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平成18年8月14日(月)昨夜:中日60勝一番乗りでM38、本塁打なしの13得点。 昨夜、落合ドラゴンズの野球哲学を見た。質が違う、レベルが違う、次元が違う。 8月14日は、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭の祝日です。 (コンベンツアル聖フランシスコ修道会 司祭) コルベ神父は、ポーランドの織物職人の子として生まれ、フランシスコ会に入り、1930年から6年間、日本で宣教活動を行った。帰国後、教えがナチスの思想と相反したものであった事からゲシュタポに捕えられ、アウシュビッツ強制収容所に送られる。そこで、みせしめの為に処刑される見ず知らずの他人の身代りとなって餓死刑となり、「聖母の被昇天祭」の前日の8月14日に亡くなった。 1982年10月17日、教皇ヨハネス=パウルス2世により、「愛の殉教者」として聖人の列に加えられた。 1936年(昭和11)5月に会議のため故国ポーランドへ帰国するが、第2次世界大戦が勃発、ナチスに協力的でないという理由でナチス軍に捕らえられ、アウシュヴィッツ強制収容所へ収容される。 元来体の弱いコルベ神父は決められた強制労働にも従事し、また収容者たちの相談役として、また収容所内で死者がでるとお祈りを捧げ、人々に希望を与え続ける存在でした。 1941年7月、コルベ神父が収容されている第14号棟から1人の脱走者がでました。これに怒った所長は、代わりに10人を餓死刑にすると宣言し、10人を選び出しました。その中の1人が「私には、妻も子どももいる。死にたくない!」と叫んだ。そのとき、囚人番号16670の囚人が静かに進み出たのです。その人は、「私には、妻も子どももおりません。その人の身代わりにならせてください」と願い出ました。 この人こそ、コルベ神父だったのです。 地下の餓死室に全裸で入れられた10人は1滴の水さえ与えられる事無く、次々に死んで行きました。14日後、最後まで生き残ったコルベ神父は毒薬注射を受け亡くなりました。その時のコルベ神父は、まるで死ぬことを喜んで望むような穏やかな表情で自ら腕を差し出し注射を受けたと、当時の担当者が証言しています。 コルベ神父は1941年(昭和16)8月14日、愛のために生命を捧げ、亡くなりました。長崎聖母の騎士の聖コルベ小聖堂に聖コルベの聖遺物として遺髪があります。 東京・浅草のバタヤ街など全国各地で「アリの町」支援活動を始めたゼノ修道士とも日本国内で活動した時期があります。ゼノ神父は、愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれました。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。(アリの町のマリア・北原怜子さんのような“美しい”日本人がもっと出て欲しい。) |

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