今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成18年8月5日(土)昨夜:原巨人、ついに最下位に堕つ!
 これからは 上がるばかりぞ そこの底。         (再会子)
 身はたとへ東京ドームに朽ちぬとも とどめおかまし巨人魂。(再生紙)


 長年の思いが実現、首相  松陰や晋作の地を訪問(2006年8月4日)

 小泉純一郎首相は4日午後、幕末の志士、吉田松陰と高杉晋作ゆかりの史跡を視察するため、山口県を訪れた。首相はしばしば吉田松陰の言葉を引用するほど心酔しているだけに、記者団に「松陰、晋作が生まれ、志をはぐくんだ土地をめぐってみたいという長年の思いが実現した。明治は本当に大変だったと感じる」と感激していた。

 ポスト小泉候補の安倍晋三官房長官の地元訪問は、安倍氏支持につながる動きとの見方もあり「安倍氏へのエールか」と記者団に問われたが、首相は「人の見方はいろいろ」とはぐらかした。(過去の迷言:「人生いろいろ、会社員もいろいろ」)


 630年8月5日、犬上御田鍬・藥師惠日を第1回遣唐使として唐に派遣。

 第一次遣唐使は630年(舒明2年)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣により始まった。当時の遣唐使船は竜骨を用いない平底のジャンク船に似た箱型構造で、簡単な帆を用いていた。横波に弱く無事に往来出来る可能性は低い。4隻編成で航行し1隻に百人程度が乗船した。航海技術も未熟であり、渡航はまさに命懸けだった。

 大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川)から大阪湾に出て、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り瀬戸内海を経て那の津(福岡県福岡市)へ向い、玄界灘へ出た。

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 唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報入手と、先進的な唐文化の摂取が目的だが、日唐関係が安定した八世紀以降は、後者の比重が大きい。唐の諸制度や文化に通じた、留学生(るがくしょう)・留学僧は、建設間もない日本の律令国家を整備する上で不可欠であり、その意味で遣唐使は律令国家の繁栄を支えた。

 八世紀の遣唐使のうち、全ての船が往復できたのは、たった一回だけという遭難率で、遣唐使船が四隻編成なのは、その内一隻でも中国に着く為だったと言われる。遣唐大使に任命されても尻込みし拒否する人もいたようです。

 舒明天皇2年(630)から寛平6年(894)の間に、日本から唐に派遣された公式の使節である遣唐使は凡そ20回任命されたが、その内、実際に渡唐したのは16回だった。奈良朝平安朝の時代に遣唐使船は18回出港したが、無事任務を果たして帰ってきたのは8回と言われています。

 菅原道真の、怪我の「功名が辻」?

 こうした多くの危険があるにもかかわらず、派遣される人物は、貴族子弟のすぐれた人材が選ばれ、留学生や学問僧も、傑出した人物が選ばれた。そのため入唐経験者の中には帰国後、わが国の政治や文化に、かけがえのない役割を果した山上憶良、吉備真備、最澄、空海、円仁、円珍といった人物がみられます。

 遣唐使が帰国の際に伴ってきた鑑真をはじめとする、多くのすぐれた渡来人や文物は、わが国の政治や文化の発展に大きく貢献する。今日まで伝えられている日本文化の基底は、この遣唐使船に乗っていった人々や、その人々がもたらした文物によって築かれたといっても、過言ではない。

 その後、寛平6年(894年)、菅原道真が第20回遣唐使に任じられるが、「自分は恐らく帰っては来れまい」と思案したようで、いろいろと合理的な理由を勘案して遣唐使船を廃止させるべく建議を具申する。これにより遣唐使は廃止される。

 タイミングがいいと言うべきか、唐は907年(延喜7)に滅亡し、日本はその後の泥沼の戦争に巻き込まれずに済む。遣唐大使の任務に恐れをなした道真の、怪我の功名と言うべきか。とまれ、菅原道真がやめるまで、ジャンク船が日本の大型船として海外交流を行っていた“大冒険時代”のお話し。

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     遣唐使船の復元


 ※ 2001年8月5日、歓喜院釈尼綾念の葬儀、執行。

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遣唐使

海外情勢や中国の技術や仏教の経典等の収集が目的とされた。旧唐書には、日本の使節が、中国の皇帝から下賜された数々の宝物を市井で全て売って金に替え、代わりに膨大な書物を買い込んで帰国していったと言う話が残されている。

第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。


遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしている。

遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。

およそ二十年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。

遣唐使は200年以上にわたり、唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。

2012/9/1(土) 午前 10:35 [ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]

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菅原道真はなぜ遣唐使の中止を進言したのか?

第一は唐から学ぶべきことがなくなり、遣唐使は意味を失ったからである。たしかに遣唐によって、日本にもたらされたのは唐風文化。建築から彫刻、絵画、仏典などが影響をあたえたことは事実だろう。ところが隋の衰退により文化は荒廃を極めていた。

第二は遣唐使、遣隋使より遣日使のほうが人数が多く、かれらが日本に来て驚いたのは日本文化のすばらしさ、要するに帰国したくなくなったというポイントが見逃されてきた。 日本では国風文化がひろまり、やがて 平かな、カタカナが発達し、源氏物語など世界一級の文学が完成した。もはや唐から輸入するべき政治システムも文化文明も尽きていた。

第三の理由は唐の人肉文化にほとほと嫌気がさしたから。
三国志演義でも劉備玄徳を厚くもてなすため、山奥に潜伏していた嘗ての部下が妻を殺して馳走する場面がある。劉備玄徳は部下のその忠節ぶりに感傷に浸るのである。
水滸伝には人肉饅頭がでてくる。

2017/3/18(土) 午後 10:05 [ 歴史&環境&公徳心ツアー ]


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