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平成18年8月8日(火)王子製紙の敵対的TOB、成立は微妙に。 1945年8月8日に、ソ連軍は日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告。 ソ連軍は戦車5000台・兵員157万人の圧倒的戦力で当時日本の支配下にあった 満州国(現在の中国東北部)に侵攻。満州を守備していた日本軍は敗退。満州に 移住していた百万を超す日本人居留民は戦闘に巻き込まれ、多くの犠牲を強いら れた。これは戦後、シベリア抑留や中国残留孤児の問題を生むことになる。 ソ連軍侵攻に対すべき関東軍は、大戦中期以降、再三にわたり南方戦線に兵員 装備を引き抜かれた結果、往年の兵力は見る影もなくなっていた。この状態では 満州領土外縁の広範囲において防御戦を行うことは人員上・補給上ともに不可能 であり、敵に一旦国境線の踏破を許して、懐へ引き込んで要所で迎え撃つという ような作戦をとらざるを得なくなった。 この犠牲となったのが、満蒙開拓団員をはじめとする日本人居留民たちである。彼らのうち特に北部ソ満国境付近に居留していた者は、関東軍に守られることなく、放置同然となってソ連軍の攻撃にさらされ、また満州国軍の一部反乱部隊にも襲いかかられた。 多くの者が着の身着のまま避難する途上で、力尽きたり、ソ連軍や反乱軍、そして反日派の満州人・中国人によって虐殺されたり、前途を悲観し集団自決したり、生き残ってもシベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留されたりと悲惨な運命をたどることになる。 この混乱の中、一部の日本人の幼い子女は、肉親と死別したり、はぐれたりして、現地の中国人・満州人に保護されたり、あるいは肉親自身によって現地人に預けられたりして戦後も大陸に残り、いわゆる中国残留日本人孤児として、苦難に満ちた人生を送る事となる。 一方、奉天や大連等の南部居留の日本人は、関東軍が局地戦闘で、ソ連軍を食い止めて時間を稼いだため、大連港等から脱出できる者が北部に比べれば多かったが、逃げ遅れて北部居留民と同じような目に逢う者も決して少なくはなかった。関東軍の多くは抵抗を続けたものの、強力な火力と大量の兵員で攻め込んでくるソ連軍の前には文字通り多勢に無勢で、ついに8月15日の玉音放送を迎える。 <二キ三スケ> 満州国を実質支配していた5人の実力者たちに対する別称 東條英機(関東軍司令官) 星野直樹(国務院総務長官) 鮎川義介(満州重工業開発株式会社社長) 岸 信介(総務庁次長) 松岡洋右(満鉄総裁)※先日の記事で、昭和天皇が御不快を示されたという人物 なかにし礼も、牡丹江脱出の経験者です。 ※ 意外にも、下記の文部省唱歌は、 戦地にある父親の帰りを待つ、母子のやるせない心情を歌っております。
『里の秋』 斎藤信夫・作詞、海沼 実・作曲
極寒のシベリアで栄養失調と過酷な強制労働のため8万人以上が死にました。静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は ああ 母さんとただ二人 栗の実 煮てます いろりばた 明るい明るい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は ああ 父さんのあの笑顔 栗の実 食べては 思い出す さよならさよなら 椰子の島 お舟にゆられて 帰られる ああ 父さんよ 御無事でと 今夜も 母さんと 祈ります その多くは墓もなく、遺骨もなく、60年余がたっても遺族の悲しみは消えない。 |

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