今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成18年7月30日(日)昨夜:あぁ原巨人、見せ場なく大敗…竜に8連敗

 屈辱感にじむ原監督 ◆ 中日11―1巨人(29日・ナゴヤドーム)、22年ぶりの対中日戦8連敗に原監督は、「ファンに申し訳ないの一語に尽きる。全員が記憶にとどめ、日々精進を忘れないこと」。ほぼ無抵抗の大敗に屈辱感がにじんだ。

 大量失点のきっかけは拙攻。2回無死満塁から3者凡退し、直後に失策絡みで先制点を与え「ああいった形で向こうに流れを…」と悔やんだ。4回までに9失点。先発投手グローバーを3回途中で見切って新人の栂野に託したが、火に油を注ぐ形に。原監督は「勢いを止められなかった」と嘆いた。


 7月30日は、【プロレス記念日】です。

 1953年(昭和28年)7月30日、力道山が日本プロレスリング協会を結成し披露を行ったことに由来します。力道山は東京に力道山道場を開き、プロレスラーの養成を行う。翌年、木村政彦とタッグを組み、アメリカのシャープ兄弟と闘って、プロレス人気をたかめました。

 ハワイで体得した「空手チョップ」(手刀で相手の額や胸などを強打)の得意技は当時の社会現象になり、子供から大人までファンを魅了。高度成長期とも相まって、日本の元気のシンボルともなった。

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 力道山(1924年11月14日〜1963年12月15日)

 植民地時代の朝鮮成鏡南道で、金信洛(キム・シンラク)として生まれた。後に、長崎県大村市の農家の養子となった。戸籍名は百田光浩(ももた みつひろ)。13歳のとき、蔭平虎松に拾われて二所ノ関部屋に入門する。

 1940年に初土俵、1946年に入幕し、1949年に関脇に昇進するが、1950年に自ら廃業、1951年に博徒・新田新作の後ろ盾もあり、プロレスに転向。1952年に渡米し、200回戦い敗北5回という戦果をあげた。翌年帰国して、日本プロレス協会を設立。黒タイツ姿でアメリカ人レスラーを空手チョップで、ばったばったとなぎ倒す痛快さで、日本中のヒーローとなる。

 その後、暴力団のなわばり争いに巻き込まれ、1963年12月8日に、赤坂のキャバレーで暴力団員に刺されて入院、12月15日に死亡。今日のプロレス界の礎を築いた人物である。ジャイアント馬場、アントニオ猪木は彼の弟子。百田義浩(故人・元レスラー)百田光雄(ノア副社長)は力道山の息子。

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 力士としての力道山

 幕内通算11場所、75勝54敗15休(15休は引退廃業の場所の全休)。入幕2場所目の1947年6月場所、その場所から始まった優勝決定戦に進出。廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。突然の廃業について相撲界側に残る話では、師匠の二所ノ関との部屋の運営をめぐっての対立があったとされるが、力道山側の主張と食い違い、今となってははっきりしない。背後に差別問題があったとも言われる。

 一時期、角界復帰の話も持ち上がり、実業界の有力者の仲介もあって決まりかかるも力士会が反対して実現しなかった。相撲界側で、比較的力道山に好意的な証言者の一人として、二所一門の弟弟子だった横綱若乃花幹士 (初代)がいる。その著作などでは、気性は荒くしごきはきついが、稽古熱心な者は徹底的に目をかける兄弟子像が浮かびあがる。しかし、その若乃花にしても力道関はもっとも恐ろしい兄弟子だったらしい。珍記録としては、3場所連続で同じ相手(前田山)から不戦勝をあげた。

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 力道山の初主演映画『力道山の鉄腕巨人』新東宝、1954年12月

 内容:強烈で無類の個性を持つ力道山の魅力が満載。空想的な作品だが、力道山の愛すべきキャラクターが存分に発揮される。松島トモ子が愛くるしい子役で出演。柳家金語楼、丹下キヨ子、古川緑波が笑いを誘い、ラストで感動を与える。夢と希望を庶民に与え、時代を超えて生き続けるヒーローの秘蔵作品。

 あらすじ:プロレスリングの王者、力道山は世代を超えたヒーローであった。小児マヒで立ち上がる事のできない少年・保の父・兵六は、保を元気づけようと、道場にサインをもらいに訪ねた。事情を聞いた力道山は、保の自宅を見舞いに訪れる。感激した保はいつしか冒険の物語にひき込まれて行く…。

 ジャングルの中で、研究に没頭する博士は世界を変えてしまうような兵器を発明する。その発明を悪党達が盗もうと忍び寄る。博士は殺されてしまうが、発明の秘密書類は娘の暁子が握っている。悪党等は暁子の持つ書類を奪う為、東京に向かう。その後を力道山と保が追った。都会に来て、怪力を振るう力道山は人々から怪物扱いされ、警察に保護されてしまう。悪党達に捕らえられてしまった暁子を、保はひとり悪党達に詰め寄っていく。保を心配する力道山は持ち前の力で、牢獄を破り、保の救出に向かう。アジトを突き止めた力道山は並み居る悪党達と格闘の末、無事暁子と保を救い出し、秘密書類も取り戻す。力道山と保の活躍によって、事件は解決し二人はジャングルに戻った。

 だが、この冒険物語は力道山を慕うがゆえの保の夢であったのだ。そんなある日、力道山の一門が保の見舞いを兼ねて、レスリングの練習試合を披露する。初めて間近で見るプロレスに興奮した保は自分の力で立ち上り、力道山の介添えで自ら歩き始めたのであった。(ひたすら、純朴な当時の人々に、郷愁を禁じえない。)

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 没後40年展では、百田光雄氏が、「今の五十代以上の人の中には当時、リングの中の父が黒いタイツ姿でアメリカのでかい選手を投げ飛ばし、ストレスを発散したはず。今の不況の中、もう一度、力道山というレスラーの記憶を呼び戻し、みんなが元気を出してほしい」と語った。

 ※ 私の子供時代、小学校でもプロレスごっこが流行り、よく先生に叱られていた。女子は直ぐに先生に言いつけるお目付け役であったが、ある時、女子の言葉にすごく感心したことがあった。「男子はプロレスって言うけど、プロレスは職業でレスリングをする事よ」。自分たちの遊びこそがプロレスだと、思い込んでいた私なぞは、女子のその言葉に、ただただ感心してしまい、畏敬の念で見るようになった。

 今は既に他界した、二人の祖父。この両者、無類のプロレス好きだった。父方の祖父は、声を発することこそ殆どないが、体中を硬直させ、画面の動きに合わせて脚が動いていた。いわば静のプロレスファン。 好対照なのが母方の祖父である。「のめりこむ」という表現を遥かに超えた凄まじい応援振りで、鬼神もこれを避くかの如き形相で画面に向かい、「アメリカ野郎をぶっ倒せ!」と、のたもうて居りました。さながら敗戦の鬱憤をテレビにぶつけるかのように。堂々たる動のプロレスファンで御座いました。

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『蔭平虎松に拾われた』は日本語として曖昧というか間違いで、百田己之助に拾われ(スカウトされ)蔭平虎松が朝鮮からの船が到着する下関で出迎えたのが正しい。http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/40_ri/rikidouzan.html
を参考に書いたと思われるが、13歳なわけがなく14歳かそれ以上のはずだ。はずたというのは戸籍より2歳上という説があるからだがこれを立証できる人物がいないからだ。

2007/8/29(水) 午後 2:33 [ オーガス ]


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