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平成18年8月4日(金)先のカード:竜虎、共に負け、共に勝ち、6差変らず。 今日からは、巨人 vs 横浜戦。つまりは、最下位争奪戦、ねばー・ぎぶあっぷ。 1993年8月4日、政府が初めて従軍慰安婦問題を認め、謝罪。 1993年8月4日、河野洋平内閣官房長官、「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府はこの機会に改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」。(慰安婦関係調査結果発表に関する談話) 「従軍慰安婦」問題(上)〜日韓友好に打ち込まれた楔〜 H11.09.25 「メルマガ・ 国際派日本人養成講座」 1.米軍がレポートする慰安婦の実態 米軍情報部は、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦からの聞き取りをもとに、以下のような報告書を残している。 女性たちは、ブローカー(および経営主)が、300〜1000円の前借金を親に払って、その債務を慰安所での収入で返還している。経営者との収入配分比率は40〜60%。女性たちの稼ぎは月に1000〜2000円、兵士の月給は15日〜25円。 慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿泊して、寝起きし業を営んだ。彼女たちの暮らしぶりは、他の場所と比べれば贅沢ともいえるほどだった。 慰安婦は接客を断る権利を認められていた。負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。またビルマのラングーンで慰安婦をしていた文玉珠さんの手記では、その生活ぶりを次のように記し、米軍のレポートを裏付けている。 「支那マーケットにいって買物した。ワ二皮のハンドバッグと靴をわたしのために買った。母のためにもなにか買った。将校さんたちに連れられてジープに乗って、ぺグーの涅槃像を見に行った。ヤマダイチロウ(日本兵の恋人)と大邱の母の無事を祈って帰ってきた」。 ちなみに文玉珠さんは、平成4年に日本の郵便局を訪れ、2万6145円の貯金返還の訴訟を起こして敗れている。千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べているが、現在の貨幣価値なら、4〜5千万円程度の金額を、3年足らずで貯めたことになる。 「従軍慰安婦」というと、海外では"military sexual slavery(軍用性奴隷)"などと呼ばれるように、日本軍によって郷里から強制連行され、戦地では何の自由もなく、もちろん無給で、ひたすら兵士にもてあそばれた、というイメージが定着している。しかし、この米軍の報告書では、まったく違う実態が報告されている。一体、どちらが事実に近いのか? 2.慰安婦問題の経緯 まず慰安婦問題の経緯を時系列的に見渡しておこう。 (1) 昭和58(1983)年、吉田清治が、著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」の中で昭和18年に軍の命令で「挺身隊」として、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたという「体験」を発表。朝日新聞は、これを平成3年から翌年にかけ、4回にわたり報道した。 (2) 平成3年8月11日、朝日新聞は、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一人が名乗り出た、と報道。 (3) 平成4年1月11日、朝日新聞は、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報道。この直後の16日から訪韓した宮沢首相は、首脳会談で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。 (4)平成5年8月4日、河野官房長官談話、政府調査の結果「甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこともあった」と発表。 この河野談話によって日本政府は、慰安婦が軍によって強制徴集されたことを公式に、認めたことになる。これを契機に中学高校のほとんどの歴史教科書に、「従軍慰安婦」が記述されることになっていった。今日では各方面の調査が進み、以上の報道、発表がどれだけの事実に基づいていたのかが明らかになってきた。以下、この4点を検証する。 3.吉田清治の慰安婦狩り まず、吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」では、韓国斉州島での、慰安婦強制連行を次のように、描写している。 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえて側の年取った女にしがみつくと、山田は、台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした。女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。 「従軍慰安婦」問題とは、本人の意思に反した「強制連行を軍が組織的に行ったか否か」の問題なのである。したがって、吉田の言うような強制連行が事実であったら、これは日本の国家的犯罪となる。 4.日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物 吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定だが、この記事に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査し、以下のような記事を書いている。 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(85歳の女性)は「250余の家しかないこの村で15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。 郷土史家の金奉玉は「1983年に日本語版が出てから何年かの間、追跡調査した結果、事実でないことを確認した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と聞かれ、答えに窮したという。 この吉田清治を、朝日新聞は宮沢首相の訪韓前後1年の間に、4回も紙面に登場させたのだが、秦教授の調査の後は、ぷっつりと起用をやめた。今日では慰安婦問題の中心的糾弾者である吉見義明中央大教授すら、吉田清治の著作は採用しなくなっている。 5.名乗り出た慰安婦 次に、自ら名乗り出た慰安婦について。平成3年8月11日付け朝日新聞は社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が」名乗り出たと報じた。 しかし、この女性、金学順さんは、「女子挺身隊」として連行などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。ある韓国紙はそれを次のように報じた。 生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」(「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付) 当時、内地でもよくあった気の毒な「身売り」の話なのである。国家による組織的な強制連行とは全く関係なかった。 そもそも「女子挺身隊」とは、昭和18年9月に閣議決定されたもので、金学順さんが17歳であった昭和14年には存在していない制度である。さらに「女子挺身隊」とは、販売店員、改札係、車掌、理髪師など、17職種の男子就業を禁止し、25歳未満の女子を動員したものであり、慰安婦とは何の関係もない。 さらに「従軍慰安婦」という言葉自体が、当時は存在しなかった。従軍看護婦は、軍属(軍隊の一部)であり、従軍記者、従軍僧は、法令により定められた身分で指定された部隊につく。慰安婦は公娼業者が雇ったもので、それはたとえば、県庁の食堂に給食業者を入れていた場合、その業者の被雇用者は、県の職員ではなく、身分も契約も県とは関係ないのと同じ事だ。「従軍慰安婦」とは、従軍看護婦などとの連想で、あたかも部隊の一部であると読者に思い込ませるための造語である。 金学順さんは、その後、日本国を相手とした訴訟の原告の一人となるが、それを支援しているのが太平洋戦争犠牲者遺族会であり、この記事を書いた朝日の槙村記者は、会の常任理事の娘と結婚している。当然、韓国語も達者であり、金学順さんの話した内容はよく知っていたはずである。金学順さんが「売られた」という事実を隠し、「女子挺身隊として連行された」というこの記事は槙村記者による意図的な捏造記事である。その後の訂正記事も出していない。 6.強制連行された慰安婦はいたか? 韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うかなど、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。 今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。残る二人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。 結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。(次項へ続く) |

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当時の慰安婦 至急 大募集の条件は、
給料は月収最低300円、3000円まで前借可能
(三食食事付きの家政婦の月収が約13円の時代です)
月収300円とは当時の激しい労働をしてる男性でも稼げない金額です。
女性の工場労働者が月収20〜50円くらいしか稼ぐことが出来ない時代に、 学歴の無い女性が「京城紡績」で働き始めても、馴れるまでは月収20円以上は稼げませんでした。
募集の広告には「売春」とは書いていませんが、異常に高い給料で「慰安」といえば普通の仕事ではありません。
現代の社会でも直接的な表現はしませんが、普通の女性が非常に高給で接待して稼げるのは特殊な仕事だと解る筈です。
今になっても、もっとお金が欲しいんですね。
この、ヨクバリ ウソツキ
2011/5/5(木) 午後 8:14 [ 日本の若者とママを守って ]