今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成18年8月12日(土)昨夜:御巣鷹の尾根がある上野村の神流川で灯籠流し


 1985年8月12日、日航機が群馬県御巣鷹山山中に墜落。死者520人、生存者4人。
 (正確には御巣鷹山ではなかった。現在は、御巣鷹の尾根と表現する。)

 日航ジャンボ機が群馬県御巣鷹山中に墜落し、死者520名の大惨事となる。
羽田発大阪行きの日本航空123便(ボーイング747)。

 例年前夜には、御巣鷹の尾根がある上野村の神流(かんな)川で灯籠流しが行われ、
遺族らが犠牲者の冥福を祈る。当日は遺族らが御巣鷹の尾根に慰霊登山し、夕方には
麓の「慰霊の園」の「昇魂之碑」前で追悼慰霊式と蝋燭供養が行われる。

イメージ 1
       墜落にいたる迷走経路


 8月12日は【航空安全の日】(茜雲<あかねぐも>忌)です。

 1985年(昭和60年)のこの日、日航機123便が群馬県御巣鷹山に墜落し、520人の犠牲者を
出したことによります。羽田発大阪行きの日本航空123便(B747)が御巣鷹山に墜落、乗員
乗客520人死亡、生存者は4名。金属疲労による圧力隔壁破壊が原因とされている。遺族ら
が作る「8・12連絡会」が編集したメッセージ集のタイトルから「茜雲忌」とも呼ばれる。
 (茜雲:朝日や夕日を浴びて茜色に照り映える雲。 )
 (茜色:アカネの根で染めた色。沈んだ黄赤色。暗赤色。)

 1985年8月12日、午後6時12分、大阪空港を目指して羽田空港を飛び立った日本航空
123便(ボーイング 747 SRー100 型 JA 8119号機)は、離陸12分後の6時24分35秒、
機体後方で「パーン」という異常音が発生して、垂直尾翼が破壊。同機はこの破壊により
垂直尾翼の大半と方向舵、APU(補助動力装置)を失い、同時に垂直尾翼に取付けられて
いた油圧配管も破壊されたため、全ての油圧力を失い操縦不能になった。

 事故が発生した位置は相模湾上空、大島の北端と伊豆半島熱川温泉を結ぶ 2/3 程、
熱川寄りの洋上。その時のJA 8119号機の飛行状況は、高度23900フイート(巡航高度の
24000フイート=7315メートルに達する直前 )速度310ノット(時速 574 Km)飛行方向
は257度(西南西)であった。

 操縦室では「パーン」という音の2秒後に1度、1 秒間だけ客室高度警報音が鳴り、
続いて乗員のうち誰かの「・・・」という意味不明の言葉がりあり、その直後に機長が
「なんか爆発したぞ」と言い、その3秒後に機長はスコーク77(緊急事態の発生を知ら
せる飛行機の最高度のSOSを発信)を宣言した。そして操縦室における乗員達は次々に
現われる異常な警報音や警告灯、計器の表示などに対処する作業に忙殺されていった。

 機長は事故発生46秒後の6時25分21秒、所沢の東京管制部 (ACC) に異常事態の発生を
無線連絡し、あわせて2万2千フイートまで2千フイート程、降下して羽田空港へ帰還
することを求めた。

 その頃、既にJA 8119号機は全ての油圧力を失い操縦不能の状態になっていた。しかし
JA 8119号機は機長の決断の通り、右に旋回し、高度を下げ、羽田空港を目指して飛行を
続けた。操縦は困難を極めた。事故が発生してから31分48秒後、JA 8119号機は操縦不能
の状態で飛行を続けながら、6時56分23秒、最初に樹木と接触した。

 JA 8119号機は樹木と接触し、バウンドして高度を上げ、500メートル飛行して、更に
右翼を下げ、ほとんど垂直になって、右側の翼端を山の稜線に接触させた。JA 8119号機
はさらにバウンドして640メートル飛行、御巣鷹山から南南東約2500メートルの御巣鷹山
の尾根に、ほとんど機体を裏返しにした状態で墜落した。

 この事故で奇蹟的に助かった4名を除き、520名の乗客と乗員の方々が亡くなられた。
これは1機の航空機事故としては史上最悪の事例であった。

 政府は直ちに運輸省内に「日航123 便に関する事故調査委員会」を設置し、事故の原因
究明に当たらせた。事故調 は1987年6月19日、最終事故調査報告書を公表したが多くの
疑問が残る形で幕引きされたようだ。背景には、日航の経営優先の方針があり、安全面が
軽視されたと言われる。

イメージ 2

 そして、それは今日も変ることなく続いているようです。

 日航機の部品欠落、その破片踏み?大韓航空機パンク(2005年8月11日読売新聞)

 11日午前6時10分ごろ、成田空港4000メートル滑走路に着陸した大韓航空224便
(ボーイング747―400型、貨物機)の胴体左側のタイヤ1本がパンク。

 この直前に着陸したシンガポール発の日本航空710便(ボーイング777―300ER型、
乗客・乗員114人)の胴体中央の下部から板状のグラスファイバー製部品(縦40センチ
横2メートル)が脱落していることが分かり、成田国際空港会社などでは、この部品の
破片を大韓航空機が踏んだとみている。

 日航によるとトラブルがあった機体は、7月末にボーイング社から納入されたばかり。
脱落した部品は、しっかり取り付けられているか、目視で点検していたという。一方、
国土交通省は日航と全日空に対し、保有する同型機すべての緊急点検を命じた。



 記者の目:日航機事故「8・12連絡会」の20年=三浦正己 毎日新聞 2005年8月11日

 ◇その存在意義は失われず 全員一致の目標掲げて

 深い静寂に押し包まれた群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に、この夏も、鎮魂の祈りが
響く。20年前、東京・羽田空港から大阪に向かった日航ジャンボ機が、迷走の果てに墜落
・炎上し、一度に520人もの命が奪われた、前例のない航空機事故の現場である。

 遺された家族たちは、嘆き、悲しみ、励まし合う場として、一つの会を発足させた。
「8・12連絡会」。名前は、事故の起きた日から取った。

 連絡会は20年間、中断せず、分裂せず、ずっと一つにまとまってきた。そばで見て
きた私には、よくここまで続けてこられたものだと思えてならない。

 遺族たちの絆を強める「核」になったのが文集「茜雲(あかねぐも)」の発行だった。
事故機の窓から見えたはずの、夕日に染まる雲に、鎮魂の思いを重ねた。

 「茜雲」総集編。日航機御巣鷹山墜落事故遺族の20年、と副題を付け、新しい第20集に
これまでの文集からの抜粋も載せ、書店ルートの自費出版に踏み切った。「出来上がって
みると、この本は、ずっしりと重いのです。一人では決して越えることはできない苛酷な
悲しみを共有し、手を取り合ってきた遺族の宝物のような友情の重みです」。
そう、前書きにある。

 連絡会は手づくりの小冊子で毎年の発行を重ねた。第2集と第6集は、過去の分と合わ
せて毎日新聞社から「おすたか れくいえむ」の題で出版された。

 出版化を手伝いながら、私は「もう文集にも一区切りつけないと、連絡会の負担が重す
ぎる」と感じた。でも、連絡会は一度も休まなかった。寄稿者が10人台まで減っても、
発行は続いた。手記を寄せた遺族は延べ550人に達する。

 会報「おすたか」も、遺族たちを結び付けた。活動報告や慰霊行事のお知らせに加え、
遺族からだけでなく一般市民の手紙も載せてきた。最新の7月12日発行で82号。最初の
10年では、準備号と4回の号外を別にして、発行は60号を数えた。さすがに年がたつ
ほどに、間隔が空き、ページ数も少なくなったが、出ない年はなかった。

 連絡会が続いてきた理由を、私はこう見る。一つは日航との補償交渉にかかわらないと
発足に当たって宣言、それを通した。そのため、遺族によって対応や意見の分かれる補償
交渉の余波を、連絡会は受けなかった。代わりに、交渉経過の情報提供に徹した。内密に
した提示額が別の遺族に知られたと、日航が慌て、遺族からは感謝された。

 発足時から目的に掲げたのは、遺族同士の励まし合いと、公共輸送機関の安全性を厳し
く追求することの二つ。どちらも、全員が一致できる目標だった。

 事故の刑事責任追及のため、連絡会は結束した。遺族697人が告訴に名を連ね、3万人を
超える一般市民が告発に加わった。事故原因の究明を求める署名には26万余人が応じた。

 しかし結果は不起訴。1990年には時効が成立。連絡会の大きな試練だったが、遺族同士
の「ゆるやかな連帯」を前面に出すとともに、日航機事故と日航に対してだけでなく、
異議申し立ての外縁を広げていった。いまの連絡会の原型が、そこにあると実感する。

 名古屋空港で264人の犠牲者を出した中華航空機事故(1994年)では、遺族から求められ
文集や会報づくりの経験を伝えた。滋賀県で列車同士が衝突して42人が死亡した信楽高原
鉄道事故(1991年)の遺族会とは一緒に1999年、「全運輸機関を対象とした独立した事故
調査機関の設置」を求めるアピールを出した。

 今夏の連絡会アピールは107人死亡のJR福知山線脱線事故に触れ「公共輸送機関の
安全性の論理」に改めて疑義を唱えた。

 付け加えるなら、事務局長の美谷島邦子さん(58)抜きに、いまの連絡会はなかった。
会の道筋を決めると共に、大田区の自宅を事務局に、雑務も一手に引き受けてきた。

 「520人の死を無駄にしたくない。あの事故を忘れてほしくない」一心から。メディアの
取材にも「連絡会のことなら何にでも答えなければ」と極力応じた。事故で失った末っ子
(当時9歳)のことは、「聞かれたくない」と躊躇するのと対照的だった。

 20年を機に、文集と一緒に連絡会の記録集も作るつもりでいた。でも、もとの資料が
家庭用のコンテナで20個もあり、記録集まで手が回らなかった。

 「遺族や市民の方からいただいた手紙がいっぱいあって…。きちんと仕分けできたら、
将来、JR西日本の事故の遺族の方たちにも参考になるはずです」

 8・12連絡会は、これからも存在意義を失わない。

イメージ 3


 御巣鷹の衝突地点の標識(H点)には、次の通り記されています。

 1985年8月12日18時56分26秒
 羽田発大阪行 日本航空123便
 JA8119号機 524名 ここに墜落す

 乗客 505名 死亡
 乗員  15名 死亡
 乗客  4名 生存

 1988年8月遺族これを建立す ( 黙祷 )

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