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平成18年7月26日(水)昨夜:孝介、一ヶ月ぶりの復帰で井川粉砕! 1614年7月26日、家康が、豊臣秀頼が造営した京・方広寺の大仏の梵鐘にある 「国家安康」の鐘銘に対し、家康の名を二分し呪うものと言いがかりをつける。 方広寺(京都・東山区、天台宗山門派)と梵鐘 創建は豊臣秀吉の発願で、天正14年(1586)の造営。 創建当時は、東大寺の大仏を凌ぐ高さ19メートルの大仏があったことから、当時の京都の人々には大仏殿の名で親しまれていた。 慶長元年(1596)の大地震の後、秀頼と淀君により再建されるが、その時に鋳造された鐘に「国家安康・君臣豊楽」(南禅寺の禅僧・文英清韓の作)と刻まれていた。 徳川家の安泰に腐心する家康は、凡庸ならざる秀頼に危機感を抱いていた。方広寺の鐘銘は、家康にまたとない格好の口実を与えた。「国家安康・君臣豊楽」。畏れ多くも家康の名を分断し呪し給い、豊臣の行く末を願うものと、秀頼を責め立てたのだ。 (方広寺梵鐘は重文に指定。東大寺、知恩院と合わせ、日本三大名鐘のひとつ。) ※ 家康はわざと諱を分断する「国家安康」の文字を入れた鐘銘を文英清韓に起草させ、豊臣家の不備として転封を要求する口実にしたとの見方もあります。秀頼はこれを頑なに拒み、徳川方は即座に出兵します。 「国家安康・君臣豊楽」の銘文 悲運の方広寺大佛 方広寺は天正14年、豊臣秀吉が奈良の東大寺にならい大仏建立を志し、造営を開始。文禄4年(1595)、ほぼ大仏殿が完成し、高さ6丈(約18メートル)の木製金漆塗座像が安置されますが、翌慶長元年(1596)、畿内を襲った大地震の為に大仏は大破する。 そして慶長3年(1598)、秀吉死去。その遺志を継いだ秀頼は大仏復興を命じ再建が開始されます。慶長17年(1612)、ようやく大仏(銅像)が完成する。(森鴎外の『高瀬舟』で知られる高瀬川は秀頼再建時に運搬用に開削されたもの) 大仏殿は豊臣家滅亡後も破却されずに残りましたが、寛政10年(1798)、落雷により焼失してしまいます。天保年間に旧大仏の10分の1の木造半身像が寄進されましたが、それも昭和48年に再び火災に遭って焼失してしまいました。 最近の京都市埋蔵文化財研究所の調査により、大仏殿の規模がほぼ明らかになった。1998年度の調査では、南面石垣の様子、南門は八足門で、回廊は複廊であったこと、2000年度の調査では、大仏殿の規模や台座の形、大仏の位置、建物中軸線が解明された。 当時、巨大な大仏殿の姿は「洛中洛外図」などにも描かれ「京の大仏っつぁん」として親しまれてきました。今日、方広寺大仏殿を偲ぶものは、皮肉にも豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘と、巨大な石垣のみ。 その後の、豊臣滅亡のあらましは、以下の通りです。 大坂の役(1614年<慶長19年>〜1615年<慶長20年>) 江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦い。「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」との呼称。 豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、1600年(慶長5)に五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いにおいて、家康は東軍を指揮して三成らを撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。 慶長8年(1603年)3月24日、家康は伏見城で征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は長期安定政権で、徳川家の主君筋に当たる豊臣家の処遇が焦眉の問題。徳川家を頂点とする幕府の階層社会では豊臣家は別格的存在となり、家康は徳川幕府の安泰を図るため、豊臣家の終焉を画策し始める。 同年7月、徳川秀忠(2代将軍)の娘である千姫が秀吉の子の豊臣秀頼に輿入、秀頼は右大臣に任官した。そして秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求するなど友好的対話を求める。淀殿は会見を拒否するが、慶長16年(1612年)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は、二条城での秀頼との会見を要請。秀頼の上洛を求める家康に対して反撥もあったものの、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現。この時、家康は在京の大名を二条城に招集させて誓詞を提出させている。 方広寺鐘銘事件 1614年(慶長19年)、京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の清韓に選定させる。且元は駿府の家康に対し、銘文の選定や大仏開眼供養の導師、日時の報告などを逐次行い上棟は間近であったが、7月に家康は本多正純を通じ、梵鐘銘文の文中に不吉の語句ありとして大仏供養を延期させる。 家康は五山の僧、金地院崇伝や林羅山に鐘銘文を解読させ、「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の名を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。 豊臣方は8月に、且元を駿府へ派遣して弁明させるも、且元は家康との面会が叶わず、暫くして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ下される。家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎える。家康は銘文問題を差し置き、双方の問題は豊臣方の徳川家への不信にあるとし、家臣に命じて大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示すようにと要求した。 且元は9月に大坂へ戻り、私案として秀頼の大坂城退去などの妥協案を進言する。豊臣家では大坂城は秀吉公以来の居城であり、この要求を家康の実質的宣戦布告と受け取る。且元や弟の片桐貞隆、織田長益(有楽斎)など和平派を追放、決戦の準備に着手。家康も又諸大名に大坂城攻撃を宣言。 大坂冬の陣 豊臣家では戦争準備に着手し、秀吉の遺した莫大な金銀を用いて関ヶ原以後に増大した浪人衆を全国から結集させて召抱える。また豊臣恩顧の諸大名に大坂城に集結するように檄文を送るも、馳せ参じる大名はなく、ただ福島正則が大坂にある蔵屋敷の兵糧を事実上提供するにとどまる。 篭城のための武器、兵糧蓄えを行い、集まった浪人は約5万人、真田信繁(幸村)長宗我部盛親、後藤基次、毛利勝永、明石全登(五人衆)、塙直之などが参集。大坂城に集結した浪人衆は、徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などで、戦闘能力は高く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めに過ぎず、統制がとれず作戦に乱れが生じる元ともなった。 長期戦に用意していた兵糧の欠乏や、真冬の中の陣であった徳川軍は、豊臣軍との和平交渉を進め、豊臣方も大筒(大砲)による砲撃で天守閣に砲撃を受けるや、豊臣方の主導的立場にあった淀殿は和議に応じる。交渉は徳川方の京極忠高の陣において、家康の側近・本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の姉妹の常高院との間で行われ本丸を残して二の丸、三の丸を破壊する事、総掘を埋める事、大野治長や織田有楽の処分などを条件に和平が成立。 和議の条件に「総掘」の埋め立てがあり、これは「外堀」のみを指すとする豊臣側と、総ての堀を意味すると言う徳川側との間で、解釈の齟齬があったと考えられる。この解釈の折り合いが済まない内に、徳川側は独断で突貫工事で外堀以外にも内堀をも埋め、城壁まで破壊する壊平工事を行う。 大坂夏の陣 和平成立後、家康は京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見へ退いたが、一方では国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど戦争準備を行っている。3月、大坂に不穏な動きありとする報が駿府へ届くと、徳川方は浪人、豊臣家の移封を要求。家康は4月に徳川義直の婚儀のためとして上洛、諸大名に出陣準備を命じ鳥羽伏見に集め、江戸から西上した将軍徳川秀忠と二条城において軍議を行う。 数度の合戦を経て大勢は徳川方有利に固まったものの、真田信繁は羽曳野の誉田の戦いで伊達政宗隊を撃退した後、天王寺口の先鋒対象である松平忠直隊を突破するや、僅かな手勢を率いて徳川家康本陣の強行突破を図り、三度にわたり家康本陣へ猛攻撃を加えた。この攻勢に旗本たちは逃げ、三方が原の戦い以降、倒れたことのない家康の馬印が倒され家康自身も死を覚悟したと言われる。しかし体勢を立て直した徳川軍の圧倒的兵力と火力に押され、豊臣勢は壊滅。僅かに奮闘した真田信繁討死の報で、豊臣軍は総崩れになり、豊臣秀頼自身の出馬も叶わず、城内に総退却。 全ての堀を埋められ裸同然の大坂城は、もはや幕府軍に対して防御力がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直ら越前勢が一番乗りを果たしのを初めとして、幕府軍が続々乱入略奪殺戮の限りを尽くす。遂には大坂城本丸内部で、内通者による火の手が天守閣に上がり5月8日に大坂城は陥落した。翌日、脱出した千姫による助命嘆願も空しく秀頼は淀殿らと共に籾蔵の中で自決。
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関が原以後の豊臣家×徳川家の歴史で冬の陣、夏の陣を司馬遼太郎の小説で読みましたが、もう一回、こちらのブログでお浚いさせていただきました。
2006/7/28(金) 午前 10:33