久光が江戸から京都への帰国途中、生麦村(現横浜市鶴見区)を
通過のさい、行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら
4人を殺傷した事件。

 島津久光は勅使・大原重徳と供に江戸に東下、幕政改革の朝命を伝え、京都
へ戻る途中でした。(島津久光は政界から退けられていた一橋慶喜と松平慶永
を復帰させようとし、慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老に任命することを
朝廷を通して幕府に要求した。)

 江戸高輪の薩摩藩下屋敷を、午前10時頃出発した久光の行列約七百人が生麦
村にさしかかったのは午後2時。チャールズ・レノックス・リチャードソン、
マーガレット・ボロデール夫人、ウッドソープ・C・クラーク、ウィリアム・
マーシャルの4人の英国人が街道を乗馬で散策中に久光の行列に出会った。

 行列の先頭の家士が「馬から降りろ。脇へ寄れ!」と注意するが、日本語が
通じないため、行列の中に乗り入れてしまいました。供頭の奈良原喜左衛門が
駈けだし、大刀を抜きざま、「きぇーっ!」と気合いを掛け、飛び上がって、
リチャードソンの左胴から腹を斬り下げました。リチャードソンははみ出した
腸を押さえながら逃げようとしましたが、久木村利久という家士に同じ箇所を
さらに斬られて落馬。とどめを刺されました。

 クラークとマーシャルも斬られて肩や腕に傷を負うが、ボロデール夫人と共
に逃走。クラークとマーシャルは神奈川宿のアメリカ領事館(本覚寺)に助けを
求め、ボロデール夫人はそのまま横浜のイギリス公使館に向かいました。

 リチャードソンは上海から日本に来たばかりで、日本人は中国人同様に鞭を
上げれば逃げ散ると思っていたようです。彼らより先にバンリードというアメ
リカ人がこの行列に出会っているが、彼はすぐに馬から降り、道端に馬を押さ
えて膝をつき、脱帽して礼を示しました。バンリードは後に事件を知り「彼ら
は傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」と言った。

 事件を知った横浜在住のイギリス人達は激昂し、島津久光一行を追撃し報復
すべきだと騒ぐが、イギリス代理公使ジョン・ニールは懸命に彼らを押さた。

 神奈川奉行はただちに、島津久光一行に英国人殺害犯人の処罰を要求するが
薩摩側は「浪人が英国人を殺害した」「足軽某(架空の人物)が殺害し、遁走
した」と言い残して出立してしまう。この態度に神奈川奉行は憤慨し、幕府に
島津家を罰することを進言。幕閣の中にも「薩摩は幕府を困らせるために異人
斬りをやったのだ。薩摩を討つべし」と言う者がいたが、幕府は薩摩ともめる
ことを恐れ、結局はイギリス代理公使ニールからの謝罪と賠償金の要求を受け
入れることになる。翌文久3年5月9日、幕府は賠償金11万ポンド(うち1万
ポンドは東禅寺事件の賠償金)を支払いました。

 ○ 薩英戦争(1863年<文久3年>7月2日)

 文久3年5月、幕府から生麦事件の賠償金を受け取ったイギリス代理行使・
ジョン・ニールは、更に薩摩藩と直接交渉するために、同年6月27日クーパー
提督率いるイギリス艦隊7隻(旗艦ユーリアラス号2371t)に同行して鹿児島
湾に遠征。薩摩藩に犯人の逮捕処罰と被害者、遺族への賠償金2万5000ポンド
を要求するが、薩摩側は拒否。

 7月2日、イギリスは薩摩の汽船3隻の拿捕を手始めとし、薩英の間で砲戦
が開始された。暴風雨の中、英国艦隊と薩摩の陸上砲台の間で、激しい砲戦が
展開。鹿児島城下北部が焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けました。
イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷する損害を出しました。

 備砲の射程はイギリス軍艦の方が遥かに上回っていたが、イギリス側は慢心
から安易に薩摩側の射程距離内に碇を下ろす。幕府の唯々諾々の応対振りから
薩摩が抵抗するとは、つゆも思わなかったのだ。一方、薩摩藩は二週間ばかり
前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきた為に、正確に狙い
撃ちできた。(英国の失態は戦史に残るほどの不名誉なものだった。)

 イギリス艦隊は翌3日、桜島を砲撃しながら撤収。損傷艦を応急修理して、
鹿児島湾を去り横浜に戻る。薩摩は甚大な被害をこうむったものの、大英帝国
の威信も深く傷ついた。9月28日から、横浜のイギリス公使館でニールと講和
談判がおこなわれ、薩摩藩は2万5000ポンド(6万三百余両)を幕府から借用
して支払うことで、10月5日、和議成立。

 薩摩藩の満額回答の背景には、久光の賢明な判断があった。「無謀ノ攘夷ハ
不可」と。この戦闘以後、薩英は互いの評価を改め、親密感が生まれる。薩摩
藩は、外国船をいたずらに攻撃したり、異人斬りなどの「小攘夷」の愚を知り
開国による富国強兵をおこない、外国に劣らない武力を備える必要性を悟った
のです。またイギリス公使パークスは、幕府にかわって薩摩などの雄藩が連合
政権を作ることを期待し、薩摩や長州を密かに支援するようになる。

 ※ いかに攘夷の薩摩といえども、英国に戦を仕掛けるのは、二の足を踏む
ところ。だが、ニールからの書簡が薩摩を激昂させた。生麦事件の謝罪と賠償
を求める文面だが、これを直訳したのが、幕府お抱えの福沢諭吉だった。

 「襲いかかりし諸人中、長立(おさだち)たる者らを速やかに捕らえ吟味して
女王陛下の海軍士官の眼前にて、その首を刎ぬべし」薩摩はこれを、久光の首
を差し出せと取る。久光は直ちに「粉骨砕身、夷賊ヲ誅伐セヨ」と檄を発す。

 なんの事はない、イギリスが求めたのは下手人の首であり、藩主をどうこう
する積りは全くなかった。福沢諭吉、じつに波乗りの達者な御仁である。

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 【若き薩摩の群像】薩英戦争後、イギリスに学ぶため、1865年に留学した
  薩摩藩士17人の銅像。(市電「鹿児島中央駅前」下車すぐ)

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薩英戦争の結果はイギリス本国に報告されました。
ビクトリア女王は交戦になるのではないかと懸念していたことが現実となり、英国議会の開会挨拶の中で、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明しています。

イギリス国内においては、英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会などがあり、各地で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられています。交戦時に砲台を壊滅する必要はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声であり、人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。

当時のニューヨーク・タイムズ紙は
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」と評した。

本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難した。

2017/3/31(金) 午前 4:41 [ トルコ観光旅行は安全で良かったよ ]


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