今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成18年8月6日(日)かにかくに新聞紙には煩わしき 事のみ多しあゝプロ野球
 岐阜県郡上市では、38.6度。オー・マイ・ガーッ!!

  小泉首相、吉田松陰に酔う (8月5日21時)

 小泉純一郎首相は5日、山口県秋芳町の秋吉台や、萩市内の「松下村塾」など吉田松陰
ゆかりの史跡を駆け足で視察。松陰の「改革ロマン」にすっかり酔った様子で「時代の
変革者の熱い志はこれから後を継ぐ人たちも学ぶ点が多い」と記者団に語り、ポスト小泉
候補に松陰の気概を持つよう鼓舞した。

 午後には松下村塾のほか、松陰が投獄された「野山獄」の跡や幕末の志士・高杉晋作
の生家などを見て回った。萩博物館では晋作の書を見て「すごい達筆だ」と絶賛。松陰
の墓碑で花を手向けた。

 首相は記者団から「松陰のように後継者を育てることができたか」と問われ、「世の中
に自分をぶつけようと志を持つ人は自分で覚えていくものだ」と強調。さらに「松陰も
晋作も、抜きんでた高い志があったから偉大な事業を成し遂げた」と結んだ。

 ※ 吉田松陰はある時、吉田姓について、ある感慨を持つに到る(於・野山獄)。
 吉田 = 十一(+)口+十(+)口 → 二十一回
 かくて松陰は、わが生涯において二十一回の大憤志、起こさざる可からずと奮起する。

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 1945年8月6日、午前8時15分、広島に原爆が投下される。

 米軍の爆撃機・B29「エノラ・ゲイ」から原子爆弾「リトルボーイ」が投下された。
死者14万人(21万人とも)。直接、被爆した死者だけでなく、爆撃後の広島へ勤労奉仕に
行って、2次被曝した犠牲者も多数亡くなられた。その間の消息は井伏鱒二の「黒い雨」
にくわしい。

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 広島の“原爆ドーム”

 広島市中区大手町にある旧広島県産業奨励館の被爆後の名称。チェコのヤン・レツル氏
設計。1945年8月6日この上空で原子爆弾が炸裂。鉄骨をさらし当時の惨状を伝える。

 戦災復興が進むなか,原爆ドームの存廃の議論が巻き起こったが、市議会で保存が決定
され保存工事が行われた。さらに,1966年広島市議会は永久保存を決議し、被爆地広島と
世界平和の象徴となっている。1995年6月、国史跡に指定。1996年、世界文化遺産に登録
された。

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 ○ 峠 三吉 (みつよし) の『原爆詩集』の“序”

 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ
 わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ
 にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを
 へいわをかえせ

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 峠 三吉 (1917〜1953)

 1917年2月19日生まれ。幼時に広島へ移り1935(昭和10)年に広島商業学校卒業。
在学中より詩や短歌、俳句などの詩作を始め、卒業後肺結核に罹る。25歳のとき、
キリスト教の洗礼を受ける。

 1945年、28歳の時に爆心地から3キロはなれた広島・翠町の自宅で被爆。直接の
損傷はガラス破片による負傷であったが、親戚や知人を探して原爆投下直後の広島
市内を歩き回ったため、原爆症に罹り9月まで入院。

 その後、原爆症にくるしみながら、広島青年文化連盟などの文化活動を指導する
等、広島で文化運動のリーダーとなり、新日本文学会に参加、1950年(昭和25)に、
「われらの詩の会」を結成。

 1950年11月、国立広島療養所でアメリカのトルーマン大統領が、朝鮮戦争で再び
原爆の使用を示唆する発言を聞いて抗議をこめて、翌年の1月から3月にかけて、
療養所の一室で『原爆詩集』25編の内18編を書きあげた。同詩集は、同年ベルリン
の世界青年学生平和祭に日本の代表作品の一つとして送られ世界的な反響を呼ぶ。

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 『八月六日』 峠 三吉

 あの閃光(せんこう)がわすれえようか 瞬時に街頭の三万は消え
 圧(お)しつぶされた暗闇の底で 五万の悲鳴は絶え
 渦巻くきいろい煙がうすれると ビルディングは裂け、橋は崩れ
 満員電車はそのまま焦げ 涯(はて)しない瓦礫(がれき)と
 燃えさしの堆積であった広島

 やがてボロ切れのような皮膚を垂(た)れた 両手を胸に
 くずれた脳漿(のうしょう)を踏み 焼け焦(こ)げた布を腰にまとって
 泣きながら群れ歩いた裸体の行列
 石地蔵のように散乱した練兵場の屍体(したい)
 つながれて筏(いかだ)へ這(は)いより折り重なった河岸の群も
 灼(や)けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
 夕空をつく火光(かこう)の中に
 下敷きのまま生きた母や弟の 町のあたりも 焼けうつり
 兵器廠(へいきしょう)の床の糞尿(ふんにょう)のうえに
 のがれ横たわった女学生らの
 太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
 誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば すでに動くものもなく
 異臭のよどんだなかで金ダライにとぶ蠅の羽音だけ 三十万の全市をしめた

 あの静寂が忘れえようか あのしずけさの中で
 帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
 俺たちの心魂(しんこん)をたち割って
 込めたねがいを 忘れえようか!


 『呼びかけ』 峠 三吉

 いまでもおそくはない あなたのほんとうの力をふるい起すのはおそくはない
 あの日、網膜を灼(や)く閃光(せんこう)につらぬかれた心の痛手から
 したたりやまぬ涙をあなたがもつなら

 いまもその裂目(さけめ)から、どくどくと戦争を呪う血膿(ちうみ)を
 したたらせる ひろしまの体臭をあなたがもつなら 焔(ほのお)の迫った
 おも屋の下から 両手を出してもがく妹を捨て 焦(こ)げた衣服のきれはしで
 恥部をおおうこともなく 赤むけの両腕をむねにたらし 火をふくんだ裸足で
 よろよろと 照り返す瓦礫(がれき)の沙漠を なぐさめられることのない旅に
 さまよい出た ほんとうのあなたが その異形の腕をたかくさしのべ
 おなじ多くの腕とともに また墜(お)ちかかろうとする
 呪(のろ)いの太陽を支えるのは いまからでもおそくはない

 戦争を厭(いと)いながらたたずむ すべての優しい人々の涙腺を
 死の烙印をせおうあなたの背中で塞(ふさ)ぎ  おずおずとたれたその手を
 あなたの赤むけの両掌(りょうて)で  しっかりと握りあわせるのは
 さあ
 いまでもおそくはない


 『原爆詩集』あとがき

 「私はうす暗い広島療養所の一室でこの稿をまとめた。
まとめてみながら此の事に対する詩をつくる者としての6年問の怠慢と、
この詩集があまりに貧しく、此の出来事の実感を伝えこの事実の実体をすべての
人の胸に打ちひろげて歴史の進展における各個人の、民族の、祖国の、人類の、
過去から未来への単なる記憶でない意味と重量をもたせることに役立つべく
あまりに力よわいことを恥じた。

然しそれを感じながらも敢て出版しなければならぬ追いつめられた時代である事
を知れば、さらに時間をかけて他日の完壁を期することは許されないと思った。

おそらく此の機会を外したならこの詩集は日のめをみることが出来なくなるで
あろうし、また相当考慮を加えねばならなかったこのかたちのままでさえ読者の
手に届け得るかどうかを危ぶまれるのが実状である。

然しともかくこれは私の、いや広島の私たちから全世界の人々、人々の中に
どんな場合にでもひそやかにまばたいている生得の瞳への、人間としてふとした
とき自他への思いやりとしてさしのべられざるを得ぬ優しい手の中へのせい
一ぱいの贈り物である。どうか此の心を受取って頂きたい」

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 『生ましめんかな』 1945年8月 栗原貞子(1913年3月4日〜2005年3月6日)

 こわれたビルディングの地下室の夜だった。

 原子爆弾の負傷者たちは
 ローソク1本ない暗い地下室を
 うずめて、いっぱいだった。
 生ぐさい血の匂い、死臭。

 汗くさい人いきれ、うめきごえ
 その中から不思議な声が聞こえて来た。
 「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。

 この地獄の底のような地下室で
 今、若い女が産気づいているのだ。
 マッチ1本ないくらがりで
 どうしたらいいのだろう
 人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

 と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
 と言ったのは
 さっきまでうめいていた重傷者だ。

 かくてくらがりの地獄の底で
 新しい生命は生まれた。
 かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。

 生ましめんかな
 生ましめんかな
 己が命捨つとも

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 「原爆の子」像 (モデルは佐々木禎子さん) 広島平和公園

 爆心地から北方約2キロメートルの広島市内三篠町の自宅で2歳の時被爆した
広島の少学6年生の少女・佐々木禎子(さだこ)さんが「千羽鶴を折れば願いが
届く」と信じながら1955年5月から薬包紙や見舞い品の包装紙で、鶴を折り始め
たが、願いもむなしく同年10月25日、原爆症で12歳の人生を閉じた。禎子さんは
644枚を折りあげて亡くなり、残りの356枚は彼女の同級生によって折られ、彼女
と一緒に埋葬されました。

 この禎子のエピソードは、あまり全国的には知られず、モンゴルの歌手、オ・
ユンナが、「日本人がサダコの話を知らないので、驚いた」と感想を漏らした程
でした。日本人の中にも、なかなか届かない被曝体験…。ましてや海の向こうの
アメリカに届くはずも無いことなのか。


 “原爆の父”と称された物理学者、R・オッペンハイマーの悔恨

 「いま私は死神になった。世界の破壊者だ」

 最初の核実験に成功したとき、アメリカの原子爆弾製造に指導的役割を果たし、
第2次世界大戦後、原子力委員会の要職を務め、「原爆の父」と称されて国家的英雄と
いわれていた物理学者R・オッペンハイマー(John Robert Oppenheimer:1904〜1967)
の心に浮かんだ言葉。

 オッペンハイマーは、1949年から1950年にかけての水素爆弾製造の是非をめぐる論争
において、製造計画に反対したため、彼の影響力を怖れた米・原子力委員会は、1954年
彼の権威を失墜させる目的で、事実無根のスパイ嫌疑をかけ、彼が機密事項に関与する
ことを許可しない決定を行った。(いわゆる「オッペンハイマー事件」)

 当時、アメリカ社会を支配したマッカーシズム(赤狩り)の流れの中で引き起こされた
事件である。1963年、アメリカ政府は彼にフェルミ賞を授与し、この決定の誤りを認め
彼の名誉回復を図った。

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 ※ 広島・長崎の悲劇により、本土決戦構想は消えた。日本は負けた。そして、
61年が過ぎた。今日の世界は、61年の時間を有意義に過ごして来たのだろうか。

 広島・長崎で数十万の無辜の民を殺戮した米国が、どうして“平和に対する罪”で
日本の指導者を裁くことが出来たのだろうか。米国の指導者は、他者の痛みを感じる
事が出来ぬのであろうか。米国がふりかざす“正義”が今日も一般市民を殺してゆく。

 人間を かえせと叫ぶ 被爆者に まみゆる顔(かんばせ) 我等にありや

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私は、原爆投下の10年後に、広島に4年ほど住みました。街はずいぶん復興してよくなっていましたが、被爆者が病院や自宅で苦しい闘病の日々を送っていらつしゃいました。その人々の話は涙なくて聞けませんでした。絶対戦争反対!しかし、世界の現状はいかに?なさけなや!

2006/8/6(日) 午前 5:33 [ kaz*_51** ]


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