今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 1864年(元治元年)7月19日、「蛤御門の変」が起こりました。
 長州藩が京都に出兵、京都守護職・松平容保が率いる諸藩の兵と衝突。


 ○ 「蛤御門の変」(「禁門の変」とも称す)

 1864年7月19日、尊王攘夷運動をつづける長州藩と会津藩や薩摩藩を中心とする公武合体派軍の武力衝突。池田屋事件後、長州藩では福原越後、国司信濃(くにししなの)らにひきいられた諸隊が上京して、伏見、山崎、嵯峨などに駐屯し、攘夷の機会をうかがっていた。出兵に対して、長州藩内で桂小五郎(後の木戸孝允)らの反対もあったが、真木和泉(まきいずみ)らの強行論に押し切られ、毛利定広と五卿が後を追って上京した。

 これに対する朝廷、および禁裏御守衛総督の一橋慶喜(徳川慶喜)らは、長州藩と交渉する一方で、会津、桑名、薩摩ほか諸藩に京都守衛のための出兵を命じ、京都御所や要路に兵を配置した。諸嘆願が聞きいれられないと判断した長州軍は19日、早朝に戦闘を開始、御所の蛤御門、堺町御門付近で幕府側諸軍と激闘を展開した。この時、御所内にいた13歳の皇太子睦仁(むつひと)親王(後の明治天皇)は御所内に砲弾がとびこんだショックで気絶したと伝えられる。

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 戦闘は1日でおわり、長州藩側が撤退したが、このときの火災は3日間つづき、京都市民の多くが焼け出された。また、火災を理由に獄中の志士達もほとんど殺害され、尊攘運動は急速に衰退してゆく。朝廷は直ちに幕府に長州藩追討を命じた。第1次長州征伐の準備がすすめられた。

〔尊王攘夷(尊攘):天皇の伝統的権威をとうとぶ尊王論と、欧米諸国及び欧米人を道徳の劣った野蛮なものとして、排斥する攘夷思想がむすびついた、幕末期の政治理論とその運動。とくに文久〜元治年間(1861〜65)に盛んになり、下級武士や少壮公卿(くぎょう)らを中心にひろがった。しかし当時の日本に攘夷の実力はもとより無く、“尊王攘夷”はいつしか“尊王”に替わり、その意味するところは、幕府に替わり天皇中心の新政府を目指す“倒幕”となってゆく。〕


 ○ 四国連合艦隊下関砲撃事件(四国:米・英・仏・蘭)

 1864年(元治元)、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ4カ国艦隊が下関の砲台を砲撃し、長州藩を屈伏させた事件。下関事件・馬関(ばかん)戦争ともいう。

 前年の63年(文久3)、長州藩は尊王攘夷(尊攘)派が幕府に約束させた攘夷決行の期限だった5月10日、下関(馬関)海峡を通過する米国の商船、フランス・オランダ軍艦を砲撃した。すぐにアメリカ・フランス軍艦からも攻撃をうけたが、長州藩は砲台を増強して攘夷の方針をくずさなかった。

 翌1864年8月、この砲撃の報復として、四国艦隊は軍艦17隻、大砲288門、兵員約5000名で下関を攻撃し、三日間で下関砲台をことごとく破壊した。これに対する長州藩兵は劣悪な装備の兵約2000名、砲台は70門のみ。藩の正規兵は戦意を欠き、勇敢に戦ったのは約600名の奇兵隊だけだった。

 高杉晋作の和平交渉により、長州藩は、外国船の下関通行の自由、石炭・食物・水ほか外国船の必要品の売り渡し、砲台の撤去などの条件をうけいれ、1864年8月14日に調停が成立した。同年7月の禁門の変から、四国艦隊下関砲撃事件の敗北により、長州藩内の攘夷派は急速に没落、保守派主導に移ってゆく。

 ※ このように死に体の長州が再び歴史の檜舞台に立つのは、ひとえに坂本竜馬のおかげ。彼が仲介した薩長連合により、徳川幕藩体制はついえさる。

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