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平成18年8月10日(木)昨夜:原巨人、大躍進3連勝、4位浮上! 原理原則にやかましい落合監督、抗議の26分間試合中断。審判がミスを認めて ようやく試合再開、4時間超。それでも帰らなかった豊橋市民に捧げる一首。 豊橋に年に一度の夢舞台 孝介きめて岩瀬で締める 福留決勝2ラン! 騒然ムードを一撃で静める! 派手な点の取り合いで読めない展開。そして審判員の不手際で26分間の中断。騒然とする球場を一撃で静まり返らせた。6−6で再開した八回裏。二死二塁で中日・福留は「真っすぐだけを狙って、他の球は見逃せばいい」と打席に入る。カウント1−3から永川の速球をフルスイングすると、打球はスコアボード直撃の特大ホームランとなった。 審判員が選手交代でミス 9日、中日−広島12回戦(豊橋)の八回表終了後、広島の選手交代をめぐって審判員が誤ったコールをするミスがあり、試合が26分間中断した。責任審判の森健次郎審判員が「大変申し訳ありません。われわれの聞き間違いです」と謝罪。 広島は八回の守りで、「2番」に投手の永川を起用しようとした。このとき、広島・清川投手コーチが「投手を永川に代えます」と伝えたことを小林和公球審が通告と早合点、しかも「9番」として場内にコールされた。 これを広島・ブラウン監督が正式な交代通告ではないと抗議し、審判団は経緯を中日側に説明。中日・西川順之助球団社長は「落合監督が自分の判断では決められないと相談にきた。これ以上中断しファンに迷惑をかけてはいけないと判断し、了承した」と語った。森審判員は試合後「そのまま包み隠さず今日中に報告書を書きます。われわれには処分があると思います」と話した。 落合監督、審判団の誤コールに怒り 落合監督の怒りは試合後も収まらなかった。8回表終了後の広島の選手交代をめぐり、審判団が誤ったコールをしたことについてだ。「納得しようがない。(試合を)やる、やめるという問題になったらオレには権限がないから社長に相談した」と吐き捨てた。 1828年8月10日、シーボルト事件発覚。 シーボルトが、幕府禁制品である日本地図などの持ち出しを図ったが、船が 暴風で坐礁し発覚、出国停止に。1年の取調べの後、追放処分となる。 ◇ シーボルト事件(江戸時代後期におきた蘭学者弾圧事件) 1828年(文政11年)、オランダ商館付の医師・シーボルトが帰国する直前、所持品の中に、国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分される。シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けた。高橋景保はその後、獄死。だがシーボルトは、1858年(安政5年)の日蘭通商条約の締結により追放解除となり、翌1859年に再来日、幕府の外交顧問に就任している。 シーボルトが持ち出そうとした日本地図は、樺太東岸の資料を求めていた景保に、シーボルトがクルーゼンシュテルンの「世界周航記」などを贈り、その代わりに景保が伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図を贈ったもの。 国防上のトップ・シークレット 大日本沿海與地全図(與地=よち、大地) 伊能忠敬が後半生の全てを注ぎ込んだ畢生の大事業。1794年、50歳で隠居し、家督を長男・景敬に譲った後、江戸に出る。江戸幕府の天文方・高橋至時(よしとき)に師事し測量・天文観測などをおさめる。 高橋至時は当時、日本における西洋自然科学の最高峰。時に、高橋至時は32歳、伊能忠敬より19歳も年少の師であったことになる。至時にとり、忠敬は熱心に学ぶ良き弟子であり、至時は忠敬のことを「 推歩(すいほ)先生 」と呼んでいました。推歩とは、「暦などの計算をする事、暦学」を意味していて、今風に申せば“歩く計算機”とでも言ったところでしょうか。 入門から5年後、忠敬が56歳の時から、全国測量の旅が始まっています。現在なら、80過ぎてから全国徒歩行脚を発心したようなもの。まさに壮絶なる志。 シーボルトは、1796年2月17日、現在のドイツ、バイエルン州ヴュルツブルク市の医学者の家に生まれました。その後、ヴュルツブルク大学医学部の時代には、医学のほかに、動、植物学や民族学なども学びました。この広い科学的知識が、後にシーボルトが日本の調査・研究をするときに大いに役立ちました。 1823年、シーボルトは、出島のオランダ商館医として、長崎に派遣される。日本に滞在中には、阿蘭陀通詞や、絵師川原慶賀、全国から西洋の学問を学びに来た学者達の協力を得ながら、日本の調査・研究を行い、その成果をヨーロッパに紹介した。 その中には、長崎の自然・地理・歴史・風俗・美術工芸も含まれていた。1832年に出版を始めた、著書「日本」には、当時の人々が実り豊かな自然を背景に、素晴しい文化を築き上げたことがうかがえます。 シーボルトは日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化やヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献した。ヨーロッパ人でありながら日本の文化などをこよなく愛した人物であったといえます。 (以上、シーボルト記念館 より) ○ シーボルトは、全然、「ラフカディオ・ハーン」じゃなかった シーボルト来日の頃の日本 シーボルトは2度来日している。2度目の来日は幕末になってのことで、その再来日についても興味深いものがあるが、今は最初の来日について。シーボルトが初来日し、滞在したのは江戸時代の文政6年(1823)から文政12年(1829)の7年間。時代は化政年間と呼ばれ、江戸時代の文化的な欄熟期のひとつで、伊能忠敬、上田秋成、十返舎一九、小林一茶、歌川豊国などの文化人が活躍。政治的にも一種の小康状態にあり医学に対する関心も高かった。 シーボルト来日の頃のオランダ シーボルトが来日した、1823年前後のヨーロッパはたいへんな激動期。オランダも、フランス革命とそれに続くナポレオンの台頭の時代に、フランスさらにはイギリスにも占領され、一時はオランダ国旗が掲揚されていたのは長崎の出島だけになった事もある。 独立を回復したオランダは、国家財政の立て直しを図るため、貿易の純益がもっとも大きかった日本との関係を一層深めることに力をいれる。その一環として、日本の歴史国土、社会制度、物産などについての総合的な自然科学的調査を行う方針を検討した。これは、対日貿易振興に向けての対策でもあったが、同時にオランダに対する日本側の受けを良くするための日本への文化的貢献もその視野に入れてのものだった。そこで、オランダは日本でとくに歓迎される医学と博物学の振興に力を入れる政策を打ち出す。これはヨーロッパの新しい医学の知識や技術の移入が遅れていること、また、こうした最新の医学知識・技術の教授が渇望されていたこと、への的確な対応であった。 この医学と博物学の振興の担い手として、出島のオランダ商館に派遣される医師に、白羽の矢が当てられた。それまでのオランダ商館医はせいぜい10人ほどの同国人の健康管理をしていればよい閑職。それが国家の施策にもとづく特別な指令のもとに行動するミッション(特使)へと転じたのである。この目的遂行の医官として来日した人物こそがシーボルトである。 シーボルトは、どうすれば鎖国下にある日本から最大限の資料と情報を入手できるかを周到に考え、それを実行に移した。西洋医学の知識と技術は最大の武器になったのはいうまでもない。日本では西洋医学(蘭方)への関心が高まっていた。彼はそれまでに習得した最新の医学知識と技術を伝授することで日本人との交流を深め、彼らから資料や情報を得ることに努めた。これは、行動がきびしく制約された日本で、必要かつ質の高い資料・情報を得るに最も効果的な方法であった。このように蘭学の伝授が暗黙下に認められる事になったのは、シーボルトの使命を認識していた商館長ステューレルと、その前任者のブロムホフの努力に負うところが大きい。特に、シーボルトがオランダ人に居留が義務付けられていた出島の外にある、鳴滝に私塾を設けることができたのは、特例中の特例であった。こうしてシーボルトは彼に与えられた目的を果たすべく懸命に務めた。こうした成果の一部は彼の著した『日本』に結集しているといってよい。また独身だったシーボルトは遊女の其扇(楠本滝)を妻として待遇し、女児稲を授かった。 幕府天文方・書物奉行の高橋景保(高橋至時の長男) 1785年(天明5年)、大阪に生れた。1804年(文化元年)、父の跡をついで幕府天文方となり、1810年(文化7年)「新訂万国全図」を制作。一方、伊能忠敬の没後、忠敬の実測をもとに「全日本沿海輿地全図」を完成させます。1811年(文化8年)、蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)の主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始めている。 1814年(文化11年)書物奉行兼天文方筆頭に就任したが、1828年(文政11年) シーボルト事件に関与し投獄、翌1829年(文政12年)2月16日に獄死。 江東区富岡・富岡八幡宮に伊能忠敬像 富岡八幡宮敷地内に伊能忠敬の像がある。伊能忠敬は、当時深川界隈に住居を構え測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ずお参りに来ていた事から、2001年に八幡宮の境内に銅像が建立されました。 あじさいに燕(葛飾北斎・画) 長崎のシーボルトには“おたき”という現地妻(妾)がいた。おたきには“いね”と言う娘が生まれた。シーボルト事件は、いねが2歳8か月の時。シーボルトは日本を離れるとき、表におたきの、裏にはいねの姿を書いた、小さな箱を持ち帰ったと言います。箱の中には、二人の毛髪が入っていた。 いねの毛髪は、ひと目で混血と分かる茶色のものであった。その後、日本での罪が許されたシーボルトは、長男アレクサンダーを伴って日本を再訪する(1859年)。 時に、シーボルト63歳、いねは32歳。いねは、シーボルトの門弟の指導をうけて、長崎で産科医を始めていました。日本で最初の女医になったのです。 ※ はるかに大昔、民放の連続テレビドラマで、丘みつ子主演で「オランダおいね」みたいなタイトルでやってましたね。でも、おいねのお父さんは、ホントはドイツ人!だったなんて、喰わせ者(もん)です、シーボルトって。 シーボルトは日本のアジサイに惹かれ、アジサイ属14種の植物図とその解説を発表。その中で、特に花の大きい一品種に、愛人の名前「お滝」をとってオタクサと名づけている。学名は「Hydrangea Otaksa」、「お滝さん」が「オタクサ」となったようだ。 植物学者・牧野富太郎博士は「我が国の誇りであるアジサイに、妾の名を付けるとは何事」と立腹したとか。(お滝さんは、娼妓でもなければ、妾でもないとの説、或いはシーボルトは日本滞在中は、純愛だったとの説などあり。)
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