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暑鬼凄し 老いの身にしぞ 負いかねて 7月11日は【真珠の日】です。 1893年(明治26)のこの日、御木本幸吉がはじめて真珠の養殖に成功しました。「ミキモト・パール」は後に市場を席捲、世界市場の6割を占めたと言います。6月1日も真珠の日ですが、こちらは日本真珠振興会が制定したもの。 ○ 御木本幸吉(1858〜1954) 明治〜昭和期の実業家で真珠養殖の先駆者。三重県鳥羽市のうどん屋の長男として生まれる。若い頃から商才を発揮、天然真珠の売買ののち乱獲で絶滅が心配されたアコヤガイ(真珠貝)の養殖をはじめ、さらに真珠養殖にのりだした。1893年(明治26)5粒の半円真珠をつくり、1905年には天然とかわらない真円真珠の養殖に成功する。その後、海外にも養殖真珠を紹介・販売してミキモト・パールの名をひろめ真珠王と呼ばれました。 ○ 真珠養殖の苦難の道 JR・近鉄鳥羽駅(三重県鳥羽市)から南東へ徒歩五分。海岸と橋で結ばれた 「ミキモト真珠島」は、周囲わずか約一キロの小島だ。島の正面にはトレード マークの山高帽をかぶった真珠王、御木本幸吉の巨大な銅像がそそり立つ。 このミキモト真珠島こそ、その昔「相島(おじま)」と呼ばれ、世界初の養殖 真珠誕生の舞台となった島です。 幸吉が真珠養殖の実験を始めたのは1890年、32歳の時だった。うどん屋の長男 に生まれ、家業を継ぐ一方、青物行商や海産物商を手がけ、真珠が高値で取引さ れているのに目をつけて養殖を思い立つ。 当時は、真珠ができる仕組みは解明されていない。海女が潜って採った天然の アコヤガイなどから偶然に発見されるのを待つのみ。幸吉が「養殖してみせる」 と言っても、周囲の人は「できるわけがない」と冷笑するだけだった。 しかし、幸吉はあきらめなかった。天然真珠を割ると、砂粒や虫の死骸が核に なっている。そこで幸吉は真珠には核となるものが必要と考え、サンゴや万古焼 のかけらを貝の身に入れて、海に沈めた。 1892年、英虞湾(あごわん)で養殖中の五千個の貝が赤潮で全滅したが、相島の 貝だけは生き残り、翌年、幸吉と妻うめは世界で初めての養殖真珠を手にすること になる。幸吉は、民間の研究者らにアドバイスを受けながら改良を重ね、英虞湾の 多徳島と周辺の海を借り、真珠事業を徐々に軌道に乗せて行った。7年後の1899年 には、東京・銀座に日本初の真珠専門店を開店。当時の資料によると、金が3.75g 当たり五円程度だった時代に、養殖真珠は一個213円したという。店舗網はその後も 増え続け、現在、直営・委託を合わせ約百店を展開する販売会社「ミキモト」(東京) につながっていった。 幸吉は養殖真珠の価値を広めようと、海外の博覧会にも積極的に参加。パリや ミラノの万博に、真珠をふんだんに使った豪華な工芸品を出品して注目を集め、 いつしか「博覧会男」と呼ばれるようにもなった。 幸吉が始めた真珠養殖が、全国に普及するようになった背景には、1896年に取得 した養殖真珠の特許権が、15年後に更新が認めらなかったという事情がある。その 結果、養殖技術のノウハウを手にした業者が飛躍的に増えていった。三重県内の 真珠生産量は1966年には年間51トン、生産額も148億円と、全国の三分の一以上を 占めた。ただ、波が静かでアコヤガイの生息に適した九州や四国の漁場に移動する 業者も次第に多くなり、2000年の三重県の真珠生産量はわずか7トン、長崎や愛媛 県に抜かれて第三位に甘んじている。 これに対して、三重県は「生産量よりも品質を高める事に力点を置いて巻き返し を図りたい」という。同県浜島町にある県の試験センターでは、光沢が強く、市場 で評価の高い白色系の養殖真珠の研究に取り組み発祥地の意地を見せようとする。 御木本幸吉翁の言葉、「世界中のご婦人方の首を真珠で締めて差し上げたい。」 |

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御木本幸吉はうどん屋の出身だったのですね。小学校の修学旅行で当地を訪れましたが、昼食に真珠うどんを食べたのが印象的でした。今、初めて 真珠うどんの謎が解けました。
2006/7/23(日) 午前 10:15