今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

全体表示

[ リスト ]

8月15日、敗戦忌

 8月15日、敗戦忌【戦勝記念日<VJ day>】(Victory over Japan day)

 終戦日、妻子入れむと風呂洗う       秋元不死男
 敗戦日ただ抱きしめし末っ子よ    徳島・園田とく子
 敗戦やへんろのみちに遍路なし        花へんろ

 八月二十二日、詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の需めに応じ。 高浜虚子(四句)

 秋蝉も泣き蓑蟲も泣くのみぞ(秋蝉は通例、シュウセンと読む)
 盂蘭盆会その勲を忘れじな (盆に故郷に帰る幾百万の英霊に誓う)
 敵といふもの今は無し秋の月(戦禍を生き残り今は敵機の影に怯ゆるもなし)
 黎明を思ひ軒端の秋簾見る (戦時が終わり、新しき夜明けを待ち望む)

 ヒオウギよ汝が咲く夏の十五日 きょうは日本の敗戦忌です    鳥海昭子

 ヒオウギ(アヤメ科)=はなことば:誠意、手を広げたような形の剣葉が、昔、貴族の使った檜の薄い板で作った檜扇にみたてられて名となった。花は直径5センチほどで、黒い実は「ぬば玉」と言い「夜」の枕詞になる。


 ◇ 終戦の詔勅(玉音放送)
   耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平の世を開かんと欲す

 朕深ク 世界ノ大勢ト 帝國ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇 四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ 抑々 帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遣範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵カス如キハ 固ヨリ朕カ志ニアラス(曩ニ:先に)

 然ルニ 交戰巳ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル (閲シ:けみし、経過する)

 而モ 尚 交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ 是レ 朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

 朕ハ 帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ 戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク 且 戰傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ (軫念:しんねん、天子が心を痛めること)

 惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス

 朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ 得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 為ニ 大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム (輩儕?:ともがら)

 宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ


 玉音放送“日本のいちばん長い日”

 1945年8月15日正午に行われた、太平洋戦争終結の詔書のラジオ放送。前日の14日、御前会議でポツダム宣言受諾が決定され、天皇自ら終結詔書の録音を行った。詔書は内閣書記官・迫水久常から依頼された川田瑞穂が草案を作成、大東亜省顧問・安岡正篤(まさひろ)が校閲した。近衛師団の一部将校は終戦阻止、録音盤奪取を図って宮内省に突入したが鎮圧された。

 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言したのは、山本玄峰師。また天皇の権力で派閥の抗争が始まることを戒め、「象徴天皇制」のあり方を時の総理に提言した。曰く、「天皇は空に輝く象徴みたいなもの」。

イメージ 1
       山本玄峰師


 昭和天皇

 在位1926年〜1989年。名は裕仁。大正天皇の第1皇子として4月29日誕生。幼名は迪宮(みちのみや)。1916年立太子。1921年3月より約半年ヨーロッパ各国を訪問、同年11月摂政となり、1924年1月久邇宮良子(くにのみやながこ)女王と結婚。1926年12月25日、大正天皇の死去により践祚(せんそ)、昭和と改元。1928年11月即位礼を挙行。1945年8月第2次大戦終結の詔書を放送。1946年1月1日、人間天皇を宣言して神格化を否定。

 1947年、日本国憲法によって日本国民統合の象徴となった。生物学に造詣が深く、「相模湾産後鰓類図譜」などの著書がある。1989年1月7日死去。同日、皇太子明仁が天皇即位。元号は平成と改まる。(「平成」は安岡正篤が遺したもの)

 「などてすめらぎはひととなりたまひし」三島由紀夫『英霊の聲』
 (※「すめらぎ」はシュメール【Sumer】が語源だと三笠宮が仰って居りました)
 (三笠宮さまは、古代オリエント史のオーソリティー。フシギの国・ニッポン)


 安岡正篤(まさひろ)

 陽明学者、右翼思想家。大阪生れ。1922年、東京帝大卒。若くして華族・富豪層に師として遇され、1927年、伯爵酒井忠正の援助で金鶏学院を創立、日本主義思想による青少年の精神教化運動に取り組む。1932年、日本精神に基づく国政維新を唱えて国維会を結成、斎藤・岡田両内閣に閣僚を送り込むなどした。終戦時の〈玉音放送〉の原案を添削した事は有名。1949年、全国師友協会を設立、政・財・官各界に隠然たる影響力を持った。三島由紀夫も共鳴者のひとりだった。


 【終戦記念日】1982年、閣議で「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされる。

 1945(昭和20)年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられた。これにより第二次世界大戦が終結。内務省の発表によれば戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人。1982年4月の閣議決定により「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」となる。

 全国戦没者追悼式:1963(昭和38)年から毎年、政府主催による「全国戦没者追悼式」が行われている。正午から1分間、黙祷が捧げられる。


 【光復節】(韓国)

 1945年(昭和20年)のこの日、韓国が日本の植民地支配から解放された。また、1948年のこの日に大韓民国政府が樹立された。「光復」とは以前の栄光ある状態に回復・復興するという意味で、日本の植民地支配から解放されたことを祝う日。


 【解放記念日】(朝鮮民主主義人民共和国)


 【盂蘭盆会】(月遅れ、祖霊を慰める行事)

 サンスクリットのウランバーナullambana(倒懸)の音訳で、7月15日を中心に死者の霊をまつる行事。インドで夏安居(げあんご)の終わった日、死者が受ける逆さ吊りの苦悩を払うため供養したのが起源。日本では推古天皇14年(606年)の記録が古く、のち先祖供養や祖霊来訪の民俗信仰と習合して、現在では各地に種々の行事がある。

 八月の 亡霊いまだ 消えやらず        草いきれ


 【中元】

 中元の習慣は中国から伝わったもので、日本では盂蘭盆の行事と重なり、祖先の霊を供養し、両親等に食べ物を贈る風習が現在のような形になったという。上司、恩人などに贈り物をし、日頃の感謝の気持ちをあらわす日。

 半年生存の無事を祝い、祖先の霊を供養する日。 もとは正月15日の上元、7月15日を中元、10月15日の下元をあわせて「三元」とする中国の習慣が伝わったもので、日本では「盂蘭盆会」と日が重なったことから、祖先の霊を供養し、両親に食べ物を送るようになりました。


 佐藤さとる『だれも知らない小さな国』1959.03.11 私家版

 いつか日本は、戦争のうずにまきこまれていた。身のまわりも、だんだんきびしくなって、夢のような思い出などは、消しとんでしまった。戦争はますますはげしくなってぼくの父も出ていった。そして、空襲がはじまるころ、船といっしょに南の海に沈んだ。

 靴のかかとをひきつけ、目にしみるような白い手袋をひらめかせて、年季のはいった海軍式の敬礼を返してくれた。後にも先にも、父と敬礼を交わしたのは、それ一回だけだった。ぼくは思わずしゃんとして、手をしっかりと帽子のひさしにおしつけた。これがぼくの見た父の最期の姿である(佐藤さとる『子どものころ戦争があった』)

 町は焼かれ、人は目ばかり光らせていた。ぼくは、のっぽな中学校の上級生となり、工場につれていかれた。油だらけになって働いているうちに、学校も焼けてしまった。毎日が苦しいことばかりだったが、また底ぬけに楽しかったような気もする。家が焼けたことを、まるで得意になって話しあったり、小型の飛行機に追いまわされて、バリバリうたれたりするのが、おもしろくてたまらなかったりした。これは命がけの鬼ごっこだったが、なかには鬼につかまってしまう、運のわるい友だちも何人かあった。いまになってみれば、ぞっとする話しだ。


 『私の文学放浪』吉行淳之介 1965年

 戦争が終わったとき、私は自分が欺されていた、とはすこしも考えなかった。また、戦争で心に傷を受けたともおもわず、逆に戦争のおかげで人間性の奥底まで見てしまったという思い上がった気持ちになっていた。いわゆる戦中派にたいする世間の定義とはかなり違うところに、私は立っていた。そして、そのことが同世代においての少数派であったように、戦争が終わってからも、私は少数派に追い込まれたようだ。

 戦後間もなく、コミュニズムの大流行が訪れた。私の周囲にも、サロン・マルキストあるいはもう少し地面に足をおろしたマルキストが輩出した。しかし、その思想に対する私の生身の反応は、戦時中の軍国思想にたいするものと同じだった。


イメージ 2

 ◇ 昭和天皇の巡幸

 敗戦国となって打ちひしがれていた日本国民を、最初に精神的に支えたのは人間宣言をした昭和天皇であった。昭和21年2月19日の神奈川県を皮切りに、翌22年には近畿4県を始め、東北6県、甲信越3県、北陸3県、中国地方5県 精力的に全国巡幸をされた。

 当時の新聞の見出しを列記すると、

 天皇陛下、浦賀を御視察 復員者等を御激励 傷病者に温かい御心 戦災者をお慰め 御気軽に共同宿舎へ 農民織り姫を御激励 三多摩を御巡幸 御車包み『陛下万歳』堰を切った民衆の感激 背広服に中折れ帽 女工員に御下問 天皇陛下京浜へ幸行 軟体動物類に御造詣 シェンク中佐と御歓談 都内を御巡幸 戦災援護 教育施設を御視察、etc

 帽子を振る仕草と「あっ、そう」という疳高い声が有名になりました。

イメージ 3

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事