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平成18年7月9日(日)昨夜:岐阜長良川球場にて、中日が横浜に大勝! 落合夫人、ご来臨。 1945年7月9日、岐阜空襲がありました。(深夜〜未明、7.12深夜の二回 ) 旧市内の約八割が焼失し、863人が亡くなった。又、無縁の方々200余名が 上加納山の一角に埋葬されました。(戦災者慰霊墓) 焼失家屋は20.426戸。被災者は86.577に達し、当時の岐阜市人口の44%に 当たります。追悼のため、戦後三年たって「萬霊供養塔」が仏教会の 呼びかけで建立されました。 防火演習に取り組む住民、岐阜市忠節町 「岐阜新聞連載・企画、岐阜空襲・火の海から」 1945年(昭和20)7月9日の晩、空襲を受けた岐阜市民は火の手から逃げ惑い、家財を焼かれた。特に消火活動のため家に残った人、防空壕を信じて逃げ込んだ人たちは、そのために逃げ遅れ、多くの命が奪われた。当時15歳の石川光江さんは「『自分の家ぐらいは自分で守れ』と言われていて、まじめにそう思っていました」と今でも悔やむ。 自宅のある本郷地区で次々と火柱が上がる中、石川さん方はバケツリレーで消火に当たった。母親と姉が屋根に上り、石川さんが水の入ったバケツを渡す。屋根の上では焼夷弾から飛び散った油脂が燃えていたが、消せども消せども火は勢いを増した。周囲を見渡すと誰もいなくなっており、恐る恐る空を見上げると、炎に照らされたB29の腹が闇夜に浮かび上がった。不気味な光景だった。 近くの共同防空壕は人でぎゅうぎゅう詰めだったが、折り重なるように無理やり入った。三畳ほどの広さに何人いるかも分からず、どこかで赤子が泣きわめいていた。誰かが念仏を唱え、自分も唱えた。周囲の炎で中が熱くなり、煙が流れ込んできた。息ができないほど苦しく、意識が遠のきそうになり、防空壕を飛び出した。 一面の火の海。「生きたいというより、死にたくないという思い」で、逃げ場を求めて右往左往した。母親や姉と水路に飛び込み、腰の高さまである水につかり、分厚いふたの下に隠れた。焼夷弾の油脂は火が付いたまま、水路の中にも流れ込み、周りの人と手で水をかけて消しながら、ひたすら夜明けを待った。 石井智子さんはガラス屋の自宅で、父親と防空壕に逃げた。周囲に言われ、入らなければいけないと思っていた。街が真っ赤に染まる中、父親が「ここでじっとしとけよ」と言い、家の中に走っていった。うずくまっていたら、近所の「照ちゃん」という年上の少女が、「智ちゃん、こんなとこにおったらあかん」と怒鳴り、引っ張り上げてくれた。父親とはそれが最期になった。 バケツで水をかぶり、照ちゃんと逃げた。側溝で女性がうずくまっていた。腕は熱で赤く膨れ上がり、身動きできないようだった。女性は後に、そのまま死んでいるのを見掛けた。衣類が焼け、肌がただれて倒れた人が何人もいた。長良川までたどり着くと、河原は人であふれていた。その直後に焼夷弾の雨が降り注ぎ、河原はパニックになった。照ちゃんともはぐれていた。 川に布団を浮かべ、その下に隠れている人たちがいて、「助けて」と叫びながらそこへ逃げ込んだ。川の上を火の付いた油脂が、万灯流しのようにいくつも流れていた。生きた心地がせず、しゃがみ込んで合掌し、自然に念仏を唱えていた。米軍機の爆音は消え、岐阜の街は燃え尽き、いつしか夜が明けていた…。 (岐阜空襲取材班) 空が白み始めた長良川の河原に「うわー、うわー」と子供の泣き声が響いた。石井智子さんは川に浮かべた布団の下から、恐る恐る外へ出た。近所に住む幼い兄弟が泣いているのを見つけ、手を引いて岐阜市本郷地区の自宅に向かった。 一面の焼け野原に、ぽつんと焼け落ちた百貨店の建物だけが見える。1945年(昭和20)7月10日の朝、岐阜市の中心市街地は焦土と化していた。火がまだくすぶり、地表は熱かった。路面電車は焼夷弾の直撃を受け、ぺしゃんこに潰れていた。いろんな匂いが混じり、吐き気をもよおした。昼前ごろ、自宅の焼け跡に来た母親を見て、緊張の糸が切れたように涙があふれた。防空壕から逃げる時に、はぐれた父親の行方は、三日目に分かった。防空壕の中で何人か折り重なるように倒れていた遺体のうち、一番底で蒸し焼きになっていた。家の中に取りに行ったのだろう、夏なのに毛皮のチョッキを着ていた。 川瀬泰男さんは、同市西部にある母の実家まで逃げていたが、自宅に戻る途中、路上でいくつもの遺体を見た。逃げ切れなかった家族二、三人ずつが、あっち向いたりこっち向いたり。「みんなはれ上がってしまって、普段なら気持ち悪く感じたかも。だけど、あんなに何人も見ると、異常な状況だし、何も感じんもんやねえ」。自宅周辺は柱さえ残らず、土中から鉄の鍋など使える物を掘り出した。厳しい生活の始まりだった。 川瀬さん方は同市の周辺部で、竹を縄で縛ってバラックを組んだ。むしろと板で囲い、かまどを作り、一部屋に全員がごろ寝。ドラム缶に湯を沸かして風呂にした日もあった。祖母だけは元の自宅の場所に、一坪半の掘っ立て小屋を建て、新しく家が建つまで一人で頑張った。「明治生まれはみんな頑固だし、気丈だった」 石川光江さんは岐阜第一中学(現岐阜高)で、近所の一家と共同生活。狭い防空壕に十人ほどが、足を折り曲げて寝た。「あとになって『親類を頼ろうとしたが、嫌な顔をされた』という話をよく聞いた。その家も食うのに困っていただろう。今ならその気持ちも理解できる」。食事はどうしていたのか、とにかくひもじかった記憶ばかり。畑でカボチャを盗んで食べたこともあった。今でも良心が痛むが、命をつなぐことはできた。 空襲から約一カ月後の8月15日、「今日はありがたいお言葉がある」と聞いた時、近藤三郎さんは「本土決戦だ、竹槍だ」と思った。まさか全面降伏とは思ってもみなかった。玉音放送を聞いた後も「男や老人はみんな殺され、女は売春婦にされる」と思っており、多くの人に悲壮感が漂っていた。間もなく各務原市の基地に米軍が進駐した時は、女性や子供は山に逃げたという。 岐阜の街にも米軍の黒人たちが、ジープで遊びに来るようになり、小さな子供にガムやチョコレートを差し出した。「あれ?と思った。初めは怖かったが、確かにむちゃむちゃなことはしなかった。洗脳されてたんだなあ」。近藤さんたちにようやく終戦が訪れた。 (岐阜空襲取材班)
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私は、岐阜市の隣の大垣市で空襲に会いました。女学校の2年生の時です。家に焼夷弾が落ちましたが、幸いな事に不発弾でした。けれども2,3軒先まで火が移ってきたので、ひっしで消火活動をしました。お蔭で家は残りました。
2006/7/12(水) 午後 7:11 [ kaz*_51** ]